近頃本屋に行くと、たいてい入り口周辺に陳列されているジョブスやアップルに関してのコーナーがある。私もコンピューターに関しては、MSX(microsoft X)の時代から扱って来ているが、ipod touch、iphone、この震災避難の最中に紛失したipadとここ2年ほどの間にアップル製品には急に世話になっていった。

それまではMS-DOSが標準であり、windows3.1、95(95年は大学入学時)、XPと使い続けてきてコンピュータとはこういうものなのだと理解していた。会社の中でも、全ての情報をサーバー、クライアントで一元管理するシステムを作り、外回りの社員達に一人一台ノートパソコンとプリンターを持たせ、そこからの出し入れで完結するようにした。今から5,6年前ぐらいのことだったが、現場の入出力まで直接パソコンからさせる(そのときには、現在のタブレットのような基準を満たすものがまだなかった)というのは、業界では最初のものであり、その意義とアイデアを浸透させつつ、まだないものを作り上げて行く作業はクリエイティブではあったが、多くのエネルギーを必要とする事業だった。

震災前一年ぐらいの話だけれども、iphoneやipadが出てきてから、『ああ、これでやっと自分がしたかったことが当たり前に認知されるような時代が来るな』と思ったものだった。というのは、ウィンドウズは、昔から機能第一主義というか、大変真面目なつくりではあるのだけれども、その真面目さゆえにはまってしまっているというか、やれることはやれるんだけれども、そもそも、、、という何かが見えていない。それを何のためにやるのかという視点での、そぎ落としがない。ツールに徹してしまっているので、それによる人間の行動様式の変化と、その先にあるものにまで目が届いていない。だから、いじっていて楽しくないんですね。日本人が普通イメージする『お仕事』の感覚ですね。

私は事業主として、『会社の仕事』を『それぞれのライフスタイル』に変えていきたかった。一日の大事な大きい時間を会社のために使ってもらえるんだから、それがその人にとって最高に価値あるものだと感じることが出来るようにまで、生き方の中心軸になるまで高めたかった。だからそれを追求するうちに、いつの間にか聖書をやるようになってしまったのだ。


ちょっと前置きが長いですね。このまま行くとジョブズが出てこなくなりそうなので本題に行きます。今回これを書こうと思ったのは、いつも目を通しているネット上の記事がきっかけです。

「『スティーブ・ジョブズ』秘話 並みの経営書とは違う『洗練を極めれば簡素になる』という生き方」佐々木俊尚×井口耕二前編

「『スティーブジョブズ』最後の秘話 トータルで製品を構築できる『究極の工業デザイナー』が世界を変えた」 佐々木俊尚×井口耕二Vol.2


ここからキーワードを上げながら絡んでみたいと思います。


まず前半のものから、、、。彼は若い頃、一言でいうと『かなりいやなやつ、本当にめんどくさくて大変なやつ』だと周りから思われていたようです。まるで、誰かのことを言われているようで他人の気がしません。(わたし、毎日奥さんに言われています。拝)  

「これは耐えられない」と思ったのは、「菜食をしていれば臭いがしないから、風呂に入らなくても大丈夫だ」と思い込んでいて、臭くてたまらなかったというところです。まあ、極端な人ですね。

極端』これが一つ目のキーワードですかね。常に真理を探究する人の性質はこれでしょう。つねにそれを突き詰めたらどうなるかということを日常的に考えている。それが、『普通』の人にとっては極端に映るのでしょう。誰しもが一瞬、その物事の真理、原理を知りたいと思っても、実際に自分の身を使って奇人だと思われてまで実践、探求することまではしない。私は、そこが分かれ道のような気がするんです。その作業をして来ている人は、その物事に関しては一つの確信を持っている。誰かから聞きかじったことではなく、自分の体で体験してきた動きようのない事実ですね。わたし的には、そういう生き方が極めて『普通』で他にどんな生き方があるんだい?? と思ってしまうのだけれどもそのように考えていること自体が、世の中的には『極端』なのでしょう。

わたしも一つ思い出がありますね。私が小学校の4年生ぐらいの時、ちょうど温室効果ガスのことが言われ始めていた頃だったと思いますが、理科の授業で、『人間は、酸素を吸って二酸化炭素という地球にとってマイナスになるガスを出す』という旨のことを学びました。本当か!? と真に受けたわたしは、それからというもの一呼吸一呼吸大変申し訳ないことをしているような気持ちになってきて、そのことばかり考えていたらだんだん呼吸が出来なくなって、息苦しくなって卒倒しそうになった、、、、。でもその時は、現在のように外側に強く向いたアンテナを持ってはいなかったから、その理由を先生に話すまではしなかった、、。していたら、さらなる面白い展開があったか、もしくは病院の先生の所に送られたかのどちらかだったでしょうね。(笑)

わたしにとって、こういう物事の捉え方は日常であったわけです。だから、周りからは特殊だと言われていたわが家の中であっても、さらに変わっているという子供だったというわけです。だから、わたしはかなり生き難い子供時代を送ってきました。学校という所を心底楽しいと思ったことはありません。こだわりを通そうとすると、周りを押しのけるか、自分を押しのけるのかになってしまう。そのどちらでもない、別な方策を体当たりで共に見出して行くような場を、学校教育の中心に置いていたのだとしたら、現在の日本は大きく違っていただろうと思うわけです。


ここに引っかかり過ぎるとこれで終わってしまうので次。前編中ほどの中心内容である『絞込み、シンプル化』。

「洗練を極めれば簡素になる」

数学とか物理法則とかやっている人からすると当たり前のことなんだけど、一般には、たくさんの機能がついているのが洗練されていて高機能だと考えられている。だが、それは混乱を生む元でもあり、枝分かれしたたくさんのオプションがあるが故に、やり込むうちに結局何がしたかったのがよく分からなくなってしまう。意識が分散して気持ちが乗らなくなってしまうということがある。ウィンドウズなんかは、高機能化の正統進化ではあるんだけど、高機能という細分化のために、全体としての統一感を失ってしまった。さらにもう一歩言えば、単なる道具以上にはならない。道具、サービスが一歩進んで、私達の生活というか暮らし方自体に変化を及ぼしてくるように訴える何かがない。真っ先にそこを仕掛けてくるジョブズのような人間がいなかったのでしょうね。

例えば、iOS5になって機能追加されたphoto stream機能。皆さん使ってみたでしょうか。クラウドを使ったシステムですが、機能は極めてシンプル。この機能をオンにすると、同じIDで使っていたiOS機器やマック、ソフトをインストールしたPC等に自動的に30日分の写真が互いに共有される。ただそれだけ、、、。普通なら色々考えるでしょうが?? どのフォルダーを同期するだとか、どれぐらいの容量を、どの端末からどちら方向にどのタイミングで追加を許可するだとか、、、、。そういうの一切為し。スイッチオンで、wifiに繋がっている間に、片っ端から一ヶ月以内の写真を共有して行く。『あっ!! 気づいたらいつの間にかあった! これ、ここからアップロードしてみよう』と勝手に機器の側が土壌を用意してくれることで、発想の可能性を広げてくれる。

