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伝えたいこと

僕の言いたいことはこういうことなんだ。

多くの人は普通、より多く得るために生きている。より多く得ることが幸せにつながると信じているからだ。

一方人生では与える事が求められる場面がある。例えば子育ての場合だ。自力では生きていけない赤ん坊に親はあらゆるものを与える必要を迫られるんだ。

与えるということは得たものを放出すること。言い換えると失うことだ。または奪われるとも表現できるだろう。これは、得ることが幸せだという価値観からすると不幸だということになり、子育てで自由を奪われる母親や、妻を子供に奪われたと感じる夫は喪失感やストレスを感じたりするわけだ。それから今の子育ては、一生懸命なほどにどんどんお金がかかる仕組みになっているからねぇ。

だから得ても得ても放出を迫られるので、更に必死になって得ようとせざるを得ないんだ。

でもどうだろう。落ち着いて考えてみて欲しい。どこまで得たら満足、安心できるんだい? 不安だから不満だから必死に働いて努力して得ようとするんだけど、ゴールはあるのかな? これで良かったと本当に満足できる時がいつか来るのかな? 僕はね。最後の最後まで追い求めるけど得られなくて、もがき続けていた人生を何人も見てきたよ。

おそらくね。得れば解決があるという向かい方に解決は無いんだ。欲に終わりはないからね。不安が不安を駆り立てるんだ。世の中のマーケティングの殆どはこれで成り立っているからね。

それじゃあ残されている道は何か、、。それは今持っているものを自発的に与えていく道だ。それによって何か返ってくることなど期待せずに、全力で放出することに集中するんだ。そしたらスッカラカンの一文なしになるじゃあない! って思うでしょ? 

実際それができたらね。とんでもない宝を得ている事に気付くよ。やってみれば分かることだけれども、実際したことがないのでなんの事だか誰も分からない。これは単純な物質の話では無いからね。

自分の全てを相手に提供する覚悟をすること。もし、これが可能になるなら、その人の行動に制限はなくなり完全な自由を手にする事になる。実行不可能なことは無くなるんだ。これを『愛』というんだね。

それで実際あっという間に人生が終ってしまいそうでも、実のところそうはならない。なぜならこの世界の創造主であり保持者である方の本性は『愛』なのだから、、。全てのものを保持していてあらゆる良い物を私達に与えようとされている方は、その思いに共鳴して動くその人を応援しない筈はない。

実際圧倒的な追い風を受けて進んでいくことになるんだね。与えても与えても上から供給されてくる。そうやって、踏みつけ奪い合うことに陥ってしまった世界は回復されて行くことになるんだ。今がその時なんだな。
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by dynabooksx | 2019-01-30 19:29 | 真也の視点

天国の保証

私たちがいま住んでいる地上の家が取りこわされても〔すなわち、私たちが死んでこの肉体を離れても〕、天には新しい体、永遠に保証された家があります。それは、人の手ではなく、神の手でつくられた家です。 今のこの体は傷み衰えていますが、天で与えられる体を新しい着物のようにまとえる日を、首を長くして待っているのです。 それを着れば、体のない霊だけの状態でいることはないからです。 この地上の体のために嘆きやうめきがありますが、だからといって、死んで、体のない状態になりたいとは思いません。その新しい体を着たいと願うばかりです。そうすれば、この死ぬべき体が、永遠のいのちにのみ込まれてしまうからです。 これこそ、神様が私たちのために用意してくださったことであり、その保証として、御霊を遣わしてくださったのです。
コリント人への手紙Ⅱ 5:1‭-‬5 JCB
https://bible.com/bible/83/2co.5.1-5.JCB

〜〜〜

今回のお出かけ訪問での中心命題は『御霊』。聖霊、英語ではholy spilitですね。キリスト教では父、子、御霊と言われているところの、父なる万物の創造主から送られ、キリストイエスを駆動した目には見えない実働部隊です。様々な話をする中で、この御霊の実力が如何なるものであるのかということがやり取り中心になって行きました。

それで今回話しをした牧師さん夫婦と私とでは、丹念に見ていくと聖書の見え方も違っているということ。そしてその違いの決め手になっているのが、新約聖書のあちこちに出て来て何となく読み流しているこの『御霊』が鍵になっているようだと気が付いてくれました。

僕から見れば、そんなこと聖書を見てみれば当たり前のことだろうが、、、と感じることでも、長らく聖書とはこういった解釈で読みべきだというその人の手垢のついた理解が多数入ってしまうと、現代の学校教育のように頭が固くなってしまって真っ直ぐに真実を直視するということがし難くなってしまうようです。信じるなんて本当はごくごく単純で当たり前のことなんですけどね。

