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カテゴリ:聖書の言葉( 75 )

天国の保証

私たちがいま住んでいる地上の家が取りこわされても〔すなわち、私たちが死んでこの肉体を離れても〕、天には新しい体、永遠に保証された家があります。それは、人の手ではなく、神の手でつくられた家です。 今のこの体は傷み衰えていますが、天で与えられる体を新しい着物のようにまとえる日を、首を長くして待っているのです。 それを着れば、体のない霊だけの状態でいることはないからです。 この地上の体のために嘆きやうめきがありますが、だからといって、死んで、体のない状態になりたいとは思いません。その新しい体を着たいと願うばかりです。そうすれば、この死ぬべき体が、永遠のいのちにのみ込まれてしまうからです。 これこそ、神様が私たちのために用意してくださったことであり、その保証として、御霊を遣わしてくださったのです。
コリント人への手紙Ⅱ 5:1‭-‬5 JCB
https://bible.com/bible/83/2co.5.1-5.JCB

〜〜〜

今回のお出かけ訪問での中心命題は『御霊』。聖霊、英語ではholy spilitですね。キリスト教では父、子、御霊と言われているところの、父なる万物の創造主から送られ、キリストイエスを駆動した目には見えない実働部隊です。様々な話をする中で、この御霊の実力が如何なるものであるのかということがやり取り中心になって行きました。

それで今回話しをした牧師さん夫婦と私とでは、丹念に見ていくと聖書の見え方も違っているということ。そしてその違いの決め手になっているのが、新約聖書のあちこちに出て来て何となく読み流しているこの『御霊』が鍵になっているようだと気が付いてくれました。

僕から見れば、そんなこと聖書を見てみれば当たり前のことだろうが、、、と感じることでも、長らく聖書とはこういった解釈で読みべきだというその人の手垢のついた理解が多数入ってしまうと、現代の学校教育のように頭が固くなってしまって真っ直ぐに真実を直視するということがし難くなってしまうようです。信じるなんて本当はごくごく単純で当たり前のことなんですけどね。

牧師さんみたいに、自分がよく分からない状態でなまじ人にあれこれ教えるような立場に立ってしまうと、語ったことに対する責任を感じて、更に自己正当化してしまうことによってより自分の感性を閉ざしてしまうという悪循環が起きてしまう。そうなると、心はどんどん暗くなって鬱的になってしまうわけです。

このメカニズムは宗教の世界の特異なものではなくて、あらゆる現代社会の人間組織に於いて共通のものです。だからこそ、何が真に確かなものなのか! 私達が本当に必要とするものは何なのか、私達を真に活かすものは何なのかということが大切になるんです。それをもたらす決定打がこの『御霊』なんですね。

この『御霊』は、上の本文でパウロが書いた御国(天国)の保証と書かれたり、天国の前味と呼ばれたりします。つまり、御霊を持つ者は天国を持つんです。だからその人が行くところに天国が展開されるんですね。イエスが『もはや御国が来た』と語ったのはこのことだったんです。

だから聖霊を持つ者が行くところ、その人が何をするとか何を語るのかということと関係無しに、大きな変化が起こるんです。何が本当のことなのかということが明らかになり、人々はその光を真っ直ぐに求めるようになる。そうやって人々の抱えている諸問題が解決していくんです。

御霊を持つ人は地上を天国のように歩むんです。そして天国を拡大して行く、、。そして、いずれその時、、が来ます。そのようにして密度高く燃焼する人生を私は愛するんですね。
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by dynabooksx | 2019-01-26 18:22 | 聖書の言葉

ヨセフ物語

昨日は、、昼間はキリスト教会で大学時代の20年来の友人とその家族にあった後、温泉でゆっくりしていた妻と子供のところへ行って自分もゆっくりしてから夜は地区の総会、新年会とつながった。最近けっこうちゃんと寝てますかね。やはり寝ないと結局身体の回復力を前借りするような格好になるので、続けるとあとでしっぺ返しが来ます。必要な時にある程度は言うことを聞いてほしいんですけどね。でも身体が休みたいと言うときに自分の方が折れてやるのも大事なことだと脳障害を負ってからそう思うようにもなりました。とにかく何をしても緊張というか精神的負荷がほとんど無くなってしまった。緊張感ゼロですかね。集中しようとしても長続きしませんのでね。それでよくこれだけの文章を書くなと思われるかもしれませんが、どんなに長いのでも1時間かかることはないですから、、。それに書き始めると出てくるものを垂れ流しにしているだけであとで書き直したり全く整形してませんから負担にならないわけです。スマホの予測変換が勝手に面白い文をつくったり時折楽しいことになりますけどね。