たとえ、それがどんなに便利な機能だったとしても、その価値を理解しない初めのところでダラダラとたくさんのオプションの設定をさせられたら、ゲンナリすると思うんですよ。それを一切させないで、なんとなく使用開始したら、『えっ、そんなことが!!』みたいなところに人は感動するんです。そのために、その人の感動を実現させるところに完全に的を絞っている。その為に機能や技術があるという配置。そういう単純化なんですね。だから必要なことのど真ん中を、シンプルに最もスムーズに実現できることに最大の力を注ぎ続けるんです。これがジョブズの求めたことであり、彼の仕事だったはずです。そういう道具の側から、まるでそれが意思を持っているかのように人に寄り添ってくるような商品に、人々は強い愛情を示すことを彼は知っていたのでしょう。



そしてここからが私の領域。これを信仰の世界に適応するとどうなるか。

いま、ジョブズが生み出してきた製品、道具と人との関係を書いてきましたが、人が求めるものによって、道具は高機能化して、複雑なものになる。そうすると今度は、道具の繁雑さによって、人の意識が乱されることになる。つまり道具に使われるような状態になる。これは、本末転倒で気持ちが悪いものなんです。

現在動きが早く、混沌とした情報化社会の中に生きている私達は、手にしようとすれば様々な道具を手にすることが出来ますが、この意識が分散してしまった生き方の中にあって筋の通る何かを求めている。そこで、たとえ道具であったとしても、そこから新しいシンプルで統一された何かを提供してくれるものを探している。

つまり、これまでは人間→道具への一方通行だったものが、双方向のやり取りになる。これを望んでいるわけです。神と人との関係も同じ。神にとって人間は被造物ですから、いわば道具ですね。通常、道具は使い手がいて始めて用を為し、価値を得るものですが、罪によってその関係が断絶した状態ではそれが分からなくなっているわけです。

切り離されたとはいえ、人は自分の特異性を知っており、同時に空しさを心の中に持っていますから、自分の本当の価値を求めて、誰かが自分を認めてくれるようにと彷徨するのです。

この状態では、概念として創造主なる神を知ったとしても、一方的に支配、使役され、罰せられる厳格な姿しか見出せない。神→人ですね。これが旧約時代に一般的に見出されていた姿です。それがイエス・キリストの登場によって様変わりする。実際にその本質は変わらないのですが、彼が人の姿となって現れたことによって、それまで見えなかった神の真の姿が明らかになったのです。


ピリピ人への手紙
2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。


神であられる方が、俺は神だということに固執せず、僕のかたちをとり、人間の姿になられた。『僕のかたち』というのは、奴隷だという意味で、神にとって人間は奴隷である、道具であると述べているのです。その方が、自らをその奴隷の姿、僕のかたちをとって地上に来られたのだと手紙の作者は語る。そしてその続き、『おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』。


十字架の死に至るまで』とは、罪人だと人に嘲られる姿にまで身を低くするに至ったということ。『従順であった』とは、その神の子としての在り方、生き方を人々の前に示すことが、父なる神の計画、思いであり、それに最後まで従ったのだということ。

このことによって、罪によって見えなくされていた神の真の姿を明らかにし、人と神の間を回復させたのです。そのことは続きの部分を読むと分かります。


2:9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 2:10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 2:11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。


つまりキリストにとって私達は神を知り、それに結ばれることによって、道具としてのアイデンティティーを回復する。イエスはキリストであると告白し、自分に反映する、反射する神からの栄光を本来のところに戻すことになる。双方向性を回復するわけです。ここまで来ると何のことを話しているのか分からないかもしれませんが、実はこれが神が人を創造した目的なんです。『神の道具として、神の栄光を映し出す者になること』、これが人間の存在目的です。そしてそれを十分に認識し、その目的を忠実に果たす。つまり、神を愛する人間を神もまた愛することも、当然のことでしょう。

また、こういう関係性の中に、あらゆるものを一つにまとめようと神はなされているのです。そのためにイエスは十字架にかかったのだと、、、。以前の記事を読んでもらえば分かることですが、神と人との関係の回復とはつまり、神と人との融合なんです。道具と使い手との一致なのですね。使い手は道具のために、道具は使い手のためにという関係。そしてこのような互いの関わり方による社会づくり。これを実現させる道を拓いたのがキリストの十字架でした。聖書も私の文章も小難しく書いていますが、言いたいことは互いに愛し愛される関係の回復、ただそれだけのこと、極めてシンプルです。


とここまで書きましたが、前半は時間がかかっても、後半の部分はあっという間に進みます。前半は興味を惹いても後半は全くという方も多くいらっしゃるでしょう。それは、私が『神』と表現している対象があなたの人生にとって明確にならないからです。逆の言い方をすれば、それはイエスをキリストだと受け入れてはいないからでもあります。こう言われると反感を覚えるでしょうが、イエスの内に真理があるという構造になっている限り仕方が無いことなのです。あとは、話の導入にあるようにとことん『極端』なやり方でもって、やり切ってみることです。そうでなければ、どの道であっても人生を乗せきることは出来ず、結局何もつかめないまま人生を終えてしまうことでしょう。


大変長くなりました。ジョブズについて書きたいことはまだ3分の1程度です。続きを読みたいとの声があればまた書きます。ああ、疲れた。自転車で山でも登ってこよう。

a0023043_15591590.jpg
Ipod touchに夢中になる光希

[PR]
by dynabooksx | 2011-11-26 15:16 | 真也の視点

ツイッター上でのやり取りをきっかけにブログ上で二つ記事を書きました。旧約聖書が描く残虐に見える神と、新約に見られるイエス・キリストの関連性についてのものでした。

旧約の神、新約の神?

旧約の神の続き、聖絶について、

二つ目の記事を書いて、しばらく次がなかったので、これで終わりだろうかと思いましたが、続いてコメントしてきて下さいました。というのは、前の記事を読んでも『ああ、そんな風に考える人も世の中にはいるのだなぁ』ぐらいに感じても、それ以上にはならないだろうと想像しながら書いていたからです。それを分かりつつも書くのですが、まだもう少し何かをそこに感じて、追いかけてみたいと思われるのであれば、まだ先に語りたいことがありました。


Y.Y
「神による民族抹殺命令は正しい」とのご解説感謝です。つまり人間は自分自身では善悪を判断せず、感情も無視し、神の命令(神・教祖・預言者の啓示?)通りに行動せよと?



