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百姓根性

最近『百姓』という語句を用いて活動をされている方々を見かけたり出会ったりすることが多いのだけれども、原発事故で全てを喪ったとはいえ私も、福島で代々続いてきた百姓の息子としての埃、いや誇りを持っているつもりだ。

百姓という言葉は廃れつつある言葉ではあるが、使われなくなってきたのは、単に一次産業が衰退してきただけでなく、差別的なイメージが背後にあるのかもしれない。私の場合、そういった角度で自分を観てもらえるのは臨むところなので、自分のことを宗教研究家だって名乗ってみたり、人に??と思われるような角度を常に狙いとして定めている。

それで百姓だ。この姓という字を調べてみると、住んでいる場所とか仕事とかいう意味がある。要するに百の局面、百の仕事を持つ人々のことを百姓と読んだんだな。米という字が小学校で、お百姓さんが八十八の手入れをして大事に稲を育てたという意味があるんだと聞いたものだったのだけれども、実際かつての農家はあらゆる事を自活して執り行っていた。

現代の分業や機械化がされたものとは違っていたからだ。私が知っている範囲でも米作り一つ考えても、田んぼに水を引いてくるための土木工事や土手の補修、刈取りのあとの天日干しをするための木がけを造る技術。福島では、竹だったけれどもこの辺りでは木を使う、、。その他乾燥、脱穀、精米、その後の味噌や醤油に加工する様々な技術や知識が必要になる。それら全てを一つの農家でほぼ完結してやっていたんだ。それには勿論地域の結び付きが必須であったわけなのだけれども、、。

だからひとたび戦争や社会的動乱が起こったときには農家は強いんだ。単に食料生産ができるというだけではなく、自活して生活全般を回していける能力を所有しているからなのだ。百の職業を身に着けているからね。

それら一つ一つが飛び抜けてプロフェッショナルだという必要はない。それらは相互に補い合う関係性になっているので突き抜けていなくても組み合わせやバランスで大抵のことはなんとかなってしまう。この感覚がすごく大事なんだ。

混迷している世の中において単純な固定された答えで解決することはほとんどない。複雑な局面に分け入って行って、その場で丁寧に一つひとつ試行錯誤してみる精神性、能力が必要になる。要は問題解決能力なんだ。これは学校教育のような正しい答えのようなものが書いてある教科書を暗記することでは得られようがないんだ。

今必要とされているのは、百姓の引き出しの多い柔軟でしたたかな戦略なんだ。百姓的精神とでも言おうか。これがだめなら、あれ、それと試してみてそれでもだめならアレとソレを組合せてみる。また人と人のネットワークで対処してみる。これが百姓根性なんだ。

僕はこれを地域に、人に回復させたくて活動してるんだな。あれっ、こんな事まで書くはずじゃ、、、
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# by dynabooksx | 2019-01-11 11:48 | 真也の視点

新しい朝に

新しい朝ごとに聖書を読んでみる。そうすると不思議なことにその書かれていることの意と同じ内容のことが、腹の中から湧き上がってくるような感覚になる。同じものが最初から内側にあって、読むことで呼応して顕在化するんだ。

何を今更そんなことを、、と言われるかもしれないが、最初にこれを体験したのは17歳の春のことだった。受験が迫っていて自らのアイデンティティーに悩んでいた時、どういうわけか手持ちの口語訳聖書が読みたくなって開いてみたところ、それが勝手に圧倒的に流れ込んできたのだった。当時、それは自分でもなんのことかわからず、ただただ出会うべき相手と手会うべくして会ったという感動で止まらない涙で分厚い本がグネグネに波打つ程になってしまったのだけれども、こんな事は他人には理解不能なことだろうと家族の誰にも打ち明けることすらしなかった。

今でもその時の感動は全く色褪せてはいない。それどころか繰り返しくりかえし甦って来て最初のところに呼び寄せるんだ。よくよく考えてみると僕の人生は最初からこうなる様にと定められていたという気がするんだ。そう考えるとこれまであった様々なことの筋道が通るし、強力な磁場のようなものがいつも周辺にあってそれによってあるべき所へいつもいつも誘導されていたように思うんだ。

