「神の国は近づけり」

洗礼のヨハネが先ずユダヤの荒野で、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ3:1)

と宣言した。今までの生活態度を転ぜよ、転向せよ、という積極的な勧めの言葉が、「悔い改めよ」(メタノエイテ)である。天国を迎える準備は心魂の転換である、というのである。
 ヨハネはたたみかけて烈しい言葉で、現在の生活態度を責めた。最後の預言者として烈しく審判の言を投げ、特に王ヘロデが弟ピリポの妻ヘロデヤを奪ったことを非として難じた。そのためにヨハネは捕えられ牢に投げ込まれた。

 この知らせに接するや、イエスはガリラヤに退いて深く祈り、故郷ナザレをあとにして、ガリラヤ湖の北辺のカペナウムを根拠と定めた。そしていよいよ伝道に立ち上がったのである。

 その第一声が洗礼のヨハネの悲願を受けて、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ4:17)
「時は満てり、神の国は近づけり。汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)

 時は満ちた、機は熟した。ユダヤ教がゆきづまったからである。神の国、すなわち神の威光と恩寵のあふるるところ。天国、すなわち神の意志が自由に体現されるところ。そういう天来の霊気が漂うときが、到来した。その何よりの証拠は、かく宣言するキリスト自身がそのような天国体であり給うところにある。

 ヨハネ福音書第一章にある如く、キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのものである。

 彼が「悔い改めよ」「回心せよ」というとき、それはおのれを問題とするな、人を問題とするな、右顧左眄はいらぬ、ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということである。

キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくことこそ肝腎である。キリストの言行は本体の現象面である。この現象面を媒体として本体を体受しないで何で「福音を信ずる」ということができるか。イエスのこの伝道の第一声はこのような気合で受けとめてかかることが大切なのである。

   小池 辰雄  「無者キリスト」より

++++++++++++++

キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのもの
ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということ
キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくこと

文体もあるのだろうけれども、どこにも無駄がない。信じ受け入れた人にとっては当たり前の内容だけれども、それを体験したことのある人物が、どういうわけか現代のキリスト教会にはかなり少ないことがわかってきた。それで世の人々は戸惑いを憶えてしまう。イエスが感じたユダヤ教の行き詰まり、とはそのようなことだろう。
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# by dynabooksx | 2013-02-21 12:43 | 聖書の言葉

救いと行い

人は誰しも自分から見える世界は当たり前に捉えられてしまうので、その中に没入してしまうと他人のリアルな感覚を感じられなくなるものである。
あからさまな他人の反応を見て、おおそういうことかと気付かされることが多い。今回落ち着いてみてあらためて感じることは、僕の中にある「平和」だとか「愛」「喜び」「救い」「信仰」「神」の理解とそれに過剰反応してくる人々との間の認識には、きっと大きな開き、違いがあるだろうということだ。とすると、同じ日本人だと思って話していたら、方言がきつくて分からない単語で⁇となるぐらいのやり取りになってしまう。

先日キリスト教で言う処のこの「救い」ということに関して、僕に「違う、違う」と表現してくれる人がいた。それも実際のところその人がどのようにそれを捉え、生きているのかは、その行動全般から判断するしかないのだけれども、彼は「救いには行いは必要無いんだ」と力説していた。そして、それを理由に関係を断たなければならないと結論づけていた。

多くの人々にとってはこんなやり取りに関心は無いでしょうが、僕もあまり関心がありません。でも他人から言われてはじめて気がつくこともあるというものです。それを聞いて、最初は何を言いたいのか分からずにいたのですが、なぜそういうことを言わざるを得なかったのかがだんだん見えてきました。

まずこのキリスト教が言うところの「救い」について、何が人間が抱える諸問題の解決となりえるのか、この座談会でも繰り返し扱ってきました。但し、ここに一人ひとりの認識に大きな差があるのは、それを信じたかどうか、それを信頼して受け取ったかどうかでまったく違ってくるからです。