牧師さんみたいに、自分がよく分からない状態でなまじ人にあれこれ教えるような立場に立ってしまうと、語ったことに対する責任を感じて、更に自己正当化してしまうことによってより自分の感性を閉ざしてしまうという悪循環が起きてしまう。そうなると、心はどんどん暗くなって鬱的になってしまうわけです。

このメカニズムは宗教の世界の特異なものではなくて、あらゆる現代社会の人間組織に於いて共通のものです。だからこそ、何が真に確かなものなのか! 私達が本当に必要とするものは何なのか、私達を真に活かすものは何なのかということが大切になるんです。それをもたらす決定打がこの『御霊』なんですね。

この『御霊』は、上の本文でパウロが書いた御国(天国)の保証と書かれたり、天国の前味と呼ばれたりします。つまり、御霊を持つ者は天国を持つんです。だからその人が行くところに天国が展開されるんですね。イエスが『もはや御国が来た』と語ったのはこのことだったんです。

だから聖霊を持つ者が行くところ、その人が何をするとか何を語るのかということと関係無しに、大きな変化が起こるんです。何が本当のことなのかということが明らかになり、人々はその光を真っ直ぐに求めるようになる。そうやって人々の抱えている諸問題が解決していくんです。

御霊を持つ人は地上を天国のように歩むんです。そして天国を拡大して行く、、。そして、いずれその時、、が来ます。そのようにして密度高く燃焼する人生を私は愛するんですね。
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by dynabooksx | 2019-01-26 18:22 | 聖書の言葉

自分のいのち

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書 16:24‭-‬26 新共同訳

〜〜〜

私達にとって一番大事なものは自分のいのちだと学校や社会からはそう教わって来ました。戦前は少し違っていたのかもしれませんが、、。

これは誰もが疑いようのない事実のように感じますが、最近何度か市民講座で足を運ばせて頂いている浄土真宗も、聖書もこの『自分のいのち』と言うやつが人をどこまでも苦しめる害毒であると語ります。

これはどういうことでしょうか? 上で引用したイエスの言葉使われている『命』はよく見ると2段階使われていることが分かると思いますが、最初に使われている『自分の命』とは自分を最優先にしたいという思い、自己保存欲求、自己愛のことです。それは本能的に己の身を護ってくれるものですが、実はこれが厄介なものなんです。別名をエゴとも言いますが、本来自分を守ってくれるはずのそれが却って自分を縛り付け見動き出来なくするんです。人と人、国と国が争うのも源泉は、不安から来る己を守りたいという根源的欲求から生まれてきます。人の生きづらさ、苦しみの元なんです。現代社会を蝕んでいる鬱の元凶もここにあります。

ではどうしたら良いのかという問題ですが、イエスであれば『わたし(イエス)のために命(自己愛)を捨てよ』と呼び掛けます。要するに私の人生と一体化、同化せよと言っているんですね。そうするとその先に新しい命を得るぞと語っているんです。これが2段階目の『命』の使い方です。結局は日本語読解能力の問題かもしれませんが、この辺りが読み取れて来ないと単に支離滅裂な文書で読み流してしまうことになります。

浄土真宗であれば『弥陀の本願にすがる』ですね。阿弥陀(アミダーバ)というのは『光の源』の意味で彼はどうやっても全ての人々を救うぞ!! という請願、覚悟を立てるんですね。それを『弥陀の本願』と言います。この本願に身を添わせ、同化して行く。これが『南無阿弥陀仏』(光の源に帰依します)なんですね。

キリスト教であればこの『本願』の中身が『十字架』という形でよりはっきり描かれているわけです。僕はこんな風に日本の仏教の源泉を見ているわけです。時間が経つと形だけが伝播されやすくなりその源流を追うことは難しくなりますが、最澄も空海も法然、親鸞もこの事はよく自覚していたであろうと思います。

あれ? 一番大事なところをサラッと抜けて行きましたかね。結局どんなに外側から観察して見たとしても、己をそこに投入すること無しにはどうにもならないことなんです。

もし仮に、、ですけれども己の身の安全や利益を全く顧みないで行動する事が出来たらどうでしょうか? そんなの直ぐに自滅しちゃうだろうって思うのは、自分の事が気になって仕方がないからです。
自分を抱きしめる為だけに使っていた両腕を解放して、それまでには実行不可能だと思われていた事柄に自在に取り組むことが出来るようになるのだとするならば、、。

これが自分の事は神が保証するという信念に立った生き方なんです。だから己の心配をする必要がない。だから存分に自分の命を他者のために投入出来るんですね。そういった世界が現実に存在するということを諸宗教は述べているんですね。まっ、それも個人の自由なんですけれども、、。

