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 私は毎日愛するスイカちゃんの世話をしている。この所好天が続いているので、成長が著しい。他の植物にも言えるだろうが、上手なスイカの育て方をご存じだろうか? スイカは根本からいくつか枝を分けるのだが、そのメインの枝を3本ほど残して後は止めてしまう。それぞれの枝からも次々とわき枝を伸ばすが、それらはすべて摘んでしまう。スイカの芽は力があれば一晩で30センチも伸びるので、毎日毎日一つの苗から3~5つほど摘むので、毎日全部で50以上芽を掻いている事になる。知らない人が見たらせっかく伸びていってるのになんてもったいないことをするのかと思うかもしれない。
 しかし、この作業には大きな意味があるのだ。芽を摘まなければ四方八方に枝を伸ばし大きく育つだろう。しかしそれだけでは、たくさん収穫して皆でスイカ割りをするという本来の目的を果たせないのだ。めいっぱい体を大きくした方が良い実を結びそうだが、不思議なことだ。

随分前だがブルース・ウィルキンソンのヴァインの祝福という本を読んだのを 思い出した。ヨハネによる福音書から、農夫と葡萄の木とその枝の関係について述べた本だ。ヨハネによる福音書15章を引用しよう。


1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 6人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 8あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。ヨハネによる福音書15章


 イエス様は、しばしば植物の様子をもって私達の関係を語っている。農夫とは父なる神葡萄の木とはイエス様自身のことで、実を付ける枝が私達のことだと語っている。枝の一つ一つか一人一人だとも言えるが、枝全体が一人の人間と読むことも可能だろう。ヴァインの祝福によると、農夫である神は良い実を結ばせるために、無駄な枝を刈り落とし、実に養分が集中するように手入れするというのだ。きっと実のなる植物を育てた事のある人なら分かるだろう。一方枝にとっては、せっかく自分の伸びたい方に育っていくのにそこで落とされてしまうのは大変苦しいことだ。枝にとってはそうなのだが、農夫はどのようにしたら良い実を結ぶのかを知っている。

 私自身のこれまでを振り返ってみると、見事に刈り込まれてきたと言わざるを得ない。もともとあらゆるものに興味を伸ばしていくのだが、大事なところでばっさりと大きな枝を落とされたことが何度もあった。時には、日常生活が難しいぐらいに刈り込まれる事もあった。喜んでやっていたはずのことがいつの間にか興味を失い、力を入れてしていたことが、困難によって希望がなくなる。いったいこれから何によって、そして何のために生きてゆくのか強く問われる出来事でした。今になれば私にとってそれは欠くことのできないプロセスだったことが分かります。それがなければ、無駄な枝や葉を茂らすだけで本来の目的を発見しないまま私の人生は終わっていたことでしょう。
 その時々は、うめくようなつらい思いをしましたが、今は、ここに至るために農夫が私の人生に初めから計画を持っていたのだということが分かります。私の人生が、単に自分の人生を楽しむだけではなく、後の人のための実を結ぶためにあったのだと知ったとき、大きな喜びを知りました。人は、自分の人生の目的が自分自身のためではなく、他の人のためにあることを知るとき、確かな使命感と存在意義を確認します。

 熱帯のとある植物は、実を成さないとき刃物で幹に傷をつけるとあわてて実を付けるものがあると聞きます。人生の障害は本人にとってはつらいものでありますが、そんなことでもないと私のような鈍感なものは、自分の葉を伸ばすばかりで実を結ぶ事を忘れてしまうのでしょう。出来れば、これ以上つらい刈り込みはしないでほしいと思う一方、滅びに至る枝は大きくなって痛みが大きくならないうちに早く切り取ってほしいと勝手なことを思います。これはダメだといわれた時にいち早く悔い改めて楽になる、そんな柔軟な心を持ち続けたいです。私には分からなくても、農夫である神は最善の方法でもって育ててくださり永遠の命の実を実らせてくださるでしょう。
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by dynabooksx | 2007-06-20 17:33 | 真也の視点

がに がに

 次男の知希を幼稚園に迎えに行きそのまま海へ直行!
テトラポットの裏側で横歩きしている生き物を捕まえに行きました。
昨日も来たのですが、容器がなく、途中で何匹も逃がしてしまい、知希がべそかき。。。
 母は、息子の為に紫外線バシバシの下で、汗だくになりながら
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 大小6匹のカニをゲット!カニカニは、水槽の中でブクブク。。。
 次男の満足顔にホッ。。。。
by dynabooksx | 2007-06-19 17:19 | 愛理の子育て日記

