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全て神の主権によりて

 高校生の頃、ラジオ付きの目覚ましで起きていた覚えがある。聞こえるか聞こえないかぐらいの音量でなるぐらいに設定しておくと、心地よい響きで目を覚ますことができる。しばらく前に、近くの電気屋の閉店セールにて、処分品になっている適当なものを見つけてきた。
 今日はいつもと少し違う雰囲気で目が覚めた。ちょうどAMでキリスト教放送松山局、まことの光と言っていただろうか、をやっていたのだ。意識がはっきりしてきたときにはもうすぐ終わりのところまできていたのだが、はっきりと呼びかけが耳に残っていた。シンプルなメッセージが心に響いた。私たちは、自分が未だよく知らない神が計画されるもうひとつの人生があるのだと、、、。

 少し頭を打たれたような気がした。私はこのところ多くの時間を、神の言葉である聖書を解析することに費やしているがいくら研究を重ね、理解を深めたところでそれは断片的で本物は向こう側にあることを少し忘れておったと、、、、。聖書とて、この神の意志によって書かれた書物によって多くのことを伝えてはくれるが、これが創り主自身ではない。その謙遜さがなくては、知恵をつければつけるほど恵みを失うことだろう。
 ああ、書きながら思ったのだが、結局心配ないのか。恵みを失い、関係が閉ざされたように思えば、渇きへりくだらざるを得なくなるのだから、、、。うまくできているものだ。誰も人間の側からは、神の所へ行くことができないようになっている。人間には、多くの知恵が与えられていながらも、命の源は与えられておらず、知恵だけでは命が枯渇する。命は神の側から、神の主権で動いてくれなくては我々にはどうしようもない。こうして、キリストは世に来られたのだ。


 とはいっても、神が全てされるからと言って、与えられているものを放棄するつもりはない。私は、管理されるよう託されている知的能力を使い切って創り主を知り、被造物としての役割を果たそう。きっとその途中で必要なものは全て与えてくださるだろうから、、、。御心に添い素早く悔い改める柔らかい心を失っていなければ、、。
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by dynabooksx | 2007-10-21 06:09 | 驚き、発見

学習発表会

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 今日は長男光希の学習発表会でした。去年の劇より随分台詞の多い役をもらったのだとか言っていましたが、なるほど彼のキャラクターにピッタリの適役で、はまっていました。先生うまい!!(拍手)


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 内容は、畑の野菜たちがみんなで協力して自分たちを食い荒らす暴れん坊のネズミを追い払うというもの。もちろん光希は4人いたネズミのうちの一人。前半野菜たちの作戦を次々と蹴散らす。『そんな事でネズミ様を追い払えると思っているのか!? えっへっへ~。』といった感じで、、、。


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 出てきた、出てきた。バットを持たせると暴君ぶりがよく似合う。さすが俺の子だ。ちょうど振り下ろす瞬間の図。


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 大声ハスキーボイスとわかりやすいリアクションで会場の笑いを誘っていました。それにしても、堂々とした良い演技だった。



 私(真也)はこういうのが大嫌いで、せいぜい「村人3」で台詞一つ話すのが精一杯だった。しかし、どうだろう。随分変貌してしまったようだ。『男のくせにぺちゃくちゃぺちゃくちゃ話すのが好きなんだねぇ』と妻に言われるほどになってしまっていた。聖書を読んでいると、語りたいメッセージが次々と溢れてくる。伝えたい事があると、饒舌になってしまうのは仕方がないことだ。
 このように私を変えたのは、福音のなせる技なのか、はたまた我が家の眠っていた血統が目覚めただけなのかもしれない。先日、ふと届いていたはがきを見ると、101歳の祖父はどこぞの大きな会館で来週講演をするという。その所要時間なんと90分。何をそんなに話すことがあるのだろうか、、、。彼は執筆中にてこちらはしばらく静かな日々だ。


