詩篇 第46篇

1神はわれらの避け所また力である。悩める時いと近き助けである。2このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。3たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

[セラ4一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまい喜ばせる。5神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。6もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く神がその声を出されると地は溶ける。

7万軍の主はわれらと共におられるヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ8来て、主のみわざを見よ、驚くべきことを地に行われた。9は地のはてまでも戦いやめさせ折りやり断ち戦車火で焼かれる

10「静まってわたしこそ神であることを知れわたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。11万軍の主はわれらと共におられるヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ




10節の箇所。引用は口語訳であるが、「静まれ」というところ、新共同訳では「力を捨てよ」となっており、直前の節の内容と結びつきやすくなる。武器を捨て、力を捨てよと言うのだから、要するに無防備になれということ。必死に戦ってそれでもなお圧倒されてくる現状なのに、武器を捨てたら死んじゃいますよあなたという世界、、。この詩の作者は何がいいたいのでしょう。


1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。



でも、注意深く本文を読んでいくと、神自身が戦いの道具を焼かれる。それらが必要ないようにされると書いている。それによって人々は、力を捨て、神を知ることになる。「知る」ということは、神に心を寄せる、信頼を寄せるということ。人は神を知らなければ、その存在の保証をしらなければ、武器を取り自分で自分の身を守るべく戦わざるを得ない。しかし、神との関係を回復し、いのちを得た人にとっては、それは必要のないことだ。彼はいのちの使い道を知っている。与えられた自由を用いて存分にこの世界を飛び回る。それは「避けどころ」を知っているからだ。私達の避けどころ、それは十字架の下、、、。不安と欲とによって誘惑をし、戦いを仕掛けてくる敵に対して唯一対抗出来る場所。逃げ込む場所はすぐ側にある。自己を放棄して生きる道。誇り高い人間の尊厳に逆行して生きる道。イエスがその身を犠牲にして指し示した道。もはやわたしはその事以外は語らない。


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# by dynabooksx | 2012-10-17 04:10 | 聖書の言葉

人生の意味

これまできっかけがなかったけれども、演劇の世界ってどこかで頭突っ込んでいたらかなりはまっていただろうなと思う。なぜなら、そこは仮想の現実を作り上げて観客をその世界に引きずりこんである意味だますところだから、、。

世界観を描いたり、そこでちょっといたずらしたりするのが好きなんだな、私は。でも不思議なんだな。本来あらゆることに強烈な好奇心を示すはずの私が、大学に入ってからというもの、世界観や活動範囲を広げるどころか、むしろそれまで夢中になることができたあらゆることに関心を失って行って、最後の一点しかない人間としては非常につまらない男になっていった。私としては、手足がもがれるような大変気分が悪い出来事だった。なぜ、そうなるのか、自分の人生はどこに向かうのか。世の中の人々と歩調を合わせられない不器用な自分だということは幼い時から十分理解してはいたはずだけれども、私が抱えていたその問題を理解できる人は、誰もいなかったように思う。

しかし、それもここまで来るとその理由がはっきり分かってくる。私の人生は明らかに、意図的に切り落とされ、剪定されて来ていたことが分かる。ある目的を持って実りをもたらすために、私の意志とは関係なしに私の関心、動機自体を背後で支えていた方がおられたことが分かる。うすうす気がついてはいても、鈍感な私は、繁栄の道とは違うそれを認めることを良しとしなかった。

311が来る前までなら、人は私を成功者だと呼んだかもしれない。確かに良い社員たちに囲まれ経営は極めて順調で外から見れば何の問題もないように映ったかもしれない。しかし私の心は全く別なことを考えていた。それは私の道、これまで刈り込まれてきた道の延長にあるものとは違うのではないのか。私は大きな間違いを犯しているのではないのか、と、、、。

それであの事件があった。私はそれまでの自分の人生と、その後残されている時間を頭の中で測った。あとどのぐらい残されているのか。私の人生がここまであったことの意味を残りの時間で果たすことができるのか。私は負債を負っている。


私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ローマ1:14


これまでの訓練で為されてきたとおり、私は自分の人生の集約点を一点に絞る。神がそれを私に望んでいることが今はわかる。というよりも、ここまで来たならば諦めるしかあるまい。まだしばらく健康を保たせて欲しい。負債を返し終わるまでは、、。