ここで取り上げたいのは二つのポイントです。一つは『善悪の判断』ということ、もう一つは『神の命令(神・教祖・預言者の啓示?)』ということです。短い文章の中にしっかりと重要なことを織り込んでこられます。返答のしがいがあります。

まず『善悪の判断』ということ。ここも聖書から紐解きますが、旧約聖書の創世記というところには、人類の最初の祖先がどのようにして、神と分離していくかの歴史が描かれています。このことを聖書は『罪』と呼び、これによって人類全体にこの性質が及んだのだという話になります。この場面で描かれているのが、神に食べてはならないと言われていた『善悪を知る木からの実』。これを食べることが文字通り、人類の分かれ道になります。

『分かれ道』というのは、神と人との分かれ道。反対に言うと、それまでは神と人との間に分離はなかった。母子未分離と言ったらよいでしょうか。人は、自らの創造者であった神の心、思いを自分のことのように知り、その守りの中で生きた。その神の性質と異なる別個の意識を持つ、ということがあり得なかった。つまり、善悪の意識というもの自体存在しなかったのです。蛇にそそのかされて、この善悪を知る木から取って食べたために自我が生じ、自分が裸であることが恥ずかしくなり、また自分が神の言いつけに反したことを知り、恐ろしくなって身を隠す。そう、善悪を知ったのです。そして自分の内側に悪があることを知り、それが神に受け入れられることがないことをまた知っているが故に、ますます命の源である創造主から離反していく、、、。これが人類最初の悲劇の全てです。


ですから、『自分自身では善悪を判断せず』と書かれましたが、確かに私達は善と悪に関しての意識を持っていますが、それが本質的に罪を抑制することは出来ません。むしろ、そこから来る恐れ自体が、人をより暗闇に引きずっていくでしょう。これは、

人は何によって[神に]義(正しい)と認められるのか

の所で書いた、律法の効果と同じです。律法による罪の自覚、善悪の意識、これは罪があることを知らせるだけで、それを解決する力は持ちません。ですから、私は人の『善悪の判断』というものに信頼を置いていません。例えば、国会議員の方々の『良心に恥じることはしていないとか、国益を最優先』とかいう発言の実態を判断して頂ければ分かると思います。


二つ目、『神の命令』ということ。これが本丸なのですが、一つ目の内容の結論にもなるところです。ここで問題なのは、私は『聖書の神』を知っているのに対して、Y.Yさんは知らない。私が『知っている』と表現しているのは、個人的に知っている。さらに言えば、神と結ばれている、一致しているの意です。ですから、『神の命令通りに』と持ち出してみても、知らない相手の命令など、もともと知るよしもないのです。旧約聖書を読んでも、Y.Yさんに映るイエスと旧約の神とが一致しないように、まだイエスの人格も、そこに投影される父なる神の姿、御思いも分かりません。外から恐れを持って眺めているのと、内側に入る、キリストによって神と一致、和解することで見える景色は全く違います。私は、キリスト教会に行くか行かないかの話しをしているわけではありません。関係についての話です。『知る』ということについて、ヨハネによる福音書からイエスの言葉を引用します。


ヨハネによる福音書 / 3章 11節
はっきり言っておく。わたしたち知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたわたしたちの証し受け入れない

ヨハネによる福音書 / 4章 22節
あなたがた知らないものを礼拝しているが、わたしたち知っているもの礼拝している救いはユダヤ人から来るからだ。

ヨハネによる福音書 / 5章 32節
わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方わたしについてなさる証し真実であることを、わたし知っている

ヨハネによる福音書 / 7章 28節
すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたし自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方真実であるが、あなたたちその方知らない

ヨハネによる福音書 / 7章 29節
わたしその方知っているわたしその方のもとから来た者であり、その方わたしお遣わしになったのである。」

ヨハネによる福音書 / 8章 14節
イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたし知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか知らない

ヨハネによる福音書 / 8章 55節
あなたたちその方知らないが、わたし知っているわたしその方知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしその方知っておりその言葉守っている

ヨハネによる福音書 / 10章 4節
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声知っているので、ついて行く

ヨハネによる福音書 / 10章 14節
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたし知っている

ヨハネによる福音書 / 10章 15節
それは、わたし知っておられわたし知っているのと同じである。わたし羊のため命を捨てる

ヨハネによる福音書 / 12章 50節
父の命令永遠の命であることを、わたし知っている。だから、わたし語ることは、わたしに命じられたまま語っているのである。」

ヨハネによる福音書 / 14章 4節
わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

ヨハネによる福音書 / 14章 7節
あなたがたがわたし知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」



たくさん引用しましたが、これで少し『知る』ということのイメージを持って頂けたでしょうか? 色分けしたら疲れました。頭の中で像は結ばないかもしれませんが、旧約聖書で語られる神(ユダヤ教の神)とイエスの関係が、本人の発言内容から予測出来るでしょう。イエスはこのように、『私は神を知っている。神は私の父だ』と主張したために『神を汚した者』として十字架につけられました。ですから、この時代に自分達は旧約聖書の神を信仰しているというユダヤ人と同じように、Y.Yさんも神を直接知らないので、誤解をしているのです。直接は知らない相手を、誰かの噂話を聞いて知ったつもりになるということはあるでしょうが、それで分かったつもりになるのは早計でしょう。私の神に対する信頼は、神を知っていることに依るものです。ですから、相手を知らないで、外面から評価しようとするのは無理があります。残念ながら、評価する相手が相手(自分達の創造主)だということと、人間の罪によって、その間が隔てられているからです。


最後に口語訳で10章より引用したいと思います。

10:14わたしよい羊飼であって、わたしの羊知りわたしの羊はまた、わたし知っている。 10:15それはちょうど、わたし知っておられ、わたし知っているのと同じである。そして、わたし羊のため命を捨てるのである。 10:16わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたし彼らをも導かねばならない彼らも、わたしの声聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れひとりの羊飼となるであろう。 10:17は、わたし自分の命を捨てるから、わたし愛して下さるのである。命を捨てるのは、それ再び得るためである。 10:18だれかが、わたしからそれ取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これわたしの父から授かった定めである」。


『私は、羊のために命を捨てる』というところの『羊』をで書いたのは、続く内容で分かるように、これは『この囲いにいないほかの羊』のことを指しているからです。イエスは、この囲いから漏れた羊のために自分の命を捨てるのだと語る。通常命はで、それを捨てるはのはずですが、実はそれこそが父なる神の御心、父から授かった定めであり、イエスが現れるまで秘められていた計画であったというのが福音であるのでで色づけをしました。それは、選びの民であるユダヤ人と異邦人の隔ての壁をなくし、神との和解が全人類に及び、キリストの愛の下へ全ての民が一つの群れとなるためでした。この犠牲により、私達は罪によって断絶されていた父なる神との関係を回復し(義とされ)、その御心を知ることになりました。