*母親(愛理)の追記
 私たち夫婦、周りの方々そしてお義母さんなど皆さん大層この劇を楽しみ、光希の演技もはまり役で「とても良かった!」と好評を頂いたのだが、教室へ帰った光希たち2年生は、みんな担任の先生に怒られたそう。「時間が早く終わりすぎた」とか、「セリフをまちがえた」とからしいが。迎えに行ったら2年生の子どもたちが何だか元気がなかった。「先生に怒られたのは、。。のせいだよ~」と言う声が聞こえたりしていた。私たち家族は担任の先生が大好きで本当に尊敬し信頼しているが。今日は、子どもたちが精一杯の演技をしたと思う。もし間違えても最高に褒めてあげてほしかったと思う。子どもたちは間違えたことは、十分わかっている。時間が少し経過してから間違いを指摘しても良かったのではと思う。
 子どもは担任の先生が大好きだ、褒めてくれれば、子どもたちは自信を持って失敗から、次の一歩へ踏み出すことができる。私自身、幼児教育に携わっていただけに何となく先生の対応に疑問を持ってしまうのだが、この世の中は理想ばかりで動いているわけではない!ので、このようなこともあっても仕方ないでしょうね。
 私たち夫婦は、今日一日は、長男光希と2年生のお友達がどれだけ頑張ったかを、いつまでもひつこいほど褒め続けた。誰かがフォローできれば良いんだ♪ねっ。
 光希、みんなお疲れ様!!みんな声が良く聞こえたし、演技はとっても上手で、楽しい劇だったよ!
 我が子を筆頭に、元気ではじけすぎている子どもたちを、忍耐強くご指導下さった先生に
 心からの感謝を込めつつ。。。
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by dynabooksx | 2007-10-20 18:26 | 真也の雑記帳

昨日の夕日と今日の収穫

 写真を二つ、昨日の夕日はいつに増してきれいで、しばらく見とれていました。斜めに撮影したように見えますが、下の陸地が示すようにあくまでカメラが水平です。
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 もう一つ、事務所でブログを書いていたら、母が写真を撮ってくれと畑からやってきた。なんだと思って行ってみたら、見事なサツマイモ。たった一房からこれだけの収穫。焼き芋だなこりゃ。
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by dynabooksx | 2007-10-18 17:08 | 真也の雑記帳

黒崎幸吉氏について

 7月の余市聖書セミナーの際、水谷先生が学生時代に最初に買った注解書が確か黒崎幸吉氏のものだったと言っていたのが耳に残っていた。ちょうどオークションで見かけたので、気になって少し調べてみると、、なるほど私も妻も唸らされた。検索すればこのページが最初に表示されると思う。略歴などはそちらを見てほしい。いくつかそこから印象に残ったものを引用したい。


黒崎幸吉(リンク)


 祈 り

 実に祈祷は神との交通の水路であり、神の霊を呼吸する気管である。このカナルが中断せられ、この気管が閉塞せらるる時、神の霊の流入は杜絶し、神との交際は断絶し、神の力はわれらを離れてしまうのである。しかしてわれらの心が直接に神に向かわずして、幾分にても「人に顕わさん」との心を支えるならば、その瞬間に神との交通の道は杜絶し、祈りはそのすべての意義を失ってしまうのである。 
                   (『著作集』第1巻.308頁)


 神

 神に対する絶対の服従、これが人間が神に対する関係において当然におるべき場所である。神に対する人間の関係の基本はこの服従を措いてほかに有りえない。何となれば人間は被造物であって、創造主の前には服従がその本来の姿だからである。‥‥‥‥
 人間の真の立場を神に対する服従に置くという見方は、聖書の世界観をして他のすべての宗教や哲学と異ならしむる重要点であって、この中心点が失わるる場合は他のすべての善も人間を神の前に立たしむるに足らず、反対にこの中心点を確保するならばほかのすべての悪も彼の神の前に立つことを妨げることができない。
                  (『著作集』第1巻.9~10頁)