長くなりました。
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by dynabooksx | 2019-01-22 11:00 | 真也の視点

ヨセフ物語

昨日は、、昼間はキリスト教会で大学時代の20年来の友人とその家族にあった後、温泉でゆっくりしていた妻と子供のところへ行って自分もゆっくりしてから夜は地区の総会、新年会とつながった。最近けっこうちゃんと寝てますかね。やはり寝ないと結局身体の回復力を前借りするような格好になるので、続けるとあとでしっぺ返しが来ます。必要な時にある程度は言うことを聞いてほしいんですけどね。でも身体が休みたいと言うときに自分の方が折れてやるのも大事なことだと脳障害を負ってからそう思うようにもなりました。とにかく何をしても緊張というか精神的負荷がほとんど無くなってしまった。緊張感ゼロですかね。集中しようとしても長続きしませんのでね。それでよくこれだけの文章を書くなと思われるかもしれませんが、どんなに長いのでも1時間かかることはないですから、、。それに書き始めると出てくるものを垂れ流しにしているだけであとで書き直したり全く整形してませんから負担にならないわけです。スマホの予測変換が勝手に面白い文をつくったり時折楽しいことになりますけどね。

んで昨日は、久し振りにキリスト教会と呼ばれるところに出掛けて行って牧師さんのお話を聞いた。どういうわけかそういう記事をSNSの応答が大きいんですよね。何なんですかね。僕がそういうとこに行くのが珍しいのか、確かにあまり無いんですけれども、もしくは皆さんそういった所に潜在的な関心があるんですかね。

僕はね。キリスト教会に行くと、懐かしい〜という感覚を覚えると同時に、腰の落ち着きがどっかおかしいというか、俺の来る場所じゃあないなぁ〜という両方を感じるんです。それは昔も今も変わらないですけどね。今ではそれが何であるのか良くわかりますが、昔はなぜそう感じるのかが分からなかった。分からなかったのでそれなりに混乱したのですけれども、色々といい経験をさせてもらいました。

こんな感じですのでふらっとどこでも訪ねて行きますが、ずっとそこに掛かりっぱなしのようになる事はなかなかないでしょう。その辺りのことをもうちょっと掘り下げて書いてみようと思います。

もうこの前置きで長いですね。今回聞いたお話しは旧約聖書創世記37章のヨセフ物語。検索してみるとディズニーのアニメみたいなのにもなっているんですね。夢見る男としてね。有名な話しですから日本人だとしてもこのぐらいの事はリベラルアーツとして知っていなければこれからの社会では通用しないと思いますよ。(偉そうか、、、)

粗筋はこう。アブラハム、イサク、ヤコブと続いてきた一族の歴史はヤコブに後に12部族と呼ばれる12人の子供達に恵まれることになるのですが、一夫多妻ですから腹違いの兄弟がたくさんいるわけです。その中でヨセフというずいぶん下の方の弟が父親に溺愛、特別扱いされていて兄たちの反感を得ることになる。このヨセフという青年、よく夢を見る男なのですけれども、ある日兄たちがみな、自分に頭を下げに来るようになるという夢を見ることになります。それを見た彼は、ただでさえ反感をかっている兄たちに見たままをそっくり話してしまうんですね。天真爛漫、何も考えていないんです。自分が体験したあるがままを語っただけ。
それでどうなったかは言うまでもないでしょう。怒り狂った兄たちはヨセフを殺そうと画策します。荒野に連れ出して人知れず殺ってしまおうとするんです。だけれどもそれを忍びないと思った兄の一人が、直接手を下すのではなく穴に投げ落としておいたらいずれ死ぬのは明白だから、、と提案してあとでこっそり助けるつもりで作戦を練ります。

一度火が付いてしまった人の怒りって凄まじいんですね。行くところまで行かないとおさまらないんです。そうやって穴に投げ込まれたヨセフのところに、ちょうど隊商が通りかかって奴隷としてエジプトに連れて行ってしまうというお話し。周辺の話に興味を持ったかもしれませんがここで切りますので直接読んでくださいね。検索すればいくらでも出てきますから、、創世記37章かヨセフ物語で、、、。

それを元にした牧師さんのお話しでした。別に特別突飛な話はどこにもありませんでしたよ。ただちょっと気になるところはありまして、ヨセフは兄たちからも一人だけ孤立して孤独だったと言うんですよ。皆さんウンウンって聞いているんでしょうね。でも私にはそうは見えてこない。客観的に眺めれば確かにのけ者扱いのように見えますね。でもヨセフの内実はどうなのかということなんです。帰り際に挨拶して下さったので、『ヨセフは孤独では無かったと僕はそう思いますよ』と玄関先で言いましたが、『彼は周りの空気を読めない人だったのかもしれない』と牧師さんは返答してくれました。

