2009年 06月 05日
こんなに悲しみがあるのはなぜ、、、
後味の悪い、嫌な夢だった。起きてきて妻は私の顔を見るなり、どうした? 嫌な夢でもみたのか? と聞くのだった。その瞬間、目覚めて忘れかけていた夢が一瞬にして蘇った。
最近、様々な人にあって話をするにつけ、その悲しみが目につく。クールに切り分けているつもりが、いつの間にか私の心に少しずつ積もっていったのかもしれない。今、幸せかどうかは会えばだいたい分かる。苦しい立場におかれていても、お金がなくても目が生きている人は沢山いる。逆に、一見恵まれていて社会的に幸運のように見えても現実、砂漠の中で身を焼かれているように見える人もいる。
何が差をつけて見えさせているのだろうか。『 希望 』だろうか『 愛 』だろうか。私の視点から厳しく見るとすれば自業自得だろうがと切り捨てることも出来る。でも人は一見何の問題もないように思える小さな不誠実、魅力的に見える罪から心をむしばまれ、気づいたときには振り切ってそれを断ち切る体力、抵抗力を失ってしまう。聖書曰く『罪人はこれを救うことが出来ない』
聖書はすべての人を罪人(本来あるべき状態を外れた者)と捉えており、その罪人(人類)は自分で自分自身を救いあげることが出来ないのだと言う。まさにそうだろうと思えるような実例を最近目にしている。他人から見れば、なんと根本的でシンプルなことではないかと思えるようなそれがどうにもならず、どんな本人の努力も空振りに終わる。時間が経てば経つほど状況が悪化していくように見える。全力をだせば私にはそれを何とかすることは出来る、というのは大変な思い上がりで本気になればなるほどあざ笑われているようで、とても相手にならない。そんな、何らかの人格を持っていて、人を絶望に引き込んでいくような影のような存在。黒くうごめいていて、機会があれば身動きが取れない世界に引き込もうと手ぐすね引いているやっかいなやつが夢の中に投影されたのだと思う。
私は事前に察知しているが、それを知らせようとしてもその声は届かない、、。そんなもどかしさは今回初めて感じたのではない。そんな思いは、自分自身が被害を受ける以上に自分が大切だと思う人がねらわれていると思うと、心が苦しい。そんな恐ろしい存在がいるなんて単なる思いこみかもしれない。でも、歴史をひもといてみると、どの時代もそのような存在を時代時代の人々は感じ取っていたようだ。どこか外側にいると考えても、人の心の奥にいるといってもどちらでも良いだろうが、どうしようもない不完全な部分というか、弱く愚かな部分を人はもともと持って生まれているようです。
私は、といえばごく近くの目が届く範囲でそいつが悪さをしないように監視をしているので精一杯。なかなか狡猾なやつでこちらが、攻撃をやめて守りに入ろうとすると一気に攻勢を仕掛けてくるように見えることもある。戦いのやり方は心得ているつもりだが、私自身も弱さをもつ不完全な者なので謙虚さを失うと一気に足下をすくわれることもある。まぁ、それも次に体制を立て直すためのステップだったりするんだけどね。
いたずらに恐怖を煽るつもりはないのですが、こういう風な見方をして表現しないと、科学が発展し、人々の生活が豊かになるはずだったのに、こんなに悲しみが溢れていることの説明ができない。二千年も前に書かれ編集された古典なのに聖書はなんと深い洞察を持っているのだろうと、今更ながら驚かされる。日曜に教会に行かない不真面目なクリスチャンだが、聖書に対する興味はほっておいても高まるばかりだ。
ああ、そろそろクリスチャンの仲間とめいいっぱいくっちゃべりたくなってきたぁ~。再来週のつくば行きはちょうど良かったなぁ。だれか、相手してくれるかな?
by dynabooksx
| 2009-06-05 21:35
| 真也の視点