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聖句主義を形作った私の背景④

 ここまで書き進めてくると、私が聖句主義ばかり強調し、教理主義を撲滅しようとしているように見えるかもしれません。でも、私がどうこうしようと両者が無くなることはないのです。確かに、春平太さんが言うように、『日本のキリスト教会が現在の教理主義のままでは、これ以上人々に浸透していくことはなく、ビジネスマンに馬鹿にされ続ける』との意見はもっともですし、一般の人が、現在目にすることが出来るキリスト教会の姿を見て、キリスト教ってこんな物なのかつまんねぇ~なとこれだけで終わってしまったら残念です。

 しかし、私に言わせると両者は表裏一体であり、ヨハネ15章の『私はぶどうの木、あなたがたは枝で実を結ぶ』の箇所の実全体がキリスト教会だとすると、教理主義はその外皮に当たると思うのです。外から見てその実だと分かるのは表皮があるからで、それが下界と内部を分けている。でも、外皮だけを取り出していじってみても、いつまでたっても果実の甘みや味わいは分からない。果実の一部が外皮になるわけですが、果実の乾燥や害虫、病気の進入を防ぐ意味でも外皮は必要になるわけですね。ですから外皮は『世』に対する表だったところを受け持っているわけです。両者はそういう関係だと思うのです。皮が分厚くて中身が少ない柚子みたいなのではなくて、リンゴとか梨とかを想像して下さいね。そういう感じです。

 ただ、表皮が果実の本質を語るようになると、結果『自分は堅くて乾いていて、見た目こぎれいだけど食ってもうまくね~ぞ』となってしまうのです。現在の日本のキリスト教は、アメリカで果実が成熟し、しっかり表皮が出来上がったところの皮の部分が輸入された。制度化され文化となり安定化した皮の部分が、、、。こうなって更に世代が過ぎると、実際の味わいなどまるで分からなくなってしまうのでしょうし、皮の部分には種がないので、次の息吹を出すことなく、外部にさらされいずれは干からび、捨てられていくでしょう。


 でも、心配は要りません。この木は天から養分を吸い上げるイエス・キリストの木ですから。その木は自らに直接繋がる枝に新しい実を成らせ続けるはずです。片一方が衰退し、死に絶えていくように見えても、御自身の意に沿うところに養分を送り続けるはずです。ですから、表皮の所を見て『日本のキリスト教人口はいつまで経っても1%だ』なんてのは私は気にしていないし、さほど関心もありません。


 あれぇ、また今回も完結に至る最初の筋書きとは外れてしまいました。どうもうんちくをこねくり回すばかりで、聖句主義とはいうが全く聖書を扱っていないのではと思われる方のために少し引用をしましょう。ガラテヤ書からです。以下引用は全て新共同訳からです。


 人々からではなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、、、。(1章1節)

パウロさんは冒頭から飛ばします。力入ってますねぇ。これに関わる部分を続いて抜き出します。


兄弟たち、あなたがたにははっきり言います。わたしが告げ知らせた福音人によるものではありません。(1章11節)

わたしはこの福音人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(1章12節)


 パウロは他の使徒達と違って、十字架で死ぬ以前のキリストに会ったことがありません。ですから直接教えを受けた事もないし、生活を共にしたこともない。死後まもない、イエスの存在がリアル時代でしたが、そう言う意味では現代の私たちと同じ境遇だとも言えます。
 ですから、彼がイエスの事を知るには、それを知る他の誰かから聞いたり教えて貰ったりする必要があるとなるわけです。しかし、パウロはそうではないのだと言うわけなんですねぇ。あくまで自分は、人を通して知ったり信じたりしたわけではないと主張する。『人から受けたのでも教えられたのでもなく、、』の所は、別訳だと『人から伝え聞いた』とか『教育に拠った』とかと訳されており、自分はイエス・キリストの啓示によって知ったのであり、復活のキリストに会ったのだと訴え、さらに続ける。


しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音異邦人告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはぜず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビヤに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。(1章15~17節)

神ご自身が、キリストを自分に出会わせてくれて、その意思によって私は異邦人(神を知らない人)に福音を伝えるようになった。その時に、私は決して人に相談したりしなかったし、エルサレムにいた直属の弟子達(いわば幹部ですね)の所へ行くこともしなかったのだと、、。


 これ以上の詳しい説明はいらないかと思います。興味が沸いた方は聖書を手に入れて前後も含めて自分で読んでみて下さい。上で述べたとおり、現代の私たちは生前のイエスに出会ってはいないという点でパウロと同じであり、現在のキリスト教会はこうして使徒となったパウロに続くものだと言えます。パウロだけが特別でしょうか? 確かに、知的能力や当時彼が置かれていた環境、育ちは特別に選び出された器だったかと思います。しかし、彼がこのような主張をするのは、自分が他の人より優れている、他とは違うのだと言いたかったのではありません。むしろその逆で、自分たちが少数派であって、ユダヤ教の伝統や文化、権威のある直弟子達を中心としたエルサレム教会から圧迫される立場にいる自分(達)の正当性を主張せずにはいられなかったからなのです。


 歴史はエルサレム教会ではなく、パウロの異邦人教会を残しました。現在の教会はその延長線上にあるはずです。今も神は直接人を選び出し、ご自身の思いを伝えてきます。それによって、人は神の言葉である聖書を深く理解し、その意図を遂げようとするでしょう。

聖句主義を考える上で理解が深まるようにと書きましたが、ちょっと外れたかな? まだもう少し続きそうです。



 加筆ですが、そもそも『教会』という呼び名がいけないのかもしれませんね。この響きは、教会人が外の分からないやつに何か教えなくてはと力ませてしまう気がします。『自分たちが聖書を探求し、神から教えを受ける所』の理解だったらいいのかな、、。教理主義だと固定化された理念が先に来るから、ワシが教えてやろうとなるんですね。
by dynabooksx | 2010-11-30 04:46 | 聖句主義について

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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