2019年 03月 12日
あれから8年経って、、
一見バラバラに見える一つひとつの出来事もまた、ある一点から振り返ってみると、一気に意味合いが集約されて見えてくるポイントというのがある。
あいつは一体何をやっているのだ!! という意見があるかもしれない。そうですね、、。それを自分一人で答えをだせ! と言われるとかなり難しくなるのかもしれませんが、全体の中の我、という話ですと意味を見いだせるかもしれないとそう思うんですね。
人も世の中も一つの流れ、力の中に生かされていると思うんです。一人だけだと、その流れは点のようで分かりにくいかもしれませんが、互いに関係し影響し合うそれぞれを全体で眺めるならば見えてくるものがある。それは一人ひとりの内側で起こっている変化でもあるのだけれども、、。
そういった地味であり、また大きな変化の一部で在りたいと私もまたそう思うんですよね。特に何がソレって考えているわけでもないんですよ。ただ見えない何かがそこにあるのはよく分かる。だから心配はしていないんです。繰り返し繰り返し体験して来た事柄ですから、、、。
人が本当に必要としている事柄は、ごくごく当たり前のことなんです。だけれども、それがないと人生は社会は致命的な欠乏に襲われる。世間にあるあらゆる保障もそれを補うことはできない。目には見えないが最も必要としている要素を人類は欲しているんですね。
それをダイレクトに手渡すことができたら、、、と日々考えているわけなんです。それは根源的なところで人の生き死にを左右する力を持つからなんです。これが枯渇すると思考や意欲は鈍り、人生の意味を見失うからなんです。
あれから8年経って、僕が最もしなくてはならない事をこれまでで最も真っ直ぐに為して行く、、という時に突入していることを感じているんです。ああ、それならばここまで生きてきた意味があった訳なんだなぁーとね。本当に感謝なことなんです。
一度しかない人生を後悔したくはないですもんね。仕える主人に、よくやったしもべだと言ってもらえるのが目標なんです!!

2019年 02月 27日
朝の勤行
私の中に深く宿り給う親様というのは御霊、英語で言うところのholy spilitですね。この内住のことを述べています。
そして自己を捨て、自己を空無にするとは、自分に託されているあらゆるものを隣人の為に捧げ切ることだと続けているわけですね。
そのことによって外側にある万物の創造主、あらゆるものごとの源である方の光、力が、内なる助け主を通して燦然と現れ、真実を示し辺りを照らし出すというんです。
タイトルは『朝の勤行』となっておりますが、私なら『言行』と明記したいですね。

2019年 02月 26日
いちばん大切なもの
様々なものが考えられますが、これだけ!と問われるならば、自分の命という答えが多いのではないでしょうか? 学校や家庭でもそう教えられて来たでしょうからね。
でもまぁ、この自分のいのちってやつが結構重たくてですね。それを維持するために、あれやこれやと様々なものが必要だと考え始めますと終わりがなく、不安は尽きないわけです。
そもそもいずれ死ぬことになるのに、何故そんなに必死になって生きなくちゃならんのだ!? という疑問を感じませんか? いのちが自分の所有であるならば、未来を悲観し、人生に価値を感じなくば投げ捨ててしまうという選択もあり得るでしょう。
そう、それぐらい自分の命というもの、生きていくということは重たい物事になってしまっているんですね。なんか他人事のように書いてしまっているのは、申し訳ないですが僕自身は自分のいのちにその重さを感じていないので、凄く身軽になっているからなんです。
自分の命を保持し握っているのは自分ではないことを確信、実感しているからなんですね。この感覚ってわかりますかね。生きてるって生かされてるってことなんですよ。誰も自分の寿命をどうにもできないですからね。
死ぬのも本当は悲しいことじゃあない。生きるとは死ぬことなんですよ。一日一日、生きるとは死に向かって行っていることなんですから。自分の命を一日でも延ばすということ自体が人生の目的であるならば、かなり苦しいことになるでしょう? いずれ終わることが分かっているのに、そこからどこまでも必死に逃げ続けてもいずれは追いつかれちゃうってのにね。
