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「神の国は近づけり」

洗礼のヨハネが先ずユダヤの荒野で、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ3:1)

と宣言した。今までの生活態度を転ぜよ、転向せよ、という積極的な勧めの言葉が、「悔い改めよ」(メタノエイテ)である。天国を迎える準備は心魂の転換である、というのである。
 ヨハネはたたみかけて烈しい言葉で、現在の生活態度を責めた。最後の預言者として烈しく審判の言を投げ、特に王ヘロデが弟ピリポの妻ヘロデヤを奪ったことを非として難じた。そのためにヨハネは捕えられ牢に投げ込まれた。

 この知らせに接するや、イエスはガリラヤに退いて深く祈り、故郷ナザレをあとにして、ガリラヤ湖の北辺のカペナウムを根拠と定めた。そしていよいよ伝道に立ち上がったのである。

 その第一声が洗礼のヨハネの悲願を受けて、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ4:17)
「時は満てり、神の国は近づけり。汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)

 時は満ちた、機は熟した。ユダヤ教がゆきづまったからである。神の国、すなわち神の威光と恩寵のあふるるところ。天国、すなわち神の意志が自由に体現されるところ。そういう天来の霊気が漂うときが、到来した。その何よりの証拠は、かく宣言するキリスト自身がそのような天国体であり給うところにある。

 ヨハネ福音書第一章にある如く、キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのものである。

 彼が「悔い改めよ」「回心せよ」というとき、それはおのれを問題とするな、人を問題とするな、右顧左眄はいらぬ、ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということである。

キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくことこそ肝腎である。キリストの言行は本体の現象面である。この現象面を媒体として本体を体受しないで何で「福音を信ずる」ということができるか。イエスのこの伝道の第一声はこのような気合で受けとめてかかることが大切なのである。

   小池 辰雄  「無者キリスト」より

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キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのもの
ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということ
キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくこと

文体もあるのだろうけれども、どこにも無駄がない。信じ受け入れた人にとっては当たり前の内容だけれども、それを体験したことのある人物が、どういうわけか現代のキリスト教会にはかなり少ないことがわかってきた。それで世の人々は戸惑いを憶えてしまう。イエスが感じたユダヤ教の行き詰まり、とはそのようなことだろう。
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by dynabooksx | 2013-02-21 12:43 | 聖書の言葉

救いと行い

人は誰しも自分から見える世界は当たり前に捉えられてしまうので、その中に没入してしまうと他人のリアルな感覚を感じられなくなるものである。
あからさまな他人の反応を見て、おおそういうことかと気付かされることが多い。今回落ち着いてみてあらためて感じることは、僕の中にある「平和」だとか「愛」「喜び」「救い」「信仰」「神」の理解とそれに過剰反応してくる人々との間の認識には、きっと大きな開き、違いがあるだろうということだ。とすると、同じ日本人だと思って話していたら、方言がきつくて分からない単語で⁇となるぐらいのやり取りになってしまう。

先日キリスト教で言う処のこの「救い」ということに関して、僕に「違う、違う」と表現してくれる人がいた。それも実際のところその人がどのようにそれを捉え、生きているのかは、その行動全般から判断するしかないのだけれども、彼は「救いには行いは必要無いんだ」と力説していた。そして、それを理由に関係を断たなければならないと結論づけていた。

多くの人々にとってはこんなやり取りに関心は無いでしょうが、僕もあまり関心がありません。でも他人から言われてはじめて気がつくこともあるというものです。それを聞いて、最初は何を言いたいのか分からずにいたのですが、なぜそういうことを言わざるを得なかったのかがだんだん見えてきました。

まずこのキリスト教が言うところの「救い」について、何が人間が抱える諸問題の解決となりえるのか、この座談会でも繰り返し扱ってきました。但し、ここに一人ひとりの認識に大きな差があるのは、それを信じたかどうか、それを信頼して受け取ったかどうかでまったく違ってくるからです。

こういったわけで、上にも書いたこの「信仰」という言葉一つとっても、それはその人の世界観を浮かび上がらせますが、同じだろうと思って話しているととんでもないことになることもあります。