         太陽の日差しをいっぱいに受けてすいかが大きくなっています。
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                  今年は大収穫の予感。。。
         家族、友人、親戚、会社の人達と美味しく食べる日を夢にみつつ。。。
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by dynabooksx | 2007-06-19 09:18 | 愛理の子育て日記

祝福の側にいる祝福

 このところ、聖書に没頭しているのでついつい体を動かすことを忘れてしまい体調が崩れがちになり、脇腹にも肉が戻ってきた。これはいかんと、夜に時間を作って真っ暗な農道をしばらく走ってくる。ただ走るのはもったいないので、ケセン語訳のヨハネ便り(ヨハネ伝)を聞きながら走っている。時折感動して泣き笑いになるが夜ならば怪しまれることもないだろう。昨日はふとこの箇所が気になった。

6イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 7もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。 8ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。 9イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 10わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。 11わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。 ヨハネによる福音書14章


 使いたかったのは最後の一行だけだったのですが、つながりが分からなくなるので少し前から載せました。ケセン語訳とは言い回しが随分違うのですが、もしイエス様自身が神ご自身であることを信じられないならば、その行ったことを見なさいというところです。弟子達それぞれの理解の程度は異なっていたでしょうが、イエス様が神ご自身の性質を持っている神の子である事を長く共に暮らしていてもピリポは十分に認識していませんでした。ここでイエス様はご自身がどういう存在であるかを話します。ここは、前回の記事で引用したとおりです。そしてもし、それが信じられないならばそこで起こる事自体を見ることによって受け入れなさいと助言されました。

 信仰者が信頼と服従によってキリストと共に歩むとき、様々なことが起きます。物事に意欲をなくしていたものが立ち上がり、不満ばかりを抱えていたものが感謝にあふれるようになり、困難にぶち当たりふさぎ込んでいたものが恐れから解放され、堂々と歩き出すようになります。それを、周りの人々が目撃するときその人自体はキリストを受け入れたのではないとしても、キリストがそこで行う業を見ることになります。そう、人間の努力によってでは到底超えられない壁を越えてゆくのを見るとき、キリストが今の時代も生きているのを見るのです。その出来事を冷静に見ていくとき、その人の内にそれまでとは違う新しい命が働いていることに気付きます。こうしてそこに居合わせた人も、キリストこそが神であり救い主であることを知り、その影響はさらに伝播していく。

 一人の人が神に出会っていくその側にいることが出来た人は幸いです。私達クリスチャンはもし、自分自身が神に信頼をすることが出来ないとしても、信仰者の側にいることは大きな助けになります。それが教会なのだと思います。私自身の過去を考えてみても、大変だったときにこそ信頼できる信仰者が側にいてくれました。誰もいないと思ったときには、イエス様自身がいてくれていたことが今は分かります。
 自分は暗闇の中にいると感じている方、もうすでにこの世はキリストによって救いが完成され光の時代に入っています。しかし、依然として闇の中にいることを好む勢力が同時に存在します。キリスト教会の中であっても、いまだに暗闇の中で自らの罪が光にさらされる事を好まない勢力があることでしょう。光は確かにすぐ側にあります。あなたの心にも光の中に入ることを妨げようとする力があるはずです。その力に、自分で立ち向かうことは無謀なことです。イエス様が救い主であることを受け入れられなくても、彼が十字架で成した事を見つめて下さい。罰を受けそこに架からなくてはならないのは私達でした。彼がその責めを替わりに受けて下さったのです。ですから、この事実を受け入れる人は、自己の存在に不安を覚えることはありません。もう罪によって滅ぼされることはありません。受け入れた瞬間、心に平安が訪れ、創り主との関係を回復していく事によって、あふれる命を受けるようになるのです。
by dynabooksx | 2007-06-18 20:39 | 真也の視点

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 今日は、天気が良かったせいか、なぜかいつもよりさらに早くちょうど4時に起きてしまいました。ふと家の前を見ると素晴らしい風景が広がっていました。朝日が斜めから射す中で、随分成長した柔らかなみどりの絨毯である稲の田が、風で揺れていたのです。これは、実物を見ないと分からないと思いますが、朝の陰影が強いところを風が吹き抜けていったのです。この瞬間ピーンと来ました。