だからね、生きるとは死に向かって最大限に人生を燃焼させることなのよ。与えられているすべてを動員してね。か弱い生身の身体だからね。傷付き身動き出来なくなることもあるでしょう。でもね。あなたが神にとって価値ある存在ならば、どんなに追い詰められようとも必ず神自身が力を与え助け起こすんです。
この世界は本当はこのように構築されているんですよ。そのことに気が付いて生きるようになると、正にその通りであるということを何度も何度も体験しますよ。人生に不足、足りなさということを感じないんです。全てが満たされ溢れ出していく、、。
これがこの世界の真実な姿なんですね。死はもはや、力を持たない世界なんです。
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主は私の羊飼いですから、 必要なものはみな与えてくださいます。 主は私を豊かな牧草地にいこわせ、 ゆるやかな流れのほとりに導いて行かれます。
主は傷ついたこの身を生き返らせ、 主の栄光を現すことができるよう、 私を助けてくださいます。 たとえ、死の暗い谷間を通ることがあっても、 恐れません。 主がすぐそばにいて、 私の行く道をいつもお守りくださるからです。
主は私の敵の前で、 私のためにすばらしい食卓を備え、 大切な客としてもてなしてくださいます。 それは、あふれるほどの祝福です。 生きている限り、主の恵みといつくしみが、 私を追ってきます。 やがて、私は主の家に帰り、 いつまでもあなたとともに暮らすことでしょう。
詩篇 23:1-6 JCB

2019年 02月 20日
子供であること。
私は実の姉が私のことを『真也は子供のまま大人になってしまったやつだ』と語っていたということを周り回って聞いて、密かにガッツポーズをしている者です。
彼女は僕の本質を『子供』だと見ているわけなんですね。現代の子供たちは小利口な大人子供が増えてしまって、本来の子供らしさを失っているかもしれませんが、子供というのは元来正直な生き物です。裸の王様に ありゃー裸だでぇー!! と思わず言ってしまう、それが子供なんです。好きなものは好きだと言い、嫌いなものは嫌いだと言う。yes no がはっきりしているんですね。
だから大人が集まって良し悪しを定めるとは別に、直感的に物事の本質を見定めるんです。大人というものは人間関係に直ぐに上下の支配関係を作って組織化しようとします。その位置関係の中に自らの存在意義を見出そうとするからです。だからこそ自分たちの師匠であるイエスのところに、自分たちの目から見て取るに足らない子供が来るのを見て拒んだわけです。師匠のところに行きたかったら、まず俺たちの所を通せ! とね。まぁ、自分たちに権威を持たせるためにそれを遠ざけたんですけれども、、
それを見てイエスは憤ったわけなんですね。
『バカ野郎! 神の国とはその子供たちのもんなんだよ。そのことが理解できないようじゃあーお前さんたちもそこに入ることなんざ出来はしねーわなー』とね。
『神の国』とは何なのか。神の支配がいま訪れていることを、只々信じ安らいでいる人々の心のことです。子供の内には最初からそれは実現しているということなんですね。
私達は現在常識だと思っている先入観を捨て、真実を見なければなりません。巧妙に仕掛けられている様々な嘘によって世の中は汚染され崩れかけているからです。何が本当のことで、何が真に私達を活かす力になるのかということを知らなければ、崩れ去ろうとする世の中と共に引きずられていくことになるでしょう。
〜〜〜
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
マルコによる福音書 10:13-16 新共同訳
2019年 02月 06日
不安はどこから来るの?
『緊張』も大抵の場合、これから先に直面するであろう場面を思うことで発生しますよね?