僕のことですかね。(笑)それもちょっと違う気がするんですよね。ヨセフは空気を読めないのではなくて読む必要を感じていない。同じじゃないか!!と言われるかもしれませんが、彼の魂の置かれている現状が他の兄弟たちとは異なっているんです。ここで一気に分からなくなりますよね。それで見識が異なるわけです。

僕が見るにね。孤独で不足を感じていたというならば、それは兄弟達の方なんです。父の心子知らずで父の愛に飢えていたんですね。それで弟が可愛がられるのがどうしても許せなかった。それで結集するわけです。孤独だから群れるんですよ。そうでしょう?

それに対して、そうする必要をヨセフは感じていない。充分に満ち足りているんです。孤独じゃあ無いんですね。だから兄弟の心を逆撫でしてしまうようなことも平気でしてしまうんです。祝福を受ける、約束を受ける者の性質ってこういうものなんです。能天気で無防備。お人好しなので損得なんて考えないし、無警戒で牙を剥こうとする相手に近づいていく、、。んでガブッとヤラれるわけなんですね。

ああ、やっぱり!! と当然そうなるわけなんです。ヨセフはヨセフで奴隷として売り飛ばされていきますが、やっちまったお兄さんたちも大変ですよね。証拠隠滅するのに剥ぎ取ったヨセフの服に動物の血をつけて野獣に襲われて死んだみたいだよ! と親父のところへ持って行くんです。親父の哀しみと言ったらそれこそ目も当てられない。ずっとその後泣き続けて暮らします。ヨセフの内に特別な何かを見とっていたんでしょうね。助けようとしていた兄弟の一人も穴に戻ってみたらもはや弟の姿が無い。万事休すです。

それで売られたヨセフと残された家族はその後どうなって行くんでしょうね。えっ? それも書けって?? 自分で読みなよ。
by dynabooksx | 2019-01-21 09:12 | 聖書の言葉

得ることと与えること


人は裸で産まれ裸で帰ると言われているが、人は何も持たないでこの世に生まれつき、様々なものを目に見えるものも見えないものもたくさんの人から注いでもらうことによって生かされ成長していく。

かつてされた残酷な実験ではあるが、赤ん坊に話しかけたり人としての接触を与えた子供のグループと、栄養は与えるけれども極力それをしないで育てたグループに分けてみたという話がある。詳細の真偽は分からないのだけれども、人間的な接触がされずに育った赤ん坊は1歳を迎えずにみな死んでしまったということらしい。

『人はパンのみに生くるにあらず』とイエスは喝破したのだけれども、誰かから自分は大切にされていると感じることができないと、いずれ人は死んでしまうようだ。目に見えるものだけでは人の命は保たれ続けないのだ。

人はみな、何かへの渇望を感じて生きている。何かが足りない、何かが満たされていないと誰もが感じており、そのことが行動の源泉になって様々なドラマが生まれ、それらが絡み合って歴史が紡がれていく。

だから皆その足りないものを得ようと、自分の足りたないところを何かで満たそうと必死なのだ。そしてその利害関係、力関係に打ち勝って行くために必死に努力するんだ。そう奪われる側の負け組ではなく奪う側、得る側の勝利者になるために、、。

それが何処もそこも常識化しているので、この世界ってそういうものでしょとおっしゃるかもしれないが、いや本当にそうなのかい? と問いかけたいんだ。

確かにこの世界はどんどん資源を失って行っているように見えるし動物にとっても植物にとっても生き辛く、種は次々と姿を消していく、、。だから増え続けていく人類が奪い合うようになるのは当然のことであろうとも考えられる。

だけれども歴史を見てみるに、人類は現在の1000分の1という数だった時代から結局は同じことをして来たんだ。だからリソースの大小は問題にならないのだと思う。多く持っても少なく持っても人は渇望し、満足することが無いのだ。

テレビをつけてみるとショッピングチャンネルが延々と流れている。その発信されるストーリーはどれも同じパターンだ。
まず人生にお困りお悩みの誰それが出てくる。その人がどれほどその物事で苦しんで来たのかを一通りやった後。ある物事を得たことでスッキリ解決したという別な人の物語になり、どれほどそれが効果のあるものであるか、そしてそれを得ればあなたの問題もズバリ解決するであろうと、しかも今それを得れば特別に安く手に入るということで背中を押すんだ。