こういったわけで、上にも書いたこの「信仰」という言葉一つとっても、それはその人の世界観を浮かび上がらせますが、同じだろうと思って話しているととんでもないことになることもあります。

「救われることに行いは要らない」と主張する人も、その言葉には現在の心情が写し出されているのでしょう。自分は救われているはずだが、それに伴った行動が生まれて来ない。むしろそれとは正反対のような感情や思いに支配されて身動きが取れない。いやいやそんなはずはない。「自分はキリストの贖いによって罪赦されいるはずだ…」と自問自答しているのでしょう。

そんな時、僕だったらこう言うんだけどな。「それって信じていないってことなんじゃないの?」って。

キリストの十字架なんてのは方便で使っているだけで、本気でそれに寄りかかってその中に人生を投げ込んで行くことはしていないしするつもりもない。それは信じていないと言った方が適切。
それともう一つ。キリスト教は是か否かを迫るものであって、その中間はない。信じたいんだけれども信じられないというのは、信じていないということ。当たり前のことだけれどもね。この「信仰」というものはイエスの内にあったもので、彼を突き動かしていた本質。彼の霊の現れ。日本人が一般に「鰯の頭も信心から」といったそれとは一線を画する。

ちと話がそれたかな。イエスを信じるということは、彼の実存に飛び込むということ。聖書に残されている彼の言葉のとおり、そうすれば安らぎを得られる。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。(マタイ11章)

こっちの訳はは安らぎではなく、「魂に休み」でしたね。この「魂に休み」をもって「救い」としたらどうでしょうか。きっと多くの人が、これを求めて探し回っていると思うのです。それで人を見て、直感的にそれが得られそうか否かを判断するのではないかと思います。
単に「信じる」とすると皆好き勝手に分かったつもりになろうとするので、定義を一度この辺りに定めておくと少し軸が分かりやすくなるように思うのです。

すると見えてくるものがありますね。キリスト教会では、上の句、「あなた方を休ませてあげよう」までをよく看板に貼ってありますが、僕はここで文章を切り離してしまうのはあまりに不親切だと思うのです。続きは中に入ってから…としたいのかもしれませんが、要らぬ誤解を生むというか、その後適切に扱われないと詐欺というか、聖書に出てくる追い剥ぎにあった人のようになってしまう気がするのです。

話が長いですね。言いたいことは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば…」のところなのです。くびきというのは、家畜や奴隷に労働をさせるための道具ですから、イエスが負っているそれと一緒に繫れて歩いてみる、傍で彼の荷の負い方を学んでみる。

それを体得すると、魂に安らぎを得られるというのです。そこに至って、人は「本当に自分は救われていたんだ」と感じ入る。自己愛の塊で、自分の利益や身を守ることばかりに夢中になっていて、心が休まることがなかったのが、いつの間にか変わっていたということにはたと気づくのでないでしょうか。

それはイエスのくびきを負うことをしているからです。彼を「信じる」のなら、自ずとそのようになるはずだからです。
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# by dynabooksx | 2013-02-18 13:47 | 真也の視点

聖霊の火

『聖霊の火』

彼はまたこうも言った。

「私は火を地に投ぜんために来た。この火がすでに燃えた以上、私はまた何をか望もう。けれども私には受くべきバプテスマがある。それを成就するまでは、何と思い迫ることか。私が地に平和を与えんために来たと思うか。私はあなた方に言うが、そうではないのだ、反って分争である。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に分れ争うことになる」(ルカ12:49~53)

 火は何か。聖霊の火である。聖霊の火が点ると、生き方、考え方がちがってくるので、この世的な生き方の人々と分裂が生ずる。しかしこれも分裂のための分裂ではない。真の和合への分裂現象である。しかし、他の者たちがこの不滅の火を受けようとしないならやむを得ない。しかし聖霊は愛の火であるから、聖霊を受けた人は、愛をもって荷い、耐え、望んでゆくのが本当である。
キリストと共に十字架を負う光栄を賜る。聖霊の力はよろこんで十字架を負わしめ、天国をそこに現じつつ歩かせる。このような霊燈を万里のかなたまで運んで人々の胸に点火することが本当の伝道あって、「伝燈」と申したいくらいである。