不安も緊張も私達を強張らせて未動き出来ないようにしてしまうものですが、なんでこういうものがあるんですかね? 恐らく一つの安全装置のようなもので身を守る本能みたいなもんなのでしょうけれども、今これで苦しんでいる人が多いんです。
私も繰り返しテーマに上げている『鬱』もこの不安や緊張が連続して訪れていて気が休まるときがない状態を指しますでしょう? こういうのって生真面目な人がなるんですね。一生懸命に自分を律して、他者を思いやって生きようとしてきた人なんです。
そのひとがどうして? って話なんですけれども、きっとこのままじゃあいずれ自分は持たない、、、と感じちゃったからなんでしょうね。ずっと頑張ってやって来たけれども、このまま進んで行ったとするとまだもうチョットならなんとかなるかもしれないけれども、いずれ限界が来る、、とね。
これも想像力なんです。真っ当な想像力の使い方ですね。どうしようもないことなのでしょうけれども、現在の在り方に問題を感じているわけです。それでそこに続く未来を想ってグンと暗くなるわけなんですね。
鬱は生命の安全装置であると、私もそう思っているんです。それが無いままにそのまま突っ走ったとするといずれ自滅する。マクロに言えば、互いの欲望がぶつかり合い噛み合って潰し合うことで自滅するんです。それが今、進みつつある世界の姿です。
いきなりデカイ話になっちゃいましたね。ええと、口頭では何人かの人にお話しましたが、昨年アメリカの精神医学会で興味深い論文が提出されたんです。これは『鬱』に関するテーマのものなのですが、これは日本だけでなく世界で問題にされているんですね。ちと概要を述べますとこうなんです。
鬱というのは強い不安や緊張が連続して起こることで極度に強い刺激が発生して脳神経を焼き、ただれさせてしまう為に通常の信号も正しく伝達されなくなってしまう病気だと考えられてきた。
その強い刺激はどうして発生するのだろうかと研究を進めていく中で、その起点となる遺伝子が発見されたということなのだ。そしてさらに実験を重ねていくと、この遺伝子が発動して強烈な信号を発する時とそうでないパターンとを分ける明確な条件があることが分かってきたのだという。
それが『欲望』なんですって。つまり自分を満たしたいという思いなんですね。それが動機、行動の源泉となって活動開始しようとする時にこの遺伝子が活性化する。一度や二度ならばなんのこともない事でも、四六時中続いたらどんな人でも徐々に脳味噌が焼かれて弱って来るのでしょう。
実例を交えた細かい説明が必要ですか? よくよく自分に置き換えて見れば実感できるでしょう。人の行動原理は二種類あるんです。一つは自分を満たしたいというもの。これを欲と表現しますかね。自己愛と呼んでも良いでしょう。
もう一つは相手を満たしたいと思うもの。相手を満たす格好をして自分が満たされたいというのは自己愛でしょうから、見返りを期待しない自己犠牲を基にするものですね。
両者は単純に得ることとと与えることというベクトルの違いとも言えますね。必死になって人々が得よう得ようとするのは、自らが乏しいからだと感じる渇きが根底にあるからですが、そこに向かえば向かう程に脳神経はダメージを受けて鈍くなって行くんです。得ても得ても満足しませんから、さらに鋭い刺激を求めて突き進んでいくんですね。そのまま行くと先が見えてくるのでこの安全機構が作動して鬱になり、身動きできなくなるのです。
どう思いますか? 最初から人間はこのようにデザインされていたということなんです。それ以上そっちへ行くなよ、、、とね。生真面目な人は真剣に自分の人生について考え悩みますから、そこに気が付くのが早いんですね。このままじゃあいずれ破滅するな、、、と。そうなる前にと悲観して命を断つ人もいる。
だからね。人の行き方はもう一つあるんだって!! 得ることが幸せだと思い込んでいる人にとっては、自ら損をするなんて馬鹿な奴だなぁーと言われること請け合いなのだけれども、残る道はもう一つあるんだって、、。それがこの世界の本来の法則なんだわ。
見える世界のことだけで完結させようとするから奪い合いになるけれども、本当は見えない世界が見える世界を支えているんだ。20世紀最大の発見はエネルギーと物質が行き交うという見えるもの見えないものの関係性を示したものだったけれども、見えるものは、見えない圧倒的なものに支えられ、供給されて存在しているんだ。あなた自身もそうなんだよ。自分で勝手に生きていると思っているから気付いていないだけ。
その源に直結されてその法則に従えば、人は生き、世界は再創造される。一度わかってしまえば実に単純な話なんだな。与えれば尽きてしまうはずのものが無限に供給されてくる。それはこの世界の創造主の本性だからなんだ。その思いに寄り添い同化する者をどこまでも祝福しようとされるんだ。きっと居るでしょ? そういうやつ。あなたの近くにも!