もう僕の地上での人生は、最期のまとめの所に来ている。準備期間が完全に終わったと思えるからだ。だからあとは真っ直ぐにするべき事をするのみ。行くべきところを行くだけなんだ。最短距離で駆け抜けるつもりだよ。終着点が明らかに見えた以上もうまわり道する必要はないから。


なんて清々しい朝なんだ。これまで、震災後は特に長生きなんかしたきゃないとそう思っていたけれども、こうやって生きている一日一日がどうにも愛おしくて、、。まだもう少し時間を下さいと強く願うんだ。あと一日、もう一日あれば為すべきことを為しますから、、、と。切ないけれども、こんな幸せな思いに日々包まれて暮らすなんてね。

いつ死んでもいいと思って日々を暮らして来たつもりだったけれども、一日でも長く時が欲しい。時の長さと人生の密度が比例するわけではないんだけどね。
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# by dynabooksx | 2019-01-09 06:45 | 信仰者の歩み

一つとなるということ

ああ、よくよく分かってきたぞ! 一度わかってしまえば単純なことだわ。

これはね。古い母集団から新しいものが飛び出ていく場面なんだ。どちらが正しいとか上とか下だとかいうことじゃあない。見方によったら分裂するという悲しい事件だけれども、必然的にそうなるしそのことによってかえって両者が互いに一新されて強く結び合っていくという未来もあるのかもしれない。今までだといがみ合って別れていくというのが普通だったかもしれないが、、、。

例えば子を持つ家族から子供が独立していくという場面。子供は親の価値観を強く引き継ぎながらも、それとは違うものを構成し新しい伴侶と一つになっていく。子供は親から受けたもので独立し、世に出て新しい群れを切り拓いて行くのだ。親達が、子供が離れて行くのが哀しいと自分たちの側に縛り付けておくことを選ぶとしても、健全な子供なら振り払って飛び出ていくだろうけれども、心優しく未成熟な様子ならば違う結果になるだろう。子供は子供で未熟な親を察して、心配して離れられないんだ。

だからね、親と子供がいずれ独立していくのは自然なことなんだ。師と弟子の関係でも同じ。先々独立していくことを願ってはいない親方は師匠とは呼べないだろう。健全であれば持っているものを弟子に全て手渡して、その弟子がまた新しい弟子を育てていけるようにと願うだろう。そうでなければ搾取ばかり考えている悪い主人と奴隷のような関係性になってしまう。

僕はね。確かなものを得たと思うのだったら、世に出て独立して新しい群れを持ったらいいという立場というか現状にあるんだ。むしろそこから次に枝分かれして行っていいという場面かもしれない。もういい歳のオッサンだからね。

それでもう一方は、これまでの母集団の維持、牽引のために身を尽くすのが本筋だろうが、、という考え方なんだ。それはね。そのやろうとしていることの本質には大差はないと思うんだ。ただ、分かれるときに分かれるべくして別れるといったところだろうか。大差はないとは言ってもそうならざるを得ない事情がある。現実というのはそういうものなんだね。それはこれまでの歴史を見てみるとよく分かる。例えばキリスト教会の歴史。仏教でもいい。どうしてこれほどに何何派、何教団と溢れているのか。傍から見ると不思議であろう。地面が繋がっているのにこんなにたくさんの国が領土を競い合っているのもよくよく考えてみると不思議なことだね。

んでもね。そんな僕にお前にはまだ手渡したいことがあるんだと呼びかけてくれる母集団があるってのは有り難いことなんです。それで僕の側にも、その母集団の側に持ち帰ろうとするものがありますから、、。そうなるとどうなりますか? もしかしたら、これまでの歴史を逆転させるような事になるかもしれない。結局ね。宗教の世界なんかは結局、進歩主義ではなくて復古主義なのよ。

時間を経て行けば行くほどに優れたものになっていくというのは、現代人にとっては当たり前の概念のように思うかもしれないけれども、歴史的に見ればこれは啓蒙思想以降近代の思想の流行に過ぎない。ずっと長いこと人類はそういう世界観を持ってはいなかったってことなのよ。ビックリするでしょ?? そこにどっぷり浸かっていると分からないことでも別な国に行ってみると気が付くことがあるというやつよ。僕は歴史、宗教の観点からものを見ているからね。

