『十字架と無私』

「さいわいだ、たましいの貧しい人たちは、天国はその人たちのものだから」

とは、実にその言の奥に

「私の霊は無一物、何ものでもない、全く神のものだ。そしたら有難いことに、天の父が全く私を支配して下さっている。私はそんな天国になった」

という自身の体験の告白が秘められてあるのだ。「天国」という原語の「国」(バレイシア)「支配」を意味する語で、神意の支配するところが「天国」である。漢訳聖書には「虚心者福矣以天国乃其国也」とある。すなわち「虚心なる者は福なり、天国はすなわち其の国なるを以ってなり」とよむ。
霊の貧者を虚心なる者と訳した。虚心とは無私の謙虚な心ばせの意であるから、なかなかよい訳語だと思う。
とにかくこの山上の垂訓の第一言をイエスの告白と気がついたら、要するにイエスの言はすべてその本質においてイエスの告白であると実感するに至り、私はふしぎな力にうたれた。そして私はイエスの中に投げ身するより仕方がなくなった。「キリストに倣いて」ではなく、「キリストの中へ」という棄身の衝動にかられた。するとまたこの第一言はふしぎに次のようにひびいて来た。

「幸(しあわせ)だよ。おまえは、たましいが貧しくなったね。天国はお前にやるよ」

と。ああ何かをのぞもう! このイエスのみ言のほかに。
 私の投身したのは、キリストの聖言(みことば)の中に。それは「貧しさ」の極地なるキリストの実存の極みたる十字架の中への投身であった。キリストの中に入って、キリストの愛の十字架に十字架され、私がすっかり罪から解放され、「私」からすっかり脱落している無私、無我を体受したとき、何とそれは楽な、鴻毛よりも軽い、深山の霊気よりもすがすがしいたましいの誕生を見たことか。その十字架の無言の言で、「私」はすっとんでいることに気がついた。十字架という事実にまさるいかなる烈しい強い愛の言が天上天下いずこにあるか。行即言である。
事実をもって迫る無言の言、事実という言が人間のたましいを動かす。「十字架の言」とパウロがいったのはこのことである。

 私はキリストの十字架で、すっかり自分の霊が「無私」とされ、「貧しく」されているのを発見した! 私はもう何も憂えない。霊的傲慢やパリサイ的信仰や御利益や観念は、真にキリストにつく者の世界にはない。山上の大告白のこの第一言は、これらの逸脱や転倒や安易やズレに対する最大の否! である。イエスの全福音は実にこの第一言で喝破されている。キリストの福音は何だと問われるなら、私はイエスのこの第一言をもって答えるに躊躇しない。

「霊が貧しい」とは、私たちの霊がすっかりキリストの十字架で贖われ、砕かれている恩恵をうけとることをいう。そして「砕け」そのものを「貧しさ」そのものを「無」私そのものをわがたましいの姿となすことである。それは第一のアダム、旧き我の「死」の相である。

       小池辰雄  「無者キリスト」より
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by dynabooksx | 2013-03-04 21:24 | 聖書の言葉

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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