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酒に酔うよりは、、、

昨日はまぁー薪造りの作業をしたあと、食べて飲んで歌ってと、、、あんな風にワイワイやるのってありそうで無かったのかなぁー。毎日わいわいしてるだろうと突っ込まれそうですが、、、。

んでもね。どうしても同時にあの人、この人は今頃どうしてるだろうかと頭をよぎっちゃうのよ。一人で膝を抱えてるんじゃあないかな? とかね。だから、どこかで陽気になり切れない自分も居るんだ。

先日の仏教講座で、何不自由なく育ったお釈迦様が少年時代に城の周りの不幸な人たちを見てそれまで闊達だった彼がどんどん暗くなって行ったという話を聞いたからだろうか、、。

僕がお酒を飲むのをあまり好きになれないのは、いつもそういったことが頭から離れないし離したくはないという思いからなのかな、、。何か大事なことを忘れているような格好がするんだな。それが誰かにとって大事なことならばいかようにでもするんだけれども、、。隣で泣いてる人がいたら自分だけワハハとはやっておれんでしょう?

今日は何があるかな、、
by dynabooksx | 2018-12-28 06:44 | 信仰者の歩み

『私の仕事観について』

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先のやりたいことをしなさいの文に反響が多かったので、もう一歩踏み込んだものを書いてみようと思いました。

私の前職が一般廃棄物処理業だったからでしょうか、、。いつも私の注目するポイントは、人が無価値だと捨てたような物事に価値を見出しすくい上げていくという風になっているようです。だって仕事ってみんながやりたがってそこに人が殺到するような物事って、もう需要が間に合っているってことでしょ? そういうことに関心を覚えないんですよね。ひねくれているのかな?

手を付けるならズバリ。誰もやっていないようなこと。つまり誰もやりたがらないようなことなんですね。聖書にも『狭き門から入りなさい!』というのがあるんです。これって大学受験等に使われたりしますが、あの使い方は誤用であれだと人がそこに行きたいと切望するけれども定員が限られているので狭き門だという意味になってしまうが、聖書の本文を見てみれば、そこに行きたがる人がいない、それを見出す人が滅多にいないから狭き門になっているという意味だということがわかる。

それでだ。私は仕事ってもんは、道を歩いていくのに、時折登場する穴ボコ、道荒れを補修していくもののようなもんだと思うんです。賢い人なら、自分の目的地に最短で行き着くために脇目もふらずに突き進んでいく。途中の道に穴が空いていても先々でうまく見つけて器用に回避して次を急ぐ、、。そうするはずなんです。

だけれども、ちと鈍重な人はよそ見をしている間にうっかり穴にはまってしまってもしかしたら大怪我するかもしれないじゃあないですか、、。自分はそこまで間抜けじゃあないから大丈夫かもしれませんがね。そこでどうするかが問題なんです。自分の目的のためにさっと見てみぬふりをして先を急ぐのか、そこで出くわしてしまった問題、危険に対して誰かが怪我をするかもしれないからと対処してみることを選ぶのか、、、。

誰かが怪我をするかもしれないと推測することもあるかもしれないし、すでにもう目の前ではまり込んで大怪我している場合があるかもしれない。でも自分のことじゃあないので、無視して自分の目的を達成するために先を急ぐ自由もあるんです。それが現代ではクレバーな生き方と評価されるのではないですかな。

そんなとこで一々引っかかってしまっていたら、身が持たないし、自分の目標なんてとても達成できるわけないよとアドバイスしてくれるでしょう。確かにね。自分がその穴をしっかり埋められるかどうかはやってみないと分からないんです。自分の能力では無理なのかもしれない。でも誰かがやらなかったら、社会のリスクはそのままになってしまうんです。それに、人の能力ってのはそれを引き出して何度も訓練されていく過程で強化され実を結んでいくものなんですね。現場を持たないで大成する物事なんて存在しない。要はやろうと思うか思わないかなんです。そうして必死に取り組んでいくうちに、隠されていた自分の能力というものが見えてくるものなんです。だからやってみる前に、『好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか』というレベルで判断できる次元の物事じゃあないんです。