んで昨日は、久し振りにキリスト教会と呼ばれるところに出掛けて行って牧師さんのお話を聞いた。どういうわけかそういう記事をSNSの応答が大きいんですよね。何なんですかね。僕がそういうとこに行くのが珍しいのか、確かにあまり無いんですけれども、もしくは皆さんそういった所に潜在的な関心があるんですかね。

僕はね。キリスト教会に行くと、懐かしい〜という感覚を覚えると同時に、腰の落ち着きがどっかおかしいというか、俺の来る場所じゃあないなぁ〜という両方を感じるんです。それは昔も今も変わらないですけどね。今ではそれが何であるのか良くわかりますが、昔はなぜそう感じるのかが分からなかった。分からなかったのでそれなりに混乱したのですけれども、色々といい経験をさせてもらいました。

こんな感じですのでふらっとどこでも訪ねて行きますが、ずっとそこに掛かりっぱなしのようになる事はなかなかないでしょう。その辺りのことをもうちょっと掘り下げて書いてみようと思います。

もうこの前置きで長いですね。今回聞いたお話しは旧約聖書創世記37章のヨセフ物語。検索してみるとディズニーのアニメみたいなのにもなっているんですね。夢見る男としてね。有名な話しですから日本人だとしてもこのぐらいの事はリベラルアーツとして知っていなければこれからの社会では通用しないと思いますよ。(偉そうか、、、)

粗筋はこう。アブラハム、イサク、ヤコブと続いてきた一族の歴史はヤコブに後に12部族と呼ばれる12人の子供達に恵まれることになるのですが、一夫多妻ですから腹違いの兄弟がたくさんいるわけです。その中でヨセフというずいぶん下の方の弟が父親に溺愛、特別扱いされていて兄たちの反感を得ることになる。このヨセフという青年、よく夢を見る男なのですけれども、ある日兄たちがみな、自分に頭を下げに来るようになるという夢を見ることになります。それを見た彼は、ただでさえ反感をかっている兄たちに見たままをそっくり話してしまうんですね。天真爛漫、何も考えていないんです。自分が体験したあるがままを語っただけ。
それでどうなったかは言うまでもないでしょう。怒り狂った兄たちはヨセフを殺そうと画策します。荒野に連れ出して人知れず殺ってしまおうとするんです。だけれどもそれを忍びないと思った兄の一人が、直接手を下すのではなく穴に投げ落としておいたらいずれ死ぬのは明白だから、、と提案してあとでこっそり助けるつもりで作戦を練ります。

一度火が付いてしまった人の怒りって凄まじいんですね。行くところまで行かないとおさまらないんです。そうやって穴に投げ込まれたヨセフのところに、ちょうど隊商が通りかかって奴隷としてエジプトに連れて行ってしまうというお話し。周辺の話に興味を持ったかもしれませんがここで切りますので直接読んでくださいね。検索すればいくらでも出てきますから、、創世記37章かヨセフ物語で、、、。

それを元にした牧師さんのお話しでした。別に特別突飛な話はどこにもありませんでしたよ。ただちょっと気になるところはありまして、ヨセフは兄たちからも一人だけ孤立して孤独だったと言うんですよ。皆さんウンウンって聞いているんでしょうね。でも私にはそうは見えてこない。客観的に眺めれば確かにのけ者扱いのように見えますね。でもヨセフの内実はどうなのかということなんです。帰り際に挨拶して下さったので、『ヨセフは孤独では無かったと僕はそう思いますよ』と玄関先で言いましたが、『彼は周りの空気を読めない人だったのかもしれない』と牧師さんは返答してくれました。

僕のことですかね。(笑)それもちょっと違う気がするんですよね。ヨセフは空気を読めないのではなくて読む必要を感じていない。同じじゃないか!!と言われるかもしれませんが、彼の魂の置かれている現状が他の兄弟たちとは異なっているんです。ここで一気に分からなくなりますよね。それで見識が異なるわけです。

僕が見るにね。孤独で不足を感じていたというならば、それは兄弟達の方なんです。父の心子知らずで父の愛に飢えていたんですね。それで弟が可愛がられるのがどうしても許せなかった。それで結集するわけです。孤独だから群れるんですよ。そうでしょう?

