2004年 09月 22日
良い説教、悪い説教② ~忠実な語り手~
良い説教、悪い説教では、聖書の主人公は神だという事について書きましたが、今回は具体的に何を語るのかという事を書いてみようと思います。
先日このような記事を目にしました。
◎米『メガ教会』の牧師が説教盗用見つかり辞職
【CJC=東京】米EP通信によると、ノースカロライナ州最大の教会の一つ
、シャーロットのカルバリ教会のグレン・ワグナー牧師が9月5日に突如辞職、
教会員を驚かせた。憂うつ症になり、この2年間は他人の説教を盗用していたと
言う。
同牧師は保守的なキリスト教団体『プロミス・キーパーズ』で活動した後、1
997年に同教会に着任した。
同牧師は会員に宛て書簡を作成した。不在中に読み上げられた書簡で、盗用と
いう行動は「間違っていた」とし、許しを求めて、「私の約30年にわたる宣教
で、このようなことをしたのは初めてだ」と述べている。
カルバリー教会は総工費3900万ドル(約43億円)、6000席の礼拝堂
で知られる福音派系の単立で、いわゆる『メガ教会』として知られる。日曜礼拝
には平均3000人が集まるという。
ワグナー牧師の盗用は、教会長老の1人がこの8月にラジオでそっくりの説教
を聞いたことから発覚した。□
記事の内容分かりますか。ある牧師が他の牧師の作ったメッセージを盗んで使ったことを悔いて辞職したというニュースです。皆さん、それは当然だろうと思いますか? 私にはそれを理由に辞めるほどの事にはどうしても思えないのです。なぜなら、牧師のメッセージはその人の口を通して語られますが、その人個人の考えを語るわけではないからです。確かに、人それぞれ歩みが違っており、神との出会い方もさまざまでしょう。それはその人の宝です。
牧師が語るべき事とはなんなのでしょう。聖書から神がどんな方で、これまで何をして、これから何をしようとしているのかを語ることでしょう? キリストがどんな方で、この世に来て何をし、現代の私達に何をしようとしているかを語るわけでしょう。それは、全て聖書に書いてあるとおりです。それを如何に忠実にそのまま、聖霊の働きに期待して語るかどうかでしょう? だから、誰の説教なんてないんだと思うんですよね。初めからあるものを繰り返し語っているに過ぎないわけですから。つまり私にとって良い説教とは、イエス様の言ったことをどれだけうまくパクル(盗む)かなのです。混ぜ物を排除し、福音の本質をストレートに語る。キリストのメッセージはとても単純なもので、『恵に生きよ』ただそれだけのことです。そのために、罪の現実にいる私達のために十字架という決定打を下さいました。
それなのに、なぜでしょう。その恵によって生きるものとなったキリストの体、教会が恵を拒否し、自力で歩もうとするのはなぜなのでしょう。自ら神から離れた苦しみの中に飛び込んでいくのはどうしてでしょう。私自身、この事を解決する方法としてさまざまなものを試し、探し続けてきましたが、この十字架の他には解決策を見出していません。聖書に『罪人は自分を救うことは出来ない』とありますが、罪はそれを解決しようとして努力すればするほど深みにはまっていきます。サタンは人に、そんなんじゃ神はお前を愛さないといって、人を神から隔離し、自力で清い道を歩むように促します。一時は道を見出したかのようになりますが、その先には絶望と自己喪失しかありません。私達が、絶え間なく降り注ぐ神の恵みに気づくようになるのには、罪人のために死なれたこの十字架の他にはないのです。この十字架が立てられたからには、私達は罪あるまま神に出会うことが出来ます。神に出会うために何の努力も、準備も要りません。ただ、罪があれば、、、。それが神と出会うためのパスポートだと私は思っています。
主のたすけなくば、われはほろぶべし
はかなきこの身を、すくいたまえ
つみあるまま、つみあるまま
主にすがるわれを、すくいたまえ
救世軍歌129番
追伸 どんなにすばらしいメッセージによる聖書の解き明かし、解説も聖霊の力に勝るわけはありません。なんせ聖霊は神御自身なのですから、、、。御言葉が真理であるとの確信を与えるものは、人の力ではなく聖霊の力です。どんなに人の力で聖書を語っても、この世的に認められる人は生まれても、真に神に出会う人は起こされないでしょう。