長くなりました。このあたりで切りましょう。


追伸 おそらく、根本的な疑問は、キリスト教国と言われる国々がなぜ現在のような姿なのか、もしくはカルトと呼ばれる集団が現れるのかという所から発生していると思われるので、それは別枠でいきましょう。
[PR]
by dynabooksx | 2011-11-24 16:59 | 真也の視点

現在私が足しげく通っている教会は、セルチャーチとかセルライフとかいって、教会の中に多数の小グループがあって、約週一回集まり、その中で家族のような密度の濃い人間関係が形成されるようになっている。私もそのうちの一つに誘ってもらって、都合がつく限り参加させて頂いている。

このところマタイによる福音書を続けてやってきたのだが、昨日はいよいよ最後のイエスが十字架にかかる場面、27章の所だった。長いところなのだが、私はこの箇所を改めて読み込んでいった時、一つのことに気づいて、セルの間、その事をずっと考えていた。

いつもどおり、口語訳聖書はここで読めます。27章です。


27:35彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 27:36そこにすわってイエスの番をしていた。 27:37そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。 27:38同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 27:39そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスののしって 27:40言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分救え。そして十字架からおりてこい」。 27:41祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 27:42「他人を救ったが、自分自身を救うことできない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 27:43彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。 27:44一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスののしった


黙して十字架にかかるイエスと、その周りを取り囲む人々とのやりとりの場面です。ブログの画面横に映っている3本の十字架は、瀬戸物で大堀相馬焼きという今は原発20km圏内で入ることの出来なくなった場所のものですが、私がある時作ったものです。普通は、なんらかの器を作るのが普通ですが、ひねくれている私はこういうものを作ります。これを今回の一時帰宅で持ち出してこようと探したのですが、見つかりませんでした。十字架が3本立っているのは、ここで書かれているように、イエスの両側に強盗が二人つけられたからです。

ここで、私が何に心捕らわれたか分かるでしょうか? 人々の思い、人間の願いについてなのです。まず40節から並べてみます。

もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい(40節)

他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。

彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
(42節)

十字架にかかって殺されようとしているイエスを人々はこのようにののしるわけです。引用の最初で分かるように、十字架に打たれた名前は『ユダヤ人の王』であり、ユダヤ人達に殺される理由は、神を汚した言動のゆえでした。ここで注目したいのは、『自分、自分、自分』と三回繰り返し自分と出てくるところです。神の子であるならば、自分を救って当然だろうと、、、。人々は、神の性質についてこのような、イメージ、欲求を持っている。そして、『そうしたら信じよう』と言っているように、そこに自分自身の姿をうつしている。自分の思うような神であったのなら、受け入れようと、、、。

これが人々が望むことです。人が望むことは、自分が救われること。苦しく渇く人生を歩んでいるばかりに、それから逃れたいと願う。だが、この神の子と呼ばれた男の進んでいった道は違っていた。旧約聖書の預言に『屠られる子羊のように、黙して語らない』とあるように、どんどん不利になっていく自分の立場を弁明することもなく、真っ直ぐに十字架に向かっていく。確かに、十字架から降りることを願えば、天の軍勢を使わしてそれを為すことなど造作もないことだっただろう。だからこそ、ゲッセマネで血の汗を流すほどの苦しい祈りをしたことが重なる。

彼は、天の父、創造主なる神が何を願っておられるのかをはっきりと知っていてそれに服従した。神の願いは私達が罪から解放されて救われることであり、そのための道を示すこと。キリスト・イエスが自分の命を差し出すことで十字架で死んで復活し、人が本当に生きるべき姿、道を指し示すこと。その両者の対比が、この場面で引き立つ。

十字架はキリストだけの特別なものなのか。イエスは、『私は道であり、真理であり、命なのです。私を通らなければ、父の元へ行くことは出来ない』と言われた。イエスが切り拓いたその道、その生き方を私達が通ることで、真理を知り、命を得る。神の御心、神が私達に望んでいる、人の本当の生き方について知ることになる。十字架は、人の望む道と神が望む道とが交差する場所だ。

a0023043_962364.jpg

[PR]
by dynabooksx | 2011-11-23 09:02 | 真也の視点

おまけ

教育新聞
2011年11月14日(月)
写真は、長男君です♪
a0023043_14464289.jpg

[PR]
by dynabooksx | 2011-11-22 14:46

マンションを一年間無償で貸してくださっている大家さんが
「喫茶店でもらってきたから。」とこちらの地元新聞を持って来てくれました。
東海日日新聞~東日新聞~2011年11月17日(木)
a0023043_1436134.jpg

東愛知新聞2011年11月17日(木)
a0023043_14362173.jpg

中日新聞2011年11月16日(水)
a0023043_143621100.jpg

読売新聞2011年11月17日(木)
a0023043_14362120.jpg

表彰式当日つけていただいたリボンの花勲章
うちの長男君実は、福島県で小学一年生の時から毎年作文で特選や読書感想文で特選を頂いていました。
形としては小さなことだったけど、毎年毎年賞をいただけるように、作文の技術を磨いたり、経験したことを記録に残したり、できることを積み重ねた結果。
小学生最後の六年生、6個目の賞が、一番記念になる大きな立派な賞、本当に幸せです!
a0023043_14362190.jpg


*母のつぶやき
新聞に載せて頂いて本当に貴重な経験をさせていただきましたが、できたら写真をもう少し私がスマートに写っているのを載せてほしかったな。写真何十枚も撮っていたので、もう少し写真あったような気がするのですが。。子供が綺麗に写っていれば良いんですけどね♪
[PR]
by dynabooksx | 2011-11-22 14:36

無事帰って来ました。毎度のことなのですが、向こうに行ってくるとその後しばらく体がだるくなって、睡眠を多く欲するようになります。頓服薬を飲んだ時のように、全体的にだるくなるんですね。まぁ、あれだけの移動距離と一時的に生活のリズムが大きく崩れるのでそれもあるでしょうが、、、。

先日、ツイッター上で知り合ったY.Yさんは毎度、こちらが聞いて欲しいような質問をしてくださいます。出かけ先でしたので、帰って落ち着いてから返事をさせてもらうことにしていました。


Y.Y
@hama_kaze さん、中々ブログにコメントできません。すみませんが、一つだけ質問してもいいですか?ヘブライ語聖書の神が他の神や森羅万象を拝む他民族を赤子も残らず抹殺せよと命令する事とその命令を民が実行する事は「正しい・善」と思いますか?それとも「間違い・悪」と思いますか?



