我が家の次女愛真(エマ)ちゃんの生後10ヶ月目のお祝いをしました。
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毎月私の手作りケーキでしていたのですが、今回は、大好きなスイーツのお店、双葉の時から利用している
「ふたば茶亭」さん
のこの時期限定の「和栗モンブラン」!。。。キャッ、贅沢過ぎるね。。
でお祝いしました。
熊本産の栗を贅沢に使ったクリームは、最高!
あまりの美味しさに「毎日食べられたら~ぁ。。~」と夢見心地の兄と姉。。
エマちゃんも少しだけ和栗クリームをお口に入れて、大満足♪
ふたば茶亭さんのマカロンもティータイム用に購入。。
エマちゃんの特別の日にふさわしい、素敵な時間を過ごしました。
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可愛くて美味しいスイーツは、元気をたくさんくれますね~!

そのあと、私の母を連れて、蒲郡では一番高い五井山に行ってきました。
手前が三河湾、奥は太平洋です。渥美半島は伊良湖までくっきり見えます。
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山の頂上でお湯を沸かして、おにぎりとカップラーメンその他食べてきました。
山の上で食べるご飯は、最高に美味しい~かった~!
生後11ヶ月目には、どんなお祝いをしましょうかね。。
兄・姉に「いいな~エマちゃんは~」とうらやましがっていたので、
「お祝いって言いながらみんなで楽しく過ごせるから、良いでしょう?
お祝いする家族が多いと楽しいじゃ~ん♪」と
説得しています(笑)
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by dynabooksx | 2013-11-23 15:48 | 愛理の子育て日記

人の喜びとは

人間って単純なもので、仕事でもなんでも身体をたくさん動かして疲れさせ、お腹を空かせ、それが満たされることで満足を得る。案外単純なものなんだ。

これ肉体的なものだけれども、精神においても同様で、強い渇きがあってそれが満たされる時、深い喜びを感じる。

問題は人は何によって最も喜びを感ずるようにできているのかということだ。しばしば人は、幸福を望んでいるようで破滅へと進む道を選択し、また破滅へと進む道を選んでいるようでいて、そこに他では味わえないような感動や宝を見出してたりする。

人を愛するということが、自分より相手を優先し大事にすることだと定義するならば、愛することで自分のことを後回しにする、諦めることが現実に必要になる。これは自分にとってマイナスであり、痛みであるはずなのに、実際に行ってみるとその先に真に自分が求めていたものを見出すことがある。

「自分のいのちを得ようとするものはこれを失うが、私のために自分のいのちを棄てようとするものは、かえっていのちをみいだすであろう」とイエスは言った。

「いのち」を人が生きる上で必要な力、目的意識、動機と捉えると、「自分の欲を満たすことを優先して生きると虚しさがくるが、自分満たされることを諦める道を選ぶ者は、反対に、突き動かされるような強い力を、生きる意味を見い出すだろう」ということになる。

これが人の現実、真理だとすると、世の中に垂れ流されている喜びや満足にはどれほどの虚偽が多いことか。それは偽りだと、どこかで気がついていながらも多くの人々は嘘でもいいからと一時の気紛れを求め、中毒患者のようになっていく。一度それが常習化してそこにはまり込んでしまうと、自覚することがなくなり自ら回復することは不可能になる。
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by dynabooksx | 2013-11-08 06:27 | 真也の視点

「さて、過越しと除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかもしれない』と言っていた」(マルコ14:1、2)

 マルコ福音書第14章の背景は、イエスがエルサレムに入場して第4日目、ニサンの月(今でいう3,4月の頃)の13日という時。ニサンの月の10日というのが、マルコ第11章から始まっている。即ち受難週間といわれる時期で、キリストが十字架に向かって進みつつあるときである。

 過越しの祭というのは、ニサンの14日に始まり、午後に、パン種を除いたものを作り、午後には、羊を屠る。日が暮れて即ちユダヤでは日没から日没が一日だから15日の始めから12時間の間に過越しの食をとる。これが「過越しの祭」である。それから21日まで7日半という期間、除酵祭が続く。
であるからその間に、イエスは十字架にかけられたわけだが、祭司長、学者、長老たちがなんとかして、この新興宗教のイエスを、この民衆のデマゴーグ(扇動者)を、片付ける折もがなとねらっていたわけである。ユダヤ教の正統派がイエスを異端とし、イエスは彼らの「言い逆らいを受ける徴」であった。

 今でも正統信仰と自任する人たちが、ややもすると、本当は聖書の根源的現実を最もよく把握している人たちを排撃し、白眼視し、除け者にしようとする。いつの世にも預言者はその時代に容れられない。故里に貴ばれない、というわけだが、教会史をひもといても、先覚者、改革者たちは、殆どみな誤解されたり、認識されずに迫害を受けた。

