2011年 02月 15日
「真の」真理
2月15日 「真の」真理
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 ヨハネ8:31、32
真理は、内なる光によって理解されなければならない。そのとき私たちは真理を知る。しかしそのときまで知ることはできない。
私は宣教師を通して、イエスの山上の説教を全部暗記した男の子のことを聞いた。この子は記録的な短時間でほとんど努力なしに暗記してしまったので、ある人がその子を呼んで、どのようにしたのか尋ねた。
すると男の子はこう言った。
「そうですね。ぼくは一節を暗記して、『それを実行出来るように助けてください』と神様にお願いするのです。それから次の節を暗記して、『主よ。この通り生活できるようにも助けてください』と言うのです」
その男の子は、その子なりに真理をとらえていた。真理を何か客観的なもの、ただ知識として頭に保管するものとは考えなかった。むしろ、少年にとって真理は主観的なもの、行動化するものだったのである。
真理は、服従と信仰によって、私たちの存在においてリアルなものになる。
主に本当に従えるようになるためには、主を完全に受け入れて、一つとなり、主の関心事が私たちのものとなり、みこころと私たちの心の奥底の表現するものとが同じものにならなければならない。
+++++引用終わり+++++
私を見て、ある人は『自由を感じる』と言う。またある人は『混沌としていて、秩序がない』と評価するかもしれない。後者は勝手に想像しているのだが、残念ながら真っ向から私にそう話してくれるひとはまだ現れない。
『真理はあなたがたを自由にする。』
有名な一句だが、それを体感している人は多くはないだろう。多くのクリスチャンは周りの人の顔色を見ながら戦々恐々としてやっているのが実情ではないか。どこでどんな風に自分が評価されるのか恐れおののきながら、自分をコントロールしながら暮らしている。抑えているその攻撃性がどこで暴発して、手がつけられなくなるか分からない。それが外に出てしまえば、その後さらに落胆するのが目に見えている。だから、必死に抑圧して生きているのだ。エネルギーがある人であればあるほど、自分を押さえ込むのにも膨大な力がいる。外側から教会やクリスチャンと呼ばれる者達を眺める人は、そういう不自然な様子をたいてい瞬時に読み取る。気がつかないのは内側で必死にやっている者達ばかりである。それで、教会とは、実社会以上に窮屈で大変なところなのだなぁと判断する。
自由か自由でないか、それはその人の行動や態度を見ていれば明白だ。自分を抑圧している人は、顔に苦渋が満ちているし、思いがけないところでいきなり怒りが吹き出したりする。まず、私みたいな自分勝手な自由なやつが来ると大変迷惑に思うのが普通だ。自分はこんなに苦しい所を必死にやっているのに、なぜアイツはあんなに楽しそうなんだと感じるのだろう。
自由がないのは、行動原理を自分で握っているからだ。生まれながらの自分、古い自分に未だ信頼を置いている。何度も挫折し、嫌気がさしていても、まだそれを捨てきれないのだ。自分が生きるところにはキリストは生きることは出来ない。外で戸を叩いて、中に入れてくれと呼んでいる彼を、まるでいないかのように必死で殺しているのだ。『我生く、キリスト生くるにあらず』なのだ。
自分が輝きたい、もっと評価されたいという願いが突き上げてくる。それは、仕方がないことだ。満たされるということを経験していないからだ。あらゆる事を、あらゆる必要を追いかけて満たしてくる祝福というものを体験したことがないのだ。十分に満たされるということを経験しなければ、それを求めるのは当然のことだろう。ただ残念ながら、それはどこまで求めても得られない。より渇きが増すばかりなのだ。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 ルカによる福音書9:24
この世界はこのような構造になっているからなのだ。放棄することを知らない者は祝福を知らない。いや、放棄こそが祝福であり、救いなのだ。真理とはかくも単純なものなのである。苦しく、不快なものではあるけれども、信仰者は自分が砕かれ死ぬということを経験しなければならない。それなくしてはキリストが生きることが出来ないからだ。だから、自分に不利に見えて追い込まれていく状況を、自分が変化できるチャンスだと思って喜んで受け入れて欲しい。本当に大きな飛躍になるから、、。そここそが信仰が生まれ、磨かれる場所であり、神がその人の人生に介入する接点なのだから、、、。
放棄する人生は失うだけでは終わらない。もし、自分の心からの願いが、神の為そうとすることと完全に一致するようになるのだとしたら、どうだろうか。その人の人生は向かうところ敵なしではないのか。神がその人の願いを全てかなえて下さる。それは神御自身の計画だからだ。それは必ず実現する。ものすごいその追い風を受けて進む人生は、なんと自由であろうか。
あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、臨むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 ヨハネによる福音書15:7