 柔らかい稲の上を、風が抜けていくと、そこの風の動きが手に取るように分かります。まるで生きているかのように、ときには素早く、ときには渦をまいて流れていきます。通常風は、音で確かめられても動きまでは知ることが出来ません。私にはこの風が創り主が送る聖霊の風のように思い、柔らかい稲の絨毯が私達の霊的な内面のように思えたのです。柔らかな穂先によって柔軟に風を感じてゆくとき、外から見てもそこに何らかの働きがあることが分かるでしょう。そしてその動きが一人でなく多数の連携した動きであればよりそれが何であるかが立体的に見えてくるでしょう。それが、少し前に書いたネットワーク伝道であるのだと思います。もっと力を抜いて風を感じたいと思いました。
by dynabooksx | 2007-06-16 05:57 | 真也の雑記帳

  つい昨日、何かのことで妻と話をしていたところ、結婚当初(7年も前です)に私が話したことを彼女が覚えていました。以下はその会話です、、。


愛理:二人でずっと長生きしたいね

真也:いや、俺は長生きしたくねぇ。俺は早く御国(天国のこと)に行きたいんだ。

愛理:、、無言、、、。


 みなさん、この会話の意味が分かりますか? とんでもない男を夫に持ったと思うでしょう? この時、私が特に人生を悲観していたわけではありません。実は今も同じ気持ちなのです。
 『私達の国籍は天国にある』とクリスチャンの墓石にはよく刻まれています。私達クリスチャンは地上にいても圧倒的なめぐみを体験しますが、同時に朽ちる肉体を持ち、それによって様々な制約を受けます。せいぜい肉体の命は持っても120年です。しかし、私達は霊の命がそれで終わるとは考えておりません。今のこの科学の時代にあってなんてアホな事を信じているのかと思うでしょう? そうです。アホなんです。こんな事を馬鹿正直に信じている、それがクリスチャンです。ここで聖書から一句


25イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 26また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 ヨハネによる福音書11章25節

 愛する弟を数日前になくした姉妹が、悲しみの中でイエス様とする会話の場面です。死んでも生きる、、、。こんな日本語あり得ませんねぇ。原語を忠実に訳すとこうなるのでしょうが、死ぬのに生きるこんなわけはありません。注釈が入らないとわけが分かりませんが、この文章は、この『命』は肉体の事を言っているのではなく、霊的な命だという前提で書かれています。文字通り、死から甦り、命の源であるキリストを信じる者はたとえ肉体が滅んでも存続する事を示しています。後半の『いつまでも死なない』も同じ意です。
 何かと、老後のこれからのことをあれこれ心配する母などには、私はこう言います。『この世での残り短い歩みの事を気にするより、死んだ後の事を真剣に考えなさい』と、、、、。

 いずれ滅びていく体が、いつか消えてなくなるこの世に属しているように、永遠の命を持つ私達の霊は、天の御国に属します。私達の本体が、肉体にあるのではなくむしろ神に息を吹き入れられた霊の方にあることを知っていくとき、自ずと故郷を求めるようになっていきます。この世に生がある限り、主がそこに私を置いている使命を全うしたいと思いますが、いつ天に引き上げられても良い、むしろ早く引き上げてほしいそういった心境で生きています。キリストが再びこの世に来て私達を天に引き上げるという再臨の信仰です。別な言い方でいうとこのようにもいえるでしょう。

死に場所を探している、、、


これも、私が二十歳頃からよく言っていた言葉です。自殺しようとしているなどという、否定的な意味ではありません。この世で生きることにおいて、一生涯を捧げる死に場所を探しているという意味です。これも、クリスチャンの知り合いであっても、『ええっ、あなた何言っているの?いやだわぁ』と敬遠されたりなかなか理解してもらえませんでした。

 妻からの昔話を聞いて、天国に希望を置く、変わらぬ思いをあらためて考えさせられました。私も30歳になり人生の三分の一を過ぎたでしょう。一つの区切りを迎えたように思いますが、次はどんな未来が見えてくるのでしょう。御国に行くその日まで、キリストの弟子として使われまくりたいと思う今日この頃です。
by dynabooksx | 2007-06-15 21:15 | 真也の視点

ジャムジャム

  お隣から「リサ」という木の実を頂きました。可愛い名前でしょう♪a0023043_15581934.jpg
 昨年は10コほどしかならなかった実が今年は豊作だったそうです。
 いつものように耐熱容器に適量の砂糖そして「リサ」を入れて、レンジで3分。種と皮はこします。
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              もう一度レンジで3分ほど加熱して出来上がり♪



