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2013年 11月 02日 ( 1 )

信即行

あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。(レビ19:18)


 信仰一如は、どこにこれを体得する秘訣があるのか。それはレビ記19:18の
「私は主である」(原文「私はヤハウェ―[実存神]である)
の一言にかかっている。それは単なる付け足しの言ではなく、土台石の言である。原動力の言である。

「かく命ずる私はおまえの主である。信頼せよ、私が力を与えてやるから。おまえはできるぞ、させてやるぞ!」

という上からの力が我らの中に入ってくる力の言なのである。とかくプロテスタント信者が「聖言(みことば)」ということをいうけれども、ルターも「神の言」を強調したけれども(しかしルターはルター派の人たちよりもずっと聖言と聖霊を結びつけていたのではあるが)、もし神言を、み霊と共に現に受け取るのでなかったら、信仰は結局律法主義たるをまぬがれない。もちろんわれらの現実は信仰一如たることがむずかしいが、信仰一如の呼吸を身に体することが重要である。みたまが内住していると、たとい信と行の関係が跛行的であっても、信と行とが不可離の質ををもってくることはたしかである。みたまにあって、根源的に信即行の受け方をしない限り、福音は生きたものとならない。神の言が力とならない。

 キリストに「行え」と言われるとき、私たちはこれは律法の命令と解してはダメである。ところが福音書にたくさんでてくる、そういう命令または禁止的なキリストの言を福音として受けず、律法的にとっている読者が何と多いことだろう。キリストの「行え!」はただちに

「私が行わしてやる、私が力だから、私そのものをまず受けよ!」

とひびいてくる。そこがすなわちみ霊のキリストをうちに迎える事態なのである。そこに「行」が「信」と渾然融合する境地が開かれる。「信」そのものが、烈しい内的「行」として全身の投入、突入であり、行か信か、信か行か。信仰一如、無私無我。在るはただみ霊の主の御はたらき。これを無的実存とはいう。しかも、一人の僕(しもべ)。一人のはしためが、いとも人間らしく、心砕け、微笑をもって行ずるところの天的自然である。

       小池辰雄著 「無者キリスト」より
by dynabooksx | 2013-11-02 08:35 | 聖書の言葉

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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