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聖句主義を形作った私の背景⑤

 さて、はやく完結させないと内容が逸れていっちまうわい。今度こそです。


 最後は恵泉塾のことを書きたかったのです。内容的にはかぶるので以前の記事を載せておきます。

惠泉塾


現在私が知っている所で、聖句主義と聞いて真っ先に思い浮かべるのはここですね。昨日久しぶりに読み返していましたが、これいい本ですよ。

手渡そう子どもに生きる力―北海道余市「恵泉塾」での体験から

生きることに疲れている人、子育てに途方に暮れている人、どうぞ読んでみて下さい。あなたが本気で変わりたいと思うのならば、きっと光が見いだせるでしょう。


 それでですね。聖句主義にもどりますと、恵泉塾には全国から社会よりドロップアウトした、行き場を失った人たちが集まってくるのですが、そこでの生活の中心は早朝から始まる毎日の聖書研究が中心なんです。聖書になどまったく触れたことのなかった人たちの多くが、すぐに夢中になっていき、医者にも見捨てられた彼らが、それと共に驚くような回復を見せるというのです。なんなんでしょうね、これは。私に言わせると当たり前、そこに命があるからだ、となりますが、世の牧師先生が一生懸命やっているのに不思議なことです。

 この核心が『聖句主義』にあると私には思えるのです。そこでの塾頭、水谷先生の聖書に対する知識、洞察は圧倒的なのですが、押しつけられている気がしないんですね。それは単に、あなたと彼のあり方、見方が似ているからだろうと言われてみればそうかもしれませんが、もちろん表現その他で食い違う部分もある。そうするとすぐに私は噛みつきます。それをとても喜んでくれるんですよねぇ。そして的確にそれを打ち返してくれる。彼は彼の読み方というか解釈をはっきり自覚している。しかも、大変多面的なんです。器なんでしょうねぇ。流れとしては無教会主義の流れでしょうが、教理、教義に縛られていないんです。こだわらずにいたって素直に聖書自身を読み込んでいく。それでいて、しっかりと核心をつかんでいく。不思議なことに、どんな読み方でも可能な聖書が、勝手に読んでいった私の方向と、寸分の狂いなくぴったりと合わさっていくんですよねぇ。正確には違う角度からなんだろうけど、指し示す方向が同じというか、、、。これには驚きました。

 私が育ち親しんだ所は救世軍っていうんですけど、今から100年以上前の創業時代、強いうねりが起こった頃にあっただろうと私が想像できる霊的うごめきと同じものがここにはある。そう直感させました。

 水谷先生は、癒しの能力も持つ周りから見れば飛び抜けた霊的器ですが、威圧的な感じが私には全くしないんです。もちろん、大変重圧を感じるという人もいるかもしれませんが、ごく普通のおっさんだと思います。ただ彼の背後には並々ならぬものを感じますね。私の背後にあるものと変わらないと思いますが、、、。だから心地良いのでしょう。

 それで聖句主義に戻りますと(なんか頑張ってるなぁ)、その手法は個人の自由解釈を前提にしているのです。真理は確かにある、読み切れるとまで言いますが、個人が自分で原典に触れ、試行錯誤しながら読み進めることを第一としているのです。そのための手法を余市で行われた第一回のセミナーで学んできました。それもまた聖句主義なんですねぇ。
 複数訳の聖書を並列に並べ、比較していくというやり方なのですが、こうするとそれぞれの訳者の特徴というか強調したいところが浮かび上がってくるんです。解釈ともいえるかもしれません。それを持ち寄ってそこに自分も参加してあ~だ、こ~だやるわけですから、これはまさに聖句主義の一人小グループです。先生の聖書研究はこれを土台にしているわけですね。
 だから朝の1時から毎日何時間もやるという生活になる。塾生の学びが5時、スタッフのやつがその前の時間とかなると自分の為の密室はそんな風になっちゃうんでしょう。


 これを見ると、教理、教義で人を縛らなくてもきちんと体裁をなすというか秩序が保たれ大きな力となるということが分かると思います。教理を使って人の知恵で組織を動かそうとすると、神の働く余地がなくなるんですね。必要なくなって行くんです。本来逆ですからね。そこに気がつかないと、命から切り離されてどんどん干からびていく。現在の教理主義にあるキリスト教会の泉は、もう枯れきってきていると言ってもいい。厳しい言い方をしますが、聖書的に言うなら、泉ではなくため池なんですね。


 まことに、我が民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたし捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜を。(エレミヤ2章13節)


 教理でもって人を縛り付け、自分たちに都合のよい聖書解釈に限定し、人々から自発的な聖書解釈を奪っていった。確かに、教理は生ける神の言葉である聖書を源泉としていてそこから汲み上げたものだ。しかしそれは源泉ではない。汲み上げてプールしておけば、自分の使いたい時にその目的に沿って自由に用いることは出来るが、こんこんとわき出る泉ではない。時間が経てば腐敗し、悪臭が漂うこともあるだろう。泉の水は、それが湧き出る所まで自ら出向いて、その湧き出る井戸に自分自分の方を合わせなければ水は流れてはこない。順序が逆なのだ。私たちは聖書がつくられた目的に還らなくてはならない。私たちにとってどうかと言うことよりも、神にとってどうなのかと言うことを、、、。誰かが言ったことやったことを受け売りするのではなく、これを一人一人が探し求め、吟味し続けて行くのが聖句主義であると私は思う。


    ~完結~

ぱちぱちぱち。
by dynabooksx | 2010-12-02 04:50 | 聖句主義について

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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