今回はこんなこと書くはずじゃあなかったんだけどなぁー〰 想像力からのテーマだったのが逸れちまったわ、

2019年 01月 30日
伝えたいこと
多くの人は普通、より多く得るために生きている。より多く得ることが幸せにつながると信じているからだ。
一方人生では与える事が求められる場面がある。例えば子育ての場合だ。自力では生きていけない赤ん坊に親はあらゆるものを与える必要を迫られるんだ。
与えるということは得たものを放出すること。言い換えると失うことだ。または奪われるとも表現できるだろう。これは、得ることが幸せだという価値観からすると不幸だということになり、子育てで自由を奪われる母親や、妻を子供に奪われたと感じる夫は喪失感やストレスを感じたりするわけだ。それから今の子育ては、一生懸命なほどにどんどんお金がかかる仕組みになっているからねぇ。
だから得ても得ても放出を迫られるので、更に必死になって得ようとせざるを得ないんだ。
でもどうだろう。落ち着いて考えてみて欲しい。どこまで得たら満足、安心できるんだい? 不安だから不満だから必死に働いて努力して得ようとするんだけど、ゴールはあるのかな? これで良かったと本当に満足できる時がいつか来るのかな? 僕はね。最後の最後まで追い求めるけど得られなくて、もがき続けていた人生を何人も見てきたよ。
おそらくね。得れば解決があるという向かい方に解決は無いんだ。欲に終わりはないからね。不安が不安を駆り立てるんだ。世の中のマーケティングの殆どはこれで成り立っているからね。
それじゃあ残されている道は何か、、。それは今持っているものを自発的に与えていく道だ。それによって何か返ってくることなど期待せずに、全力で放出することに集中するんだ。そしたらスッカラカンの一文なしになるじゃあない! って思うでしょ?
実際それができたらね。とんでもない宝を得ている事に気付くよ。やってみれば分かることだけれども、実際したことがないのでなんの事だか誰も分からない。これは単純な物質の話では無いからね。
自分の全てを相手に提供する覚悟をすること。もし、これが可能になるなら、その人の行動に制限はなくなり完全な自由を手にする事になる。実行不可能なことは無くなるんだ。これを『愛』というんだね。
それで実際あっという間に人生が終ってしまいそうでも、実のところそうはならない。なぜならこの世界の創造主であり保持者である方の本性は『愛』なのだから、、。全てのものを保持していてあらゆる良い物を私達に与えようとされている方は、その思いに共鳴して動くその人を応援しない筈はない。
実際圧倒的な追い風を受けて進んでいくことになるんだね。与えても与えても上から供給されてくる。そうやって、踏みつけ奪い合うことに陥ってしまった世界は回復されて行くことになるんだ。今がその時なんだな。

2019年 01月 26日
天国の保証
コリント人への手紙Ⅱ 5:1-5 JCB
https://bible.com/bible/83/2co.5.1-5.JCB
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今回のお出かけ訪問での中心命題は『御霊』。聖霊、英語ではholy spilitですね。キリスト教では父、子、御霊と言われているところの、父なる万物の創造主から送られ、キリストイエスを駆動した目には見えない実働部隊です。様々な話をする中で、この御霊の実力が如何なるものであるのかということがやり取り中心になって行きました。
それで今回話しをした牧師さん夫婦と私とでは、丹念に見ていくと聖書の見え方も違っているということ。そしてその違いの決め手になっているのが、新約聖書のあちこちに出て来て何となく読み流しているこの『御霊』が鍵になっているようだと気が付いてくれました。
僕から見れば、そんなこと聖書を見てみれば当たり前のことだろうが、、、と感じることでも、長らく聖書とはこういった解釈で読みべきだというその人の手垢のついた理解が多数入ってしまうと、現代の学校教育のように頭が固くなってしまって真っ直ぐに真実を直視するということがし難くなってしまうようです。信じるなんて本当はごくごく単純で当たり前のことなんですけどね。
牧師さんみたいに、自分がよく分からない状態でなまじ人にあれこれ教えるような立場に立ってしまうと、語ったことに対する責任を感じて、更に自己正当化してしまうことによってより自分の感性を閉ざしてしまうという悪循環が起きてしまう。そうなると、心はどんどん暗くなって鬱的になってしまうわけです。