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ヨハネによる福音書15章

1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっている枝実を結ばないものは、がすべてこれとりのぞき実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

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# by dynabooksx | 2012-10-14 06:58 | 真也の視点

「祈る」ということ

現在ヨハネによる福音書を進んでいるのだが、最近のハングアウトで繰り返し出てくるテーマがある。祈りということ、願うということ。パンク座談会では、「自己破壊を受け入れろ!」だとか「祈りは自己破壊だ!」ということが出て来ました。つまり聖書で言う祈りとは、「神に聞く」ことであって、行動原理の主体を自分から神へと変えることだということを確認してきたのでした。そんなところで見つけたのがこの動画。



祈りの二つの性質をよく説明しています。私もかなり以前からケセン語聖書は持っていたのですが、震災後に出版された「ガリラヤのイエシュー」という本があることは知りませんでした。北海道の友人から教えてもらって早速仕入れました。これから福音書を扱うときはこれをメインの参照テキストになりそうですが、ちょうどこの「祈り」について際立つ場所がありました。口語訳とこのガリラヤのイエシューを並べてみます。


16:25わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
26その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
27父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。

25このことをそなたらに、俺はたとえで語って聞かせた。
もうたとえでなど言わないで、父さまのことをはっきりと話して聞かせる時が来る。
その日が来ると、そなたらは俺の心に添いたいからと、心の底から願うだろうよ。
けれども、いいか、間違うな。そなたらのためにこの俺が父さまに頼んでやるとは、言っていないぞ。
27そのわけはこうだ。そなたらはこの俺をとても慕ってくれている。
この俺が神さまのもとからきたのだと本気でシッカリそう思っている。
それを御覧の父さまはそなたらを目に入れても痛くないほどそれは可愛く思っていなさる。
だからこそ、俺からお頼みすることはまるで無用のことなのだ。



強調したいところをにしました。これ以上しつこい説明はいらないと思います。その日、神の息が吹き渡る時、起こること、、、。
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# by dynabooksx | 2012-10-13 14:51 | 真也の視点

彼のこころを行うこと

ぐっと涼しくなってきました。今週の火曜、水曜は名古屋に出掛けていましたが、知人に「あれ?真也君半ズボンじゃないの?」と言われてしまいました。やはり東海ぐらいなら通年それで通すぐらいの根性が必要でしょうか。喉元過ぎれば暑さ忘れると言いますが、東海の暑さももうずいぶん前の出来事のように思いますし、あの震災以降これからもう2度目の冬を迎えようとしていることに、また新しいステージの到来を感じています。

8月後半から絶え間なく毎朝のハングアウトを続けています。いい大人が毎日毎日何をやっているんだと思うでしょうが、どこまでやってもネタが尽きるどころか、より深まって現実の事象に対して具体的にリンクして影響力を増していきます。その中で、タイトルに「彼のこころ」とした、この事が繰り返し登場しそれが鮮やかに、明らかになっていくことをメンバーは体験しているはずです。キリスト教徒であれば「御心、みこころ」と呼ぶのでしょうが、縁の無い人にとっては全く理解不能な文言でしょう。

人の心には様々な思いがあります。人が集まるところには、それらが多種多様に渦巻くことになりますが、私たちの会はそこに一つの理念を持っています。

日本の未来を考える座談会 中心理念

同じ思い、一つの思い、心を合わせと続きます。この文章は、パウロという人物がある集団へと向けて書いた手紙の一部なのですが、「わたしの喜びを満たして欲しい」とあるように人々の一致を求めていたことが分かる。人間は、他者との関わりによって生きもするし、また死にもする。ということを繰り返し書いてきたが、これは文字通りのことだ。多くの人が、この「関係」の破壊によって自らの命を絶つ。

この時代を眺めるに、どれほどこの関係の破壊、破滅が起こっていることだろうと思い知らされる。ちょっと目の前を覗いてみれば、家庭、学校、友達、会社、地域、いたるところに共同体の機能不全を見出すだろう。それがあまりにも酷いので、人々は自らが傷つくことを恐れ、心を閉ざし引きこもる。言論の自由だと憲法でうたわれているはずのこの国に、どこにそんな場所を見出せるだろうか。闇から闇へと隠してしまった自分の本当の心を打ち明けて、それを正面から受け取ってくれる相手、そんな親友に恵まれている人などどれほどいることだろうか。家族であっても、夫婦であっても相手を思いやるという名目の下に、本当は分かち合うべき多くのものに封印をかけ、物理的には近い所に住んでいながら、冷めた関係の中を呻きながら暮らしている。