まぁこんな感じだろう。これがたくさんのチャンネルで延々と放映されているということは、その需要があるのだろうし、皆渇きを持っているという証拠なのだろう。そして何かを得れれば問題を解決できるとそういうメッセージを受け取り、それを繰り返すことで生きている。

繰り返すということは、それを得ることで結局は満足していないのだ。一瞬は何物かを得たように感じたとしても、また直ぐに渇く。むしろもっと渇く。そうやって次々と購買意欲を促進させるように実は商品開発されているからだ。家電商品などはソニータイマー等と揶揄されたりするが、ちょうど良い頃合いに故障するように調整しておくのが、ものづくりの妙技だと言われている。壊れない商品を作ってしまうと次の商品を売り込むことができないからだ。あからさまにそうでなくとも、次のコレはココが違うんですよ〜と昔の奴はを使ってると時代に乗り遅れちゃいますよーとまくし立てる。

原発なんか考えてみてごらんよ。あれを国策で導入推進した時、温室効果ガスキャンペーンを張ったんだ。化石燃料はもう直ぐ枯渇する。しかもそれを燃やし続ければ気温が上がって人が住めない世界になる。それを解決するのが未来のエネルギーである原子力である!! とね。原子力が普及すれば無限のエネルギーなので、いずれ電気代がゼロになるとさえ嘯いたんだ。そうやって盛んに宣伝活動したことなど、当の本人たちもすっとぼけて忘れているでしょうけどね。

蓋を開けてみれば事故が起きてあれもこれも嘘だった!! 僕たちは騙されていた! となったのだけれども、あんなの最初から嘘なのよ。どれもこれも人の終わりのない欲が産み出したものなのさ。その最たるものが原発のような形になって、私達に利益をもたらすと思われていたはずのそれが、あるとき一挙に牙を剥いたんだ。地元民の我々は殆んどが知らないだけで、いつも小さな牙を受け続けて来たのだけれども、、、。

長々と書いてしまったけれども、私が訴えたいことが分かりますか!! 人はね。得ることで喜びを得ると思っているかもしれないけれども、本当は逆なの。自発的に与えることを始める時に強烈な衝動というか喜びを感じるようにデザインされているのよ。それが自分の人生、時間やモノやお金をいったいなんの為に用いるのか! ということなんですよ。その使いどころを明確に見つけた人は幸せなんです。周りから見てどんなに損な人生を送ったと見えたとしても、本人の心の中の喜びと平安は誰にも奪うことはできないんです。そしてそれは連鎖する、、。だけれども学校も社会も誰もこのことを教えてくれない。

いつの時代もそうやって身を捧げてきた人たちに、この世界は支えられて来たんですけどね。そういう馬鹿が極端に減って見かけなくなって来た。それで世の中はグンと暗くなって見えてるんです。

若者達を見ると、あとはヨロシク、、と言いかけてしまいそうになるのだけれども、このままではあまりに申し訳ないでしょ? と思うんだ。このままでフェードアウトするのは許されないでしょう? 僕たちの世代もまだ生きている上の世代も、どこかでそれを断ち切らないと世の中終わっちゃうからさ。

というわけで僕はそのような生き方革命で世の中をひっくり返したいんです。😁


写真)昨日見た富士山
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by dynabooksx | 2019-01-20 09:36 | 真也の視点

『ミッションとは何か』



長野県に来てからというものどういう訳か地域おこし協力隊という制度にある人達と知り合うことが多い。そもそもそれって何なのか、、。と調べると『地域を変える力になろう』とこのようなページが出てきた。読んで見ていまいち意図が分からない。田舎好きの都会人がお試し生活してみようか、、というものなのかな? というぐらいの感じだ。国の予算で計画されたものだけれども、実際の受け入れ体制は自治体によって大きく異なるようだ。

んでその彼らの話を聞いていると、時折ミッションがどうの、、という会話を聞くんだ。ミッション??と聞いて私が反応しないわけがないだろう。
ミッションとは何をするかの題材ぐらいに捉えているだろうが、これは任務や使命を示し元々それはたった一つの意味合いを持つ言葉だった。

それは自らの命をかけて成し遂げるべき課題、使命のこと、、。かつてそうやって膨大な血が流されて打ち立てられて行ったもの、、。それが『ミッション』なんだな。だから軽々しく使って欲しくないんだな。

そのそも現代の日本人に、自分の人生を掛けてまで成し遂げたいこと、自分の成功、名声、利益を投げ売ったとしても実現したいことを持つ人物がどれほどいることか。前年の大河ドラマになった西郷隆盛はこう書き残した。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