‥‥‥‥‥人間はいかに深く思索し、研究し、哲学しても神を知ることはできない。神について種々考究し推理することはできるけれども、神御自身を直接に拝することは、かかる知恵によっては絶対に得られない。神について論議思索することと、神を信じ神に従うこととは全くの別事であって、前者は知恵(ソフィア)の世界であり、後者は信仰の世界である。
                 (『続・著作集』第2巻.341~342頁)

 神の与えんと欲し給うものを、自己の無価値を理由としてこれを信ぜず、これを辞せんとするは、謙遜にあらずして不信である。また神の賜物を受けんがために先ず己れより何物かを献げんとするは努力にあらずして不遜である。
                   (『続・著作集』第3巻.4頁)



 いやぁ、いちいちアーメンですなぁ、言いっぷりが良いねぇ。


  神の国

 ‥‥‥‥パラダイスと言い神の国というは、要するに人が神に服従しているその心である。それゆえにあるいは環境をもって神の国を建設せんことを求むる社会的キリスト教や、自己の修養により自己を善き者として神に近づかんとする律法的キリスト教のごときは、聖書の世界観とは全く反対の立場をとっているのであって、彼らは車を馬の前に繋(つな)ぐの愚を演じているものである。神の国は神に対する絶対的従順より以外の途に求めてこれを得ることはできない。
                    (『著作集』第1巻.10頁)


  律 法

 律法が律法の力を発揮して始めて福音であることがわかる。「神の言は皆われらこれを為さん」との決意はキリスト者の場合でも絶対に必要である。これは律法主義ではなくその正反対である。律法主義は形式的に神の言を守ることのみによって安心する主義であり、福音主義は神の律法を完全に守らんとする意思が、その事実的不能のゆえに神の御前に打ち砕かれし者の上にくだる神の愛を信ずる心である。人間の弱さを振り翳して、神の言を守ることの責任を全部免れんとするごときは福音主義のはきちがえである。
                    (『著作集』第3巻.393頁)


  信仰

 コンスタンチヌス以前のいわゆる初代キリスト教時代の大体の傾向としては生命的信仰が中心をなしておった、それは当時強烈な迫害の下にさらされておったために、信者は皆生命がけでイエスを信ぜざるを得ない状態の下にあり、心から堅く主イエスに依り頼んでおったのであった。彼らの関心は、主としてキリスト者として如何に生活すべきかにあったので、何を何故に如何に信ずべきか等の教理的宗教、哲学的問題は、彼らにとっての重大問題ではなかった。彼らは、直接にイエス・キリストを信じ、彼に在って生命の力を与えられ、これによって生きまた行動しておったのであった。
 この時代にも若干の学者があって教義的思弁に努力しておったけれども、一般の信者は、むしろそれに支配されず、直接に聖霊の導きにより迫害と戦い偶像と戦って次第にその信仰を死をもって証明しておった。
                  (『著作集』第4巻.180頁)

 今日のキリスト者の中にも私と信仰箇条や信仰告白が一致しているがごとくに見えつつ、どうしても心持において一致し得ないような多くの人を見出す。反対に信仰箇条や信仰告白において非常に異なっているがごとくに見えておりながら、如何にもキリストに在る兄弟であるとの感を深くする人を多く見出す。私はいちいちこれらの人々の心の内容にまで立ち入ってさばくことができない。しかし神の目より見るならばパウロやヤコブの場合のごとく同一の告白の中に多くの異なれる信仰があり、異なれる告白の中に多くの同じ信仰を見出し給うことであろう。
                  (『著作集』第4巻.199頁)



