フェイスブック上のグループ「日本の未来を考える座談会」に投稿した文をこちらにも載せておきます。


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今朝のハングアウトでのやり取りは、この日本の未来を考える座談会において、前書きを終えて、第一幕が開かれようとする場面だったかと思います。
ここで明らかになったのは、先日名古屋で行われた東海コーチングセミナーでもベン・ウォンが繰り返し話していた。現代のキリスト教会が作り上げてきた偽りの神学、聖と俗を分離して考える世界観。教会の中は聖、その外は俗。教会は神が働くところ、世はそうでないところという価値観だと思います。

繰り返し彼の話を聞いてはいるものの、あまりにも牧師も教会員もその場を使い分ける器用な信者になってしまい。教会内ではそれらしい清い態度、そうでないところはその雰囲気を消し去るという二重性の中を生きています。
僕は不器用なのでとてもそういうことは出来ないのですが、それが世の中では大人だとか優れた人だとかという扱いを受けるようです。(聖書はそう言っているようには見えないのですが、、、)

何はともあれ、キリスト教が日曜日の宗教、キリスト教会の建物の中の宗教になってしまい、去勢されてしまったことで現在のような無残な姿になっているのだと思います。中国の公認教会と地下教会の対比を聞いてみても、敵も敵ながら見事だと言うほかありません。

未だ旧約の時代のように特定の場所や宗教設備の中に神が宿るという概念、世界観を生きている方々は、熱心であればあるほど、かつてのパウロのようにユダヤ教の律法の中で呻吟していることと思います。そんなくせに新約聖書では「喜び」とか言われるものだから、心と体というか顔があべこべになって、精神分裂、統合失調症のような状態に追い込まれるのではないでしょうか?

「福音」とは、本当にそのようなものなのか考えてみましょうよ。そんな自分が受け取って心から喜べるものでなかったら、そんなものを他人に勧めるのなら詐欺ですよね。世の中なんてみんなそんなもんだって開き直るかもしれないですけれども、、、。聖書が実際に何だと言っているのか、自分がこれまで受け取ってきたように思えることはいったん横に除けておいて、一度真っ直ぐに見てみましょうよ。その上でこれまで捉えて来たものと照らし合わせてみたらいい。

ここからギアを一段入れ替えて、パウロの戦いの現場、私の戦いの現場にお連れします。私はこれまで、あなたはクリスチャンではないとか、救世軍ではないとか言われたり、キリスト教の会堂から追い出されたりして来ましたが、パウロの現場がどのようなものであったかを聖書をもって知るでしょう。そしていったい何が「福音」なのか、神の秘められたる計画、真意はどこにあるのか、そしていったい誰が「クリスチャン」であるのかを知ることとなるでしょう。

ってうまくいくといいな。私たち一人ひとりが、父なる神の心に、キリストの思いに付き添うようになるようにと祈ります。


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現在の神学による聖と俗の分離

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本来の姿(聖書の世界観)

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by dynabooksx | 2012-10-19 23:18 | 日本の未来を考える座談会

詩篇 第46篇

1神はわれらの避け所また力である。悩める時いと近き助けである。2このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。3たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

[セラ4一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまい喜ばせる。5神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。6もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く神がその声を出されると地は溶ける。

7万軍の主はわれらと共におられるヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ8来て、主のみわざを見よ、驚くべきことを地に行われた。9は地のはてまでも戦いやめさせ折りやり断ち戦車火で焼かれる

10「静まってわたしこそ神であることを知れわたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。11万軍の主はわれらと共におられるヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ




10節の箇所。引用は口語訳であるが、「静まれ」というところ、新共同訳では「力を捨てよ」となっており、直前の節の内容と結びつきやすくなる。武器を捨て、力を捨てよと言うのだから、要するに無防備になれということ。必死に戦ってそれでもなお圧倒されてくる現状なのに、武器を捨てたら死んじゃいますよあなたという世界、、。この詩の作者は何がいいたいのでしょう。


1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。



でも、注意深く本文を読んでいくと、神自身が戦いの道具を焼かれる。それらが必要ないようにされると書いている。それによって人々は、力を捨て、神を知ることになる。「知る」ということは、神に心を寄せる、信頼を寄せるということ。人は神を知らなければ、その存在の保証をしらなければ、武器を取り自分で自分の身を守るべく戦わざるを得ない。しかし、神との関係を回復し、いのちを得た人にとっては、それは必要のないことだ。彼はいのちの使い道を知っている。与えられた自由を用いて存分にこの世界を飛び回る。それは「避けどころ」を知っているからだ。私達の避けどころ、それは十字架の下、、、。不安と欲とによって誘惑をし、戦いを仕掛けてくる敵に対して唯一対抗出来る場所。逃げ込む場所はすぐ側にある。自己を放棄して生きる道。誇り高い人間の尊厳に逆行して生きる道。イエスがその身を犠牲にして指し示した道。もはやわたしはその事以外は語らない。