     小池辰雄 無者キリストより
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# by dynabooksx | 2013-02-18 13:41 | 聖書の言葉

 新年迎えてずいぶん経ってしまいましたが、色々と忙しくてこちらのブログの更新をおこたっていました。
でも、年賀状のせいなのか、新年に入ってぐ~んとまた訪れてくれる人が増えているようで♪
私たちに関心を持ってくださってありがとうございます!
この年も心も身体も健康で、日々過ごされますように、心より祈りつつ。。。。


最近、今までにないすばらしいメッセンジャーに出会いました。
このブログの著者は、女性の方です。メールでやり取りしながら、貴重な情報をいただいています。
どの聖書のメッセージも、この地上のリアルな問題と少しも狂いない素晴らしい内容です!
ぜひ、ひとつひとつ味わいながら読んでみてください!
めんどり通信
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# by dynabooksx | 2013-01-09 20:16 | 愛理の避難生活

叫び、、

この雨続きの天気の問題だけではない。何か悶々とし続けて持って行き場のない思いを噛み締めている。きっとこれは自分だけの問題についてではない。誰かのことを思い煩悶しているんだ。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者とともに悲しむ、、、。

頭で分ってはいるはずだが、人々の孤独や寂しさ、氷のような冷たさに直面すると、その冷たさが伝わって背筋に響く。あまりにも長い間、たった一人でその孤独と向かい合いながら生きてきた人生を思い、その厳しい現実に声を失う。

どれほどの人々が今、持って行き場のない心の呻きを押し殺しつつ、人前で必死に笑顔を作りながら生きているのだろうか。それでそもそも、生きていると言えるのかい?? 誰もその人の心の内など知る者はいない。いや、その人自身も自分の真の姿を遠い押入れの隅に押し込めて、探し出せないことにしているのかもしれない。

だがある日、突如として思いも寄らなかったところから、隠していた感情が吹き上げて本人も周囲も驚かせてしまうことがある。何かの間違えかと思い慌てて繕うが、通り魔事件の殺人犯のように、そいつは突然人格を奪っていく。

ああ、だんだんその殺人犯の足音が近づいてきて、もはや私の屋根裏部屋に住み着き始めているようにさえ感じる。理性で押さえ込んでいるのにも限界がある。誰か私を救ってくれないのか。救われることがないなら、この殺人犯の思うがままにして人間関係を破壊し、他人を傷つけるよりは、自分の命と道連れに葬ってやろう。そうして人は自ら死を選ぶんだ。

仏教でもキリスト教でも何でもいい。その道を行く人は、このことをはっきり示して欲しい。いったい救いは本当にあるのかい? 救いがあるのかないのかはっきりさせてほしい。もしあるのなら、それを必要とする人の前に真っ直ぐに示してほしい。今はもう余裕がない時代なんだ。残す時間もない。今日を生きなければ明日はないということが分らないのかい? 頼むから動ける人、声を聴いている人よ、応答してくれ。今動かなくて、いつその機会がくるというんだい? それほどに神の忍耐が悠長だと思っているのか。能書きはもういいから、助けを必要とする人のところへ行ってくれ。

もしあなた自身が最も助けを必要とする人間だと思うのなら、素直にそれを認めて助けを求めて叫んでくれ。その声を受け取る人物は必ずいる。助けが来るまで叫び続けるんだ。途中で諦めるんじゃないぞ。どうせダメなんだから、力尽きるまで、声がかれるまで続けるんだ。

そのうちに貴方の叫びが、人々の救いになることに気がつくだろう。そんなあなたの存在が、他の人のためになることがあるのだということに気がつき始める時、あなたの苦しみは煙のように消えてゆくことだろう。そうなったら、あなたと同じように声を出せずに苦しんでいる人を見つけてあげてほしい。