 信仰とは、キリストを通して神の命に直結されることであり、そのことによってあらゆる行動がその命によって行われるため、主体が自分から神へと完全に移行していく。 神に服従させるのではなく、人に服従させることは、優劣関係ではなく、対立関係にあると私は考える。信仰者の交わりとは、誰にこびることもなくそれぞれ神との交わりを持ち、楽しむ延長で自然に発する横との繋がりであるから、一致を強制されるようなものではない。キリスト者の一致とは、深い内面でつながっていて、表面に見える活動はバラバラというのが普通だと思う。そうではなくて、表面で一致しているかのように見せかけて内面はバラバラというのもよく見受けられる。こういった所には、律法主義による内面を否定する人間性の抑圧と批判への強度の恐れが見られる。
 4月にCGNTVを設置し、ハ・ヨンジョ先生はじめオンヌリ教会の背後に流れるものを探求、堪能しながら7月恵泉塾へと向かったわけだが、正直衝撃を受けた。している活動は、都会の大工場(オンヌリ教会)と田舎の町工場(恵泉塾)ぐらい規模も内容も違うのだが、飛び出してくるメッセージが驚くほど一致する。裏で繋がっているのではないかと思うほどだ。同じ聖霊に繋がっているのだから一致するのは当然だともいえるが、、、。後で愛理にも聞かせたが、「まるでステレオだね。」と言っていた。そして何より、それまでの交わりに違和感を覚える方が多かった私が、この先生は間違いなく私が出会った同じ方に会ったのだという確信と、世代も環境も大きく違っていても大事にするものがぴったり一致するという不思議と平安を感じた。
 誰かに言わせると、単にあなたと肌が合っただけじゃないの? となるかもしれないが(確かに性格のタイプで言えばハ先生よりは水谷先生の方が近いだろう)、そんな表面的なものではない、源泉がいっしょというかそれ以上言葉を交わす必要がないと思えるような感覚なのだった。普段あれも聞いてみよう、これも聞いてみようと思っていても、実際会うと満足してしまって、言葉に詰まる。そんな深い安心感、皆さんも味わったことがあるだろうか?
 きっとそんな魅力がイエス様にもあったのだろう。そうでなければ、たった一言で漁師の命である網を湖に投げ捨ててまでついて行くはずがない。事前に色々噂は聞いていたかもしれないが、会うとなんともいえない安堵感、やすらぎを感じたのだと思う。そんな平安を感じる人と各地で多く出会い、また普段も囲まれつつ歩むことが出来る幸いを神に感謝したいと思う。

 本文から離れてしまったのでいったん区切ろう。まだあるので、続きはまた今度、、、。
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by dynabooksx | 2007-10-18 10:37 | 信仰者の歩み

今夜もいい匂い♪

 スーパーで新鮮なイカと
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                            廣田家の畑の大根で
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「いかと大根の煮付け」を作りました。イカの皮をきれいにはがし、イカの内臓を出して
イカの腑(ふ)だけ取っておきます。腑にはイカの墨袋がついているので、必ず取ります。フライパンにお酒、砂糖、醤油を沸騰させ、そこへ腑を入れ、練りながら火を通しておきます。
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 イカを食べやすいように輪切りなどにしたものを、このフライパンに入れ、イカの身を腑に絡めながら軽く火を通しておきます。火を入れすぎると堅くなってしまいます。
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大根は別の鍋で砂糖、醤油で煮ておきます。下ゆでするのが普通なのですが、うちの畑の大根は柔らかく、下ゆでするととろけてしまうのでしません。
大根が柔らかくなったら、腑に絡めたイカの身を鍋に移し、軽く混ぜ合わせ煮てできあがりです。
色々な人の「いかと大根の煮付け」
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の作り方を教えてもらい、最近はこの作り方がお気に入りです。
腑を入れると味にコクが出て、美味しいです。
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by dynabooksx | 2007-10-17 16:53 | 愛理の子育て日記

 ツラノ書院から出ているQTガイドに追いつくように、ローマ書を読み込んできた。前半の方はガイドの方に色々書き込んでいたが、先に述べた聖書を買ってきてからはすべてそちらの方に書き込んでいる。没頭するうち一章3時間どころが一ページ3時間の様相を呈してきた。

 昨日で16章一通り終えたことになるのだが、15章の後半に感動してしまいなかなか先に進まないのだった。

そういうわけで、私はあなた方のいるローマへ行くことができないでいた。しかし、今はもうこのアカヤの地方では働き尽くしてしまったので、あなた方の所へ行きたいという長年の熱望もあって、イスパニアへ行く時、ぜひ寄りたいと思う。というのは、途中あなた方に会い、あなた方によって満足が与えられたら、あなた方に見送ってもらって、イスパニアへ行きたいと望んでいるからである。
                    ローマ人 15章(現代訳)