今日の食事にも困るような途上国の子供達の輝くような目を見たことがあるだろうか。あれと日本の子供達を比べてほしい。子供達は正直だ。私たちは彼らを見て、かわいそうだと思うかもしれないが、彼らが今の私たちの日常を知るのなら、反対に同情されるかもしれない。
今回の震災で多くの人々がショックを受けた。ショックの受け方は様々だろうが、ついに時代は動くということを察知した人も多くいたことだろう。または、めくれて真実が露呈した原発にカバーをかけるように、必死に元通り中身が見えないようにと繕うことに必死になっている人もいることだろう。

時代はどこに向かうのだろう。自分の人生はどこへ行くのだろう。これは福島や津波の被災地だけではなく、日本、いや世界の人々を揺さぶっただろう。国は収束宣言をし、除染除染と元通りにするのだとつつがなく進んでいるように見えるが、一見無くなったように見えるこの揺れは、いずれあれが単なるスタートだったと思うほどに増幅していくだろう。人々はさらに戸惑い、道を求めざるを得なくなる。それがこの刈り取りの時代だからだ。

再び中心理念を書いてみたい。文語訳で、、。

1 この故ゆゑに若もしキリストによる勸(すすめ)、愛による慰安(なぐさめ)、御靈(みたま)の交際(まじはり)、
  また憐憫(あはれみ)と慈悲とあらば、
2 なんぢら念(おもひ)を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、
  我が喜悦(よろこび)を充しめよ。
3 何事にまれ、徒黨(とたう)また虚榮のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ。
4 おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。
5 汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。
6 即ち彼は神の貌(かたち)にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず、
7 反かへつて己を空(むなしう)し、僕の貌をとりて人の如くなれり。
8 既に人の状(さま)にて現れ、己を卑(ひくう)して死に至るまで、十字架の死に至るまで順したがひ給へり。


5節、汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。その中身が6,7,8の内容になっています。ここに焦点を合わせて朝の座談会を行っています。聖書にはこのような言葉もあります。

人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。 (箴言19:21)

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイ7:21)

これを見るといかにこの『思い』が重要であるか分かるだろう。そしてそれを伝達するものが、今やっている数日前のところ。

けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(ヨハネ16:13)

キリスト教会ではよく「聖霊を受ける」ということがテーマに上る。(または、消し去ったかのように全く会話に出ない場合もある) そしてそのことによって生じる特殊な現象に夢中になったりする。しかし私に言わせれば、そんなことはどうでも良いことだ。聖霊が伝達してくるものは、父の心、イエスのこころだ。それが自分の心に迫れば、人は行動原理を変えざるを得なくなる。イエスの成し遂げたかった思いを遂げさせたいと強く願い、それに突き動かされるようになる。それに対して世の何物も障害となることは出来ない。それは十字架へとまっすぐ続く道だからだ。

いったい誰が、そんなところに何物にもまさる喜びや、どこまでも連鎖していくいのちが隠されているなどと見出すのだろうか。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ14:6)
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# by dynabooksx | 2012-10-11 22:54 | 真也の視点

9月12日の日本の未来を考える座談会は、ひょんなことから、テレビその他で活躍中の武田邦彦氏のブログ記事について考察することになりました。ちょうど仲間が、彼が浜松で行う講演を聴きつけて、また別な一人がブログを覗いたら、ちょうどキリスト・イエスについて書いてあるから見てみろよ! という流れになったのでした。

本当は、昨日収録したかったのですが、どうにもシステムのエラーのようで今朝方録画しました。早速メールを送って、今日の講演前に5分ぐらい見たとのことでしたが、家に帰ってからじっくり見てもらっているでしょうか? どうぞ、彼の中に今のままでは満足できない渇きが起こされていることを願います。