たのむ。あなたが、自分は救われたのだというのならば、、、。


++++++++以下、引用ローマ7章(リビングバイブルより)+++


15私は自分が全くわかりません。 ほんとうは正しいことをしたいのに、できないのです。 反対に、したくないこと、憎んでいることをしてしまいます。 16自分の行ないが誤りであること、破っているおきてそのものは良いものであること、それは、よくわかっています。 17しかし、どうにもできません。 それをしているのは、もはや私ではないからです。 悪を行なわせるのは、私のうちに住みついている、私より強力な罪なのです。
18古い罪の性質に関する限り、私は自分が全く腐敗しきっていることを知っています。 どんなにもがいても、自分で自分に、正しいことを行なわせることができません。 そうしたいのですが、できないのです。 19良いことをしたいと思ってもできず、悪いことをしないようにと努めても、どうしてもやめられません。 20自分ではしたくないことをしているとすれば、問題点は明らかです。 すなわち、罪がなおも私をしっかり捕らえているのです。
21正しいことをしたいと思っているのに、どうしても悪いことをしてしまう、これが人生の現実であるように思えます。 22新しい性質をいただいた私としては、神様の意志どおり行ないたいのです。 23-25ところが、心の奥深くに潜む低劣な性質には、何か別のものがあって、それが私の心に戦いをいどみます。 そして、ついに私を打ち負かし、いまだに私のうちに住みついている罪の奴隷にしてしまうのです。私は、心では、喜んで神様に従う召使でありたいと願いながら、実際には、相変わらず罪の奴隷となっている自分に気づくのです。
これで、私の実情がおわかりいただけたでしょう。 すなわち、新しいいのちは、「正しいことをせよ」と命じているのに、いまだに住みついている古い性質が、罪を犯したがるのです。 ああ、私はなんとみじめで哀れな人間でしょう。 いったいだれが、このひどい低劣な性質の奴隷状態から解放してくれるのでしょうか。 ただ神様に感謝します! 主イエス・キリストによって、私は解放されました。この方が自由の身にしてくださったのです。

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# by dynabooksx | 2012-11-26 20:21 | 真也の視点

 昨夜、久しぶりに双葉から避難する際、早々に持ち出した、双葉で食べていた米を炊いて食べました。
双葉郡の米といえば、日本有数の米どころ新潟の米と変わらない、甘くてもちもち冷めても美味しいお米。
「死ぬ間際には、もう2度と手に入れることが出来ない、双葉の米を食べて死にたい。」
と今まで保存してあり、まだ少し残してあります。

炊き上がって、いざ食べようとワクワクしてご飯を口に。。。!?
なんと残念な事に、私の知っていた双葉の米とは全く違い、美味しくなかった。
1年8ヶ月保存していた為、ほこりっぽい匂いがつき、しかも精米した白米状態で保存だったので、なんだか味が抜けて、パサパサ。。。

たかが米?いえ、この双葉の米はもう2度とあの大地では作ることが出来ない幻の米。
双葉の人の命をささえ、成長させ、心を豊かにしてくれた米。
それが、もう以前の味ではなくなっていた。。。

旧約聖書出エジプト記には、イスラエルの人々に食料として、神さまが日々天から降らせてくれたマナ、安息日前には多くとっても良いが普段は日々必要な分だけをとって食べなさいと言われていたマナ。
欲張って多く残しておくと、虫が付いて臭くなった、天からのパン、マナの事が残されていますが。。
私もマナを欲張って残しておいた人のような気持ちを味わいました。

「そうか。。もう次に進まなければいけないんだ。思い出に生きるのではなく、もっと今を大切にすることなんだ。いよいよ、あきらめなければいけないんだ。。」とおもいました。

私達は、早々に福島県を出ました。
順調に避難生活は過ごす事が出来ましたが、思い出すのは、やはり地上の天国のような大自然の美しい双葉。自然の満ち溢れた双葉、青い広い広い空と透きとおったしかし白波激しい海、
豊かな実りを与え続けてくれた大地、水!
双葉。
東京生まれで東京で育った私(愛理)にとって、双葉はそれまで経験した事が無い、自然の大きなふところに抱かれて過ごす事ができた地上の天国のような日々でした。
呪われた原発がある事を思い出すことが無いぐらい。