このメカニズムは宗教の世界の特異なものではなくて、あらゆる現代社会の人間組織に於いて共通のものです。だからこそ、何が真に確かなものなのか! 私達が本当に必要とするものは何なのか、私達を真に活かすものは何なのかということが大切になるんです。それをもたらす決定打がこの『御霊』なんですね。
この『御霊』は、上の本文でパウロが書いた御国(天国)の保証と書かれたり、天国の前味と呼ばれたりします。つまり、御霊を持つ者は天国を持つんです。だからその人が行くところに天国が展開されるんですね。イエスが『もはや御国が来た』と語ったのはこのことだったんです。
だから聖霊を持つ者が行くところ、その人が何をするとか何を語るのかということと関係無しに、大きな変化が起こるんです。何が本当のことなのかということが明らかになり、人々はその光を真っ直ぐに求めるようになる。そうやって人々の抱えている諸問題が解決していくんです。
御霊を持つ人は地上を天国のように歩むんです。そして天国を拡大して行く、、。そして、いずれその時、、が来ます。そのようにして密度高く燃焼する人生を私は愛するんですね。

2019年 01月 22日
自分のいのち
マタイによる福音書 16:24-26 新共同訳
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私達にとって一番大事なものは自分のいのちだと学校や社会からはそう教わって来ました。戦前は少し違っていたのかもしれませんが、、。
これは誰もが疑いようのない事実のように感じますが、最近何度か市民講座で足を運ばせて頂いている浄土真宗も、聖書もこの『自分のいのち』と言うやつが人をどこまでも苦しめる害毒であると語ります。
これはどういうことでしょうか? 上で引用したイエスの言葉使われている『命』はよく見ると2段階使われていることが分かると思いますが、最初に使われている『自分の命』とは自分を最優先にしたいという思い、自己保存欲求、自己愛のことです。それは本能的に己の身を護ってくれるものですが、実はこれが厄介なものなんです。別名をエゴとも言いますが、本来自分を守ってくれるはずのそれが却って自分を縛り付け見動き出来なくするんです。人と人、国と国が争うのも源泉は、不安から来る己を守りたいという根源的欲求から生まれてきます。人の生きづらさ、苦しみの元なんです。現代社会を蝕んでいる鬱の元凶もここにあります。
ではどうしたら良いのかという問題ですが、イエスであれば『わたし(イエス)のために命(自己愛)を捨てよ』と呼び掛けます。要するに私の人生と一体化、同化せよと言っているんですね。そうするとその先に新しい命を得るぞと語っているんです。これが2段階目の『命』の使い方です。結局は日本語読解能力の問題かもしれませんが、この辺りが読み取れて来ないと単に支離滅裂な文書で読み流してしまうことになります。
浄土真宗であれば『弥陀の本願にすがる』ですね。阿弥陀(アミダーバ)というのは『光の源』の意味で彼はどうやっても全ての人々を救うぞ!! という請願、覚悟を立てるんですね。それを『弥陀の本願』と言います。この本願に身を添わせ、同化して行く。これが『南無阿弥陀仏』(光の源に帰依します)なんですね。
キリスト教であればこの『本願』の中身が『十字架』という形でよりはっきり描かれているわけです。僕はこんな風に日本の仏教の源泉を見ているわけです。時間が経つと形だけが伝播されやすくなりその源流を追うことは難しくなりますが、最澄も空海も法然、親鸞もこの事はよく自覚していたであろうと思います。
あれ? 一番大事なところをサラッと抜けて行きましたかね。結局どんなに外側から観察して見たとしても、己をそこに投入すること無しにはどうにもならないことなんです。
もし仮に、、ですけれども己の身の安全や利益を全く顧みないで行動する事が出来たらどうでしょうか? そんなの直ぐに自滅しちゃうだろうって思うのは、自分の事が気になって仕方がないからです。
自分を抱きしめる為だけに使っていた両腕を解放して、それまでには実行不可能だと思われていた事柄に自在に取り組むことが出来るようになるのだとするならば、、。