ジャムにすると少なくなっちゃったけど




甘酸っぱくて、美しい紅のジャムになりました。食パン何枚も食べちゃいそう。。。。。
                                          太るよ~(天の声)
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by dynabooksx | 2007-06-14 16:03 | 愛理の子育て日記

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ヨハネによる福音書15章

 この箇所は、ヨハネによる福音書の中でも特に好きな箇所であり、私達の信仰生活の本質を現している箇所だと思うところです。この15章全体ではイエス様がご自身を葡萄の木にたとえ、人々をその枝に喩え、どのようにして実を結ぶようになっていくかが語られています。引用した箇所のすぐ側でも同じような言い回しがいくつか見受けられますが、この箇所はその中心に位置する言葉だと考えています。

 後半を見ましょう。『なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられる』とあります。他の福音書でも同じような表現がいくつもあります。この箇所をもっとわかりやすく言い替えると『あなたが望むものすべてを与えよう』という意味です。教会に通われている方であれば、あれ?ちょっとそれはおかしいのでは?とおもいませんでしたか。何でも神様に願って良いのだけれども、すべてがかなうわけではないよ! 神様の御心にかなうことがなるんだよ!! と忠告してくれるかもしれません。
 では、この御言葉が間違いだったということでしょうか? それとも私の理解が間違っているでしょうか? わたしは、そのどちらだとも思いません。この御言葉が真理(本当のこと)であることを確信しています。願うことすべてがかなうなんてそんなことあるわけないでしょう? 真也君、また頭が少しおかしくなったのねと言われそうです。それは、私も認めています。

 まぁ、冗談はいいとして、ここで重要になるのは前段である『わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば』という所です。その前にも、前文脈からの続きで『あなたがたがわたしにつながっており』と書かれていますが、この二つは並列な意味で並べられています。つまり両者は同じ意味だと言うことです。キリストに繋がっているということはつまり、キリストの言葉がその人の内に留まっているということだと述べているのです。その状態にあるならば、あなた方の願うことはなんでもかなえられますよというのです。

 どうですか? 聖書の言葉(イエス様の言った言葉)を読んでみたくなってきたでしょう? 願うことすべてかなっていくんですよ!! でも、長く教会に通い信仰生活を送った人でも、そんな都合の良いことがあるわけはないと言われるかもしれません。それでは、ロジックをもう一段深めます。

 キリストの言葉か私達の内に留まるという事、キリストの言葉とはいったい何を示すのでしょうか? 同福音書12章を引用します。

49わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。 50わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。 同12章

 私とはキリストご自身のことです。父とは創り主なる神のことで、キリストが語る言葉は父が語ったことをそのまま述べている、すなわち『創り主の言葉=キリストの言葉』ということになります。このイエスの言葉(思い)の100パーセントが創り主からのものであるというのがイエス神性論の根拠でもあります。創り主の言葉とは、創世記にあるようにすべての空間、すべてのものを作り出し、また保持している力そのものです。その言葉によってならないものは一つもありません。

 次にその言葉が私達の内に留まるとはどういう事でしょうか? 『留まる』という事は、一度入ったら消えてゆかないという事です。クリスチャンの多くの人は日曜日に教会に行き、牧師先生のメッセージを聞くことと思います。通常ここで、聖書の言葉の解説を聞きますが、一度それを受け取っても話を聞いた直後、または翌日にいったいそれが何であったかを忘れることがあるでしょう。牧師のメッセージが常にキリストの思いを適切に語っているかどうかは別にして、留まるとはこのような状態ではありません。
 その人の内に、御言葉が入り消えてゆかないということは、その言葉が真理であり確信であり、その人の内の生き方の土台となるということです。いったんこうなってしまうとその人は、元の状態に戻ることが出来なくなります。それをなくしてしまうと、土台自体がなくなってしまい、生きる意味も意欲もまったくなくなってしまうからです。一度それを深く知ってしまった人は、中毒患者のようにそれなしには生きていけなくなっていきます。私も相当な重症患者です。