突然の避難。とにかく危険なところから離れなくてはいけなかった、
何故、双葉なんだろう?何で双葉に原発があったのだろう?。。
大きな喪失感を味わいました。

避難してしばらくは、放射能汚染されていても歳をとったら必ず戻るんだと思っていたのですが、
事態はそんなに甘いものではなかった。
あと数百年は人はまともに住めない、大変な土地になってしまったことをようやく理解。
ようやく、あきらめることができました。

最近、こういうちょっとした出来事を通して、双葉での生活の数え切れない幸せだった事を
思い出として扱うことが出来るように。



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# by dynabooksx | 2012-11-14 03:46 | 愛理の避難生活

先ほど目が覚めてから、すっと心の中に浮かんできたことを素早くIPhoneでしたためましてフェイスブックに投稿しました。そのコピーをこっちにも貼っておきます。


+++++++++


心が小躍りしながら早朝に目が醒める。震災の直前も今と同じような状態になっていた。神から示されてくることを、一つも取りこぼしたくないという思いが私を駆り立てたからだった。しかもあの時は、圧倒的な迫り来る何かに背中を押されるように毎朝取り成しの祈りを捧げていたものだった。

震災後少し落ち着いた頃に自分のブログを眺めて驚いたことは、震災2日前の3月9日に「怒りをもう少し止めてくれ」との内容で書き込んであったことだ。
確かあの日、僕は福島第一原子力発電所の放射性管理区域内のゲートの内側に入る仕事をしていた。入口が渋滞で車を列にして待ってた時、レミオロメンの「3月9日」の曲がラジオから流れて来たのをはっきりと覚えているからだ。

あの時の海と空があまりにも美しかったのが忘れられない。それをiPhoneで撮りたくて、コッソリ持ち込もうとしたが守衛に見つかって取り上げられた事も記憶に残っている。
みんなで仕事をした現場作業は本当に楽しかった。奴等今頃何をしてるんだろうなぁ。

弟子から警告されていたからとはいえ、あと2日であんなことになるなんてなぁ。俺達は、本当に伝えるべきことを伝えたのか、為すべきことを成したのか、真剣に悩んだよ。

それであっという間に世の中が終って行くのかと思いきや、どうもスムーズにそうは行かないようなので、僕も頭の中を軌道修正せざるを得なくなった。

まだ自分の人生に残りの部分があるのなら、それを全力で燃焼させる。

原発事故は今の世の中に対しての警告であるのだけれども、あれは同時に私に対してのものだ。お前が動かなければ、これぐらいのことをする覚悟があるという意思表示なのだ。それで鼻っぱしでやられたんだ。

私は聞いてはいたが、それはさすがにやり過ぎだろうと神にくってかかったが、事が動き始めてではもう遅い。後悔先に立たず、だ…

しかし、驚いたことに私の町の知人の多くの人々が、今回の出来事を「神からの救い」として捉えていることを何度か確認した。何か特定の宗教をやっていたからだというのではない。誰もが、格闘の中で自分のこれまでの人生と向かい合い、そのような結論に行き着かずにはいられないのだ。

私の弟子は、震災の2ヶ月前に、自分の勤めていたガソリンスタンドがまもなく無くなるんだと宣言をした。酔っ払って足下が定まらず、歩けない映像を見たとも言っていた。
正直何のことを言っているのか、私も良く分からなかったのだが、優しい彼が自分の職場の仲間のその後を心配しているのに対して、私は自分の町の人々が救われるようにと祈った。

ここまで時間が進んでくると、あの時の内容が恐ろしくさえ思える。どうも神は本気で私の祈りを実現させようとしているらしい。それでまた、寝ているのが惜しくなってくるわけだ。


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# by dynabooksx | 2012-11-11 04:59 | 真也の視点

