2007年 07月 02日
道、真理、命
私が大好きな箇所で、父に書を依頼し先日表具までしてもらった聖句です。長く聖書に触れたことがある人ならしっくり来るでしょうが、初めて見た人はなんてめちゃくちゃな事を言う人だと思うのではないでしょうか? 人が道路であるわけがないし、真理や命だという抽象的な概念と繋がれても、日本語的にどう見てもおかしい。私の愛用するケセン語聖書ではこうなる。
俺ァ、人ォ本当に幸せになるなり方ァ教える。
俺ァ、人ォ幸せに生ぎ生ぎ生がす。
使えない文字があるため、正確な表記ではないですが、これならしっくり来るのではないでしょうか? この部分の、原語での構文は『主語+エイミ(~である)+補語』という形で出来ている。補語に置かれた名詞は、存在するものという認識を持たず、単にその語の持つ概念が主語の属性であることをのみを示すというのが、ギリシャ語の性質なのでそれに従うと次のようになります。
『道』とは人を目的地まで導くものだという概念を持つ。目的地とはこの場合は人間の究極の幸せのことです。この概念が『わたし』という属性だというのなら、『わたしは人を本当の幸せに導く』というのが正しい訳になります。
『真理』とは『ある物事に対して例外なく当てはまり、それ以外には考えられないとされる知識や判断』(新明解国語辞典)のことで、この場合の『ある物事』とは『人を幸せにすること』と考えられるため、『わたしは人が本当に幸せになるなり方を教える』ということになる。
『命』とは『生かす力』だ。ただし、ただ生きていればいいというものではない。生きていても死んでいるような生き方ではなく、本当に人を活き活きと幸せに生かす力の事です。よって『わたしは人を幸せに活き活き生かす』というのがふさわしいわけです。
居間に掛けられているこの言葉を眺めながら、人の幸せとは何なのかを考える。かつてわたしの中に、私のアイデアや努力の延長に幸せを追い求めたが、私を心の底から満足させるものには出会えなかった。人の本当の幸せは、キリストのうちにあるという。この幸せをもっと深く味わいたい。そして大切な知人をみなその喜びの中に入れ、共に楽しみたいと願うのだった。
by dynabooksx
| 2007-07-02 17:50
| 聖書の言葉