それに対して、そうする必要をヨセフは感じていない。充分に満ち足りているんです。孤独じゃあ無いんですね。だから兄弟の心を逆撫でしてしまうようなことも平気でしてしまうんです。祝福を受ける、約束を受ける者の性質ってこういうものなんです。能天気で無防備。お人好しなので損得なんて考えないし、無警戒で牙を剥こうとする相手に近づいていく、、。んでガブッとヤラれるわけなんですね。

ああ、やっぱり!! と当然そうなるわけなんです。ヨセフはヨセフで奴隷として売り飛ばされていきますが、やっちまったお兄さんたちも大変ですよね。証拠隠滅するのに剥ぎ取ったヨセフの服に動物の血をつけて野獣に襲われて死んだみたいだよ! と親父のところへ持って行くんです。親父の哀しみと言ったらそれこそ目も当てられない。ずっとその後泣き続けて暮らします。ヨセフの内に特別な何かを見とっていたんでしょうね。助けようとしていた兄弟の一人も穴に戻ってみたらもはや弟の姿が無い。万事休すです。

それで売られたヨセフと残された家族はその後どうなって行くんでしょうね。えっ? それも書けって?? 自分で読みなよ。
by dynabooksx | 2019-01-21 09:12 | 聖書の言葉

あらためて昨日途中で帰ってきた仏教市民講座ですが、テキストの帯の裏側を見るとちょうど昨日やった所の文言がありましたね。

『この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない』

ふむふむ、、。すべては夢幻の如くなりと辞世の句を述べた誰かの心境と重なりますが、自分の寿命を終える時がもう直ぐそこまで来た時に、自分の人生を振り返って何を思いますかね。

古代イスラエル王国の栄華を極めた、ダビデの子ソロモンが晩年に書き遺したものを少々長いですが丸1章載せておきます。あなたの心に何が残るでしょうか。

〜引用開始〜

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。 わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。 曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。 わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。
伝道の書 1:1‭-‬18 口語訳
https://bible.com/bible/1820/ecc.1.1-18.口語訳
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by dynabooksx | 2018-12-18 08:24 | 聖書の言葉

「さて、過越しと除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかもしれない』と言っていた」(マルコ14:1、2)

 マルコ福音書第14章の背景は、イエスがエルサレムに入場して第4日目、ニサンの月(今でいう3,4月の頃)の13日という時。ニサンの月の10日というのが、マルコ第11章から始まっている。即ち受難週間といわれる時期で、キリストが十字架に向かって進みつつあるときである。

 過越しの祭というのは、ニサンの14日に始まり、午後に、パン種を除いたものを作り、午後には、羊を屠る。日が暮れて即ちユダヤでは日没から日没が一日だから15日の始めから12時間の間に過越しの食をとる。これが「過越しの祭」である。それから21日まで7日半という期間、除酵祭が続く。
であるからその間に、イエスは十字架にかけられたわけだが、祭司長、学者、長老たちがなんとかして、この新興宗教のイエスを、この民衆のデマゴーグ(扇動者)を、片付ける折もがなとねらっていたわけである。ユダヤ教の正統派がイエスを異端とし、イエスは彼らの「言い逆らいを受ける徴」であった。

 今でも正統信仰と自任する人たちが、ややもすると、本当は聖書の根源的現実を最もよく把握している人たちを排撃し、白眼視し、除け者にしようとする。いつの世にも預言者はその時代に容れられない。故里に貴ばれない、というわけだが、教会史をひもといても、先覚者、改革者たちは、殆どみな誤解されたり、認識されずに迫害を受けた。

 イエスはその最大の宗教改革者、人間革命者であった。全世界の歴史を二分した精神界の革命家である、ところがその当時において、イエスは大異端者で、磔殺の刑に処せられた。

 一般民衆は、イエスのめぐみにあずかっており、一応イエスの味方であるので、暗殺の実行が簡単にはできない。けれども結局、民衆は彼ら専門宗教家たちの扇動に乗っかって、イエスを十字架にかける手先になってしまった。