「救われることに行いは要らない」と主張する人も、その言葉には現在の心情が写し出されているのでしょう。自分は救われているはずだが、それに伴った行動が生まれて来ない。むしろそれとは正反対のような感情や思いに支配されて身動きが取れない。いやいやそんなはずはない。「自分はキリストの贖いによって罪赦されいるはずだ…」と自問自答しているのでしょう。

そんな時、僕だったらこう言うんだけどな。「それって信じていないってことなんじゃないの?」って。

キリストの十字架なんてのは方便で使っているだけで、本気でそれに寄りかかってその中に人生を投げ込んで行くことはしていないしするつもりもない。それは信じていないと言った方が適切。
それともう一つ。キリスト教は是か否かを迫るものであって、その中間はない。信じたいんだけれども信じられないというのは、信じていないということ。当たり前のことだけれどもね。この「信仰」というものはイエスの内にあったもので、彼を突き動かしていた本質。彼の霊の現れ。日本人が一般に「鰯の頭も信心から」といったそれとは一線を画する。

ちと話がそれたかな。イエスを信じるということは、彼の実存に飛び込むということ。聖書に残されている彼の言葉のとおり、そうすれば安らぎを得られる。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。(マタイ11章)

こっちの訳はは安らぎではなく、「魂に休み」でしたね。この「魂に休み」をもって「救い」としたらどうでしょうか。きっと多くの人が、これを求めて探し回っていると思うのです。それで人を見て、直感的にそれが得られそうか否かを判断するのではないかと思います。
単に「信じる」とすると皆好き勝手に分かったつもりになろうとするので、定義を一度この辺りに定めておくと少し軸が分かりやすくなるように思うのです。

すると見えてくるものがありますね。キリスト教会では、上の句、「あなた方を休ませてあげよう」までをよく看板に貼ってありますが、僕はここで文章を切り離してしまうのはあまりに不親切だと思うのです。続きは中に入ってから…としたいのかもしれませんが、要らぬ誤解を生むというか、その後適切に扱われないと詐欺というか、聖書に出てくる追い剥ぎにあった人のようになってしまう気がするのです。

話が長いですね。言いたいことは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば…」のところなのです。くびきというのは、家畜や奴隷に労働をさせるための道具ですから、イエスが負っているそれと一緒に繫れて歩いてみる、傍で彼の荷の負い方を学んでみる。

それを体得すると、魂に安らぎを得られるというのです。そこに至って、人は「本当に自分は救われていたんだ」と感じ入る。自己愛の塊で、自分の利益や身を守ることばかりに夢中になっていて、心が休まることがなかったのが、いつの間にか変わっていたということにはたと気づくのでないでしょうか。

それはイエスのくびきを負うことをしているからです。彼を「信じる」のなら、自ずとそのようになるはずだからです。
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by dynabooksx | 2013-02-18 13:47 | 真也の視点

聖霊の火

『聖霊の火』

彼はまたこうも言った。

「私は火を地に投ぜんために来た。この火がすでに燃えた以上、私はまた何をか望もう。けれども私には受くべきバプテスマがある。それを成就するまでは、何と思い迫ることか。私が地に平和を与えんために来たと思うか。私はあなた方に言うが、そうではないのだ、反って分争である。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に分れ争うことになる」(ルカ12:49~53)

 火は何か。聖霊の火である。聖霊の火が点ると、生き方、考え方がちがってくるので、この世的な生き方の人々と分裂が生ずる。しかしこれも分裂のための分裂ではない。真の和合への分裂現象である。しかし、他の者たちがこの不滅の火を受けようとしないならやむを得ない。しかし聖霊は愛の火であるから、聖霊を受けた人は、愛をもって荷い、耐え、望んでゆくのが本当である。
キリストと共に十字架を負う光栄を賜る。聖霊の力はよろこんで十字架を負わしめ、天国をそこに現じつつ歩かせる。このような霊燈を万里のかなたまで運んで人々の胸に点火することが本当の伝道あって、「伝燈」と申したいくらいである。

     小池辰雄 無者キリストより
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by dynabooksx | 2013-02-18 13:41 | 聖書の言葉

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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