以前、先日このような記事を目にしました。
◎米『メガ教会』の牧師が説教盗用見つかり辞職
【CJC=東京】米EP通信によると、ノースカロライナ州最大の教会の一つ
、シャーロットのカルバリ教会のグレン・ワグナー牧師が9月5日に突如辞職、
教会員を驚かせた。憂うつ症になり、この2年間は他人の説教を盗用していたと
言う。
同牧師は保守的なキリスト教団体『プロミス・キーパーズ』で活動した後、1
997年に同教会に着任した。
同牧師は会員に宛て書簡を作成した。不在中に読み上げられた書簡で、盗用と
いう行動は「間違っていた」とし、許しを求めて、「私の約30年にわたる宣教
で、このようなことをしたのは初めてだ」と述べている。
カルバリー教会は総工費3900万ドル(約43億円)、6000席の礼拝堂
で知られる福音派系の単立で、いわゆる『メガ教会』として知られる。日曜礼拝
には平均3000人が集まるという。
ワグナー牧師の盗用は、教会長老の1人がこの8月にラジオでそっくりの説教
を聞いたことから発覚した。□
記事の内容分かりますか。ある牧師が他の牧師の作ったメッセージを盗んで使ったことを悔いて辞職したというニュースです。皆さん、それは当然だろうと思いますか? 私にはそれを理由に辞めるほどの事にはどうしても思えないのです。なぜなら、牧師のメッセージはその人の口を通して語られますが、その人個人の考えを語るわけではないからです。確かに、人それぞれ歩みが違っており、神との出会い方もさまざまでしょう。それはその人の宝です。
牧師が語るべき事とはなんなのでしょう。聖書から神がどんな方で、これまで何をして、これから何をしようとしているのかを語ることでしょう? キリストがどんな方で、この世に来て何をし、現代の私達に何をしようとしているかを語るわけでしょう。それは、全て聖書に書いてあるとおりです。それを如何に忠実にそのまま、聖霊の働きに期待して語るかどうかでしょう? だから、誰の説教なんてないんだと思うんですよね。初めからあるものを繰り返し語っているに過ぎないわけですから。つまり私にとって良い説教とは、イエス様の言ったことをどれだけうまくパクル(盗む)かなのです。混ぜ物を排除し、福音の本質をストレートに語る。キリストのメッセージはとても単純なもので、『恵に生きよ』ただそれだけのことです。そのために、罪の現実にいる私達のために十字架という決定打を下さいました。
それなのに、なぜでしょう。その恵によって生きるものとなったキリストの体、教会が恵を拒否し、自力で歩もうとするのはなぜなのでしょう。自ら神から離れた苦しみの中に飛び込んでいくのはどうしてでしょう。私自身、この事を解決する方法としてさまざまなものを試し、探し続けてきましたが、この十字架の他には解決策を見出していません。聖書に『罪人は自分を救うことは出来ない』とありますが、罪はそれを解決しようとして努力すればするほど深みにはまっていきます。サタンは人に、そんなんじゃ神はお前を愛さないといって、人を神から隔離し、自力で清い道を歩むように促します。一時は道を見出したかのようになりますが、その先には絶望と自己喪失しかありません。私達が、絶え間なく降り注ぐ神の恵みに気づくようになるのには、罪人のために死なれたこの十字架の他にはないのです。この十字架が立てられたからには、私達は罪あるまま神に出会うことが出来ます。神に出会うために何の努力も、準備も要りません。ただ、罪があれば、、、。それが神と出会うためのパスポートだと私は思っています。
はかなきこの身を、すくいたまえ
つみあるまま、つみあるまま
主にすがるわれを、すくいたまえ
救世軍歌129番
追伸 どんなにすばらしいメッセージによる聖書の解き明かし、解説も聖霊の力に勝るわけはありません。なんせ聖霊は神御自身なのですから、、、。御言葉が真理であるとの確信を与えるものは、人の力ではなく聖霊の力です。どんなに人の力で聖書を語っても、この世的に認められる人は生まれても、真に神に出会う人は起こされないでしょう。
by dynabooksx
| 2004-09-22 08:41
| 真也の視点