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私の会社と社員達、そして教会のこと

よくよく思い返してみると、あの震災以降、落ち着いて会社のことを書いたことが一回もない。私の日常の非常に多くの部分を占めていた社員達との生活。それがあの日、一瞬にしてバラバラになり、消し飛んだ。震災直後、海岸線に住んでいる祖父と助けて戻った後、町の記録を撮るためにすぐまた出かけて言ったため、渋滞の中帰ってきた社員達には、その日、朝のミーティング以来、顔を会わせないまま別れ別れになることになった。

私が、実家の双葉町に帰ってから約10年、気が付くと引き継いだ会社は、いつの間にか教会のようになってしまっていた。というのも、様々な過程があったわけだが、私はクリスチャンとして困っている人を助けたいという思いは最初から持っていて、気が付くと様々な問題を抱えている者ばかり雇ってしまっていた。それで何とかしてそれぞれの生活を立て直したいと思うわけだが、問題が重ければ重いほど、つぼにはまっていてとても動けそうにないものばかりだ。それを見て、事務の手伝いに来てくれていた叔母さんは、『この会社はどうしてこんなに問題ばかり抱えている人ばかりなの??』と思わず口にしたほどだった。

世の中一歩踏み込んでみると、考えられないような不幸や不運に見舞われて身動きが出来なくなっている人がたくさんいる。ああ、それは仕方がないよぉというやつや、どうしてそこで、またそうしてしまうのかなぁ、という残念なものまで様々だ。しかし、人間どんな状況に置かれたとしても、そこで生きているのはその人自身だ。その人がそこでどのようにその問題を捉え、どのように解決していこうとするかを決断することで、変えていけるものなのだ。しかし、問題が問題として残り続けるということは、様々な制約のなかで閉じ込められているからこそ身動きができないのだ。

それには、どうしてもその人自身が変わる必要がある。その生き方でこだわろうとする限りは、常に同じ問題にぶつかり続けるからだ。力でそれを乗り越えられるのなら、とっくに解決しているであろう。出来ないから悩むのだ。であれば、生き方の方向を変えるしかあるまい。だが、自力でそんなことを器用に出来るほど人間は便利には出来ていないのだ。

だから、どうしたら根本的な解決をもたらすことが出来るだろうと考えていたところ、やはり私の短い人生の中で見当たるのは聖書しかないという結論に達したのだ。昨年の12月の終わりに、復活のイエスに出会うという大きな変化をもたらす体験をしていた私は、示されてくることを次々と実行していった。

まず、新年の仕事始めに於いてこのような話をした。

わが社の業務はサービス業である。サービス業に置いては顧客とのコミュニケーションが大変重要になる。顧客が何を考え、何を提供できるかを素早く掴むことが、質の高いサービスをもたらすことになるからだ。人との会話とは、通常少ない言葉のやり取りなのだが、その内容から、前後を予測したり、行間を読むことで相手を立体化させる。その能力が高ければ、仕事はぐっとし易くなる。そのための訓練をこれからしたいのだけれども、その教材として、何を使ってもよいのだが、私は『聖書』と用いたいのだ。聖書には聖書の書き手がある。書き手が何を伝えようとしているかを、考察し、予測することで、いい訓練になるはずだと、、、。

ちょうど知り合いから、聖句日めくりカレンダーを頂いていたので、それを使うことにした。毎日めくるその言葉は大変短く、それだけで判断するのは難しく、また危険なので、社員全員に聖書を配布した。

やり方は、まず一人が読み上げて、その内容について全員に意見させる。気づいたことでも、疑問に思った子とでも良い。具にもつかないことを言うと、何を言いたいんだ? と私に突っ込まれるので、社員は出社すると、すぐに聖書箇所を調べて必死に前後を読み込む。一人が疑問を提起すると、大抵そこに自分の考えを重ねてくる人物がいる。それは、いつもの仕事のチームワークもそうで、立案したりフォローしたりするのは大体タイプが決まっているからだ。そうして、勝手にやり取りが始まって、落ちついた頃に私がまとめて短くメッセージするのだ。

その繰り返しなのだが、通常キリスト教会であれば週一回の集まりであるが、会社の場合は5~6回だ。しかも活動を共にする共同体がある。不思議と、毎日の箇所が連動していき、一気にその議論の内容も深まって行く、この前やったあれとあれは同じことを言っているんじゃないのかとか、あそこでのこの語句と、ここでの使い方は違うようだとか、自ら発見をしていくのだ。

私は彼らと毎日行う、そのミーティングという名の礼拝が、一日に一番楽しみな時間だった。そこで何が出てくるのか予想がつかないからなのだ。そして彼らの内に真理が明らかになり、人格が造り替えられるため、それまで解決不能だと思われていた問題が、いつの間にか霧のように消えて行くのを見るときに、最も喜びを得るのは他でもない私であっただろう。


これは3月2日。何が出てくるのか分からない~肉からの自由~


震災によって、彼らと引き離された時、私にとって彼らが家族同然の位置を占めていたことをよくよく思い知らされた。わが社では、終末論的なことは、朝の挨拶のような感覚でいつも話し合われていたことだったので、社員達は、やはりその時が来たという感じで、あまり堪えていないのかもしれない。一番効いたのは私だったのかもしれない。だた、もう時間がないと切に迫られる中で、やれるだけのことは即やってきたという自負もあり、後悔はない。運良く生き残ってしまったので、後の残された人生を、与えられた目的のために使い燃焼させるだけだ。

社員には、よくこう話してものだ。『日常とは、何気ない毎日の単調な繰り返しのように見えるが、よく見てみると大きな変化がたくさんある。そして、本当に物事が動く時には凄まじい速度で動いて行く。だから毎日を一日一日大事に生きるんだぞ』と、、、、。

自分で話していながら、実際まさにその通りである。私自身も自分で語ってた内容が、何を指し示すものであるのかを明確に意識しないで話していて、時間が経ってビックリするということも多々あった。そのための記録としてこのブログは大いに役にたった。私個人としてのメモではなく、その時多くの人にそれを共有することが出来たからである。


今も社員の数人は私のブログをきっと見続けていてくれるだろう。いま私は、ここ東海に来てまた不思議な体験をしている。福島にいては、出会うことがなかったような人材とよく絡む。ああ、日本といえど広いんだなぁと感じ入る。単に場所が違うだけではなく、私がアクセスする場所とか感度とかも違ってきているからなのだろう。たった半年だが、もうかなり離れがたくなってきてしまっている。目標は、上から与えられている仕事をきっちりこなして、引退することだ。的を完全に捉えつつ、全力で走り抜けたいものだ。社員のみんなの上にも、私の上にあるものと同じ祝福が、いつも行く所を追いかけると信じる。そして許されるのであれば、また共に暮らそう。まず私が道を切り開くから、、、。悲嘆にくれている時間はない。引き続いて時が迫っている。これからはチャンスは一度だと思ったほうがいい。

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西浦海岸の夕日。こっちで知り合った家族とうちとでサイクリング。

by dynabooksx | 2011-11-15 00:02 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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