ゲンさんの絵

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本日ゲンさんが、島田の最終処分場前で画を描きました。テーマは「活き活きと躍動するいのち(神の思い)」だと思います。わたしはこれに言葉を添えたいと思います。

初めにあったのは神さまの思いだった。
思いは神さまの胸にあった。
その思いこそ神さまそのもの。
初めの初めに神さまの胸のうちにあったもの。

神さまの思いが凝ってあらゆるものが生まれ
それなしに生れたものは一つもない。

神さまの思いにはあらゆるものを生かす力があって
それはまた、生きる喜びを人の世に輝かす光だった。

光は人の世の闇を照らしているというのに、
闇に住む人はそのことに気がつかないでいたのだった。


ヨハネによる福音書第一章(ガリラヤのイエシューより)


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これは、天地創造前の絵。

追記、、
福田さんが、素早く合成で作ってくれました。
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# by dynabooksx | 2012-11-07 18:41 | 聖書の言葉

十字架への道

十字架の道、十字架への道、それはイエス自身の人生、イエスの心、思いの向かう方向を指し示すもの。

キリスト教会は、それを自分たちの集団のアイデンティティーだとしてそれを掲げる。なぜそのようなことをするのだろうか。

なぜだと思いますか? クリスチャンの方ならば、どうしてなのか話してもらえますか? それは教会の建物がやっていること、教会を建てた誰かが置いただけで、自分には関係がないことでしょうか。

イエスがその身に負った犠牲、その罰と痛み。そのお陰で私たちは、癒され、自由を得、活き活きと生きる力を得ることとなった。クリスチャンならそう言うだろう。

きっとそのことに感謝し、大きな喜びを得たことがあっただろう。では今はどうだい?

人生に言いようもない空虚さを感じているのではないのかい。そんな筈はないと、何度も打ち消そうとしても、繰り返し繰り返し押し寄せる、孤独と暗闇、空しさの波。

クリスチャンになれば、もっと幸せな人生が来ると思った。充実した毎日を送ることができると思った。もう苦しみを味わうことがない、人を傷つけたり、自分が傷ついたりする必要がなくなると思った。

でも実際はそんなことはない。それどころかより旗色は悪くなるようにさえ見える。嘘だと思って、空想の世界、理想の世界に逃げ込んでみようとするが、それとは関係なしにひたひたと厳しい現実は迫り来る。

駆け込み寺のように日曜日の教会に逃げ込んでみる。そこは日常の苦悩を思い出さなくて住む空間。神の支配する聖(きよ)い空間で、存分にその空想の世界に浸れるかもしれない。

でも、それはその特異な空間、場所でしか通用しないもの、仲間内での暗黙の了解の中でだけ実現する楽しみ。だから彼らは集まってくるのかもしれない。

それでその時間が終わると、それまでの記憶は全て失くしたかのように別人になって世の中に出て行く。それは教会の中だけの秘められた楽しみであり、それを世の人に悟られてしまっては都合が悪いからだ。

そんな風当たりが苦しい人は、関わる人をその夢の中の人々だけで固めようとする。生活を出来るだけクリスチャンと呼ばれる人だけにする、関わりを限定するのだ。それでよりその世界に没頭していくようになるのだ。


でも実際のところどうだい? 苦しみは無くなったかい? 仲間ができて孤独は癒されたかい? 不安は解消したのかい?

人生はこれからまだまだ続く、たとえ肉体が滅んだとしても、それでも私達は消滅しないのだぞ。一時しのぎは通用しない。私達は本来、永遠に続く性質を持っているんだ。

きみがここまで歩いてきて、そしてこれから歩もうとしている道が、本当にキリストが望んでいる道なのかどうか、真剣に考えたことがあるかい?

それを求めて苦闘し、彼のたどった道を、あまりにも細くみすぼらしいその道を、怯えながらも一心に往きたいと、もがきながら歩んだことがあるのかい?