前回の続きですね。このことを聖書用語で『聖絶』と呼ぶようです。神の命令ゆえに、全て滅ぼしつくせというものです。旧約聖書に書かれている記事、特徴的なのはサムエル記上15章でしょうか。

15:2万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。 15:3今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」。

あっさりと書いてありますが、壮絶な場面ですね。まぁ、戦争というのはそういうものなのですが、それにしても普通は見られない光景です。恐らくここを見て、もうこりゃだめだついていけないとなる方が多いのではないでしょうか。それ以外のことなら、何とかかんとか理由をつけて納得させてきたのに、これを言っちゃあ終わりだと考える。牧師や説教者でもここを取り上げることは、滅多にないのではないでしょうか? そう、自分の感覚に合わないところは避けるんですね。避けたり、納得の行く理由をつけてやり過ごしたりする。そして、そういうものが信仰でそれが普通なのだと理解している。

さて、ここで重要なのはこの万軍の主命令の後、どうなったのかということ。追いかけてみよう。


15:9 しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。

サウルはイスラエル初代の王様ですね。サウルは、聖絶せよという命令を受けていたのに、それを完全に守ることをしませんでした。家畜その他の財を、戦利品として残したのですね。常識的に考えれば、戦争をするのには多額の費用がかかりますから、それを調達するために金目のものを残したというのも納得でしょう。しかしやしかし、この事により、本来であれば建国の父として讃えられるはずの初代の王は、その地位を追われることになります。直後の所、、、

15:10その時、主の言葉がサムエルに臨んだ、 15:11「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。 15:12そして朝サウルに会うため、早く起きたが、サムエルに告げる人があった、「サウルはカルメルにきて、自分のために戦勝記念碑を建て、身をかえして進み、ギルガルへ下って行きました」。

そして、それを厳しく叱責する預言者サムエルに対してサウルがする答えがこう。

15:15サウルは言った、「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」。

15:20サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。 15:21しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。

15:24サウルはサムエルに言った、「わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。


なるほど、もっともな答えですね。途中途中にサムエルの言葉が入りますが、やりとりの中で、いったい何が問題だったのかが明らかになっていきます。実は、サウルはこの前の13章も場面でも、決定的な間違いを犯してしまいます。困窮する状況において、神を待ち望む、預言者サムエルを待つ場面にありながら、それを待てずに越権行為をしてしまう。ここで、すでにサウルの治世は長く続かないことを宣言されてしまう。

私が何を言いたいのか、どうしてこんなに細かい箇所を引き合いに出して説明をしようとするのか、全くピンと来ないかもしれません。そう、ピンとこないばかりに、サウルはそれを重要なことだとは思わずに実行してしまっていたのです。サムエルの言葉を載せます。


15:22サムエルは言った、
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、
燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
見よ、従うことは犠牲にまさり、
聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23そむくことは占いの罪に等しく、
強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。
あなたが主のことばを捨てたので、
主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。



ここで、『偶像礼拝』という言葉が出てきます。唐突なように見えますが、これがサウルの犯した罪の本質です。偶像礼拝というと、なにか人の手で形作った彫像かなにかを拝むことだとイメージされますが、それは実体ではありません。『偶像礼拝の本質とは、神ならぬものを神とすること、自分に都合の良い神を礼拝すること』です。ここで『神』と呼んで意いるのは、天地万物を創造された創造主です。ですから、神ならぬものとは、それ以外の全てということになります。ですから、最初の質問の所に戻りますが、『他の神や森羅万象を拝む』との表現によるところの、『神』というのはそこに抵触することになります。偶像礼拝に関しては第一コリント10章にも詳しくでています。偶像を拝むということを、パウロはどのように言っているのか。興味があればご自分でお調べ下さい。質問があればまたどうぞ。

13章にも見られるように、サウルが神の言葉よりも、自分の考えを優先し、また王として民の言葉を優先している姿が見受けられます。治世者であれば、民の声を聞くのは当然のことだと思われるかもしれませんが、いったい誰が、油を注ぎ王を立てられるのか、それを知らなければなりません。ですから、聖絶するという命令を出す神が間違っているのではなく、神である方を認めることが出来ず、その主権と正義を見出すことが出来ない私達のあり方自体が歪んでいるのです。イエスに関しても同じです。イエスは堂々と町々を巡り歩きました。その言葉の内に、奇跡の内に神の性質が存分に現れていたのに関わらず、私達はそれを認める、見出すことが出来なかった。それゆえに彼は十字架にかからなくてはならなかった。いや、そのために、その事を明らかにし、回復をもたらすために、彼は地上に来られ、奴隷として生き、自らの命を差し出された。

私達は、自分達が世界の主権を握っているのだと錯覚している。20世紀著しい科学の発展を遂げ、自分達の力で天国のような世界を作り上げることが出来ると、ひた走った結果が今明らかにされて来ています。

以前の記事でも何度か書いたかと思いますが、今回の地震と原発事故に関して日本のキリスト教会がほとんど何のコメントも出せていないことに今更ながら残念に感じます。こういうことは、歴史上何度もあることで、自分達の信じている神とは関係がない。神の裁きなどではないと、、、、。どうして、自分達の教会に神は働いて、東北で起きた地震、福島で起きた原発事故に神は関わり合いを持たないのでしょう。そうやって、切り分けて自分達に都合の良い神を神としていく、、、。それとも何か、日本人は他の民族と違っていて、神の怒りを免れるパスポートか何かを持っていると考えているのでしょうか。何事もない、問題はない、すぐに収束し、元通りになるのだと嘯いている間に、次なる刃がすぐに迫るでしょう。


私が、去年の12月に主にお会いしてから、うわごとのように繰り返していた言葉。私の周辺にいた人々は聞いたはずです。『神の祝福と裁きとを軽んずるな。』この言葉が、繰り返し繰り返し脳裏に迫ってきて、消えて行かなかった。今になるとその意味がよく分かります。今は時が満ちて来ています。時間が経てば、さらに多くの人々に真実が何なのかが明らかになるでしょう。


ヨハネによる福音書
16:8それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 16:9罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 16:10義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 16:11さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。


イエス・キリストの御霊、聖霊が、目を開いて下さるように。


追記 繰り返し言っているように、結局は御霊による働きなのですが、それを言っても始まらないので、こんなことで納得するはずはないと思いながら書いています。もっと別な角度からの考察もしてみようかと考えていますが、ここに被せるとややこしくなるので、やり取りがまだ続くとすれば書いてみるつもりです。それは『イスラエルの選び』についてです。さらに進むとそういう問題に行き着くと思うからです。とりあえずこの辺りで、、。
[PR]
by dynabooksx | 2011-11-21 10:14 | 真也の視点