     小池辰雄著 「無者キリスト」より

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自らの既得権益を守らんとする宗教指導者、政治家達が、それまでの支配体制、秩序を覆さんと民衆の支持を受けるイエスを殺そうとする。自分が最後に世から抹殺されることを最初から予見しつつ、彼はその道を歩いた。彼の人生こそが道であり、真理であり、命なのだと信ずる者は、彼の通ったところをたどらざるを得ない。
by dynabooksx | 2013-11-07 10:43 | 聖書の言葉

棄身の魂

 ここに呼び集められた人々には、何かある一つの特徴がありはしないか。それは心砕ける質の人たちばかりであるようだ。少なくとも傲慢な人間はそこには居ないはずである。罪過を犯しても、心砕けて告白する魂ばかりであろう。

 さて、イエスのご利益にあずかったーイエスはご利益をしたのではないーと思っている大いなる群衆が、ぞろぞろイエスに随いてきた。するとイエスはこれを顧みて言い放った。

 「人もし私に来て、その父母、妻子、兄弟、姉妹、自分の生命までも憎まないなら、私の弟子となることはできない。またおのが十字架を背負って私に従う者でないなら、私の弟子となることができない」(ルカ14:26,27)

自分の肉親、自分自身をも憎むとは、捨身(すてみ)であるということである。ただこの棄身はどこに棄てたらいいのか。ありがたいことに、この身の棄てどころは、キリストの中なのである。キリストの中に投身すれば、もの凄い力が来る。棄てたと思ったら、力が来て、我ならぬ我が活動をする。人生の秘儀秘訣はただこの一点に焦点する。そしてキリストの中に己を捨てることが十字架を負うことの秘訣である。
十字架を負うといっても、上からの力が来なくて負えるものではないからである。みたまの主がわがうちに来て、白熱の生命に変質されるから、そこに力が湧くわけである。それでこそ荷いとか抱きとかいうことが出来るのである。イエスは神のみ霊の人、イエスは神の中にいつも自分を棄てていた。それで神が彼に充満していたから、

 「我と父とは一つである」
と告白できたのである。

 「我とキリストとは一つである」
と、み霊に在れば、言える。しかし、それはどこまでも恩寵による信仰の現実であって、なまの現実ではない。我らの一切にかかわらず、われらをどん底より愛してわれらを救わんがためにおのが生命を棄てたもうたイエスは、ご自身を、今も述べたように、神の中に棄てておられた。これをしも無的実存という。
イエスを私が無者という真骨頂はそこにある。しかも人に棄てられ、棄石となったイエスは全人類の隅の親石となり給うた。われらもキリストの中におのれを棄てて、キリストのふところに入り、キリスト御自身を喰い、キリストという「福音的饗宴」にあずかろう。そしてこの御馳走、永遠の生命を隣人に分かちつつ、新天新地の神の国の「子羊の婚宴」の饗宴にあずからんや!

   小池辰雄著 「無者キリスト」より

ルカによる福音書14章16~17節
by dynabooksx | 2013-11-04 06:27 | 聖書の言葉

信即行

あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。(レビ19:18)


 信仰一如は、どこにこれを体得する秘訣があるのか。それはレビ記19:18の
「私は主である」(原文「私はヤハウェ―[実存神]である)
の一言にかかっている。それは単なる付け足しの言ではなく、土台石の言である。原動力の言である。

「かく命ずる私はおまえの主である。信頼せよ、私が力を与えてやるから。おまえはできるぞ、させてやるぞ!」

という上からの力が我らの中に入ってくる力の言なのである。とかくプロテスタント信者が「聖言(みことば)」ということをいうけれども、ルターも「神の言」を強調したけれども(しかしルターはルター派の人たちよりもずっと聖言と聖霊を結びつけていたのではあるが)、もし神言を、み霊と共に現に受け取るのでなかったら、信仰は結局律法主義たるをまぬがれない。もちろんわれらの現実は信仰一如たることがむずかしいが、信仰一如の呼吸を身に体することが重要である。みたまが内住していると、たとい信と行の関係が跛行的であっても、信と行とが不可離の質ををもってくることはたしかである。みたまにあって、根源的に信即行の受け方をしない限り、福音は生きたものとならない。神の言が力とならない。

 キリストに「行え」と言われるとき、私たちはこれは律法の命令と解してはダメである。ところが福音書にたくさんでてくる、そういう命令または禁止的なキリストの言を福音として受けず、律法的にとっている読者が何と多いことだろう。キリストの「行え!」はただちに

