2011年 01月 28日
ロゴスとレイマ
少しまえに紹介した「偉大な神、偉大な信仰」から引っかかった所、、。
信仰が養われるためには、単に聖書を読んで、ロゴス(書かれた言葉)として理解するだけでなく、ロゴスを読む中から、レイマの言葉(語られた言葉)として受け取る必要がある。
レイマという言葉は以前聞いたことがあったような気がしますが、説教等で耳にしたことは無かったように思います。ちょっと検索してみたら
http://www14.ocn.ne.jp/~h-b-c/2008.02.17.pdf
が出てきました。これなんですよね、これ。私の場合、最初っからこれでしたので、教会に足を運ぶ人はみんなそれで集まっていると思い込んでいました。そりゃあ違和感を持つわけですね。誰かがこのようにきちんと教えてくれれば、さほど悩むことも無かったのですが、これを共有できる人に出会うことは、ほとんどありませんでした。たいてい声を聞くとかいうと、口をつぐんで頭のおかしい人を見るような顔をされる。だからキリスト教会においても、たとえ預言の賜物を持っていたとしても押し隠してしまうのでしょう。教会にとってもその人にとっても残念なことです。もちろんその内容と性質を冷静に見極められる人物も必要だとは思いますが、、、。
聖書を読んで、どれもこれも自分に直接語っていると感じて、文字ではなく、思いとして直接流れ込んでくるという経験をしたことのある人はどれぐらいいるのでしょうか。そのときには、文章読解とか、考察だとかそういうことを超えて、文字であるはずの言葉が迫りとなって、私たちの頑なになった心を打ち壊し、新しく造り替えようとします。そういう経験が無ければ、そもそも聖書などという荒唐無稽に思える書物を、まともに取り上げようなどとは思わないんですけどねぇ。
そうでなければ、きわめて部分的な読み方で処世術とか道徳論として取り上げるしかない。それもかなり無理のある読み方だが、、、。まぁ、自分が納得できるかどうかを基準で進んで行く読み方は、その人の信仰に左右されるが、自分に合わないと思うところは、読み飛ばすか黒く塗りつぶすしかなかろう。そういう人には、聖書全体の主張が極めて一致している、などという主張にはとても賛同できないだろう。
ここは馴染めるが、こっちは、どうも反対の意味を主張しているようだ。だから、これは誰か他の人が書いたものではないのかとか、何かの間違えでは無いのかという主張をしたがる。聖書を専門に語る立場の牧師であってもそういう人は多いのではないのか。口には出さないまでも、正直そのように感ずる人は多いだろう。
事実以前、私もそのように感じていた部分が、いくつかあった。その段階段階があって、一見バラバラに見える内容が、あるとき一瞬で視野が通るように組み合わさる。そしてそれぞれのブロックがまた組み合わさるという感じで、徐々に統一感が出ていったように思う。
その際には、必ず自分の信仰のあり方が正されなければならない出来事、自分の姿勢を修正させられる出来事とセットであった。ここに来て、今更ながら聖書が神によって書かれた言葉、聖霊によって記述された言葉であると告白することが出来る。あらゆる部分が同じ主張をしているように感じるからだ。もちろん、一つ一つの文化的背景などを知らないと、状況が飲み込めない部分があるが、全体で言いたいことは分かる。聖書を編纂した人たちは、そういう一体感で判断し、まとめ上げたのだろう。
でも実際のところ、時折突然と強い促しで呼びかけてくるその声は、後でよくよく探してみると、どれも結局は聖書にある言葉なんですね。まぁ、そういうものなのでしょう。
by dynabooksx
| 2011-01-28 15:43
| 真也の視点