一時帰宅関係

うちの蔵の横の柿。
ものすごい数の実がなっています。
昨年までは、小さい緑の実のまま、落下していたのに。
放射性物質を栄養と間違えてんだね。
蔵の漆喰がはがれてます。
a0023043_22222981.jpg

二階の西側の部屋からお隣と、阿武隈山地が。。。
a0023043_22222927.jpg

新潟県魚沼産よりも美味しいと評判だった浜通りの米の田んぼ。
せいたかあわ立ちその他雑草野原となっていました。
a0023043_22222949.jpg

廣田家のお墓。ぎりぎり倒れないで立っていました。重たい石がこんなにずれてました。
a0023043_22222925.jpg

おうちもお墓も何とか無事でした。
a0023043_22222945.jpg

長男次男が通っていた双葉町立双葉北小学校。車の持ち出しで随分数は減っていました。
a0023043_22222918.jpg

「正しく、強く、ほがらかに」ふたばっ子は、どこにいようとも志高く!という事だね。
a0023043_22222979.jpg

ひめにょんの通っていた双葉町立ふたば幼稚園。随分荒れた感じはしたけど、まだ目を閉じれば
子供たちの可愛い声が聞こえるような気がしました。
a0023043_22222972.jpg

a0023043_22222941.jpg

帰りにちょっと寄り道してきた富岡港。津波のすざまじい力を見てきました。
a0023043_2222299.jpg

母屋二階西側の部屋より毎日眺めていた景色。
a0023043_22222955.jpg

[PR]
by dynabooksx | 2011-11-19 22:22 | 愛理の避難生活

久しぶりの故郷

4がつから実に7ヶ月ぶりの帰宅となりました。
うちの正面です。せいたかあわだちが伸びちゃってね。
a0023043_5414468.jpg

時間がなくて、きちんと片付けできていなかったので。。
a0023043_5414484.jpg

玄関より玄関スペース、居間、ピアノの部屋を撮影。
ココに卓球台おいて子供たちやお友達で遊びました。
あと水拭きすれば、住めそうです。次回は水拭きしよう~
a0023043_5414436.jpg

中日新聞に載った長男君の記事も家に報告がてら貼ってきました。
うちの子達3人が載った農協の小冊子も。
クリスマス前なので、可愛いシールも貼っちゃった♪
a0023043_5414443.jpg

台所も犬や動物の侵入後、生活後があったのですべて始末してきました。
a0023043_5414450.jpg

母屋の庭のもみじ綺麗でしたよ。でも雑草がすごくてね。
西側の柿の実もたくさん残っていた。
a0023043_541442.jpg

二階の一室。
窓から古い作業小屋と、ログハウス風のうちの会社が見えますね。
a0023043_5414445.jpg

毎日眺めていた阿武隈の山並み。しばらく見られないけど、またね。
a0023043_5414425.jpg

今回で、今年の帰宅は、最後(T_T)/~
とりあえず、大掃除してきました。
綺麗になっているでしょ?

私達を守ってくれた大きな家、ありがとう!

http://www.nttfukushima.com/live/tomioka/Default.html
富岡町NTTライブカメラの右下付近。「浜通りから愛をこめて」と薄茶色のシーツを貼ってきました。
一時帰宅の時何か書き込みして下さっても♪
画面では「浜通りから愛」だけ見えてますけどね。
[PR]
by dynabooksx | 2011-11-19 05:41 | 愛理の避難生活

旧約の神、新約の神?

昨日、私の会社と社員達、そして教会のことという記事を書いたのですが、その後にツイッター上でこんなやり取りがありました。ぐっと胸に迫ったのですが、後で落ち着いてそのために文章を書こうと思いながら一日過ごしました。ダイレクトメールではなかったので、掲載することをきっと許してくれるでしょう。


その方:私はキリスト教徒が言う旧約聖書の神を信じる宗教を嫌悪する。他宗教の他民族を大虐殺するよう命令する神を肯定するのはカルト。しかしなぜかこのブログは心に響いた。RT @hama_kaze :[exblog] 私の会社と社員達、そして教会のこと http://t.co/RgA7ADVW


私:コメントありがとうございました。提起の件、140字で書くのは難しいですが、私は単に人の理解、概念ではない存在を個人的に知っています。半ば強制なのですが、、、。よく知らない相手であれば、誤解が生じていつの間にか大きな距離が出来るということがあるのだと思います。


その方:私はヘブライ語聖書(キリスト教徒の言う旧約聖書)の神は大嫌いですがイエスは大好きです。イエスの愛に感動した人が、なぜヘブライ語聖書の悪魔のような神を愛せるのかが全く理解ができないのです。RT @hama_kaze :~私は単に人の理解、概念ではない存在を個人的に知っています~


一瞬厳しい批判のツイートかなぁと思って読んでみるとそうではない。いや、こういうやりとりこそ私は望んで、期待して書いているわけだ。この場では、一度でツイートできる範囲で最大限書いておいたつもりでしたが、続いて書きたいこと、やり取りしたいことはわんさかありました。対話形式で、やり取りを進めて、それを後でまとめるというのも良いのですが、相手がそれに付き合って下さるかということと、あの場面ではすでに時間が遅く、前の記事を書くことでかなり疲れていたので、あの場はそれで終わっておいたのでした。


それで、本題です。旧約聖書に描かれている神と、預言されていた救い主、地上に来たメシヤ、キリストとしてのイエスとの関連性と対比。私にとっては、私の知っている限り、両者の人格が全く違いを感じない、というよりも、イエスの内に父がおり、父のうちにイエスがいる。そしてその中に自分もいることを、実感をして持っているので、なんというか、一つなんです。それじゃあなんの説明にもなっていないですかね。でも多くの方が、ここに疑問を持たれているのではないでしょうか?