「私が行わしてやる、私が力だから、私そのものをまず受けよ!」

とひびいてくる。そこがすなわちみ霊のキリストをうちに迎える事態なのである。そこに「行」が「信」と渾然融合する境地が開かれる。「信」そのものが、烈しい内的「行」として全身の投入、突入であり、行か信か、信か行か。信仰一如、無私無我。在るはただみ霊の主の御はたらき。これを無的実存とはいう。しかも、一人の僕(しもべ)。一人のはしためが、いとも人間らしく、心砕け、微笑をもって行ずるところの天的自然である。

       小池辰雄著 「無者キリスト」より
by dynabooksx | 2013-11-02 08:35 | 聖書の言葉

「身証」こそが問題

イエスにとっては、神学的、倫理的な言や、紙上の答案が問題なのではない。身をもって答える答案、身証こそが問題である。だからイエスは付け加えて、

「そのように実行しなさい。そしたらいのちが得られますぞ。」
とさとした。

キリスト者が、いかに聖書を研究し、これに通じ、すらすら答えられ、あるいは論文が書けようと、説教ができようと、それが満点であろうと、それで天国には入れない。天国の門は、神が生活を文字と判じて入れて下さる門である。万人共通の文字とは生活そのもののことである。その他の一切の資格はここでは通じない。
「いかに生きたか」は、もはや単なる信仰でもない。人間は何びともこれを判定することをゆるされない。ただ神の判断による。それがイエスがここで「行え」の一語で要求した内容である。「全生涯そのもので行ぜよ」という意である。イエスはあるときは、ただ「信ぜよ」(ヨハネ6:29)と言う。それも「全生涯そのもので信ぜよ」なのである。
この「全生涯」も、ある場合は一日であるかも知れない。否一瞬であるかも知れない。その一日、一瞬が全生涯をひっくりかえすような一日、一瞬であるならば。

「信ぜよ」も「行え」も同然なのである。それは信行不離、信行一如、信行一貫であるからなのである。いわゆる信仰と行為といって因果関係的に、二段がまえ的に考える消息ではない。

    小池辰雄著 「無者キリスト」より

http://bible.com/81/luk.10.25-37.ja1955
by dynabooksx | 2013-11-01 07:16 | 聖書の言葉

『十字架と無私』

「さいわいだ、たましいの貧しい人たちは、天国はその人たちのものだから」

とは、実にその言の奥に

「私の霊は無一物、何ものでもない、全く神のものだ。そしたら有難いことに、天の父が全く私を支配して下さっている。私はそんな天国になった」

という自身の体験の告白が秘められてあるのだ。「天国」という原語の「国」(バレイシア)「支配」を意味する語で、神意の支配するところが「天国」である。漢訳聖書には「虚心者福矣以天国乃其国也」とある。すなわち「虚心なる者は福なり、天国はすなわち其の国なるを以ってなり」とよむ。
霊の貧者を虚心なる者と訳した。虚心とは無私の謙虚な心ばせの意であるから、なかなかよい訳語だと思う。
とにかくこの山上の垂訓の第一言をイエスの告白と気がついたら、要するにイエスの言はすべてその本質においてイエスの告白であると実感するに至り、私はふしぎな力にうたれた。そして私はイエスの中に投げ身するより仕方がなくなった。「キリストに倣いて」ではなく、「キリストの中へ」という棄身の衝動にかられた。するとまたこの第一言はふしぎに次のようにひびいて来た。

「幸(しあわせ)だよ。おまえは、たましいが貧しくなったね。天国はお前にやるよ」

と。ああ何かをのぞもう! このイエスのみ言のほかに。
 私の投身したのは、キリストの聖言(みことば)の中に。それは「貧しさ」の極地なるキリストの実存の極みたる十字架の中への投身であった。キリストの中に入って、キリストの愛の十字架に十字架され、私がすっかり罪から解放され、「私」からすっかり脱落している無私、無我を体受したとき、何とそれは楽な、鴻毛よりも軽い、深山の霊気よりもすがすがしいたましいの誕生を見たことか。その十字架の無言の言で、「私」はすっとんでいることに気がついた。十字架という事実にまさるいかなる烈しい強い愛の言が天上天下いずこにあるか。行即言である。
事実をもって迫る無言の言、事実という言が人間のたましいを動かす。「十字架の言」とパウロがいったのはこのことである。