一体誰が道路の補修なんてしたがるんですか? ごみ拾いみたいな裏方作業を喜んでする人っていますか? 実際いるんですね。そのおかげでかろうじて社会が成り立っているんですけれども、僕は人が手をつけたがらない一番困難な仕事に心惹かれるんです。もうそういうことを延々と繰り返してしまったので、これが天職だというところに到達してしまったんですね。バカでしょ? 自分でもそう思います。

でもね。腹くくってこの廃棄物処理業を、、。世の中の競争に敗れて、不必要だと排除されたような人々をすくい上げて、反対に世の中の価値を逆転させてやるような事業をやってやろうと心に決めたんです。そうでないと、原発で故郷を喪ったこともありますし、このままじゃあ次世代に申し訳が立たないというのもありますし、まだ死ぬに死にきれないですからね。だから後悔しないように自分の持てるものをすべて出し切ろうとね。

そういうところに行き切ったら、見える景色の清々しいこと、、。毎日なんと晴れやかで、楽しみで、能力全開で次々アイデアが浮かんでくるし、迫りくる現実も次々と展開、解決していく、、。ここまで整ってくることって今までありそうでなかったんですよね。ああ、ここに来るために自分の人生はあったのか、、と過去を振り返ってみると、その時は理解不能だったような物事もあれもこれもとすべてここに到達するためだったと理解し直してみると筋が通る。そんな感じなんです。きっと時代がこれを要求しているんだと思います。社会全体が崩れ落ちようとしている時代ですから、、。

〜引用開始〜

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイによる福音書 7:13‭-‬14 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/mat.7.13-14.新共同
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by dynabooksx | 2018-12-24 01:54 | 真也の視点

僕たちは学校教育で、家庭で『やりたい事をやりなさい!』それが人生だと言うことをくり返し教えられて来た。それを全面的に否定するつもりも無いのだけれども、何度聞いても釈然としない思いを感じながらずっと過ごして来た。

またしばらく前、子供の卒業式の際に担任の先生が送る言葉で子供達にこうスピーチしてくださった。

『皆さん。先ず自分を大切にして下さい! そして周りの人を大事にして下さい!!』と、、。

普通ならいい話だぁ〜ということでさっと聞き流すところなのだけれども、ひねくれている私はそれをとても聞き流すことは出来ずにグッと詰まってしまってそれからずっとその事をぐるぐる考えていた、、。

理屈としては確かに、自分を大事にしていて自己肯定感を持っている人がそれを拡大して近くにいる人も包んであげることができる、、。確かにそうだろう。だ、けれども。現実はどうなる?? 自分をまず大事にせよと呼びかけられて子どもたちには何を思うだろう。結局何を語ったとしても、最終的にはその人が本質的に行ってきたことがその言葉に重みとなって反映されるだけのことなのだけれども、自分を最優先にするという信号がどうしても解せないんだ。

だってそうでしょ? 世の中の人みんな自分のことばっか考えてるよね。あっちもこっちも自分のことで必死じゃんかね。役所も学校も政治家も自分の立場が脅かされないように、自分の利益が減ずることがないように必死でしょうよ。家庭の中でも結婚しても一緒になったことで、相手の犠牲にならざるを得ない場面になって、こんなはずじゃあなかったーーってなるんでしょ?

みんな自分を大事にすることをしようとしたけれども、それがうまく行かないから、誰かの利益と衝突しちゃったりして立ち止まらざるを得なくなって葛藤するんだ。もしかしてそこま織り込み済みの発言なのかい??

だから、自分を大事にできれば相手も大事にできるってのはどこか空虚な響きに聞こえて来ちゃうんだ。やりたいことをやれって、、。結局は自分の欲求を最大化出来たやつが勝利者だってことでしょ?