 普通の人と感動するポイントが少しずれているかもしれないが、ここ半年ほどにあった色々なことを思い出しながら、ほぼ二千年前に十字架で死んだイエスが救い主であることを伝えるためにだけ生きたこの男の生涯を追いかけていた。
 この男何という奴だろうか。この手紙は、未だ会ったこともないローマに住んでるクリスチャンに向けて書いたものだが、長年行きたかったその地にもう一息でたどり着けるのに、これから1000km以上離れたエルサレムまで、援助物資を届けるために戻らなくてはならない。現代であるならば、車か飛行機でビューンといけるところだが、この時代はやっとローマが幹線道路を整備し始めたところで、移動は徒歩だ。しかも、当時同胞であるユダヤ人達からさえ神を汚す教えだとして命を狙われ、投獄されること多数だというのだから、観光旅行とはわけが違う。その思いは30節から綴られているところだ。

 信者の皆さん。私たちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛により、あなた方にお願いする。私のために、私と一緒に力を尽くして神に祈ってほしい。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、また、エルサレム教会に対する私の奉仕が皆に受け入れられるように。また、神の御心により、喜んであなた方の所に行き、あなた方と一緒に元気づけられるように。
                       同15章30節~


 今までは守られてきたが、もしかしたら今回ばかりは途中で死んでしまうかもしれない。まだ顔を合わせたことない同信の仲間に、自分のための祈りを要請するほど彼は、覚悟していたのだろう。にもかかわらず、その後にローマに立ち寄り、しばらく憩った後にスペイン伝道に向けて送り出してほしいなどとぬかしている。何という剛胆なやつ、、、。意志の力、意欲が素晴らしいなぁと評価するのは完全に的外れだ。前向き思考などというものでは伺い知れないものが、彼を内側から突き動かしていたのだ。主の御心ならば、どんな障害があっても自分の働きが止められるなどとつゆほども思ってはいまい。

 私も、高速化した現代社会に逆行するような、自転車という道具を主に用いているものとして、いくぶん彼の旅の模様を想像することが出来る。思えば、今年の3月もテント、寝具、炊事道具一式をもって名古屋へ向けて約700㎞の旅に出たのだった。途中思いがけず東京で愉快な仲間達に出会い、旅はそこで終わってしまったわけだが、一歩一歩息を弾ませながらペダルを踏み込み、目的地へ向かっていたのだ。日本では、身の危険を感じると言うことはないが、トラックに引っかけられたとか交通事故の危険性は十分にあるし、すでに痛い思いもしている。
 私は、単に日常に埋もれ消えてゆくように見える情熱を呼び覚ますように非日常を求めて旅に出かけたわけだが、士官候補生(神学生)という不自由な立場にいるにもかかわらず、知り合ったばかりの私たちのために飛んできてくれた友の熱い思いに、この男の情熱を重ねて私は感じ入っていたのだった。最後に、リビングライフ一節の黙想で締めくくろう。


 ローマ15:28~29  福音は既得権に安住することを願いません。私たちは苦労した代価として実を食べるのではありません。最初に戻り、再び始めて下さい。これが福音の開拓精神です。福音を握った人は、他の人が築き上げたものの上に座りません。新しく始めるのです。福音を握った人は、地の果てにひとりのたましいがいるなら、諦めず、そこまで行きます。彼らに、イエス・キリストの救いの福音を伝えることが、まさに福音の力です。
                    ハ・ヨンジョ/韓国の牧師

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by dynabooksx | 2007-10-17 09:15 | 驚き、発見

 ここしばらく、『幸せな朝』を使って社員ミーティングの朝礼にて毎日5分ほどのメッセージをしている。1月から一年分の構成になっていて、後半ほどテーマがほり下がって行くように見えるので、救い主イエス・キリストの予備知識なしの大部分の社員達に分かりやすく語るのには工夫がいる。今日の箇所はこのような所だった。