最初に言っておきますが、私の場合は聖書に対する理解ではありません。相手を知ろうするときに、相手の情報を調べ、分析し、評価、理解することはあるでしょうが、聖書においての『知る』というのは、『男が女を知る』という時に使うような一致、融合を示すことを意味し、実際そのようなことなので、遠くから眺め、観察するようなものとは異なります。

前置きを語るつもりが、いきなり本題、本質になってしまいましたね。聖書箇所をたくさん上げながら説明することも出来るのですが、それだとまるで誰かの話をとってつけたように感じられてしまうかもしれないので、今回はなるべく引用しないつもりです。

おそらくこの方は、かなり聖書を読んだことがある方だと思います。『イエスは大好き』だと感じられる所はきっと、収税人の所に行ったり、姦淫の女をかばったり、強気をくじき、弱きを助け、また律法や権力を使って、人に支配従属させようとするところに、敢然として立ち向かうところでしょうか。そしてそれゆえに、恨まれて十字架につけられ、殺される散り際もアッパレだと、、、。これは勝手な私の予想ですが、そう違ってはいないのではないでしょうか。


確かに、これに対して旧約聖書で見えてくる、厳正で曲がったことが嫌い。自分を信頼して礼拝しないと、怒って裁きを下す神が違う存在のように見えるのかもしれません。一つの鍵はイエスの発言自身を追いかけて言って、それ全体が何を指し示すのかを追及していくことだと思いますが、確かにこの時代(イエスの時代)まで、このことは奥義として封印されていて明らかにされていなかったので、ごくごく限られた人を除いては誰も気が付くことはありませんでした。一番近くにいて、イエスと寝食を共にし、直接教えを受け、奇跡まで目の当たりにした直属の弟子達ですら、師の語る『メシア(ヘブル後の救い主、ギリシャ語のキリスト)』の真の意味を、後に聖霊を受ける時まで知りませんでした。

ですから、分からなくて当然とも言えます。イエスは繰り返し、『私を見たものは、父を見たのだ』とか『私の語ることは、父が語るままのことを語っているのだ』ということを主張しますが、それが本当のことであったというのは、その人の心に真理自身、真理の御霊と呼ばれる聖霊が来た時に初めて分かるようになっています。


もし、分かりきっていることを語ったら申し訳ないのですが、聖書における主人公、中心人物は人ではありません。創造主なる神です。ですから、私たちは脇役で神に創造された被造物ということになっている。ですから、作り手には、それを作る目的があって、その目的に沿わなければ、奪おうが滅ぼそうが、本来は自由なはずです。この前提を読み違えると、聖書の筋は全く通らなくなります。私たちが、私たちの思考が神を作り出したような話しになってしまうからです。しかし、これでは聖書の中心議題である、『罪の赦し』における最初の『罪』がまるで成り立たなくなります。ですから、自分にいったい何の罪があるのかといぶかしく思われたとしても、しばらくそういうことにしてお付き合い頂かないと、筋を追うことが出来ません。

私の話し、まどろっこしいですかね。目の前に相手がいれば、特徴をつかんで一気に行くのですがいかんせん情報が少ないもんでごめんなさい。やはり、いつものやり方で行きます。


旧約の神が恐ろしく見えるのは、罪があるからです。ヘブライの神が悪魔のように見えるのは、あなたがそれに敵対するものを内側に持っているからです。ああ、これで嫌になっちゃいますかね。でも事実のはずです。もし罪がなければ、神との間に平和を得ていて、あなたの存在を、あなたのあり方を喜ぶ父の思いが、あなたの心の内に伝わってくるはずです。それがないとすると、神とあなたの間は断絶しているのです。

イエスは大好きだと言われましたが、あなたは彼の厳しさをまだ知らないような気がします。一番弟子のペテロが、もうすぐ自分は死ななくてはならないと口走るイエスを心配して、『そんなことがあってはいけません』と気遣うのに対して、何と答えたのかを知っていますか。『引き下がれ!! サタン』ですよ。驚きでしょう。ですから、イエスに対しても、旧約の神に対しても、きっと御自分の読みたいように、受け入れたい部分だけなぞっているのではないでしょうか。もちろん、そういう読み方もありですし、先に述べたように、イエスの弟子達もそうでした。しかしそれでは、親の心子知らず、師の思い弟子に届かずです。


イエスは、私たちが罪ある古い生き方に死んで、自分を犠牲にすることで生まれる新しい命を与えるために地上に来られました。これは、彼を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためのものです。これは、父なる神の切なる思いで、その思いを実現するために、イエスは地上の生涯を僕として捧げました。ここに愛があります。愛するとは何なのか、父の思いとは何なのか、分からなくなってしまっていた私達に、自らの死と復活の姿で持ってそれを示し、父に至る道を切り開きました。これが、イエスが言われた『私は道である。私を通らなくては、誰も父の下に行くことが出来ない。』と語った意味です。私達が、自分を放棄して父なる神の思いに応える。全ての人を神の愛の下に連れ戻し、互いに愛し合って一つとなす。そのために自分の命を使い、相手に与える。考えられないことですが、自分の事にしか関心がなかったはずの私が、イエスを受け入れてからというもの、この父の思いがどうにも胸に流れ込んできて、じっとしていることが出来ません。

私がこんな風になるのも、きっと今が特殊な時代であって、世の終わりが迫っているのでしょう。イスラエルには雨季と乾季があって、雨季の間に種を蒔いて収穫をすると言います。種を蒔いて芽が出るときには、多くの雨が必要で、雨季の初めには、車軸を流すような雨が降るそうです。その後しばらくおさまるのですが、最後に実をつけて刈り取りをする前に、もう一度強烈な雨が降ります。そのことは、旧約の何箇所かで出てきますが、この雨とは聖霊のことです。終わりの時代、使途行伝に見られるような、一世紀の中東で起こった奇跡がこれから起こります。イスラエルが回復されて来ている今、日本にもそれが起こるでしょう。先日起こった津波は、そのデモンストレーションです。本物がまもなく来ます。これまで日本人が体験したことのない、凄まじい霊的が波です。あらゆるものがそれに飲み込まれ、洗われ、破壊され、また創造され、回復されるでしょう。私達は、その震源地にいたのだと確信しています。

地震のあと、遅れて津波が来ます。私も海岸線に祖父を助けに行きましたが、祖父は助かり、そのすぐ側に住んでいた祖父の弟は、逃げ遅れて車の中で亡くなっていました。判断は一瞬のものです。今、心の中に示されていることがあるのなら、どうぞそのままそれを祈って下さい。イエスを受け入れたいと願っているのなら、自分の救い主として迎えることを宣言して下さい。私達が、救いを得るというのは、ただそれだけのことです。実体はあとで分かります。継続して私との関わりが必要であれば、いくらでもお付き合いします。もうすぐ、個建てのもう少し広い家に引っ越しますので、近くであればいらして心ゆくまで話して、泊まっていっても結構です。家も会社も失って、時間はたくさんありますから、喜んでお付き合いいたします。というより、お付き合いして下さいと言ったほうがいいのか、、、。今後、ネット上での教会や、ここ東海でのリアルな教会も立ち上げて行くつもりです。ということで、今日はこの辺りで。


a0023043_32538.jpg

蒲郡のミカン。収穫は目の前だ。

[PR]
by dynabooksx | 2011-11-15 22:52 | 真也の視点

よくよく思い返してみると、あの震災以降、落ち着いて会社のことを書いたことが一回もない。私の日常の非常に多くの部分を占めていた社員達との生活。それがあの日、一瞬にしてバラバラになり、消し飛んだ。震災直後、海岸線に住んでいる祖父と助けて戻った後、町の記録を撮るためにすぐまた出かけて言ったため、渋滞の中帰ってきた社員達には、その日、朝のミーティング以来、顔を会わせないまま別れ別れになることになった。