そうやって他人を圧迫しても多くを勝ち取っていく強者を作り上げたいのかな? 世知辛い世の中だからね。踏みつけられるよりは踏まれない立場で生き残ってほしいと思うのでしょうか。でもね。僕もある程度エリートとして教育を受けてきたけれども、どこまで行っても上には上がいるのよ。そしてそこを駆け上がれば駆け上がるほどにね。幸せが待っていると思うでしょ? 行ってみりゃわかるよ。そりゃいい学校出て一流企業に就職しりゃね。将来は安泰で立派な一軒家を立てて、、幸せな家庭を設けてとバラ色に見えるかもしれないが、そう甘くはないんだ。仮に外から絵に書いたような幸せな家族のように映ったとしても、その内実はどうなのかそれは伺いしれないよ。だけれどもどんなに取り繕っていたとしても、僕には流れるようにその人の孤独や葛藤が流れてくるんだ。どうしてだろうね。。

成功者だと呼ばれている人々も心の中でこう叫んでいるよ。

『俺の人生はこんなはずじゃあなかったはずだ!!』ってね。

でも一度乗ってしまったエレベーターを簡単に降りることは出来ないからね。そこまで積み上げたものを否定は出来ないからね。仕方なく自分が本当に力尽きる瞬間までお付き合いしているんだ。

僕はね。自分のしたいことをしろと言われてもずっとピンと来なかったんだ。これだって言うのがなかったんだね。正確に言うと無かったわけではないのだけれども、それがどうにもうまく行かなくてスムーズに形にならなかったんだ。でも自分の人生を誰かのために放棄せざるを得ない状況に置かれて、渋々それを受け入れるという経験を繰り返すことで、一回りしてきてみたら、、、あれまぁ、自分が真に望んでいたことがいつの間にか実現していたことを見たんだ。不思議なことですね。全部捨ててきたはずだったのに、そこに全く期待していなかったクリスマスプレゼントが用意してあった、、みたいな。

とすると、真実はどこにある??って思うんです。ここまでくればもう回り道はすまいって思うんですよ。もう真っすぐに結果に行き着くことができる場所まで来ている。必要な訓練や準備は整っているってね。それで今なんだな、、って思うんです。そしたらもったいなくておちおち寝てらんないんです。
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by dynabooksx | 2018-12-23 07:12 | 真也の視点

もし誰かと一緒にやっていくことを最優先にするのならば、相手を自分に対して振り向かせることに夢中になるよりも、自分を相手に対して沿わせることを考えた方がゴールに近い。

自分という存在を固定化しなければ、困難に見える物事にも光明が差してくる。流れに自由に身を任せてみれば、あるべき姿というのがきっと見えてくるからだ。問題を複雑化し、固定してしまうのは自分自身なんだ、、。言い換えるとそれを望んでいる、、ともいえるのかもしれない。

いや、、でも本当にそれでいいのか!? よくよく考えてほしい。やむを得ずにそこに落とさざるを得なかっただけなんじゃあ無いのかい? 惨めな自分の姿が晒されないようにここら辺を落としどころにして置こうか、、と。

本来の君の姿はそんなんじゃあ無いはずだ。もっと内側から汲み出す活き活きとしたものに突き動かされて輝く道があるはずだ。今はそれが見えなくされているだけだ。そこまで行くまでは暗く寂しく、不安だよな。今まで散々吹き込まれた嘘がそこらじゅうあなたの周りを取り囲み苦しめてるのだから、、。自分の為に生きろ!! 自分を守れ、自分の利益を守れ、それが人生だって、、。

それを追求して、結果どうだったんだい? 億万長者になったかい? 友だちがたくさんできたかい? 安心して居る事のできる場所が確保できたのかい?

どこまでも不安で孤独だろうて、、、。それはね。生き方を間違えているんだ。本来人間はあるべき姿として共通の理想を埋め込まれて造られているんだ。そこから離れれば離れるほどにどこまでも渇く。その渇きを満たすために、あらゆる手段を尽くして駆けずり回るんだ、、。だけれども一瞬潤いを感じたかのようなのは幻想で、次にさらなる禁断症状に襲われるんだ。

これはね。。セーフティーネット、安全装置なんだ。それ以上危険なところに行かないようにね。鬱にして行動不能にすることで一時的に安全が保たれるような保護機能なんだと思う。よくよく考えろ!! 本当にそれで良いのか! と、、、。

そういう身動き出来ない時に助け手が現れた人は幸いだろう。その人と結び合わさることで、互いの必要を補い合ってそれまで伺い知ることの出来なかった世界を見るでしょう。そう、人はひとりで生きていくようにできてはいない。全ての物事を結び合って一つの機能を発揮するようにされているんだ。