 イエスはその最大の宗教改革者、人間革命者であった。全世界の歴史を二分した精神界の革命家である、ところがその当時において、イエスは大異端者で、磔殺の刑に処せられた。

 一般民衆は、イエスのめぐみにあずかっており、一応イエスの味方であるので、暗殺の実行が簡単にはできない。けれども結局、民衆は彼ら専門宗教家たちの扇動に乗っかって、イエスを十字架にかける手先になってしまった。

     小池辰雄著 「無者キリスト」より

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自らの既得権益を守らんとする宗教指導者、政治家達が、それまでの支配体制、秩序を覆さんと民衆の支持を受けるイエスを殺そうとする。自分が最後に世から抹殺されることを最初から予見しつつ、彼はその道を歩いた。彼の人生こそが道であり、真理であり、命なのだと信ずる者は、彼の通ったところをたどらざるを得ない。
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by dynabooksx | 2013-11-07 10:43 | 聖書の言葉

棄身の魂

 ここに呼び集められた人々には、何かある一つの特徴がありはしないか。それは心砕ける質の人たちばかりであるようだ。少なくとも傲慢な人間はそこには居ないはずである。罪過を犯しても、心砕けて告白する魂ばかりであろう。

 さて、イエスのご利益にあずかったーイエスはご利益をしたのではないーと思っている大いなる群衆が、ぞろぞろイエスに随いてきた。するとイエスはこれを顧みて言い放った。

 「人もし私に来て、その父母、妻子、兄弟、姉妹、自分の生命までも憎まないなら、私の弟子となることはできない。またおのが十字架を背負って私に従う者でないなら、私の弟子となることができない」(ルカ14:26,27)

自分の肉親、自分自身をも憎むとは、捨身(すてみ)であるということである。ただこの棄身はどこに棄てたらいいのか。ありがたいことに、この身の棄てどころは、キリストの中なのである。キリストの中に投身すれば、もの凄い力が来る。棄てたと思ったら、力が来て、我ならぬ我が活動をする。人生の秘儀秘訣はただこの一点に焦点する。そしてキリストの中に己を捨てることが十字架を負うことの秘訣である。
十字架を負うといっても、上からの力が来なくて負えるものではないからである。みたまの主がわがうちに来て、白熱の生命に変質されるから、そこに力が湧くわけである。それでこそ荷いとか抱きとかいうことが出来るのである。イエスは神のみ霊の人、イエスは神の中にいつも自分を棄てていた。それで神が彼に充満していたから、

 「我と父とは一つである」
と告白できたのである。

 「我とキリストとは一つである」
と、み霊に在れば、言える。しかし、それはどこまでも恩寵による信仰の現実であって、なまの現実ではない。我らの一切にかかわらず、われらをどん底より愛してわれらを救わんがためにおのが生命を棄てたもうたイエスは、ご自身を、今も述べたように、神の中に棄てておられた。これをしも無的実存という。
イエスを私が無者という真骨頂はそこにある。しかも人に棄てられ、棄石となったイエスは全人類の隅の親石となり給うた。われらもキリストの中におのれを棄てて、キリストのふところに入り、キリスト御自身を喰い、キリストという「福音的饗宴」にあずかろう。そしてこの御馳走、永遠の生命を隣人に分かちつつ、新天新地の神の国の「子羊の婚宴」の饗宴にあずからんや!

   小池辰雄著 「無者キリスト」より

ルカによる福音書14章16~17節
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by dynabooksx | 2013-11-04 06:27 | 聖書の言葉

信即行

あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。(レビ19:18)


 信仰一如は、どこにこれを体得する秘訣があるのか。それはレビ記19:18の
「私は主である」(原文「私はヤハウェ―[実存神]である)
の一言にかかっている。それは単なる付け足しの言ではなく、土台石の言である。原動力の言である。

「かく命ずる私はおまえの主である。信頼せよ、私が力を与えてやるから。おまえはできるぞ、させてやるぞ!」

という上からの力が我らの中に入ってくる力の言なのである。とかくプロテスタント信者が「聖言(みことば)」ということをいうけれども、ルターも「神の言」を強調したけれども(しかしルターはルター派の人たちよりもずっと聖言と聖霊を結びつけていたのではあるが)、もし神言を、み霊と共に現に受け取るのでなかったら、信仰は結局律法主義たるをまぬがれない。もちろんわれらの現実は信仰一如たることがむずかしいが、信仰一如の呼吸を身に体することが重要である。みたまが内住していると、たとい信と行の関係が跛行的であっても、信と行とが不可離の質ををもってくることはたしかである。みたまにあって、根源的に信即行の受け方をしない限り、福音は生きたものとならない。神の言が力とならない。