昔はこのような日本人が社会の窮地に彗星のごとく現れ、時代をとりなして行った。こういった『始末に困る』日本人は少なからず居たのだ。それも彼らは今で言う若者の年齢層だったのだ。

時代は変わって現代はどうだろう。他人の顔色を見て上手く立ち振る舞うことのできる器用人がもてはやされるのは昔も今も変わらないのかもしれないが、ドンと腹の底で座っていてぶつかり方次第でいかようにでも響き渡ることのできる世を憂う男の中の男、、、という人物に出会うことは滅多にない。そもそも、そんな事を考えているやつ自体が絶滅しかけてしまっているのかもしれない。

ミッションって何なのさ。君はいったい何をしたいっていうの。人生の喜びってのはね。苦難を背負い味わった悲しみに比例する構造になっているんだよ。
幸福は不幸の仄暗さの中に立ち上がる仕組みになっているんだ。だから、もし本当にやりがいのある仕事、ミッションに出逢いたいと思うのだったら、他人の痛み、社会の中にぽっかりと空いた穴、もう役には立たないと捨てられていく物事や人々に注目するんだ。貴方にそれを解決できるかどうかはやってみないと分からない。だけれども、誰かがそれに手を付けなければ問題は問題のまま残るだけ。誰もやりたがらなければ放置され、状況はもっと悪くなって行くだろう。自分じゃあないからまぁいいか。それとも自分の安全や利益を確保し、守り抜くので必死のなのかい?

でもね。そんなものはそうしている時点で失われているんだ。貴方の心がそれを証明しているさ。誰かに何か被害を受けるのではないか、損をするのではないかという恐れが貴方の人生を蝕んでいるんだよ。だから貴方は勇気を持って踏み出し、何事かを成し遂げることなど出来やしないんだ。

よくよく考えてみて欲しい。そんな人生で本当に満足かい? そのまま行けば失意のうちにあっという間に終わってしまうぞ! 人生なんざ長いようで終わる時はあっちゅう間なんだよ。俺ももうたくさんの仲間を見送って来た。

もし、あいつが生きていてくれたらなぁーと思わない事はないけれども、それは叶わないし、もし自分ができるとするならば、いまはまだ生身の身体を行使できるこの特権をもって、彼らが成し遂げることができなかった思いを昇華することだけだ。そのことを考えると心が震えるんだ。

直接出会った人、会うことはなかったけれども、わが身に乗り移るようにとその志が共鳴した先輩方、そして十字架へと向かう後ろ姿と屈託のない笑顔が目に焼き付いて離れないあの人のこと、、、。

そういったものが内側で渦巻いて突き上げて来て、じっとしてはおれないんだ。そうやってミッションへと駆り立てられて行った人、人、人、、。そうやって時代は紡がれて来た。

いまのこの時代の日本に産まれて来たということは実は凄いことなんだぞ。貧乏くじ引いたように感じているかもしれないけれども、今は歴史的転換点に立っているんだ。鈍感な人でもそのうち嫌というほど思い知ることになる。それがある人には『救い』またある人にには『滅び』と映るだろう。カモフラージュされていて一見見分けが付かなかったような物事が淘汰され、真実なもの、確かなものだけが残ることになるからだ。その時にはもう誰も、自分の姿を隠していることができなくなる。全てが光に照らされると闇は存在できないからだ。そういう時代がこれから来る。もう始まっているんだ。そうやって被造物は本来の輝きを取り戻していくんだ。神の子の現れによってね。それはほかでもない皆さんのことなんです。

おっと、長くなったわ。明日少し遠出するから早く寝よ。

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by dynabooksx | 2019-01-18 23:18 | 真也の視点

愛されんだー

ある歌を聞いていたら日本語と英語の奇妙な一致を感じた。

I surrender(降伏、服従します)

愛されんだぁー

何をまた馬鹿なダジャレをって思ったでしょ? でもこれには真理が含まれている。誰かに愛して貰うってのは、その人の一つの能力とも言えるんだ。というのは、他人からの好意を受け付けられずにそれを跳ね除けて、どこまでも我力で孤独に行こうとする人も居るからだ。

なんて男らしい人とかって思うかい? 内面は泣いてるんだよ。誰も自分になんて関心を持ってくれない。本気で関わり合いを持ってくれるはずは無いと深く思い込んでね。だから、傷付きやすい自我を両手で抱え込んでうずくまっているんだ。

孤独に陥っていく人間は自ら孤独になって行く、、。誰かと手を結ぶことで己の姿が顕になり、自分が傷付くことを本能的におそれているからです。暗闇には暗やみなりの心地良さがあるものなんです。ただ、そこは滅びと隣り合わせの場所ですけれども、、。