これが自分の事は神が保証するという信念に立った生き方なんです。だから己の心配をする必要がない。だから存分に自分の命を他者のために投入出来るんですね。そういった世界が現実に存在するということを諸宗教は述べているんですね。まっ、それも個人の自由なんですけれども、、。
長くなりました。

2019年 01月 21日
ヨセフ物語
んで昨日は、久し振りにキリスト教会と呼ばれるところに出掛けて行って牧師さんのお話を聞いた。どういうわけかそういう記事をSNSの応答が大きいんですよね。何なんですかね。僕がそういうとこに行くのが珍しいのか、確かにあまり無いんですけれども、もしくは皆さんそういった所に潜在的な関心があるんですかね。
僕はね。キリスト教会に行くと、懐かしい〜という感覚を覚えると同時に、腰の落ち着きがどっかおかしいというか、俺の来る場所じゃあないなぁ〜という両方を感じるんです。それは昔も今も変わらないですけどね。今ではそれが何であるのか良くわかりますが、昔はなぜそう感じるのかが分からなかった。分からなかったのでそれなりに混乱したのですけれども、色々といい経験をさせてもらいました。
こんな感じですのでふらっとどこでも訪ねて行きますが、ずっとそこに掛かりっぱなしのようになる事はなかなかないでしょう。その辺りのことをもうちょっと掘り下げて書いてみようと思います。
もうこの前置きで長いですね。今回聞いたお話しは旧約聖書創世記37章のヨセフ物語。検索してみるとディズニーのアニメみたいなのにもなっているんですね。夢見る男としてね。有名な話しですから日本人だとしてもこのぐらいの事はリベラルアーツとして知っていなければこれからの社会では通用しないと思いますよ。(偉そうか、、、)
粗筋はこう。アブラハム、イサク、ヤコブと続いてきた一族の歴史はヤコブに後に12部族と呼ばれる12人の子供達に恵まれることになるのですが、一夫多妻ですから腹違いの兄弟がたくさんいるわけです。その中でヨセフというずいぶん下の方の弟が父親に溺愛、特別扱いされていて兄たちの反感を得ることになる。このヨセフという青年、よく夢を見る男なのですけれども、ある日兄たちがみな、自分に頭を下げに来るようになるという夢を見ることになります。それを見た彼は、ただでさえ反感をかっている兄たちに見たままをそっくり話してしまうんですね。天真爛漫、何も考えていないんです。自分が体験したあるがままを語っただけ。
それでどうなったかは言うまでもないでしょう。怒り狂った兄たちはヨセフを殺そうと画策します。荒野に連れ出して人知れず殺ってしまおうとするんです。だけれどもそれを忍びないと思った兄の一人が、直接手を下すのではなく穴に投げ落としておいたらいずれ死ぬのは明白だから、、と提案してあとでこっそり助けるつもりで作戦を練ります。
一度火が付いてしまった人の怒りって凄まじいんですね。行くところまで行かないとおさまらないんです。そうやって穴に投げ込まれたヨセフのところに、ちょうど隊商が通りかかって奴隷としてエジプトに連れて行ってしまうというお話し。周辺の話に興味を持ったかもしれませんがここで切りますので直接読んでくださいね。検索すればいくらでも出てきますから、、創世記37章かヨセフ物語で、、、。
それを元にした牧師さんのお話しでした。別に特別突飛な話はどこにもありませんでしたよ。ただちょっと気になるところはありまして、ヨセフは兄たちからも一人だけ孤立して孤独だったと言うんですよ。皆さんウンウンって聞いているんでしょうね。でも私にはそうは見えてこない。客観的に眺めれば確かにのけ者扱いのように見えますね。でもヨセフの内実はどうなのかということなんです。帰り際に挨拶して下さったので、『ヨセフは孤独では無かったと僕はそう思いますよ』と玄関先で言いましたが、『彼は周りの空気を読めない人だったのかもしれない』と牧師さんは返答してくれました。
僕のことですかね。(笑)それもちょっと違う気がするんですよね。ヨセフは空気を読めないのではなくて読む必要を感じていない。同じじゃないか!!と言われるかもしれませんが、彼の魂の置かれている現状が他の兄弟たちとは異なっているんです。ここで一気に分からなくなりますよね。それで見識が異なるわけです。
僕が見るにね。孤独で不足を感じていたというならば、それは兄弟達の方なんです。父の心子知らずで父の愛に飢えていたんですね。それで弟が可愛がられるのがどうしても許せなかった。それで結集するわけです。孤独だから群れるんですよ。そうでしょう?