聖書の世界観からすると最初に創られたものがほぼ完成形であって、そこから時代を経る毎に失われて行くという全体の流れの中にあって、その何処までも崩れ去っていくままにしておくのを良しとしない神様とそれに呼応する人々が随所に登場して建て直すという場面。んで教派が枝分かれする場面ってのは、未だない新しいものになるというよりも古いものに回帰する運動なんだ。原点に戻ろうというやつね。そうやって回帰するところと続いて風化していく所の繰り返しだったんだ。結局グルグル同じところを周っているわけ。だから細かく枝分かれしていても本当は一つになれるはずなんだな。

今はそういう歴史的な転換点に立っているのかもしれない。グローバリズムという言葉が拡散しているけれども、これは個の解体を意味する。本質的に差異のない看板だけのものは、どんどん統合されて見分けが付かなくなっていく。良くも悪くもそういう時代なんだ。それ対抗する動きも強く出現するだろうが、大筋の流れは、資本主義という欲をどこまでも拡張していくことをを是としていく文化で呑み込まれて行くのだろう。そこで最期まで遺るものは何か、、という問いなんだな。

良く見通しが立ってきたところで、戦いの狼煙が上がるということだ。
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# by dynabooksx | 2019-01-07 08:04 | 真也の視点

いのちの水

昨日ふと水と水の流れについてのイメージが浮かんできた。

我が家の前には天竜川の支流になる一級河川が流れている。現在水道民営化等で水資源のことが取り上げられることが多くあるが、水と安全はタダと評されるように日本の水資源は世界的にも豊かなので(中国は水源地を買い漁っている)、私達の生活に欠かすことができないものであるにも関わらず、あまりにも当たり前になっているので改めて意識することは少ないのかもしれない。

聖書においても水はいのちと重ねられて述べられている所を多く見かけられる。乾燥帯である中東では水をもたらす井戸や泉の確保が死活問題になるからだ。私も福島で会社経営をしていた頃の名刺には表側には『水のリサイクルをお手伝い』という水処理業のキャッチフレーズと共に裏面にはこう書いておいた。

『本当はいのちの水をお届けすることをしています』と、、、彼はこう言います。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13〜14)

最初のところで出てくる『水』はその前の文脈を見ると分かるのですが、井戸で汲み上げた水のことです。そこから続く内容はちと状況が違うということがわかります。その人の内で泉となり湧き出るとありますからね。ここはもはや物理的な水のことを言っているのではない事に気がつくでしょう。

一度飲むと再び渇くことがない水。それどころかそこから溢れ出してあらゆるものを満たし切っていく力。そんな『水』があるのだというんですね。

この水はね、不思議な性質があるんです。物体としてのそれに意味があるというよりも、流れ自体に力を有している。川の流れがありますよね。自然によって生じるものですから、ここもかつて暴れ天竜と呼ばれるぐらいに氾濫の多かった地域だと聞いていますが時にそういった牙をむくこともあります。

人は生命に必須なこの水資源をなんとか有効に用いようと長いこと苦心して来ましたが、近代まで多数造られたのは水路、時に硬い岩盤をツルハシで打ち抜いてトンネルを掘りました。現代ならば専らダムですね。発達した土木技術が巨大なコンクリートダムの建設を可能にしました。

これで私達の生活の現場で使いたい時に使いたいだけ私達の目的に沿ってそれを使う事ができる環境が整ったはずでした、、。

確かに、、私達の暮らしは飛躍的に便利になったのかもしれない。だけれども自然を見てみようか。私も外から来た人間なので、ダムが出来る前のこの地域の姿を見たことはないし年齢上そこに届くことはない。だけれども、我が家の前を流れる川の水が死んでいることぐらいは直ぐにわかる。近距離で二段ダムが設けてありますからね。また蛇口を捻るだけで使える便利な暮らしが実現しましたが、私達の日常はインフラが整えば整うほどに決定的に大切な何かが抜け落ちていることに気付かされてくる。私達のための便利な暮らしが、、実は虚しいのだ。

私達は水資源を確保したり発電に使うためにダムでプールすることを思いついたが、同時に多くのものを失い結局は自分たちの首を締めかねないことに気づき始めたんだ。水は川の流れを止めてしまうと淀んで死に水になってしまうのだ。