 キリストに「行え」と言われるとき、私たちはこれは律法の命令と解してはダメである。ところが福音書にたくさんでてくる、そういう命令または禁止的なキリストの言を福音として受けず、律法的にとっている読者が何と多いことだろう。キリストの「行え!」はただちに

「私が行わしてやる、私が力だから、私そのものをまず受けよ!」

とひびいてくる。そこがすなわちみ霊のキリストをうちに迎える事態なのである。そこに「行」が「信」と渾然融合する境地が開かれる。「信」そのものが、烈しい内的「行」として全身の投入、突入であり、行か信か、信か行か。信仰一如、無私無我。在るはただみ霊の主の御はたらき。これを無的実存とはいう。しかも、一人の僕(しもべ)。一人のはしためが、いとも人間らしく、心砕け、微笑をもって行ずるところの天的自然である。

       小池辰雄著 「無者キリスト」より
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by dynabooksx | 2013-11-02 08:35 | 聖書の言葉

我が家のニューフェイス

今日から、11月ですね。ブログ更新するの何ヶ月ぶりでしょうか?
近くのショッピングセンターにクリスマスツリーが飾られていて、季節の移り変わりを知ります。

こちらは、夏が長いので、今も日中は、半袖で過ごすときもあるし、
我が家の小学生組みは、12月まで一応半そで半ズボンの体操服通学と決められています。

ブログのタイトルにあるように浜通りに住んでいないから、と言うのもあるし、
ツイッターやfacebookばかり日々投稿していたので、ブログには、ほとんど手を入れていなかったのですが、
それでも訪れてくれる人が結構いるので、そろそろ、こちらに記事を書こうかな~とか。。

そうそう、ここでは、報告していなかった?ですが?
今年の1月に新しいメンバーが増えてにぎやかしくしています。
「双葉から避難していなかったら、出会えなかったね~
双葉では、もうひめにょんで終わり!って思っていたから」
と、産まれて今は、9ヶ月を迎えた次女に話しかけています。
私のこの歳になると体力的に厳しいときもあるのですが、かわいくて可愛くて♪
女の子は、何をしても可愛くて、お洋服もカワイイし。。良いですね!
ひめにょんも小さい頃から悪いことしても「可愛いカワイイ!」と怒っていたのですが、
またこの次女もかわいくて。。。男女同じ比率になって、仲良しの我が家です(笑)

ツイッターは140文字制限、facebookもまたすこし違うので、久しぶりに記事を書くと新鮮です。

少し、次女ちゃんの画像載せておきます♪

*土佐から送られてきた生姜の茎が、今のところ、歯がために丁度良いみたい。
からだもぽかぽかするし(笑)
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日々、ぷくぷくむちむちまんま~るく成長している、健康優良乳児ちゃんです。
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生後九ヶ月記念日。
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兄弟姉妹4人で嬉しいね~
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生後一ヶ月記念日。
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by dynabooksx | 2013-11-01 22:30 | 愛理の避難生活

「身証」こそが問題

イエスにとっては、神学的、倫理的な言や、紙上の答案が問題なのではない。身をもって答える答案、身証こそが問題である。だからイエスは付け加えて、

「そのように実行しなさい。そしたらいのちが得られますぞ。」
とさとした。

キリスト者が、いかに聖書を研究し、これに通じ、すらすら答えられ、あるいは論文が書けようと、説教ができようと、それが満点であろうと、それで天国には入れない。天国の門は、神が生活を文字と判じて入れて下さる門である。万人共通の文字とは生活そのもののことである。その他の一切の資格はここでは通じない。
「いかに生きたか」は、もはや単なる信仰でもない。人間は何びともこれを判定することをゆるされない。ただ神の判断による。それがイエスがここで「行え」の一語で要求した内容である。「全生涯そのもので行ぜよ」という意である。イエスはあるときは、ただ「信ぜよ」(ヨハネ6:29)と言う。それも「全生涯そのもので信ぜよ」なのである。
この「全生涯」も、ある場合は一日であるかも知れない。否一瞬であるかも知れない。その一日、一瞬が全生涯をひっくりかえすような一日、一瞬であるならば。

「信ぜよ」も「行え」も同然なのである。それは信行不離、信行一如、信行一貫であるからなのである。いわゆる信仰と行為といって因果関係的に、二段がまえ的に考える消息ではない。

    小池辰雄著 「無者キリスト」より

http://bible.com/81/luk.10.25-37.ja1955
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by dynabooksx | 2013-11-01 07:16 | 聖書の言葉

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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