だから耐え難い苦しみに中で、自分を守ることを諦めざるを得なかった人は幸いなんです。その人は慰めを受けるからです。誰かの好意を受け取ることができるというのは、大いなる恵みなんです。そしてそれを受け取った人は、同じく閉じこもる誰かを解放する鍵を所有しています。そうやって苦しむ人を無視出来ないからです。

どうぞ、降伏して下さい。m(_ _)m
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by dynabooksx | 2019-01-17 20:18 | 驚き、発見

人生を決定するもの

はてまぁー帰ってきました。なかなかの強行軍でしたが限られた時間の中で最大限、人と会うことを成し遂げられたのではないでしょうか? 息子は移動の随所で寝ることができますが私は停まらない限りそれが出来ないので、数日睡眠時間がかなり少なくなりましたが、本当に動かなくてはならない時は2、3時間の睡眠でも充分大丈夫な身体に切り替わるようです。今も家に帰って来て4時間ほどバタッと倒れてもう回復したようです。

人間というものは、それぞれ共通の土台に立った地球という同じ世界を共有して生きているはずなわけですが、不思議なことにそれぞれの内に映し出すそれぞれの世界、世界観があって、その中で生活する生き物でもあります。だから仮に同じ人であっても大きな心境の変化によって、毎日同じくそれまで繰り返されていた日常でも、全く違うように映り出すということもありますし、逆に別々な人であっても共通の精神的土壌を持つことで、にわかに同じ体験を共有したかのような感覚を憶えることもあります。

『人は自分の心の蔵からあらゆるものを取り出すんだ』とイエスは言いました。

そう心の在り方がその人の世界観を決定し、それが結局行動原理を構成するので、その後の人生の道筋がそのことによって決まってしまうわけなんです。言われてみればごく当たり前のことですが、そういう視点で日々生きている人はどういうわけかあまり多くいないようなんですね。日々上滑りしていく情報がそもそも、、と立ち止まって精査することを妨げるのでしょうか。

他人には嘘をつけても、結局自分には嘘をつき続けることは出来ないのです。普段考えていることは言葉になり、いずれ行動になる。それは止められないことなんです。だから自分の心を適切に管理できれば、未来は成ったようなものなんですね。では、どうするか、、という問題なのですが、それはいつも同じテーマで追々ですね。

〜〜〜

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
マタイによる福音書 12:33‭-‬37 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/mat.12.33-37.新共同訳

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by dynabooksx | 2019-01-15 02:14 | 真也の視点

幸いな人


どういうわけか、このところかつて出逢った人、特にもう亡くなっているお年寄り達の顔が次々と浮かんでくる時がある。それがまぁ、どういうわけかみな満面笑顔で、あぁこの人たちは本当に幸せな一生を送ったんだなぁーと思わざるを得ない顔、顔なのだ。

人は誰でも己の幸せを願って生きているであろう。また妻や子供、友達が居ればその不幸を心から望む人はおるまい。

昨日は息子との新約聖書のローマ書を本格的な眠気が来るまで読み合った。誰に教えられたのでもない純粋な信仰を持つ奴でも、聖書読解のひだ、引き出しの多さは25年選手の私の方が先んじるところがあるだろう。その中で、7章の『人は、願うことを行わないで却って願わないことをしてしまう惨めなものなのだ』という救いを必要とする切実な姿と、そこからキリストにあって一気に転換していくところの8章、そこから解き放たれてあらゆることが実現可能になって行く世界のことを再確認した。そのところでやはり、あの幸せな生涯を終えていった顔、顔がふわりと浮かんでくるのだ、、、。

翻って自分の人生を見つめてみようか。これまでも何度も書いているように、特に震災以降はもう一度終わった人生だという認識上、いつ何時自分の人生の終わりが来てもおかしくないように、悔いのないようにと生きてきたつもりなのだけれども、今ここで今日死んだとしたら残された人たちは僕の葬式に来てくれるとしたら何を思い、語ってくれるだろうかと思う、、。

きっと現状であっても『アイツは幸せな奴だったなぁー』と言ってもらえるのではないだろうか、、。近いところで接してくれた人達はきっとそう言ってくれるだろうな。妻の愛理ちゃんは大変だっただろうけど、旦那はホント好きなことをやりまくって死んでったよな。でも、ちと40代は早すぎたよな、、と。きっとうちの子供たちも同じことを言ってくれるだろうし、いまダブルベッドの隣で寝ている長男もいつもどおりニコニコして笑ってくれるだろうて。そんな絵が見える。