わかるかい? 水は流れ自体に力を有しているんだ。だからそれを人の欲望で都合よく用いることはできないんだ。私達ができるのは、すべきなのは水の流れに自らの人生を重ね合わせ委ねること。その時にこの『水』は真価を現すんだ。

力強い水の流れを感じる。人が自らの欲によってせき止められ澱んでしまったものを押し流し、土石流のようにあらゆるものを飲み込み新しく創造して行くその流れが近付いて来る物音を、、

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# by dynabooksx | 2019-01-06 08:58 | 真也の視点

日本的ナルチシズムと鬱

鬱という現代日本の象徴的なテーマを考え続けて来ているのだけれども、このように優れた論客が増えてきていることを喜んでいる。

日本的ナルチシズムと名付けられているけれども、集団社会の中で自分の存在、価値を認めてもらいたいという欲求、自己の存在目的の喪失から来る終わりのない穴埋め作業に絶望し、心身ともに疲れ切ってしまった状態を『鬱』と呼ぶのだろう。

では、他人に必要とされる、重宝されている。社会から重要なポストを与えられていたのならば本当に自分の価値に満足できるのだろうか。ここいらに住んでいると、旦那がフィリピンパブでいい人を見つけてしまってある日蒸発してしまう、、というケースをよく耳にする。閉じた山間の街で特徴的な出来事なのだろうか。多くは社会的に充分な立場や家庭での夫としての重要な役割を持っていただろうと思われるものばかりだ。

その重圧に耐えかねたのだろうか。役を当てられたら満足するというのではないような気がする。必要とするのはもっと内側から日常的に支えてくる、湧き上がってくるところの力、これで良いのだと心から言うことのできる価値なのだ。

その人生の軸をどこに備え付けて行くのか。これが最も重要なことなのだけれども、世の中の書店にあれほど書物が溢れていてもそれにまっすぐ迫るものをほとんど目にすることはないし、人々の会話に浮かぶこともない。もしかしたら見かけているのかもしれないが、当人のアンテナがそこに向いていなければ、自分には関係のない不快なものとして通り過ぎているのかもしれない。

『鬱』が他人から認められたい、自分が価値あるものとしての実感が得たいという根源的な欲求を満たすことができないことから来る病気の現われなのだとすると、2000年前に生きてまた十字架にかかって死んだあの男の人生をよくよく観察し、その魅力に引き寄せられていくことで解決するだろう。いや、外側から伺っていただけではどうにもならないかもしれない。理想と現実のギャップにより苦しむ結果になるかもしれない。

だから、、鬱で苦しみ続けた人には近いところにあるんだ。自分の人生に死ななくてはならない場面に追い込まれてきた人たちだからね。普通血気盛んに俺はこれこれをやるんだと息巻いている人たちには行き着けない世界だ。そういう人はとことんそれを追い求めたらいい。自分の人生を捨てざるを得ない状況へ追い込まれている人、そういうところを通ってきた人に僕は語りかけたいんだ。その先に確かな道があるぞ!と、、、。

誰に認められることがなくとも、たとえ大勢の非難にさらされるような現場にあっても、揺るがされることなく淡々と喜びを携えて生き、また他人の人生をも活かしていく道がある。こう書いても実際に味わってみないと、体験してみないと分かんないでしょ? だからね。本気でやることに決めたの。

ずっとこのことを20年以上考えて来たわけなんだけれども、頭の中でぐるぐるしてても実現しなきゃ意味がないでしょ? どんなに良いものでも誰も知らなきゃ無いようなもんだし、、。だからね、愚直に残りの人生でやるわけさ。そう考えると一日、一日が楽しくてねぇ。そんで実際次々と状況が動いていくわけ、、。特に何をしてるってわけじゃないのにね。不思議なんだな、これが、、。長いことかかってやっとピースが揃って本来のあるべき形に戻ったという感じなのかな? だからここからが面白いところ。何が起こるかわくわくして目が離せないんだ。

本文からかなり外れちまったけどまぁいいや。ナルチシズムを断ち切るために、世間的な非常識を背負わなければならないというこのお医者さんの苦悩はよく分かる、、。


# by dynabooksx | 2019-01-05 13:20 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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