 私はキリストの十字架で、すっかり自分の霊が「無私」とされ、「貧しく」されているのを発見した! 私はもう何も憂えない。霊的傲慢やパリサイ的信仰や御利益や観念は、真にキリストにつく者の世界にはない。山上の大告白のこの第一言は、これらの逸脱や転倒や安易やズレに対する最大の否! である。イエスの全福音は実にこの第一言で喝破されている。キリストの福音は何だと問われるなら、私はイエスのこの第一言をもって答えるに躊躇しない。

「霊が貧しい」とは、私たちの霊がすっかりキリストの十字架で贖われ、砕かれている恩恵をうけとることをいう。そして「砕け」そのものを「貧しさ」そのものを「無」私そのものをわがたましいの姿となすことである。それは第一のアダム、旧き我の「死」の相である。

       小池辰雄  「無者キリスト」より
by dynabooksx | 2013-03-04 21:24 | 聖書の言葉

「神の国は近づけり」

洗礼のヨハネが先ずユダヤの荒野で、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ3:1)

と宣言した。今までの生活態度を転ぜよ、転向せよ、という積極的な勧めの言葉が、「悔い改めよ」(メタノエイテ)である。天国を迎える準備は心魂の転換である、というのである。
 ヨハネはたたみかけて烈しい言葉で、現在の生活態度を責めた。最後の預言者として烈しく審判の言を投げ、特に王ヘロデが弟ピリポの妻ヘロデヤを奪ったことを非として難じた。そのためにヨハネは捕えられ牢に投げ込まれた。

 この知らせに接するや、イエスはガリラヤに退いて深く祈り、故郷ナザレをあとにして、ガリラヤ湖の北辺のカペナウムを根拠と定めた。そしていよいよ伝道に立ち上がったのである。

 その第一声が洗礼のヨハネの悲願を受けて、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ4:17)
「時は満てり、神の国は近づけり。汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)

 時は満ちた、機は熟した。ユダヤ教がゆきづまったからである。神の国、すなわち神の威光と恩寵のあふるるところ。天国、すなわち神の意志が自由に体現されるところ。そういう天来の霊気が漂うときが、到来した。その何よりの証拠は、かく宣言するキリスト自身がそのような天国体であり給うところにある。

 ヨハネ福音書第一章にある如く、キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのものである。

 彼が「悔い改めよ」「回心せよ」というとき、それはおのれを問題とするな、人を問題とするな、右顧左眄はいらぬ、ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということである。

キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくことこそ肝腎である。キリストの言行は本体の現象面である。この現象面を媒体として本体を体受しないで何で「福音を信ずる」ということができるか。イエスのこの伝道の第一声はこのような気合で受けとめてかかることが大切なのである。

   小池 辰雄  「無者キリスト」より

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キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのもの
ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということ
キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくこと

文体もあるのだろうけれども、どこにも無駄がない。信じ受け入れた人にとっては当たり前の内容だけれども、それを体験したことのある人物が、どういうわけか現代のキリスト教会にはかなり少ないことがわかってきた。それで世の人々は戸惑いを憶えてしまう。イエスが感じたユダヤ教の行き詰まり、とはそのようなことだろう。
by dynabooksx | 2013-02-21 12:43 | 聖書の言葉

聖霊の火

『聖霊の火』

彼はまたこうも言った。

「私は火を地に投ぜんために来た。この火がすでに燃えた以上、私はまた何をか望もう。けれども私には受くべきバプテスマがある。それを成就するまでは、何と思い迫ることか。私が地に平和を与えんために来たと思うか。私はあなた方に言うが、そうではないのだ、反って分争である。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に分れ争うことになる」(ルカ12:49~53)

 火は何か。聖霊の火である。聖霊の火が点ると、生き方、考え方がちがってくるので、この世的な生き方の人々と分裂が生ずる。しかしこれも分裂のための分裂ではない。真の和合への分裂現象である。しかし、他の者たちがこの不滅の火を受けようとしないならやむを得ない。しかし聖霊は愛の火であるから、聖霊を受けた人は、愛をもって荷い、耐え、望んでゆくのが本当である。
キリストと共に十字架を負う光栄を賜る。聖霊の力はよろこんで十字架を負わしめ、天国をそこに現じつつ歩かせる。このような霊燈を万里のかなたまで運んで人々の胸に点火することが本当の伝道あって、「伝燈」と申したいくらいである。

     小池辰雄 無者キリストより
by dynabooksx | 2013-02-18 13:41 | 聖書の言葉

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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