出演者は、左から陶芸家げんさん、報道屋ゆきじさん、牧師ゆうくん、わたしの4人です。本編はなるべく1時間にまとめようとの努力で、集中力を落とさずほぼその時間にまとめました。密度の高い内容になっていると思います。武田先生にも見てもらえば、必ず何かは残す内容であるはずです。追加の返事が返ってくるかどうか、待っているところです。



ブログ記事はこれ
人生講座(7) 正しければ3年で、正しさもいい加減なら天寿を


わたし達がまとめたドキュメントはこれです。
https://docs.google.com/document/d/1KklFqBUagrR2R_oOBMcXB7XpZLcQuMPBdCVYTSh3xfk/edit
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# by dynabooksx | 2012-09-12 21:55 | 日本の未来を考える座談会

9月7日朝のハングアウト。前日は午前静岡、午後吉田町でチェルノブイリ~福島に関するイベント、勉強会があり、私とゆきじさんも参加してきました。結局そのどちらの会でも、つまるところは人の行き方、何の為に生きるのかという話になり、「日本の未来を考える座談会」の目指すところについても語ることが出来ました。「日本に魂を!!」はあらゆる分野で急務になっております。私達が届けたいと思っているものを、心待ちにしている人々がたくさんおられるだろうという認識を新たにされました。

それで、帰りは御殿場の方で強い雨が降ったらしく電車が遅れたこともあり、浜松のゆきじさん宅で泊まり、二階と一階からハングアウト。翌日の話題がピッタリではないかと誘っておいた春平太さんも、一日間違えて登場!! 初めての5人でのやりとりとなりました。内容はローマ人への手紙3章後半の「信仰による義」の部分なのですが、大半は春平太氏の霊界理論と中国を中心としたキリスト教と仏教の関わりの歴史の話でした。これからキリスト教について学んでみたいという入門ビデオとして使える出来栄えだと思います。本文については非常にあっさりでしたが、ここはキリスト教信仰の心臓部で、繰り返し繰り返し戻ってくることになるでしょうから、まぁいいでしょう。それにしても、いい顔してますね。イキイキしてますよ。春平太さん。

テキストはこれ。


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# by dynabooksx | 2012-09-07 15:46 | 日本の未来を考える座談会

粛々と進んでいます。

毎朝続けているハングアウトも、メンバーも入れ替わり立ち代りながらも早二週間になりました。動画のストックもどんどん増えていきます。ここまま半年でも続けたならば、どうなっていることでしょうかね。表のハングアウトの裏でも、facebook上で激しいやりとりが行われ、昨日のやつなどは、コメントが70を越えました。

やりとりがfacebookのアカウントがないと見ることが出来ないのが残念です。

日本の未来を考える座談会(日本に魂を)

この会の趣旨も載せておきます。
現在の日本の姿を憂う一人一人が互いに支え合い、いったい何がこの世界を歪ませているのか、そして何が私たちのあるべき姿なのかを考えていく。そして、あらゆる分野に心の革命を起こして、世の中のあり方をひっくり返すことを目的とする。
そのための戦いがどんな形で、どこにあるのか、それを共に深めて行きましょう。




youtubeのチャンネルはこちらで。
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# by dynabooksx | 2012-09-06 03:48 | 日本の未来を考える座談会

ハングアウトを記録することにして、今日で3日目になりました。ICBCの牧師、雄くんも迎えて4人体制も板についてきました。
やはりfacebookでは、タイムラインがすぐに流れてしまって、必要なファイル等にたどり着きにくいので、ここでこれまでのものを一度まとめてみます。

まず初回に引き続いて、昨日と今朝の動画。






※ 聖書箇所googleドキュメント(マタイによる福音書5章)

※ 聖書箇所googleドキュメント(マタイによる福音書6章)

※ PDF版 文語訳(大正改訳)新約聖書(1950年版)

※ 日英対訳聖書  英語対訳聖書 全文掲載

※ 黒崎幸吉註解新約聖書Web版
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# by dynabooksx | 2012-08-24 09:45 | 日本の未来を考える座談会

名前はひらめきで適当に付けたのですが、新しいことに取り組みはじめています。

まぁキリスト教的に言えば、ネット上の教会ですが、外に発信し、周りを巻き込んでいくことを主眼にしています。これは、Googleハングアウトというテレビ会議のシステムが手軽に出てきてはじめて出来るようになったことですが、うまい具合にyoutubeと連携していてストーリーミングや保存ができるというのが素晴らしい。