そう、既にこの時点に於いてもこの世を幸福に生きた僕の顔はきっと生前交わらせてもらった方々の記憶も中に刻まれることになるだろうな、、と思うのだ。安心して欲しいんですけれども、現在致命的な病を抱えていて直ぐ先が見えているとかいうことでは無いですよ。むしろ、僕の致命的な病は完全に力を失っているんです。これまでもよく見知っている事とはいえ、力の源ダイレクトに接続されたことで止めどないものが次々と溢れてきて止めることができないんです。それによって違うゴールが明確に見えて来ている。そこに真っ直ぐに駆け込もうとしているところなんです。

隣に寝ている長男も日々嬉しくて嬉しくてたまらないようで、今寝ていてもウフフうふふと大笑いしながら夢を見ている。あまりに楽しそうなので、隣にいる私も笑うしかない。いちおう親として手渡すべきものは全て手渡した。大事な魂を預かる一役を成し遂げたぁぁああああーーー!! という感じなんです。

そうするとね。ここまでの長いようで一瞬だった結婚20年の恵みの一つ一つを数え上げながら、残りの人生の集約点へのことを思わせられるんです。ここで終わってもいいけれども、まだ終われないな、きっと、、、とね。

時代は混迷を極めると共に加速度を増していく。もう時計を逆戻しすることは出来ないだろう。だとすれば、むしろ終着点までの速度を加速させるのみ、、。崩れるものは崩れ、残るものは残る。このことによって、一体何が真実なもの、確かなものであるのかが人々の前に明らかにされる。今はそういう時代なのだ。もう広告と宣伝費によるカモフラージュの時代は終わった。人々は『確かなもの』を求めるからだ。それに出会い、人生を全うした人は『幸せな人』と呼ばれることになるだろう。私もその末席として連なりたいのです。

(僕の隣に写っている人も幸せな人の一人です。こうやって見ると母親かい? ってぐらいどこかが似ていますね。偶然といえば偶然なのですが、僕の人生には時にこういった人達との出会いが次々連鎖するんです。)
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by dynabooksx | 2019-01-13 06:53 | 信仰者の歩み

おバカな旅、

なんか面白い。おもしろいとしか言いようがないのだけれども、ふと自分の様子やその周辺様子をふり返ると笑えてくる。

というのもこの週末、久しぶりにちょっと遠くへ出かけるということで、長男を連れて岡山まで行ってくるつもりで現在彼を拾うための愛知県なのだけれども、3泊ぐらいで出掛けるつもりなのにほとんど準備だとかをするつもりにならないんだ。脳出血で頭にダメージを受けてから、その手のことがやたら鈍くなったというのもあるのだけれども、フツウ先々を心配したりして、あれこれと必要になりそうなものを考えるのだけれども、その心配自体をイメージすることを消失しているので、準備する気持ちにすらならないという感じなのだろうて、、。

それでまぁ実際長男と顔を合わせるところまで来ると、やつは私に輪をかけてそうなので、お互い考えてることがわかって無言で顔を見合わせて笑うしかないのだ。実際出かけてみてもよくよく考えて見ると忘れてきたもの多数なのだが、それでやっちまったぁーという気持ちにならず、まぁなんとかなるっしょと思うだけなのだ。

新約聖書にこんな記述がある。イエスが各地に弟子達を送り出す際にこんな助言をするんだ。

『下着の替えを用意すんなよ!』と、、。

これは何を意味するのでしょうか。彼らは神の国の訪れを伝えにあちらこちらに派遣されて行ったのです。神の国とは神の支配のなされる国。つまり神によって完全に必要がまかなわれる国のことです。だからそこでは神に信頼さえしていればあらゆる物事が準備され、スムーズに進んでいく。だから自分であれこれ、ああしなくっちゃこうしなくっちゃと思いなさんなよ!!と言ってるわけなんです。

面白いですね。昨日の夜は地区の役員会があって、それが終わり次第出発して来たので、長男と合流したのが日をまたいでしまったのですが、眠いのを我慢して運転してやっと寝たあと、いつもの3時半のアラームが鳴って、今日はそんなに早く起きんでもいいとアラームの設定を変えようとしてもどうにもその設定にもたどり着けない、、。なんかまた馬鹿らしくなって笑けてきたところでまたこの記事を書き始めたというわけです。

ほんと馬鹿なやつだなぁって思うでしょう? 自分でもそう思います。でもとっても幸せなんです。これをなんて表現したらいいのかわからなくて笑うしかない。そんな気持ちなんです。今回の息子との小旅行もそんなことばっかなんだろうな、、。行く前にわかるよ。ほんと!
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by dynabooksx | 2019-01-12 05:27 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。