2004年 06月 12日
”ささげる”ということ
それは『めぐみ』です。”えっそれは正反対のものでしょ”と思いますか? ささげるとは犠牲であって自分の大切なものを奪い取られる事ではと、、、。聖書における”ささげる”は神に対してを意味します。でも一方で全てもの(私たち自身を含めて)は神から作られ、全て神のものである事になっていますから、なんだかおかしなことになります。神のものを神に返しているのです。そうです。これが『献げもの』です。そしてこの事こそがめぐみそのものになります。
ハイデルベルグ信仰問答というものにこのようなことが書いてあります。
問 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。
答 「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。
どうぞ何度か声に出して読んでみてください。心の底から温かいものがわいて来るのを感じませんか? 自分がいったい何なのか、いったい誰の物なのか、イエス・キリストのものであるというのが、唯一の生きる上での慰めだと作者は言うのです。私にとってもまさにこのことは、福音(良い知らせ)です。そして”ささげものをする”ことは、キリストのものであるということを、私たちの側から再確認することであると考えています。
私たちの持つものを意図的に神に返す行為によって、私たちの周りのもの(私自身も)は全て神のもの、神の支配の中にあったのだということを再び知るのです。ですから『献金』は私にとってまさに『めぐみ』なのです。
おととしの元旦にこのような一年にしたいと願ったのを覚えています。
『 感謝してささげるようになりたい!! 』
感謝してささげるためには自分の今あるもの、今の状況を神から与えられているものとして心から感謝することを要求されます。今を感謝できなくては、惜しくてささげる気にはならないからです。今を感謝するということは、自分が神のものであり、その確かな導きの中にいることを知ることによって生まれますから一言で言うと、神と共に歩む一年でありたいと願ったということになります。
聖書には、最大のささげものは私たち自身だと書いてあります。それはそのはずです。私たちは神の最高傑作なのだから、、、。そして私たちは『聖霊』(神の霊)の住む宮(家)だとも書いてあります。神の霊が私たちの内に住む事によって、私たちが神のものであることの意味合いはより強くなり、めぐみは増えていきます。ささげることはそれ自体が『喜び』なのです。
すこし、しつこいようですが書いてみました。
by dynabooksx
| 2004-06-12 20:42
| 真也の視点