10/16 聖さが最も大きな力です。
 あなたはどのような力を最も願いますか。あなたにはイエス・キリストの力がありますか。


人々は力を願います。ところで、何がちからでしょうか。
聖書は、罪のない聖さを指して力だと言っています。
聖さより、純潔より大きな力はありません。

 世の中で一番恐ろしい人は、お金があり権力のある人ではなく、きれいな人です。垢のついていない人、純粋な人、聖い人を見ると、襟を正さずにはいられません。その聖さから力が現れるからです。奪い取る人ではなく捨てる人を見ると、恐れを生じます。
 一番恐ろしい人は無所有を行う人です。

 イエスキリストは、徹底して所有から外れた生き方をされました。それにもかかわらず、完璧な力を所有しておられました。
 イエスは枕する所もなく生きられましたが、そのみことばの権威と力に、人々が驚き、悪霊も驚いて逃げていくみわざが起こりました。
 イエスこそ、まことの力を持った方です。
 私たちもイエスと共に歩めば、その力を所有できます。

★すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』(ルカ9:58)



 私は、この箇所を見たとき瞬間的に西郷隆盛の遺した言葉が浮かんできた。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末(しまつ)に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
                   『西郷南洲遺訓』より


 『生命と権勢への執着の無さ』が彼の生涯を貫く特徴で、万民が豊かに幸福になれる政治を実践するはずの明治政府で官職を得た官吏の多くが、国家の繁栄や庶民の暮らしの向上よりも自己の出世や蓄財に関心を持ち、その実、明治維新後に庶民からの徴税が緩やかにはならないことを批判し、また国防の要となる重化学工業を発展させる為に明治政府が推進した政官財の癒着構造に対しても批判的なスタンスを取っており、三井財閥や三菱財閥などの政商に近づいて巨富を得る政治家を非常に軽蔑していました。
 確かに権力を持つ側にとって、なにものを持ってもコントロールすることの出来ない西郷のような人物は、空恐ろしくあったでしょう。結果、中央勢力から抹殺されて行きましたが、現在においてもその無所有でこの世のものに支配されない精神(クリスチャンであれば神にのみ支配されるのだが、、)は輝きをもっています。

 と、この国にも過去にはこんな人物がいたのだよと絡めながら話すわけです。
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by dynabooksx | 2007-10-16 08:34 | お仕事

間引き菜のおひたし

 真也君と私の畑は、今 小松菜、聖護院かぶ、ほうれん草を栽培しています。
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 本当はこんなに種をまきすぎてはいけないのですが、種をまくと芽が出てくるというのが面白い!
ある程度成長させて、間引きした菜をおひたしにして食べたくて、わざとごちゃごちゃさせています。

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柔らかくて苦みがなくとても食べやすいです。
歳と共に緑の菜っ葉類を身体が喜び、何よりも美味しく頂いている私たち夫婦です。

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a0023043_1941361.jpg鉢植えでもこんな風に成長しています。
成長と共に間引きしながら、おひたしにしながら、大きく育てていく予定です。
今日の夕ご飯は、廣田家の畑でとれた(野菜作り名人のお義母さんが育てている)

a0023043_194413.jpg「人参」「ジャガイモ」「タマネギ」「長ネギ」(真也君がまだ風邪気味なので粘膜に良い作用をするという長ネギを入れました)でホワイトシチューを作りました。
 今日も自然の恵みを頂きつつ、日ごとの糧を満たして下さる神様に感謝しつつ。。。
 
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by dynabooksx | 2007-10-15 19:00 | 愛理の子育て日記

聖書の研究

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 今月初めに東京に行った際、これまで使っていた薄型の聖書から新しく幾分大きめの聖書を新しく買ってきた。いくら持ち運びに適しているとはいっても、小型のものでは大量の書き込みに耐え得ないからである。現在、パウロ書簡を中心に解析を進めている。

