十字架を負う

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」マタイ 16:24

 私はものごごろがついてからずっと、この世で生きるがつらいと感じてきた。周りからも協調性がないとか不器用だと言われてきた。どうしてなのかと悩み、それを何とかしなければ悩み努力もしたが、どうにもならなかった。どうにもならなかったというのは、とてもそれが根深い問題、つまり私自身の核を形作っているものなので変えようがない。無理に変えると私が私でないようになってしまうからなのだった。
 それが今、主のご用のために身を捧げたいと改めて思う中で、過去のさまざまな出来事が一つの線に繋がっていたことに気付いた。キリストは、私のために、私を罪の抑圧から解放するために十字架にかかって下さった。それを少しずつ知っていく中で、小さいながらも自分の十字架を背負っていたのだと、、、、。

だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』 ルカ 11:49


聖書の福音を述べ伝えていく際、ある時、ある人に対しては熱狂的に受け入れられるものだが、同時に迫害を受け拒否され、その行き着くところ殺意を抱かれるほどになると聖書は言います。天の論理と地上の論理は交わることがないのだと、、、、。
 もう一度言いますが、私は小さいときから生きていくのが大変窮屈で苦しく感じていました。他の人は、もっと楽しく適応して生きているのにと、、(そう見えただけかもしれないが、、) 信仰を持ってから自分を造られた永遠の神がいる事を知り、自分の秘められた価値に気付いたのですが、それからの歩みも楽にはなりませんでした。
 田舎から出て来て期待していた教会生活も、息苦しく違和感を感じるものでした。私の足りなさ、未熟さ、知恵のなさも大いにありましたけれども御言葉を伝えようとする時、強い圧迫を受けました。こんなはずじゃなかったと、その後部屋に引きこもるようになりましたが、今はそれが神が私のために用意して下さった道、計画なのだと確信しています。その後も似たようなことを繰り返します。
 妻との結婚の際、彼女は自立の段階を迎えていました。信仰を自分で自覚し、手探りで歩み始める時期でした。そんな時、長く住んだ杉並を離れて私のところへ跳んできました。当然、急に教会から離れていった彼女を心配した親類や関係する方々からは、おしかりを受けました(励ましも受けましたが、、)なんせ、私自身が半引きこもりでして頼りない状況でしたが、これは彼女のために私が受けるべき責めなのだという思いがありました。これだけでは終わりません。
 福島に帰って来て、私は近くの教会の副牧師の先生と大変仲良くなりました。年も近かったこともあり、互いの信仰の歩みを共有し合い十字架掲げるということに共感することができる最高の友でした。(私は今でも友だと思っていますよ!!) しかし、ここでも圧迫にあいます。正確には彼がそこで受けていたものを共有したと言うべきでしょう。私は、彼が罪の呪縛から解放されて堂々と顔を上げて歩むようになってほしいと願うようになり、その後彼自身も周りからも明るくなったと評価されました。しかし結果として(今はまだ中間地点だが)わたしは危険視され、教会は私が遠くに出掛けている間に会議を開き全く私の弁明を聞かずに一方的に出入り禁止の決定を伝えたのでした。一言言わせてもらいますと、私は一般的に言われるところ大変失礼な奴であり思いやりのない者であります。私自身も半分はそう思います。妻にさえ『真也君は容赦ないから、、』と言われることがありますしね。関係者の方には大変不快な思いをさせてしまったであろう事をこの場をかりてお詫びします。でも、聞いて下さい。これが私なのです。こういう生き方をしてきたこれが私なのです。もしかしたらこれから先、私のこういったカミソリのような部分は影をひそめて行くかもしれませんがこの先、主のために用いられたいと思う中で『諸刃の剣である御言葉』で他人と自分の罪を切り分けて行くことがあるのは確実でしょう。できれば、さまざまな知恵や周りの人たちの助けをかりて穏やかに行きたいものだとも思っていますが、、、(だめだ、完全に親父になってしまった、、)
 きっと上記の出来事も、もっと時間が経てばその意味、結果がはっきりしてくると思います。3つの出来事を挙げましたが、共通しているのは私が苦しみを受けることと(苦しい思いをしたのは私だけではないし、本当に苦しんだのはイエス様だけどゴメン)、それによって抑圧から解放される人がいるということでした。(しつこいようだけど、未だに私に傷つけられて痛みを負っているという方もいますよね。気付く範囲で謝りに行きます。気付いていないようだったらメール下さい)
 もっと細かく挙げればもっとあるのでしょうけれども、これだけ繰り返せばもう分かったよという所です。負いますよ私の十字架を、一度は捨てた命ですから、、、。

 きっとこれからも、私の軽口で周りの人々を解放し、また傷つけていくでしょう。そして悔い改め許しを請うていく、そんな未来が見えてきました。それが私の十字架なのでしょう。もともとこれしかできないですし、、、。
 Y・Kさん、H・Nさん。あなた方、わたしと同じ臭いがしますねぇ。尊敬しています。週末会いましょう。
[PR]
by dynabooksx | 2007-04-10 07:06 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30