それに対して、そうする必要をヨセフは感じていない。充分に満ち足りているんです。孤独じゃあ無いんですね。だから兄弟の心を逆撫でしてしまうようなことも平気でしてしまうんです。祝福を受ける、約束を受ける者の性質ってこういうものなんです。能天気で無防備。お人好しなので損得なんて考えないし、無警戒で牙を剥こうとする相手に近づいていく、、。んでガブッとヤラれるわけなんですね。
ああ、やっぱり!! と当然そうなるわけなんです。ヨセフはヨセフで奴隷として売り飛ばされていきますが、やっちまったお兄さんたちも大変ですよね。証拠隠滅するのに剥ぎ取ったヨセフの服に動物の血をつけて野獣に襲われて死んだみたいだよ! と親父のところへ持って行くんです。親父の哀しみと言ったらそれこそ目も当てられない。ずっとその後泣き続けて暮らします。ヨセフの内に特別な何かを見とっていたんでしょうね。助けようとしていた兄弟の一人も穴に戻ってみたらもはや弟の姿が無い。万事休すです。
それで売られたヨセフと残された家族はその後どうなって行くんでしょうね。えっ? それも書けって?? 自分で読みなよ。
2019年 01月 20日
得ることと与えること
人は裸で産まれ裸で帰ると言われているが、人は何も持たないでこの世に生まれつき、様々なものを目に見えるものも見えないものもたくさんの人から注いでもらうことによって生かされ成長していく。
かつてされた残酷な実験ではあるが、赤ん坊に話しかけたり人としての接触を与えた子供のグループと、栄養は与えるけれども極力それをしないで育てたグループに分けてみたという話がある。詳細の真偽は分からないのだけれども、人間的な接触がされずに育った赤ん坊は1歳を迎えずにみな死んでしまったということらしい。
『人はパンのみに生くるにあらず』とイエスは喝破したのだけれども、誰かから自分は大切にされていると感じることができないと、いずれ人は死んでしまうようだ。目に見えるものだけでは人の命は保たれ続けないのだ。
人はみな、何かへの渇望を感じて生きている。何かが足りない、何かが満たされていないと誰もが感じており、そのことが行動の源泉になって様々なドラマが生まれ、それらが絡み合って歴史が紡がれていく。
だから皆その足りないものを得ようと、自分の足りたないところを何かで満たそうと必死なのだ。そしてその利害関係、力関係に打ち勝って行くために必死に努力するんだ。そう奪われる側の負け組ではなく奪う側、得る側の勝利者になるために、、。
それが何処もそこも常識化しているので、この世界ってそういうものでしょとおっしゃるかもしれないが、いや本当にそうなのかい? と問いかけたいんだ。
確かにこの世界はどんどん資源を失って行っているように見えるし動物にとっても植物にとっても生き辛く、種は次々と姿を消していく、、。だから増え続けていく人類が奪い合うようになるのは当然のことであろうとも考えられる。
だけれども歴史を見てみるに、人類は現在の1000分の1という数だった時代から結局は同じことをして来たんだ。だからリソースの大小は問題にならないのだと思う。多く持っても少なく持っても人は渇望し、満足することが無いのだ。
テレビをつけてみるとショッピングチャンネルが延々と流れている。その発信されるストーリーはどれも同じパターンだ。
