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2007年 04月 26日 ( 1 )

私が与える水

イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 ヨハネによる福音書4章13節~

 聖書をお読みになったことがある人なら、誰でも知っている有名な箇所です。サマリアの女に、そこを通りかかったイエス様が霊的な水についての話をするところです。キリストとの対話の中で、彼女は自分自身の本当の渇きに気付き始め、それを本当に癒すことが出来る水を求めるようになる話です。素晴らしい話なのですが、みなさん違和感を覚えないでしょうか? 皆さんは私のように根性が曲がっていないので素直に物語を受け入れたかもしれません。実は私、この聖書の箇所がこれまでずっとひっかかっていました。なぜか? それはいつまでも、かわくことがないという所、別な訳だと再び渇くことがないとあります。クリスチャンのみなさん、これにピーンときますか? そのまま首を縦に振れないのが実情ではないでしょうか? 
 洗礼を受け(救世軍の場合は兵士入隊)教会の一員とはなったが、喜びがない。日曜日、感動するメッセージを聞いたが、月曜からの日常の生活に戻るとその感動がいったいなんだったのか分からなくなる。そのようなことありませんでしょうか。私自身、このことをずっと考えてきました。私は、造り主なる神を知り、罪から解放される十字架も知った。それなのに、依然として私の心の中には強い渇きがある。むしろ、自分自身の中の矛盾をより感じるようになり苦しみが増す。だからこそ、より神を求めるのだが、時折かるく、または完全に神の支配が感じられないようになることがある。確かに以前キリストに出会ったはずなのに、、、、。そのことを思うと、どうしてもこの聖書の箇所をアーメンということが出来ませんでした。

 しかし、信仰生活を初めて十数年、ここに来てこの箇所の持つ深い意味を見いだしつつあります。その理解をわかりやすくするために、一つの仮説を立てました。それは、聖霊の働き(造り主の思いの働き、イエスの思いの働き)が2種類あるのではないかということです。

 一つは、聖霊が外側から私達に働きかけるということ
 ある時、人は何とも言えない導きや、輝いているキリスト者に触れる事によって、神は存在し、また生きていると感じる事があります。ほとんどのクリスチャンは多かれ少なかれこの体験をしていると思います。

 二つめとして、聖霊が外側からではなくて、私達の内側に入り込むこと。
この場合、聖霊が、その人の中で完全に支配権をもち、行動原理の全てを支配し、あらゆる局面において神を認めざるを得なくなる。そう言った場合、その人は完全な神様依存症になり、そこから抜け出すことは出来ません。なぜなら、全ての行動の原動力をつかまれていますから、そこによらなくては生きていくこと自体が不可能になるからです。私も、ふと気付いてみると、相当重症な患者なようです。神以外の生き方で改めて身を立てていこうとしても、もうすでに手遅れなんですねぇ。他のことに喜び自体を感じないのです。相当激しいブドウの木の刈り込みを受けたようです。考えてみれば、出エジプトから続くイスラエル民族の歴史と同じように、それはそれは苦しい信仰の純化の歴史でしたもの、、、。
 聖霊が私のほぼ全てを手中に治めようとするとき、私の中にもう消えて渇いていくことのない泉があるのを見つけました。私をとらえて放さない水。決して乾ききる事のない泉、他者へ注ぎ出せば出すほどあふれてくる泉。そんな泉がわたしの宝です。
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by dynabooksx | 2007-04-26 11:33 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。