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by dynabooksx | 2012-10-17 04:10 | 聖書の言葉

人生の意味

これまできっかけがなかったけれども、演劇の世界ってどこかで頭突っ込んでいたらかなりはまっていただろうなと思う。なぜなら、そこは仮想の現実を作り上げて観客をその世界に引きずりこんである意味だますところだから、、。

世界観を描いたり、そこでちょっといたずらしたりするのが好きなんだな、私は。でも不思議なんだな。本来あらゆることに強烈な好奇心を示すはずの私が、大学に入ってからというもの、世界観や活動範囲を広げるどころか、むしろそれまで夢中になることができたあらゆることに関心を失って行って、最後の一点しかない人間としては非常につまらない男になっていった。私としては、手足がもがれるような大変気分が悪い出来事だった。なぜ、そうなるのか、自分の人生はどこに向かうのか。世の中の人々と歩調を合わせられない不器用な自分だということは幼い時から十分理解してはいたはずだけれども、私が抱えていたその問題を理解できる人は、誰もいなかったように思う。

しかし、それもここまで来るとその理由がはっきり分かってくる。私の人生は明らかに、意図的に切り落とされ、剪定されて来ていたことが分かる。ある目的を持って実りをもたらすために、私の意志とは関係なしに私の関心、動機自体を背後で支えていた方がおられたことが分かる。うすうす気がついてはいても、鈍感な私は、繁栄の道とは違うそれを認めることを良しとしなかった。

311が来る前までなら、人は私を成功者だと呼んだかもしれない。確かに良い社員たちに囲まれ経営は極めて順調で外から見れば何の問題もないように映ったかもしれない。しかし私の心は全く別なことを考えていた。それは私の道、これまで刈り込まれてきた道の延長にあるものとは違うのではないのか。私は大きな間違いを犯しているのではないのか、と、、、。

それであの事件があった。私はそれまでの自分の人生と、その後残されている時間を頭の中で測った。あとどのぐらい残されているのか。私の人生がここまであったことの意味を残りの時間で果たすことができるのか。私は負債を負っている。


私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ローマ1:14


これまでの訓練で為されてきたとおり、私は自分の人生の集約点を一点に絞る。神がそれを私に望んでいることが今はわかる。というよりも、ここまで来たならば諦めるしかあるまい。まだしばらく健康を保たせて欲しい。負債を返し終わるまでは、、。

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ヨハネによる福音書15章

1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっている枝実を結ばないものは、がすべてこれとりのぞき実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

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by dynabooksx | 2012-10-14 06:58 | 真也の視点

「祈る」ということ

現在ヨハネによる福音書を進んでいるのだが、最近のハングアウトで繰り返し出てくるテーマがある。祈りということ、願うということ。パンク座談会では、「自己破壊を受け入れろ!」だとか「祈りは自己破壊だ!」ということが出て来ました。つまり聖書で言う祈りとは、「神に聞く」ことであって、行動原理の主体を自分から神へと変えることだということを確認してきたのでした。そんなところで見つけたのがこの動画。



祈りの二つの性質をよく説明しています。私もかなり以前からケセン語聖書は持っていたのですが、震災後に出版された「ガリラヤのイエシュー」という本があることは知りませんでした。北海道の友人から教えてもらって早速仕入れました。これから福音書を扱うときはこれをメインの参照テキストになりそうですが、ちょうどこの「祈り」について際立つ場所がありました。口語訳とこのガリラヤのイエシューを並べてみます。


16:25わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
26その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
27父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。

25このことをそなたらに、俺はたとえで語って聞かせた。
もうたとえでなど言わないで、父さまのことをはっきりと話して聞かせる時が来る。
その日が来ると、そなたらは俺の心に添いたいからと、心の底から願うだろうよ。
けれども、いいか、間違うな。そなたらのためにこの俺が父さまに頼んでやるとは、言っていないぞ。
27そのわけはこうだ。そなたらはこの俺をとても慕ってくれている。
この俺が神さまのもとからきたのだと本気でシッカリそう思っている。
それを御覧の父さまはそなたらを目に入れても痛くないほどそれは可愛く思っていなさる。
だからこそ、俺からお頼みすることはまるで無用のことなのだ。



強調したいところをにしました。これ以上しつこい説明はいらないと思います。その日、神の息が吹き渡る時、起こること、、、。
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by dynabooksx | 2012-10-13 14:51 | 真也の視点

彼のこころを行うこと

ぐっと涼しくなってきました。今週の火曜、水曜は名古屋に出掛けていましたが、知人に「あれ?真也君半ズボンじゃないの?」と言われてしまいました。やはり東海ぐらいなら通年それで通すぐらいの根性が必要でしょうか。喉元過ぎれば暑さ忘れると言いますが、東海の暑さももうずいぶん前の出来事のように思いますし、あの震災以降これからもう2度目の冬を迎えようとしていることに、また新しいステージの到来を感じています。