まず人生にお困りお悩みの誰それが出てくる。その人がどれほどその物事で苦しんで来たのかを一通りやった後。ある物事を得たことでスッキリ解決したという別な人の物語になり、どれほどそれが効果のあるものであるか、そしてそれを得ればあなたの問題もズバリ解決するであろうと、しかも今それを得れば特別に安く手に入るということで背中を押すんだ。
まぁこんな感じだろう。これがたくさんのチャンネルで延々と放映されているということは、その需要があるのだろうし、皆渇きを持っているという証拠なのだろう。そして何かを得れれば問題を解決できるとそういうメッセージを受け取り、それを繰り返すことで生きている。
繰り返すということは、それを得ることで結局は満足していないのだ。一瞬は何物かを得たように感じたとしても、また直ぐに渇く。むしろもっと渇く。そうやって次々と購買意欲を促進させるように実は商品開発されているからだ。家電商品などはソニータイマー等と揶揄されたりするが、ちょうど良い頃合いに故障するように調整しておくのが、ものづくりの妙技だと言われている。壊れない商品を作ってしまうと次の商品を売り込むことができないからだ。あからさまにそうでなくとも、次のコレはココが違うんですよ〜と昔の奴はを使ってると時代に乗り遅れちゃいますよーとまくし立てる。
原発なんか考えてみてごらんよ。あれを国策で導入推進した時、温室効果ガスキャンペーンを張ったんだ。化石燃料はもう直ぐ枯渇する。しかもそれを燃やし続ければ気温が上がって人が住めない世界になる。それを解決するのが未来のエネルギーである原子力である!! とね。原子力が普及すれば無限のエネルギーなので、いずれ電気代がゼロになるとさえ嘯いたんだ。そうやって盛んに宣伝活動したことなど、当の本人たちもすっとぼけて忘れているでしょうけどね。
蓋を開けてみれば事故が起きてあれもこれも嘘だった!! 僕たちは騙されていた! となったのだけれども、あんなの最初から嘘なのよ。どれもこれも人の終わりのない欲が産み出したものなのさ。その最たるものが原発のような形になって、私達に利益をもたらすと思われていたはずのそれが、あるとき一挙に牙を剥いたんだ。地元民の我々は殆んどが知らないだけで、いつも小さな牙を受け続けて来たのだけれども、、、。
長々と書いてしまったけれども、私が訴えたいことが分かりますか!! 人はね。得ることで喜びを得ると思っているかもしれないけれども、本当は逆なの。自発的に与えることを始める時に強烈な衝動というか喜びを感じるようにデザインされているのよ。それが自分の人生、時間やモノやお金をいったいなんの為に用いるのか! ということなんですよ。その使いどころを明確に見つけた人は幸せなんです。周りから見てどんなに損な人生を送ったと見えたとしても、本人の心の中の喜びと平安は誰にも奪うことはできないんです。そしてそれは連鎖する、、。だけれども学校も社会も誰もこのことを教えてくれない。
いつの時代もそうやって身を捧げてきた人たちに、この世界は支えられて来たんですけどね。そういう馬鹿が極端に減って見かけなくなって来た。それで世の中はグンと暗くなって見えてるんです。
若者達を見ると、あとはヨロシク、、と言いかけてしまいそうになるのだけれども、このままではあまりに申し訳ないでしょ? と思うんだ。このままでフェードアウトするのは許されないでしょう? 僕たちの世代もまだ生きている上の世代も、どこかでそれを断ち切らないと世の中終わっちゃうからさ。
というわけで僕はそのような生き方革命で世の中をひっくり返したいんです。😁
写真)昨日見た富士山