その道を見出す者は少ないと聖書はいうんだ。使われることがあまりにも少なくて、草はぼうぼう、まるで警戒区域、僕の故郷のようだろう。ポツリ、またポツリと、そこを行った人がいたらしいという噂を聞く程度だ。

なぜならその道の名は「十字架への道」。イエスがたどった、そのいのち、人生でもって切り拓いたその道自体なのだから、、、。彼に自分の代わりに犠牲を負わせることは望んでも、自分が重荷を負うことは望まない。自分が誰かのために犠牲となり、死んでいく人生など想像したくもない。だから、その道をあえて行こうとする者など、多いはずがないのだ。

救いはどこにある。問題の解決はどこにある。この混迷し行き詰まった時代において、誰もがそれを捜し求めている。誰もが必死に自分の身の安全、利益、保障を求めている中で、いったいだれがそれを指し示すのだろうか。

きみが自分をクリスチャンだと自称するのならば、神が貴方に期待していること、望んでいること、それが実現するためなら自分の命、人生を犠牲にしてもよいとまでした、その思いに敏感であってほしい。
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# by dynabooksx | 2012-11-01 05:35 | 真也の視点

フェイスブック上のグループ「日本の未来を考える座談会」に投稿した文をこちらにも載せておきます。


+++++++++++++

今朝のハングアウトでのやり取りは、この日本の未来を考える座談会において、前書きを終えて、第一幕が開かれようとする場面だったかと思います。
ここで明らかになったのは、先日名古屋で行われた東海コーチングセミナーでもベン・ウォンが繰り返し話していた。現代のキリスト教会が作り上げてきた偽りの神学、聖と俗を分離して考える世界観。教会の中は聖、その外は俗。教会は神が働くところ、世はそうでないところという価値観だと思います。

繰り返し彼の話を聞いてはいるものの、あまりにも牧師も教会員もその場を使い分ける器用な信者になってしまい。教会内ではそれらしい清い態度、そうでないところはその雰囲気を消し去るという二重性の中を生きています。
僕は不器用なのでとてもそういうことは出来ないのですが、それが世の中では大人だとか優れた人だとかという扱いを受けるようです。(聖書はそう言っているようには見えないのですが、、、)

何はともあれ、キリスト教が日曜日の宗教、キリスト教会の建物の中の宗教になってしまい、去勢されてしまったことで現在のような無残な姿になっているのだと思います。中国の公認教会と地下教会の対比を聞いてみても、敵も敵ながら見事だと言うほかありません。

未だ旧約の時代のように特定の場所や宗教設備の中に神が宿るという概念、世界観を生きている方々は、熱心であればあるほど、かつてのパウロのようにユダヤ教の律法の中で呻吟していることと思います。そんなくせに新約聖書では「喜び」とか言われるものだから、心と体というか顔があべこべになって、精神分裂、統合失調症のような状態に追い込まれるのではないでしょうか?

「福音」とは、本当にそのようなものなのか考えてみましょうよ。そんな自分が受け取って心から喜べるものでなかったら、そんなものを他人に勧めるのなら詐欺ですよね。世の中なんてみんなそんなもんだって開き直るかもしれないですけれども、、、。聖書が実際に何だと言っているのか、自分がこれまで受け取ってきたように思えることはいったん横に除けておいて、一度真っ直ぐに見てみましょうよ。その上でこれまで捉えて来たものと照らし合わせてみたらいい。

ここからギアを一段入れ替えて、パウロの戦いの現場、私の戦いの現場にお連れします。私はこれまで、あなたはクリスチャンではないとか、救世軍ではないとか言われたり、キリスト教の会堂から追い出されたりして来ましたが、パウロの現場がどのようなものであったかを聖書をもって知るでしょう。そしていったい何が「福音」なのか、神の秘められたる計画、真意はどこにあるのか、そしていったい誰が「クリスチャン」であるのかを知ることとなるでしょう。

ってうまくいくといいな。私たち一人ひとりが、父なる神の心に、キリストの思いに付き添うようになるようにと祈ります。


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現在の神学による聖と俗の分離

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本来の姿(聖書の世界観)

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# by dynabooksx | 2012-10-19 23:18 | 日本の未来を考える座談会

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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