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福島県内のモニタリング履歴が出ています。

 福島県で提供している、各地のモニタリングデータが出ています。

http://www.pref.fukushima.jp/j/7houbu92.pdf

 表をずっと追っていって、3月15日の午後、凄まじい値が出てそのままゆっくり降下していくまで長い時間がかかっています。郡山はデータがありませんが、おそらくそれに遅れてなだらかに上がっていったとおもわれます。


 私たちの行動は、3月11日午後2時46分震度7弱の巨大地震、直後に海岸線近くに住む祖父を助けて、高台で津波を見た後、小学校のグランドにいる長男、次男を救出。
家を流された祖父、おじ、おばを含めて、家族皆で、母屋は、窓が割れたりして、心配だったので、同じ敷地内にある基礎工事を必要以上にした会社事務所に一泊。

 本当は、夜中に避難出発したかったが、
「みんなでここで過ごせる最後の夜になるかもしれない。。。」
とおもい、電車に乗っているように揺れる余震の中、でも、不思議と「守られている!」という確信のなか、寝たり、余震のたびに起きたりと過ごした。夜中には、普段交通量がほとんどない、田舎道をひっきりなしに避難する車の光が通って、みんなが町を出て行くのがわかった。
その裏、原発で格納容器の温度が上がっていることを町内放送され、これは最後まで行くなと直感した。

 翌日朝、情報収集に自転車で出かけ公衆電話から各地に無事を伝えている最中、10キロ圏避難の達しが出た。荷物は、大方、前日のうちに車に積み込んですぐに出発できる状態にしておいたので、すぐに出た。

道が渋滞しながらも、途中の電波の良いところでアップロードしながら、R114号線を進んだ。途中に津島(ダッシュ村のあるところ)や川俣の避難所に誘導されたが、それを振り切ってさらに逃げた。

12日の夜とは、うちの会社のお付き合いで古くから交流のある、福島の壱岐宅にお世話になる。
その夕方1号機爆発。壱岐宅前のアパートに全員で泊まる。

13日は、朝に限界になった親たちを岩手に送り出す。
しばらく福島市で篭城しようと、カワチストアに列を作って買出ししている途中店内のラジオで3号機が爆発したことを知った。しばらくうずくまって泣き崩れていたが、そんな惨事になったなど周辺の誰も気がついてはいなかった。(後にこれが水素爆発ではなく、核暴走だということが分かる)

14日の色々と資材をそろえる最中、はやく合流したいと願っていた田内家族と夜中に合流。

15日、0時30分。浪江在住で、自宅の車がガソリン不足で逃げ遅れて自宅にいたので、「うちの会社の車を使って逃げろ!」と促し、その車で家族を連れて福島市に避難していた社員が、突然電話をよこす。
「第一原発内に入っている知人から、もう持たないから出来るだけ遠くに逃げろとメールをもらったので、私はそれを信じて逃げます」 と、、、。夜中であってもどうしてもそれを伝えたかったようだ。せっかく合流して、震災後、初めて風呂にはいったのだから、少しだけでもゆっくりしようと、二人で祈って決めて、早朝出かけることに決めていたが、なぜか皆、きっかり3時に目が覚めた。妻は、夜中じゅう荷物を積み込んでいたが。
すぐに出発。朝5時に県内脱出。

 誰かに背中を押されているように怒涛のような流れだった。夜中に埼玉行きを突然兄に伝える時、メールで突然行くけれども、いま急に行くことになる理由は後でわかるからと、意味深な文章を打った。明るくなって少しやすんで、那須あたりを通過中に4号機爆発。

このデータを見ると、その日の午後に福島市は灰に包まれたことが分かる、、、。24μSV/hも出ていたとは、、。これは即座に地元住民に知らされたのか。翌日なのか翌々日なのか。なんという事なのか、、、。もっともこれよりおそらく倍以上の高線量を飯館の人々は浴びせられ続けたのだけれども、、。


こうやって、一つ一つゆっくりと追いかけてみると、昨日のようにあのときの事が思い出される。

福島市を出発する直前に書いた文章がこれでしたね。

生き残らなくてはならない使命と、福島を捨てていく思いと複雑な気持ちで、限界の疲労状態ながらも、高い意識状態ででこぼこになっている道を、時折飛び跳ねながら逃げ続けたのを覚えています。


 おかげで、俺たちはかなり初期被曝を抑えることが出来た。これからはこっちが色々させてもらう番だろう。福島の人たちに会いたい、、、。出来れば6月のグランフォンド福島で一緒に走りたいが、それまで福島市は今のままで放置されるのだろうか。いまさら避難区域にするとは考えにくいが、せめて子供達だけはいち早く避難させる仕組みを作ってくれ。政府の関係者みなさん、ここで決断しなかったら、あなた方は死ぬまで一生このことを悔い続けるでしょう。まだ遅くはない。こちら側まで来るか。会津、もしくは新潟方面に逃げてくれ。


*追記  
また、航空機からのモニタリングデータによる汚染度マップが出ましたね。まぁ、かなり早いうちに出来てたんでしょうけど、、、。こういうのを出してきたということは、更なる大規模な飛散が起こらないってふんでいるのでしょうかね。そう信じたいが、まったく楽観視できない。
福島県内のモニタリング履歴が出ています。_a0023043_7172583.jpg

この地図、分かりますか? 拡大されるとよく見えると思いますが、原発のすぐ側は隠されているとはいえ、わが家のある双葉町渋川の辺りだけすっぽり低汚染として抜け落ちています。
 
 まるで何かが見えない壁に、バリアに守られているように、、、。
隣の寺沢と鴻草は、私が実測したように、高濃度なのに不思議なことだ、、、。
おそらく、町の中も低濃度地帯があるはずです。また、ヒマワリを植えにに行く理由が出来たというものです。

 ああ、でも検問をかいくぐって、川内と富岡の間にある大倉山から原発を見下ろすツアーの自転車乗りのみんなでやろうと思っていたけど、おおある程度の汚染になっちまったんだな、、、。でも、現状を目視で見てみたいよなぁ。

チェルノブイリの避難ルールを基準にしたら、福島第一原発から80キロは希望すれば移住が認められる?!
by dynabooksx | 2011-05-07 01:37 | 地震、原発関連

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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