 キリストの言葉が私達の内に留まるとき、私達は父なる神、創造主なる神の思いを知っていきます。こうして創り主の思いと一致していくのです。私達はキリストではないので100パーセント神の思いと一致するということはないかもしれません。しかし、御言葉が私達の内側に入り、聖霊によって理解が与えられるときに、私達の内にじっとしていることの出来ない神の熱い思いが流れ込んできます。そして、奥深い神の計画が必ず成っていくことを確信します。その人の心の願いが全能なる神の願いと一致してゆくとき、すべての願いは実現することを知るのです。
 創り主はあなたを愛しておられます。あなたの人生は大丈夫です。あなたの家庭は守られます。あなたの職場、学校は祝福され、日本は必ず主のめぐみを知ります。あなたはこのことを見るでしょう。
by dynabooksx | 2007-06-14 11:07 | 真也の視点

私の極小実験園より

            「教会」  福音の種まきによってみんな芽を出しました。
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みんなの祈りによって問題(真っ暗な土の中)を突き抜けて光へ向かっています。

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でも、問題を突き抜けられなかった芽は、土の中でしおれています。
カビが生えてしまった芽もあります。


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そして、窮屈そう。。。
一つ一つの芽にさらに成長するための土が、場所が必要そうだね


ほら♪自分の適所に植え替えられたら、すくすくと大きくなってる。。
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成長させて下さる方は、その芽がどこへ行けば良いのか教えてくれるんだね
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by dynabooksx | 2007-06-13 10:06 | 愛理の子育て日記

ネットワーク伝道

 『ネットワーク伝道』と聞いて何を想像されるでしょうか? 当然このブログもインターネットを介して通信されるものですから、そのことを言いたいのかと思われるかもしれません。それも確かにあるのですが、言いたい事の本質はそこにあるのではありません。

 先月、山形にある恵泉キリスト教会を訪れました。随分前から一度行ってみたいと思っていたのですが、それは以前そこの主任牧師とお会いしたときに語っていた言葉が私の心に深く残っていたからでした。

 1つは、自分のアイデンティティはキリストの弟子だという事にあること。キリストの弟子であるならば、自らの名前も苗字もいらないとまで彼は言いました。その目を輝かかしていう彼の言葉は私の心を深く捉えました。このことについては以前詳しく書いたのでこちらを見て下さい。

弟子化ということ
弟子化のつづき



 2つ目として、教会は教会を生み出してゆくとき最も輝いてゆくのだということ。また、その開拓教会の働きの主体は牧師でなく信徒が行っていくのだということ。そこで必要になってくるのが今回のテーマである『ネットワークによる開拓伝道』ということなのです。一つの教会が一つを生み出すのは確かに大変なことだ。しかしそこで出来た2つの教会が協力してもう一つを開拓するのだとしたら、随分違った事になる。数が増えれば増えるほど、リソースは増しより力強い働きが出来るようになる。牧師はその教会専属ではなく、それぞれの教会の連携を強化するためにあたりを飛び回るバルナバ牧師として働く。信徒が、仕事の都合等で引っ越してゆくとそこが新たな教会になっていき、それをネットワーク(互いの関係)によってサポートしていくというわけなのです。

 愛する救世軍の皆さん、鋭い人はすでにピーンと来たでしょう。これは、まさに本来の救世軍の組織体系です。救世軍の士官というのはまさにこのような働きであり、本来連隊長は最もそのことに特化した働きであります。ここ30年で20カ所近く開拓をしているその教会に、かつての救世軍を見た思いがしました。

 振り返って、では今、この地にいる私達が何が出来るのだろうと考えてみる。それが、小牧者伝道であり、ネットワーク伝道なのです。この地で福音が伝えられるために、教団が何であるか? 教派が何であるかがどれほどの意味を持つのだろうかと考えさせられます。もし、それが福音を伝えるために有効なものであれば喜んでそれを用いたい。しかし、この異教の田舎でそれがどれほどの効果を生むだろうか? 聡明な人ならすぐに気付くでしょう。
 現在、私に繋がる様々な福音伝道のためのリソースは、ブログを軸にして有機的に繋がれ、私を知りまた興味をもってくれる人はそこを訪れてくれます。私の会社の社員にしてもそうです。私の物の考え方や生き方とその背景を、直接または文章や映像を見ることによって客観的に受け取ることが出来る。私は、この地に神の恵みによる解放が訪れるために、私の財産、能力、時間、経験、人間関係を捧げたいと思う。ブログは、それを光の速度で伝達してくれる有用なメディアです。これを用いることのアイデアを与えてくれた妻と創り主へ感謝したいと思うのです。
by dynabooksx | 2007-06-12 08:40 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。