今朝のやりとりでは、そこにgoogledocumentを挟み、共同編集することで、その場でやり取りのエッセンスをファイル化する作業もできることを発見した。これは明日の朝、実際に試してみるつもりです。

現在、私の町双葉町では7000人の復興会議というのが行われていて、各地で今後についての話し合いが持たれます。こういう場所にも、これはまさに適切なツールです。そしてこういったものがあちらこちらでも当たり前に持たれることによって、人の知性は活性化され、意識も変化していくでしょう。そういうことを私たちは仕込みたいのです。


facebookでグループを作りました。

日本の未来を考える座談会

次回の資料

マタイによる福音書第5章

最新の動画


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# by dynabooksx | 2012-08-22 11:24 | 日本の未来を考える座談会

今の私を動かすもの

いま、双葉町の家族が2組蒲郡に遊びに来てくれています。総勢7名がわが家に寝泊りしているので、なかなかの迫力です。初日は、地元の人に案内していただいて、森にカブトムシ取りに出かけましたが、大興奮で0時近くになってやっと寝たようです。でも、実際に興奮していたのは私かもしれなくて、こんな時間に目覚めてしまっているというわけです、

ちょっと仰々しいタイトルをつけましたが、今の私の行動の源泉になっているものを書いてみようと思います。

震災における影響は、当たり前のことではありますが、私の心に繰り返し繰り返し津波のように衝撃を与え続けていたようです。最初の一年ぐらいは、無我夢中でどんどん変化していこうとする世の中の動きを追いかけました。避難することに徹したのですね。追加の地震や、原発の様子も急変する可能性もあるので、常に情報に目を配りつつ、次にどのような行動をすべきかを考えていました。以前から当たり前のように言われていた浜岡の可能性と関東圏の汚染状況を考えると、愛知県が最低ラインかといったんそこに留まりましたが、震災直後からの動きのように、いつ何時同じ状況に直面するか分からないので、安全を確保しながら瞬時に対応できるようにと気を配っていました。

さてそれからまたしばらく経ってくると、世の中はあの災害など何事もなかったかのように、元どおりになろうと、元どおりであったかのように振舞おうとします。まるで私達の存在などなかったかのように、あっという間に原発の再稼動は決定し、相変わらず汚染された場所に人を住まわせ、警戒区域もどんどん解除して行きます。政府が収束宣言をしたように、まるでスケジュールどおりに復興に向けて進んでいっているかのようです。

でもこんなものは虚構なのです。多くの人がこれに気が付きつつあるでしょう。もちろん元の何事もなかった生活に早く戻りたいと願うでしょう。でも残念ながら現実はそれを許してはくれません。これまでも原発は絶対安全なものなのだと通されてきました。それが今回の結果なのです。上辺だけ平静を装った世の中が、本当に平和であるはずがありません。実情は何一つ変わってはいない。全体としては、むしろ悪い方向に流れていっているように見える。人々が、虚構の平和を願い秘められている危機に関心を持たなくなればなるほど、危機は高まることになる。追い詰められた、絶望的な気持ちで事の成り行きを見ていた。日本人とは、これほどまでに他者に無関心で、盲目な民族なのかと、、、。

様々なことを思った。原発事故など、まるでなかったかのように装っていく世の中を前に、同時に自分の存在も消えてゆけばよいと思った。どうしてあの津波や事故で終わらなかったのだろうか。もういっそのこと、他の原発と共に世界が終わればよいとも思った。そうなる可能性は、今でもある。繰り返し言われているように4号機のプールに何かあれば、年間20mSVの地域など日本列島全てを覆うだろう。

だが、そうはならない。破滅へ真っ直ぐに向かっているようにも見えるが、奇跡的なところで皮一枚で留まっているようにも見える。まるで何かの手が働いているようにさえ、私には思える。とすると、まだこの世界はしばらく続く。私のほうが軌道修正するしかない。だが何を目標に、支えに生きてゆく。どれだけのものをその場所で築いたとしても、一瞬ですっ飛ばされるんだ。以前にも増して、消えてなくなることのないものの為に動かなくてはと思った。