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 ヨハネ8:31、32
真理は、内なる光によって理解されなければならない。そのとき私たちは真理を知る。しかしそのときまで知ることはできない。
私は宣教師を通して、イエスの山上の説教を全部暗記した男の子のことを聞いた。この子は記録的な短時間でほとんど努力なしに暗記してしまったので、ある人がその子を呼んで、どのようにしたのか尋ねた。
すると男の子はこう言った。
「そうですね。ぼくは一節を暗記して、『それを実行出来るように助けてください』と神様にお願いするのです。それから次の節を暗記して、『主よ。この通り生活できるようにも助けてください』と言うのです」
その男の子は、その子なりに真理をとらえていた。真理を何か客観的なもの、ただ知識として頭に保管するものとは考えなかった。むしろ、少年にとって真理は主観的なもの、行動化するものだったのである。
真理は、服従と信仰によって、私たちの存在においてリアルなものになる。
主に本当に従えるようになるためには、主を完全に受け入れて、一つとなり、主の関心事が私たちのものとなり、みこころと私たちの心の奥底の表現するものとが同じものにならなければならない。
+++++引用終わり+++++
私を見て、ある人は『自由を感じる』と言う。またある人は『混沌としていて、秩序がない』と評価するかもしれない。後者は勝手に想像しているのだが、残念ながら真っ向から私にそう話してくれるひとはまだ現れない。
『真理はあなたがたを自由にする。』
有名な一句だが、それを体感している人は多くはないだろう。多くのクリスチャンは周りの人の顔色を見ながら戦々恐々としてやっているのが実情ではないか。どこでどんな風に自分が評価されるのか恐れおののきながら、自分をコントロールしながら暮らしている。抑えているその攻撃性がどこで暴発して、手がつけられなくなるか分からない。それが外に出てしまえば、その後さらに落胆するのが目に見えている。だから、必死に抑圧して生きているのだ。エネルギーがある人であればあるほど、自分を押さえ込むのにも膨大な力がいる。外側から教会やクリスチャンと呼ばれる者達を眺める人は、そういう不自然な様子をたいてい瞬時に読み取る。気がつかないのは内側で必死にやっている者達ばかりである。それで、教会とは、実社会以上に窮屈で大変なところなのだなぁと判断する。
自由か自由でないか、それはその人の行動や態度を見ていれば明白だ。自分を抑圧している人は、顔に苦渋が満ちているし、思いがけないところでいきなり怒りが吹き出したりする。まず、私みたいな自分勝手な自由なやつが来ると大変迷惑に思うのが普通だ。自分はこんなに苦しい所を必死にやっているのに、なぜアイツはあんなに楽しそうなんだと感じるのだろう。
自由がないのは、行動原理を自分で握っているからだ。生まれながらの自分、古い自分に未だ信頼を置いている。何度も挫折し、嫌気がさしていても、まだそれを捨てきれないのだ。自分が生きるところにはキリストは生きることは出来ない。外で戸を叩いて、中に入れてくれと呼んでいる彼を、まるでいないかのように必死で殺しているのだ。『我生く、キリスト生くるにあらず』なのだ。
自分が輝きたい、もっと評価されたいという願いが突き上げてくる。それは、仕方がないことだ。満たされるということを経験していないからだ。あらゆる事を、あらゆる必要を追いかけて満たしてくる祝福というものを体験したことがないのだ。十分に満たされるということを経験しなければ、それを求めるのは当然のことだろう。ただ残念ながら、それはどこまで求めても得られない。より渇きが増すばかりなのだ。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 ルカによる福音書9:24
この世界はこのような構造になっているからなのだ。放棄することを知らない者は祝福を知らない。いや、放棄こそが祝福であり、救いなのだ。真理とはかくも単純なものなのである。苦しく、不快なものではあるけれども、信仰者は自分が砕かれ死ぬということを経験しなければならない。それなくしてはキリストが生きることが出来ないからだ。だから、自分に不利に見えて追い込まれていく状況を、自分が変化できるチャンスだと思って喜んで受け入れて欲しい。本当に大きな飛躍になるから、、。そここそが信仰が生まれ、磨かれる場所であり、神がその人の人生に介入する接点なのだから、、、。
放棄する人生は失うだけでは終わらない。もし、自分の心からの願いが、神の為そうとすることと完全に一致するようになるのだとしたら、どうだろうか。その人の人生は向かうところ敵なしではないのか。神がその人の願いを全てかなえて下さる。それは神御自身の計画だからだ。それは必ず実現する。ものすごいその追い風を受けて進む人生は、なんと自由であろうか。
あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、臨むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 ヨハネによる福音書15:7
by dynabooksx
| 2011-02-15 23:06