2019年 03月 12日
あれから8年経って、、
一見バラバラに見える一つひとつの出来事もまた、ある一点から振り返ってみると、一気に意味合いが集約されて見えてくるポイントというのがある。
あいつは一体何をやっているのだ!! という意見があるかもしれない。そうですね、、。それを自分一人で答えをだせ! と言われるとかなり難しくなるのかもしれませんが、全体の中の我、という話ですと意味を見いだせるかもしれないとそう思うんですね。
人も世の中も一つの流れ、力の中に生かされていると思うんです。一人だけだと、その流れは点のようで分かりにくいかもしれませんが、互いに関係し影響し合うそれぞれを全体で眺めるならば見えてくるものがある。それは一人ひとりの内側で起こっている変化でもあるのだけれども、、。
そういった地味であり、また大きな変化の一部で在りたいと私もまたそう思うんですよね。特に何がソレって考えているわけでもないんですよ。ただ見えない何かがそこにあるのはよく分かる。だから心配はしていないんです。繰り返し繰り返し体験して来た事柄ですから、、、。
人が本当に必要としている事柄は、ごくごく当たり前のことなんです。だけれども、それがないと人生は社会は致命的な欠乏に襲われる。世間にあるあらゆる保障もそれを補うことはできない。目には見えないが最も必要としている要素を人類は欲しているんですね。
それをダイレクトに手渡すことができたら、、、と日々考えているわけなんです。それは根源的なところで人の生き死にを左右する力を持つからなんです。これが枯渇すると思考や意欲は鈍り、人生の意味を見失うからなんです。
あれから8年経って、僕が最もしなくてはならない事をこれまでで最も真っ直ぐに為して行く、、という時に突入していることを感じているんです。ああ、それならばここまで生きてきた意味があった訳なんだなぁーとね。本当に感謝なことなんです。
一度しかない人生を後悔したくはないですもんね。仕える主人に、よくやったしもべだと言ってもらえるのが目標なんです!!
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by dynabooksx
| 2019-03-12 14:21
| 真也の視点
2019年 02月 27日
朝の勤行
私の中に深く宿り給う親様というのは御霊、英語で言うところのholy spilitですね。この内住のことを述べています。
そして自己を捨て、自己を空無にするとは、自分に託されているあらゆるものを隣人の為に捧げ切ることだと続けているわけですね。
そのことによって外側にある万物の創造主、あらゆるものごとの源である方の光、力が、内なる助け主を通して燦然と現れ、真実を示し辺りを照らし出すというんです。
タイトルは『朝の勤行』となっておりますが、私なら『言行』と明記したいですね。
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by dynabooksx
| 2019-02-27 17:52
| 真也の視点
2019年 02月 26日
いちばん大切なもの
様々なものが考えられますが、これだけ!と問われるならば、自分の命という答えが多いのではないでしょうか? 学校や家庭でもそう教えられて来たでしょうからね。
でもまぁ、この自分のいのちってやつが結構重たくてですね。それを維持するために、あれやこれやと様々なものが必要だと考え始めますと終わりがなく、不安は尽きないわけです。
そもそもいずれ死ぬことになるのに、何故そんなに必死になって生きなくちゃならんのだ!? という疑問を感じませんか? いのちが自分の所有であるならば、未来を悲観し、人生に価値を感じなくば投げ捨ててしまうという選択もあり得るでしょう。
そう、それぐらい自分の命というもの、生きていくということは重たい物事になってしまっているんですね。なんか他人事のように書いてしまっているのは、申し訳ないですが僕自身は自分のいのちにその重さを感じていないので、凄く身軽になっているからなんです。
自分の命を保持し握っているのは自分ではないことを確信、実感しているからなんですね。この感覚ってわかりますかね。生きてるって生かされてるってことなんですよ。誰も自分の寿命をどうにもできないですからね。
死ぬのも本当は悲しいことじゃあない。生きるとは死ぬことなんですよ。一日一日、生きるとは死に向かって行っていることなんですから。自分の命を一日でも延ばすということ自体が人生の目的であるならば、かなり苦しいことになるでしょう? いずれ終わることが分かっているのに、そこからどこまでも必死に逃げ続けてもいずれは追いつかれちゃうってのにね。