だから一人でどんなに自問自答しても答えはないんだ。自分を守るために戦々恐々としている所を諦めざるを得ない時がくるまで苦しみは必要なのかもしれないな。

だけれども、きっとその先があると信じてるよ。僕もそうだったから、、
by dynabooksx | 2018-12-23 04:17 | 真也の視点

普通に思う、、

なんか、、、。全然それでいいんですけどまったりしてしまって、、。昨日は保育園の忘年会だったからかもしれないんですけどね。珍しく少しお酒を飲んだからかな。世の中って生きづらく出来ているようだけど、本当は違うのだと思う。自分の秤で計りかえらせられるという言葉の通り、結局は自分から出たものを人は自分で刈り取ることになる。当たり前のことだけれども、自分の世間に対する見方が、結局は自分自身に対する考え方にもなっていくんだ。

ここに来て不思議に思うのは、自分は何故?かつてあんなに学校とか世間に出ていくことが嫌だったのだろうか、、ということ。自分でなにか壁を作って必死に防御していたことは間違いがないんだけれども、今ではどうもそのことのことがよく思い出せなくなってきている。問題は様々あるのかもしれないが、いざ覚悟して飛び込んで見ると、さほどのこともないな、、という感じなのだ。黙って遠くから傍観していると悲惨に見える物事も、いざ内側に飛び込んで見ればまだまだ手遅れではないことがわかる。要は自分の姿勢次第なんだな、、。色眼鏡を外してみれば、世の中もまだまだ捨てたもんじゃあない。今は死んだようになっている人も、違う未来があるのだろうて、、。だから、なんとかこの閉塞感を突き破ってやりたいな。思いっきり、、、。それは実体があるようで本当は存在しないものなんだ。そういうマインドセットが連鎖して投影されているものだからね。

この愛すべき素晴らしい世界、、というわけだ。
by dynabooksx | 2018-12-22 11:51 | 真也の視点

さぁて、着々と足場が固まってきたぞぉ〜。なんて言うのかな。イメージも現実もどちらも先行し過ぎないでいい感じに折り合いながら進んで行ってる感じだ。
こんなに気持ちよく意識が上手くコントロールされて能力を出し入れできる事もよくよく考えてみるとなかなか無かったことなのかもしれないな。やはり時が満ちたと言う他あるまいて、、。

ここに来ると去年脳出血で大きなダメージを受けたということの意味もよく分かってくる。あれはリミッターなんだな。一気に振り切れたところまで回路を使い切らないようにと、微妙なところで抑えこんでもらっているのがよく分かる。だから上手くリフレッシュして疲れ切ることがないんですね。これも以前は無かった感覚だと思います。単なる努力とは全く違う領域のこと、、。求めていたのはこれだったんだわな。一日一日が待ち遠しくて毎朝2時頃に起きちゃうんだわ、、
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by dynabooksx | 2018-12-21 04:48 | 信仰者の歩み

今年も終わりですね。

いよいよ年の瀬迫ってきました。先日は南アルプス村道の駅長谷でのイルミネーション点火の際、地元の中学生がXmasの賛美歌を数曲歌ってくれたのですが、こういう場所で聴くそれが妙に心に響いてジーンと来た。

今年は色々な意味で区切りの年になっていると思う。両親はこれで結婚50年だったし、自分達もこれでちょうど20年だ。それだけじゃあない。イエス・キリストに心惹かれるようになって25年だ。いつも節目節目で大きく出る人生のあり方を切り替えてきた。

特に大きかったのは大学受験を控えていた17の時。この頃は自己の存在意義に強い葛藤を憶えていてもがいている最中に突如、全くそれまでとは違った世界に引き込まれたのを今でもよく覚えている。
どういう訳かその時おもむろに開いた聖書の世界に呼び込まれてしまったのだ。誰が何を教えてくれることもなかったのだけれども、どれも自分の事を書いてあるというようにしか読めずに貪り食うように受験勉強そっちのけでベッドの上で読み耽った。
今も福島の自宅の倉庫には涙で波打ってヨレヨレになった口語訳聖書がどこかに眠っているはずだ。

