2011年 04月 13日
私は本当に回心したか
私もスイッチが入って来て、昨日は朝3時今日は午前1時に目が覚めた。完全に震災前の生活に戻りつつある。
さて、今朝は持参したトゥザーを久しぶりに読んだ。震災後初だ。
+++++引用開始+++++
4月13日 私は本当に回心したか?
魂を離れたからだが、死んだものであると同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。 ヤコブ2:26
私は、より深いキリスト者の生活と経験があると信じている。確かに! しかし、もし全体を完全に把握しないまま、不完全な形で得た不完全な救いに、より深い生活を加えようとするなら、間違っていると信じる。
フィニーやウェスレーのような人を通して行われた神の御霊の働きの下では、全存在を神に明け渡し、イエス•キリストを主として受け入れていない人が、集会の中で立ち上がって「私はキリスト者です」などと言うことはありえなかった。
今日私たちは、経験が不完全で不十分であっても、自分は救われていると人々が公言するのを許し、より深いキリスト者の生活を、将来五日付け加えることができると認めている。
私たちは、イエス•キリストに従う義務がないなどと本当に考えているのだろうか。
救いを求めて叫んだ瞬間から、私たちはこの方に服従する義務があったのである。もし服従しないならば、本当に回心したのかどうか疑問に思って当然である!
イエス•キリストを信じるとき、その人はいかなる条件もつけずに主イエス•キリストのすべてを信じていなければならないということに私は納得している!
+++++引用終わり+++++
回心とは心が回ると書くが、キリストとの交わりが及ぼす変化はその人のありようを上下逆転させる。つまり回転するのである。かつて私は、ある牧師がこのようにメッセージしていたのに噛み付いたことがあった。
「クリスチャンになるということは、特別な体験が無くても良いのだ」という意味の内容だ。
文脈を一部だけ切り出すのは卑怯なやり方かもしれないが、おそらくそれは、教会いで小さい時から育って来た青年達に向けて配慮した言葉だったように思う。
私が噛み付いた理由はこうだ。人が神に出会い、あり方を一変させる。それは、それまで自分のための自分の人生を生きていた者が、それを放棄してキリストに服従する人生に入る。この事が特別な体験で無くしてなんなのだと‼ つまり在り方がそれまでと正反対に逆転する現象なのだから、、、。
その人の人生に、段階や経過の差こそすれそのような体験が伴わなければ、キリスト教の言う回心が発生したかどうかは怪しい。
そしてそういった実情を、水面下に押し込めみんな仲間だ、兄弟だとうわべばかりの付き合いをしてそれで満足してしまうから、教会は大きな混乱を生み、世に対して何のインパクトも持たなくなってしまうのである。
さて、今日はもうすぐ一つ目の講義が始まるが、どんなやりとりが待っているのだろうか、、、。
by dynabooksx
| 2011-04-13 04:02
| 聖書の言葉