だからね、生きるとは死に向かって最大限に人生を燃焼させることなのよ。与えられているすべてを動員してね。か弱い生身の身体だからね。傷付き身動き出来なくなることもあるでしょう。でもね。あなたが神にとって価値ある存在ならば、どんなに追い詰められようとも必ず神自身が力を与え助け起こすんです。
この世界は本当はこのように構築されているんですよ。そのことに気が付いて生きるようになると、正にその通りであるということを何度も何度も体験しますよ。人生に不足、足りなさということを感じないんです。全てが満たされ溢れ出していく、、。
これがこの世界の真実な姿なんですね。死はもはや、力を持たない世界なんです。
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主は私の羊飼いですから、 必要なものはみな与えてくださいます。 主は私を豊かな牧草地にいこわせ、 ゆるやかな流れのほとりに導いて行かれます。
主は傷ついたこの身を生き返らせ、 主の栄光を現すことができるよう、 私を助けてくださいます。 たとえ、死の暗い谷間を通ることがあっても、 恐れません。 主がすぐそばにいて、 私の行く道をいつもお守りくださるからです。
主は私の敵の前で、 私のためにすばらしい食卓を備え、 大切な客としてもてなしてくださいます。 それは、あふれるほどの祝福です。 生きている限り、主の恵みといつくしみが、 私を追ってきます。 やがて、私は主の家に帰り、 いつまでもあなたとともに暮らすことでしょう。
詩篇 23:1-6 JCB
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by dynabooksx
| 2019-02-26 07:01
| 真也の視点
2019年 02月 20日
子供であること。
私は実の姉が私のことを『真也は子供のまま大人になってしまったやつだ』と語っていたということを周り回って聞いて、密かにガッツポーズをしている者です。
彼女は僕の本質を『子供』だと見ているわけなんですね。現代の子供たちは小利口な大人子供が増えてしまって、本来の子供らしさを失っているかもしれませんが、子供というのは元来正直な生き物です。裸の王様に ありゃー裸だでぇー!! と思わず言ってしまう、それが子供なんです。好きなものは好きだと言い、嫌いなものは嫌いだと言う。yes no がはっきりしているんですね。
だから大人が集まって良し悪しを定めるとは別に、直感的に物事の本質を見定めるんです。大人というものは人間関係に直ぐに上下の支配関係を作って組織化しようとします。その位置関係の中に自らの存在意義を見出そうとするからです。だからこそ自分たちの師匠であるイエスのところに、自分たちの目から見て取るに足らない子供が来るのを見て拒んだわけです。師匠のところに行きたかったら、まず俺たちの所を通せ! とね。まぁ、自分たちに権威を持たせるためにそれを遠ざけたんですけれども、、
それを見てイエスは憤ったわけなんですね。
『バカ野郎! 神の国とはその子供たちのもんなんだよ。そのことが理解できないようじゃあーお前さんたちもそこに入ることなんざ出来はしねーわなー』とね。
『神の国』とは何なのか。神の支配がいま訪れていることを、只々信じ安らいでいる人々の心のことです。子供の内には最初からそれは実現しているということなんですね。
私達は現在常識だと思っている先入観を捨て、真実を見なければなりません。巧妙に仕掛けられている様々な嘘によって世の中は汚染され崩れかけているからです。何が本当のことで、何が真に私達を活かす力になるのかということを知らなければ、崩れ去ろうとする世の中と共に引きずられていくことになるでしょう。
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イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
マルコによる福音書 10:13-16 新共同訳
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by dynabooksx
| 2019-02-20 22:49
| 真也の視点
2019年 02月 06日
不安はどこから来るの?
『緊張』も大抵の場合、これから先に直面するであろう場面を思うことで発生しますよね?