この調子で一つひとつ挙げていくと膨大な文章になりそうなので止めておくけれどもちょうど今から8年前、震災の直前のクリスマス前夜にもそれまでの自分の理解や認識をひっくり返すような出来事が起きた。極めて個人的な体験だったのだけれどもそれがそれまでの自分の生き方、力の使い方を完全に逆転させた。自己の研鑽や努力では到達し得ない領域のことだった。むしろ真逆の世界観。それが降った日だった。

恐らく後で振り返った時のこの時期も、きっと同じ節目であったと感じるようになる場面なのだろうと思います。この与えられている自由をいかに使うべきか。そういう節目なんですね。
by dynabooksx | 2018-12-19 21:49 | 信仰者の歩み

あらためて昨日途中で帰ってきた仏教市民講座ですが、テキストの帯の裏側を見るとちょうど昨日やった所の文言がありましたね。

『この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない』

ふむふむ、、。すべては夢幻の如くなりと辞世の句を述べた誰かの心境と重なりますが、自分の寿命を終える時がもう直ぐそこまで来た時に、自分の人生を振り返って何を思いますかね。

古代イスラエル王国の栄華を極めた、ダビデの子ソロモンが晩年に書き遺したものを少々長いですが丸1章載せておきます。あなたの心に何が残るでしょうか。

〜引用開始〜

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。 わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。 曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。 わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。
伝道の書 1:1‭-‬18 口語訳
https://bible.com/bible/1820/ecc.1.1-18.口語訳
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by dynabooksx | 2018-12-18 08:24 | 聖書の言葉

『北風と太陽』


イソップ寓話で有名な物語なのだけれども、昨日ふと意識の中に飛び込んで来た。

このお話し、北風と太陽が旅人の服を脱がせようと競い合う物語りなのだけれども、そもそも何故? 服を脱がせようとするのかという事は語られてはいない。推して知れということなのだろうけれども、どうやって服を脱がせるのかという事よりも、そもそも服を脱がせるということとは何か! というテーマの方が本来重要であるはずだ。

この事についてさっと調べてみたらなかなか見つかりませんでしたがやはりありました。

  〜〜〜

この「服」は人が無意識に固着している、
「メンタルブロック」の象徴だと。

  〜〜〜

メンタルブロック、、初めて聞いた表現ですが中々いいですね。要するに自己防衛本能というか自分を最優先にしたいという自己愛のことです。誰でも不安や孤独があり、自分が可愛いですからね。普通それが無かったら、このしがない世の中で生き抜いて行く事などとても出来そうもない、、。そう考えるのが普通だと思うでしょう。

しかしこの寓話のテーマがそれを脱ぐ、、ことになっているのだとすると何が見えてくるのか、、、。

よくよく考えてみるとこの自己愛というのが厄介なもので、本来自分の身を外部から守るために纏った壁であったはずなのですが、その仕切りのお陰で過敏な精神がひと息つけるだろうかと思いきや、いざそこに直面してみると誰の声も届かないような圧倒的な孤独があったり、自らそこを抜け出て助けを呼ぶ事も出来ないような罠も仕掛けられていたりする。いくら壁を設けてもそれを乗り越えて来られるかもしれないという恐怖がさらなる不安を呼ぶんですね。

自分を守るはずのそれが実際には機能しないどころか、自らの身を焼いていく、、。そういう現実を知るんです。国と国が互いに疑心暗鬼になって武装防衛し始め、緊張が高まったある瞬間の火種で一気に、、、となり潰し合うのと同じです。

旧約聖書に依るならば、創造主が最初に形造った人類は裸であり、それを恥ずかしいと思わなかったとあります。そしてその様子を見てそれを良しとされた、と、、、。

彼らは自分の身を守らねばならないという意識自体を持ってはいなかったんです。全くの無防備。そしてそれが最初に創られた本来の姿だったと聖書見ているわけですね。そういう前提が当たり前にあってのこの寓話なのですが、そんな事に普通の日本人は意識が行きませんかね。

これ以上話を続けることは止めておきましょう。北風も太陽もどちらも旅人の服を脱がせたかったということなんです。僕はどちら役もやりますけどね。目的の為ならどんな常識外れのことでも、、、。
by dynabooksx | 2018-12-17 06:08 | 信仰者の歩み