私が、実家の双葉町に帰ってから約10年、気が付くと引き継いだ会社は、いつの間にか教会のようになってしまっていた。というのも、様々な過程があったわけだが、私はクリスチャンとして困っている人を助けたいという思いは最初から持っていて、気が付くと様々な問題を抱えている者ばかり雇ってしまっていた。それで何とかしてそれぞれの生活を立て直したいと思うわけだが、問題が重ければ重いほど、つぼにはまっていてとても動けそうにないものばかりだ。それを見て、事務の手伝いに来てくれていた叔母さんは、『この会社はどうしてこんなに問題ばかり抱えている人ばかりなの??』と思わず口にしたほどだった。

世の中一歩踏み込んでみると、考えられないような不幸や不運に見舞われて身動きが出来なくなっている人がたくさんいる。ああ、それは仕方がないよぉというやつや、どうしてそこで、またそうしてしまうのかなぁ、という残念なものまで様々だ。しかし、人間どんな状況に置かれたとしても、そこで生きているのはその人自身だ。その人がそこでどのようにその問題を捉え、どのように解決していこうとするかを決断することで、変えていけるものなのだ。しかし、問題が問題として残り続けるということは、様々な制約のなかで閉じ込められているからこそ身動きができないのだ。

それには、どうしてもその人自身が変わる必要がある。その生き方でこだわろうとする限りは、常に同じ問題にぶつかり続けるからだ。力でそれを乗り越えられるのなら、とっくに解決しているであろう。出来ないから悩むのだ。であれば、生き方の方向を変えるしかあるまい。だが、自力でそんなことを器用に出来るほど人間は便利には出来ていないのだ。

だから、どうしたら根本的な解決をもたらすことが出来るだろうと考えていたところ、やはり私の短い人生の中で見当たるのは聖書しかないという結論に達したのだ。昨年の12月の終わりに、復活のイエスに出会うという大きな変化をもたらす体験をしていた私は、示されてくることを次々と実行していった。

まず、新年の仕事始めに於いてこのような話をした。

わが社の業務はサービス業である。サービス業に置いては顧客とのコミュニケーションが大変重要になる。顧客が何を考え、何を提供できるかを素早く掴むことが、質の高いサービスをもたらすことになるからだ。人との会話とは、通常少ない言葉のやり取りなのだが、その内容から、前後を予測したり、行間を読むことで相手を立体化させる。その能力が高ければ、仕事はぐっとし易くなる。そのための訓練をこれからしたいのだけれども、その教材として、何を使ってもよいのだが、私は『聖書』と用いたいのだ。聖書には聖書の書き手がある。書き手が何を伝えようとしているかを、考察し、予測することで、いい訓練になるはずだと、、、。

ちょうど知り合いから、聖句日めくりカレンダーを頂いていたので、それを使うことにした。毎日めくるその言葉は大変短く、それだけで判断するのは難しく、また危険なので、社員全員に聖書を配布した。

やり方は、まず一人が読み上げて、その内容について全員に意見させる。気づいたことでも、疑問に思った子とでも良い。具にもつかないことを言うと、何を言いたいんだ? と私に突っ込まれるので、社員は出社すると、すぐに聖書箇所を調べて必死に前後を読み込む。一人が疑問を提起すると、大抵そこに自分の考えを重ねてくる人物がいる。それは、いつもの仕事のチームワークもそうで、立案したりフォローしたりするのは大体タイプが決まっているからだ。そうして、勝手にやり取りが始まって、落ちついた頃に私がまとめて短くメッセージするのだ。

その繰り返しなのだが、通常キリスト教会であれば週一回の集まりであるが、会社の場合は5~6回だ。しかも活動を共にする共同体がある。不思議と、毎日の箇所が連動していき、一気にその議論の内容も深まって行く、この前やったあれとあれは同じことを言っているんじゃないのかとか、あそこでのこの語句と、ここでの使い方は違うようだとか、自ら発見をしていくのだ。

私は彼らと毎日行う、そのミーティングという名の礼拝が、一日に一番楽しみな時間だった。そこで何が出てくるのか予想がつかないからなのだ。そして彼らの内に真理が明らかになり、人格が造り替えられるため、それまで解決不能だと思われていた問題が、いつの間にか霧のように消えて行くのを見るときに、最も喜びを得るのは他でもない私であっただろう。


これは3月2日。何が出てくるのか分からない~肉からの自由~


震災によって、彼らと引き離された時、私にとって彼らが家族同然の位置を占めていたことをよくよく思い知らされた。わが社では、終末論的なことは、朝の挨拶のような感覚でいつも話し合われていたことだったので、社員達は、やはりその時が来たという感じで、あまり堪えていないのかもしれない。一番効いたのは私だったのかもしれない。だた、もう時間がないと切に迫られる中で、やれるだけのことは即やってきたという自負もあり、後悔はない。運良く生き残ってしまったので、後の残された人生を、与えられた目的のために使い燃焼させるだけだ。

社員には、よくこう話してものだ。『日常とは、何気ない毎日の単調な繰り返しのように見えるが、よく見てみると大きな変化がたくさんある。そして、本当に物事が動く時には凄まじい速度で動いて行く。だから毎日を一日一日大事に生きるんだぞ』と、、、、。

自分で話していながら、実際まさにその通りである。私自身も自分で語ってた内容が、何を指し示すものであるのかを明確に意識しないで話していて、時間が経ってビックリするということも多々あった。そのための記録としてこのブログは大いに役にたった。私個人としてのメモではなく、その時多くの人にそれを共有することが出来たからである。


今も社員の数人は私のブログをきっと見続けていてくれるだろう。いま私は、ここ東海に来てまた不思議な体験をしている。福島にいては、出会うことがなかったような人材とよく絡む。ああ、日本といえど広いんだなぁと感じ入る。単に場所が違うだけではなく、私がアクセスする場所とか感度とかも違ってきているからなのだろう。たった半年だが、もうかなり離れがたくなってきてしまっている。目標は、上から与えられている仕事をきっちりこなして、引退することだ。的を完全に捉えつつ、全力で走り抜けたいものだ。社員のみんなの上にも、私の上にあるものと同じ祝福が、いつも行く所を追いかけると信じる。そして許されるのであれば、また共に暮らそう。まず私が道を切り開くから、、、。悲嘆にくれている時間はない。引き続いて時が迫っている。これからはチャンスは一度だと思ったほうがいい。

a0023043_01332.jpg
西浦海岸の夕日。こっちで知り合った家族とうちとでサイクリング。

[PR]
by dynabooksx | 2011-11-15 00:02 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。