でも自分は抜け殻のような状態で何もする意欲が出てこない。搾り出そうとすれば何かは出てくるかもしれないが、その先にあるものなどたかが知れているし、良い結果を生まないことは経験から知っていることだ。しかしどうする、、、。

そんな時に、ある誘いによって人を通して、これからの自分の行くべき道、あるべき姿を垣間見る出来事があった。その中心の言葉は「休みなさい」だった。震災後から、私の中では自分は抜け殻のようになっているから、何もしない、休んでいる状態になっていると思っていたのだが、実際には全く休んではない。常に心で苦闘して悶々としていたのだ。かといって、それを展開させて具体的な何かにしていくことにどうしてもゴーサインが出ない。単に力がないとも言えるが、何かを押さえ込まれているような気さえする。

そこに「休みなさい」という言葉が来た。ちょっと概略を話すと、私はその時関西で行われていたクリスチャンの事業者達の集いに参加していた。その集まりが終わった頃、つかつかと私の所にひとりの女性が来て、「神からあなたに預かった言葉があるので、話します」と言うのだ。まぁ、私も奇妙な世界はかなり見てきたつもりだけれども、初対面の人にいきなりそんなことを言われて驚くが、内容が「神から」だというので内容を聞いたのだ。それがまぁ、いきなり私と神様との間でしか知りえない、誰にも言ってない内容をつらつらと冒頭から話し始める。普通の常識からいったら、とても相手に言い得ないような内容を当たり前のようにぶつけてくる。さすがに恐ろしいと一瞬思った。今更ながら、神を畏れるという感覚を思い出した。

様々な内容について15分ほど聞いたのだけれども、その中で心に残っていたのがこの「休みなさい」。確かに
、私が福島の実家に帰ってからの毎日は戦いだった。12年前、久しぶりに帰った故郷は、自分が育ったところだとは思えないぐらい異質な空間に感じた。あれから私自身の方が変わっていたのだろう。感じる違和感を押し返すように抵抗することで最初は精一杯だった。それが5年ほど過ぎて、後で育った社員達にいつも私の足りないところを助けてもらうようになり、会社は遥かにやりやすくなっていた。内側に戦いがなくなって来れば、外側に展開して行くときだというところで震災だった。社員は日本中にバラバラになった。家族同然に感じていた私には、手足がもがれたような思いだった。

福島県内にも数人残っているし、もちろん友人もたくさんいる。一時帰宅やその他の用事で県内に戻ると、そのまま居たいような、早く離れたいような正反対の思いがぶつかり合う。でも、あそこまで出て行ったからには、何かを持ち帰らなければ、出てきた意味がない。そんな思いで過ごしていたのだ。

「休みなさい」この言葉は、何かをしなければと盛んに思って自分で自分を駆り立てていたのに対して、実際何も出来なくなっているその姿でよいのだと、そう語りかけられたような気がした。「謙虚になって、私が与えるめぐみを素直に受け取れ」と、、、。神が私に願っているのは、そういうことなのかもしれないと考えをシフトした時、私が最初に出会った時からここに至るまで、特に震災によって、手にしているものを放棄させられた意味が分かったような気がした。

神はこれまで以上に、私が受身で相手に寄りかかり、信頼せざるを得ないところに追い込むつもりなのだ。とすると、それに応じてこれまで以上の物事を預けてくるということは、これまでの道のりからわかること。これまでのものを全部放棄させたということは、練習ではなくいよいと本番になるのであろう。つまり

神の前に休む⇒自分の(自分のための)活動を停止させる⇒自分に死ぬ

ということなのだ。ここまできて、私の進むべき道が見えてきた。行くべき道は神の手の中にある。必要な準備もその中にある。私はそれを受け取って行く。まぁ、言われてみれば当たり前のことなのだけれども、こんな単純なことを忘れてしまうのだ。

このことを思い出したおかげで、私の身はぐっと軽くなり、活動の焦点が絞れるようになってきた。これまでは、自分の身を守る、自分の利益を守ることを考えていたので、神が私に求めることと相対するために、綱引き状態になって身動きがとれなくなっていたのだ。神の中に自分を放棄していくことをしない私は、やはり私ではなかろうと、この避難生活の中で思い知った。


すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

                  マタイによる福音書11章



負いやすいくびきを思い出したのである。
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# by dynabooksx | 2012-08-17 03:10 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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