重荷を負うこと

このところ大量の文章を書き出していますがFBのみだと目に触れることが少ないと思いましたので、ずっと更新を控えていたこちらにもコピーを載せ手行くことにします。


この年になって今更といえばいまさらのような気もするのだけれども、気持ちの入れよう次第で取り組む物事の結果がこれ程違うのかということに驚かされている。

同じ物事に同じ角度から当たっているつもりで居るのだけれども、ほんのちょっとの加速度というか突っ込んで突き刺さる深さというのか、その具合いによって結果へと到達するスピードが全く違ってくるということを受けとっている。もしかしたら結果自体も違っているのかもしれない。

この違いは腹を決めて覚悟するかしないかの違いであって、自分のできそうな範囲でやるかやらないかを決めるのではなくて、捨て身の覚悟で突っ込むかどうかの違いなんだ。よくよく考えてみると、この両者の姿勢には天と地ほどのエネルギーというかいざという時の突破力の差があるので、結果が違って来て当然なのだ。

世間的には、皆で協力して助け合ってとか、win-winな関係で、、とか言うのが普通だろうが、実際に機能不全を起こして詰まってしまった物事に、一点風穴を開けて突破していくにはそのような角度で突き抜ける馬鹿がどうしても必要になるんだ。誰かがそれをやってくれればそれで済むのだろうけれども、誰もしないのなら馬鹿役は自分向きだなと思ったわけなんですね。

いざやって観て不思議なのは、最初周りの目や評価を完全に無視して自分の信じた所を行くのですが、いざ進んで見ると途中で荷が一気に軽くなってくるというか、強力な助け手が次々と現れてその人たちに連鎖して事が進んで行くので、自分がやっていたはずなのにあっという間に自分の手を離れて物事が進んで行くんです。有り難いですね。一旦覚悟しているとはいえ、どこまでも一人で引っ張っていくのでは、どこかで力尽きて萎えてしまいますからね。

こういうものってそこに臨んでいる当人かその直ぐ側にいる人しか空気感が分からない事ではあるのですが、事業や何らかの活動を起こしていくことを志す人にはこの感覚を味わってほしいんですよね。というか何かを立ち上げるということをして来た人は皆味わっているはずなんですけどね。

要は取り組むべきと思うことのテーマというか行動原理になる動機の部分が揺るがないしっかりしたものであれば、自ずと結果へ到達するってことなんです。当たり前のことですけど、、。


〜聖書引用〜

重い束縛を受けて、疲れはてている人たちよ。さあ、わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげましょう。
わたしはやさしく、謙遜な者ですから、負いやすいわたしのくびきを、わたしといっしょに負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。 わたしが与えるのは軽い荷だけだからです。」
マタイの福音書 11:28‭-‬30 JCB
https://bible.com/bible/83/mat.11.28-30.JCB

〜引用終わり〜

これを読んでピンと来た人が居たら驚きですね。実は長々と今回書き綴った物事は、この聖書の箇所に集約されているんです。よくキリスト教会等は最初の行のところで切り取って使ってしまうので、一体なんの事やらただの気休めのように思われてしまうのですが、本質はその続きなんです、、。

ここで『わたし』と言っているのはイエスのことなのですが、自分の重荷で苦しんでいる人にその荷を一旦おろして、試しに俺の荷を一緒に負ってみないかと誘うわけなんですね。それが『くびき』ということで家畜が労働する時に首に嵌めて作業させるものです。複数の場合は横並びに繋いで労働力を発生させますからね。

要するにイエスのやり方で荷を負ってみる。そうすると、一見膨大に見えたその荷物は、実は軽やかに引いていけるということが分かるよ! ということ。それに実際にくびきというものは外から見れば、横一線に動いているように見えますが、実際の力の掛かり方は自力がある者にかかることになっているんです。だから最初自分も気負って繋がれますけれども、最も力を持っている方に実際の負荷はかかってしまうんです。

それが心苦しくて、私にも少しだけ負わせてくれって気になるんですけどね。そしてその想いが連鎖していく、、。

by dynabooksx | 2018-12-16 03:35 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。