不安も緊張も私達を強張らせて未動き出来ないようにしてしまうものですが、なんでこういうものがあるんですかね? 恐らく一つの安全装置のようなもので身を守る本能みたいなもんなのでしょうけれども、今これで苦しんでいる人が多いんです。
私も繰り返しテーマに上げている『鬱』もこの不安や緊張が連続して訪れていて気が休まるときがない状態を指しますでしょう? こういうのって生真面目な人がなるんですね。一生懸命に自分を律して、他者を思いやって生きようとしてきた人なんです。
そのひとがどうして? って話なんですけれども、きっとこのままじゃあいずれ自分は持たない、、、と感じちゃったからなんでしょうね。ずっと頑張ってやって来たけれども、このまま進んで行ったとするとまだもうチョットならなんとかなるかもしれないけれども、いずれ限界が来る、、とね。
これも想像力なんです。真っ当な想像力の使い方ですね。どうしようもないことなのでしょうけれども、現在の在り方に問題を感じているわけです。それでそこに続く未来を想ってグンと暗くなるわけなんですね。
鬱は生命の安全装置であると、私もそう思っているんです。それが無いままにそのまま突っ走ったとするといずれ自滅する。マクロに言えば、互いの欲望がぶつかり合い噛み合って潰し合うことで自滅するんです。それが今、進みつつある世界の姿です。
いきなりデカイ話になっちゃいましたね。ええと、口頭では何人かの人にお話しましたが、昨年アメリカの精神医学会で興味深い論文が提出されたんです。これは『鬱』に関するテーマのものなのですが、これは日本だけでなく世界で問題にされているんですね。ちと概要を述べますとこうなんです。
鬱というのは強い不安や緊張が連続して起こることで極度に強い刺激が発生して脳神経を焼き、ただれさせてしまう為に通常の信号も正しく伝達されなくなってしまう病気だと考えられてきた。
その強い刺激はどうして発生するのだろうかと研究を進めていく中で、その起点となる遺伝子が発見されたということなのだ。そしてさらに実験を重ねていくと、この遺伝子が発動して強烈な信号を発する時とそうでないパターンとを分ける明確な条件があることが分かってきたのだという。
それが『欲望』なんですって。つまり自分を満たしたいという思いなんですね。それが動機、行動の源泉となって活動開始しようとする時にこの遺伝子が活性化する。一度や二度ならばなんのこともない事でも、四六時中続いたらどんな人でも徐々に脳味噌が焼かれて弱って来るのでしょう。
実例を交えた細かい説明が必要ですか? よくよく自分に置き換えて見れば実感できるでしょう。人の行動原理は二種類あるんです。一つは自分を満たしたいというもの。これを欲と表現しますかね。自己愛と呼んでも良いでしょう。
もう一つは相手を満たしたいと思うもの。相手を満たす格好をして自分が満たされたいというのは自己愛でしょうから、見返りを期待しない自己犠牲を基にするものですね。
両者は単純に得ることとと与えることというベクトルの違いとも言えますね。必死になって人々が得よう得ようとするのは、自らが乏しいからだと感じる渇きが根底にあるからですが、そこに向かえば向かう程に脳神経はダメージを受けて鈍くなって行くんです。得ても得ても満足しませんから、さらに鋭い刺激を求めて突き進んでいくんですね。そのまま行くと先が見えてくるのでこの安全機構が作動して鬱になり、身動きできなくなるのです。
どう思いますか? 最初から人間はこのようにデザインされていたということなんです。それ以上そっちへ行くなよ、、、とね。生真面目な人は真剣に自分の人生について考え悩みますから、そこに気が付くのが早いんですね。このままじゃあいずれ破滅するな、、、と。そうなる前にと悲観して命を断つ人もいる。
だからね。人の行き方はもう一つあるんだって!! 得ることが幸せだと思い込んでいる人にとっては、自ら損をするなんて馬鹿な奴だなぁーと言われること請け合いなのだけれども、残る道はもう一つあるんだって、、。それがこの世界の本来の法則なんだわ。
見える世界のことだけで完結させようとするから奪い合いになるけれども、本当は見えない世界が見える世界を支えているんだ。20世紀最大の発見はエネルギーと物質が行き交うという見えるもの見えないものの関係性を示したものだったけれども、見えるものは、見えない圧倒的なものに支えられ、供給されて存在しているんだ。あなた自身もそうなんだよ。自分で勝手に生きていると思っているから気付いていないだけ。
その源に直結されてその法則に従えば、人は生き、世界は再創造される。一度わかってしまえば実に単純な話なんだな。与えれば尽きてしまうはずのものが無限に供給されてくる。それはこの世界の創造主の本性だからなんだ。その思いに寄り添い同化する者をどこまでも祝福しようとされるんだ。きっと居るでしょ? そういうやつ。あなたの近くにも!
今回はこんなこと書くはずじゃあなかったんだけどなぁー〰 想像力からのテーマだったのが逸れちまったわ、
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by dynabooksx
| 2019-02-06 09:48
| 真也の視点