8月後半から絶え間なく毎朝のハングアウトを続けています。いい大人が毎日毎日何をやっているんだと思うでしょうが、どこまでやってもネタが尽きるどころか、より深まって現実の事象に対して具体的にリンクして影響力を増していきます。その中で、タイトルに「彼のこころ」とした、この事が繰り返し登場しそれが鮮やかに、明らかになっていくことをメンバーは体験しているはずです。キリスト教徒であれば「御心、みこころ」と呼ぶのでしょうが、縁の無い人にとっては全く理解不能な文言でしょう。

人の心には様々な思いがあります。人が集まるところには、それらが多種多様に渦巻くことになりますが、私たちの会はそこに一つの理念を持っています。

日本の未来を考える座談会 中心理念

同じ思い、一つの思い、心を合わせと続きます。この文章は、パウロという人物がある集団へと向けて書いた手紙の一部なのですが、「わたしの喜びを満たして欲しい」とあるように人々の一致を求めていたことが分かる。人間は、他者との関わりによって生きもするし、また死にもする。ということを繰り返し書いてきたが、これは文字通りのことだ。多くの人が、この「関係」の破壊によって自らの命を絶つ。

この時代を眺めるに、どれほどこの関係の破壊、破滅が起こっていることだろうと思い知らされる。ちょっと目の前を覗いてみれば、家庭、学校、友達、会社、地域、いたるところに共同体の機能不全を見出すだろう。それがあまりにも酷いので、人々は自らが傷つくことを恐れ、心を閉ざし引きこもる。言論の自由だと憲法でうたわれているはずのこの国に、どこにそんな場所を見出せるだろうか。闇から闇へと隠してしまった自分の本当の心を打ち明けて、それを正面から受け取ってくれる相手、そんな親友に恵まれている人などどれほどいることだろうか。家族であっても、夫婦であっても相手を思いやるという名目の下に、本当は分かち合うべき多くのものに封印をかけ、物理的には近い所に住んでいながら、冷めた関係の中を呻きながら暮らしている。

今日の食事にも困るような途上国の子供達の輝くような目を見たことがあるだろうか。あれと日本の子供達を比べてほしい。子供達は正直だ。私たちは彼らを見て、かわいそうだと思うかもしれないが、彼らが今の私たちの日常を知るのなら、反対に同情されるかもしれない。
今回の震災で多くの人々がショックを受けた。ショックの受け方は様々だろうが、ついに時代は動くということを察知した人も多くいたことだろう。または、めくれて真実が露呈した原発にカバーをかけるように、必死に元通り中身が見えないようにと繕うことに必死になっている人もいることだろう。

時代はどこに向かうのだろう。自分の人生はどこへ行くのだろう。これは福島や津波の被災地だけではなく、日本、いや世界の人々を揺さぶっただろう。国は収束宣言をし、除染除染と元通りにするのだとつつがなく進んでいるように見えるが、一見無くなったように見えるこの揺れは、いずれあれが単なるスタートだったと思うほどに増幅していくだろう。人々はさらに戸惑い、道を求めざるを得なくなる。それがこの刈り取りの時代だからだ。

再び中心理念を書いてみたい。文語訳で、、。

1 この故ゆゑに若もしキリストによる勸(すすめ)、愛による慰安(なぐさめ)、御靈(みたま)の交際(まじはり)、
  また憐憫(あはれみ)と慈悲とあらば、
2 なんぢら念(おもひ)を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、
  我が喜悦(よろこび)を充しめよ。
3 何事にまれ、徒黨(とたう)また虚榮のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ。
4 おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。
5 汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。
6 即ち彼は神の貌(かたち)にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず、
7 反かへつて己を空(むなしう)し、僕の貌をとりて人の如くなれり。
8 既に人の状(さま)にて現れ、己を卑(ひくう)して死に至るまで、十字架の死に至るまで順したがひ給へり。


5節、汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。その中身が6,7,8の内容になっています。ここに焦点を合わせて朝の座談会を行っています。聖書にはこのような言葉もあります。

人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。 (箴言19:21)

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイ7:21)

これを見るといかにこの『思い』が重要であるか分かるだろう。そしてそれを伝達するものが、今やっている数日前のところ。

けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(ヨハネ16:13)

キリスト教会ではよく「聖霊を受ける」ということがテーマに上る。(または、消し去ったかのように全く会話に出ない場合もある) そしてそのことによって生じる特殊な現象に夢中になったりする。しかし私に言わせれば、そんなことはどうでも良いことだ。聖霊が伝達してくるものは、父の心、イエスのこころだ。それが自分の心に迫れば、人は行動原理を変えざるを得なくなる。イエスの成し遂げたかった思いを遂げさせたいと強く願い、それに突き動かされるようになる。それに対して世の何物も障害となることは出来ない。それは十字架へとまっすぐ続く道だからだ。

いったい誰が、そんなところに何物にもまさる喜びや、どこまでも連鎖していくいのちが隠されているなどと見出すのだろうか。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ14:6)
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by dynabooksx | 2012-10-11 22:54 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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