 用いているのは主に、新共同訳を中心として、岩波訳、フランシスコ会訳、柳生訳、現代訳の5つ、しばらくは、これらを統合する作業をすることになるだろう。それにしても膨大な時間がかかる。(とは言っても一日6、7時間投入すれば、新約は半年あれば大体行けるであろうが、、、) 通常の一章分平気で2,3時間はかかる。没頭すると今何でだったが忘れてしまうほどだ。
 この作業を通して、2つのことに気づいた。一つは、私の知的能力がよみがえってゆくこと。完全に電子化していた私の指先が、細かい文字を書くことによって新たなセンスを持って行くのがわかる。私の学問的能力は全てここに投入するために神が用意されていたのだと思う次第である。
 もう一つは、多数の聖書を比較検討する中で、私の愛する小グループでの学び(聖句の相互検討)と同等の効果が、この作業で得られるのだと認識するに至った。それぞれの訳者が言語が違う書物、しかも二千年(通常話し言葉は200年で通じなくなると言われる)も前に書かれた古典を、それぞれの角度から解する。それらに一つ一つ耳を傾けながら、違いを検討し統合していくのだ。何と楽しい作業なのだろうか。没頭すると、あたかもそこに訳者がいるような感覚になってくる。知らず知らずのうちに声を出して話しかけていたりする。(これを見た人は大変奇妙に写るだろう)

 朝晩と、ここもずいぶん冷え込むようになってきた。集中するため身体が冷え切ってしまっているのにも気づかなかったようだ。ここ一週間は風邪で苦しんだ。皆さんも冷えには気をつけましょう。
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by dynabooksx | 2007-10-15 06:56 | 真也の視点

 今日は子ども三人を連れてはじめて常磐線の各駅電車(四両編成)で「いわき」までお買い物に行きました。「いわき」と言えば、真也君の母校「磐城高校」。この駅から歩いて行くことができます。
 うちから「いわき」までの距離は、私が住んでいた東京都の杉並区から横須賀ぐらいまであるようです。東京ー横須賀間には、数え切れないほどの駅数があるのですごい距離感なのですが、常磐線では駅の数は、「いわき」まで5本の指で数えられてしまうので、さほど遠いという感じがしません。。。?
(真也君は用事があり、具合も悪かったので別行動。でも楽しんだようです。)
スーパーひたちは、何回も乗ったことがあるのですが、田舎に来て6年目、はじめてローカル線の旅でした。このところ土日は予定が入り、普段の日は子育てやその他で忙しくしており、息抜きに磐梯山の方でキャンプでもしようかという話しもあったのですが、色々あっておじゃんに。
 東京にいるとき息抜きしたいときは、すぐに地下鉄丸ノ内線に乗って、新宿だの青山、東京、銀座と歩いていました。この田舎は住むのには最高!子育てするのも最高!ですが、東京育ちの私には時々都会の雑踏が恋しくなってしまうんですね。
 しかし、最近は東京、名古屋の巨大都市も、電車から降りた瞬間空気が汚くて苦しい気がして、人もビルも車もあまりにも多すぎ目は疲れるし、田舎では元気過ぎてはじけている光希もすぐに具合が悪くなるので大都会も少々居心地が悪いなあという感じがしています。
 「いわき」駅は、うちの町からローカル線に乗り南へ約一時間。向こうに山々が見えつつほどほどに栄えている街。私にはとても優しい街でした。いつもは車で来ていますが、電車で来ると気分が全然違って、楽しい~。新しいことをするのって楽しいですね。「お母さん、ワクワクするね!」と電車の中で光希が言い「うんうん、楽しいね~電車!」と会話が弾み♪
 電車の中で、まわりにからんでいる酔っぱらいのおじさんの様子を見て「あんなバカなことしたらだめなんだよね」と普段できない人間観察から社会勉強ができたり、ローカル線のゆったりと流れる時間を満喫したり。今日は久しぶりに息抜きしてスッキリしました。皆さんもストレスと上手にお付き合いして下さい♪
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by dynabooksx | 2007-10-14 19:28 | 愛理の子育て日記

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。