<   2011年 02月 ( 70 )   > この月の画像一覧

 映像が古そうですが、日本語音声が入った創造論についての動画を見つけました。一本10分で15本あります。まぁ、古いとは言ってもすでにほとんど廃れてしまった進化論などより、はるかに歴史のあるものですから、許しましょう。日本人でもまともな学者が出るようになってほしいですが、もし出てきたとしてもメディアが取り上げることはまだまだないでしょう。それが島国というものです。思想、言論における鎖国は未だ解けておりません。

 初めて見る人はびっくりするかもしれませんが、進化論も創造論も論であって実証されたものではないのです。こう考えると理解しやすいという種のものです。19世紀から20世紀にかけて進化論がもてはやされ、人類は自ら進化していき、科学技術の発展とともに、20世紀の終わりごろにはパラダイスが実現されているだろうと100年前の人々は考えました。しかしその結果、第一次世界大戦と続く対戦。民族は民族に対抗して立ち上がり、あらゆる共同体は機能不全を起こして行く、、、。そして現代に至ります。現在は、もう先頭に立って主張をリードする進化論学者は国内ですらいなくなってしまいましたが、まだまだ学校教育ではこの状態が続くでしょう。それで命の尊さとか教育とか言うのですから、驚きです。まぁ、目を通してくださいな。私もまだよく見ていませんが、、、。以前韓国のオンヌリ教会で創造科学論の番組がCGNTVで見ることができました。それも分かりやすかったですけどね。



動画全てをチャンネルで見るならばここ
*進化論は、「悪魔から人類への最高のプレゼント」という事が実感できます。
私も高校の時に国語の先生が進化論をあまりにも熱く語っていたので、その先生に手紙を書いて、「そのような間違った考え方を当たり前に誰もが信じる話として授業で話さないで欲しい。」と抗議しておきました。進化論は、恥ずかしくなるような間違った宗教です。 By愛理


こんなのもあります。
創造説再評価HP
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by dynabooksx | 2011-02-28 15:28 | 聖句主義について

最近の日曜日

日曜日は安息日であるはずなのに、世の牧師さんと似たように一週間で最も忙しい日がその日になってきています。別に誰に強いられるものではないので、全く疲れませんが、一日中自転車に乗って走り回っていた日が遠い日のようで懐かしくさえ感じます。

しかし、このままではきっと体力が落ちて活動が鈍っていってしまうし、無理が利かなくなる。それはそれでいいとも言えるが、やはりこの肉体も地上にいる間、預けられているものなので、十分に管理手入れして有効に使いたい。というわけで、午前中はマルコーシュパブリケーションのある南相馬市原町区へと自転車で出かけ集会に出てきた。いや、良いですわ4~5人の集まりは、、、。そういうの大好きです。往復50kmなり。乗らないよりかはマシだけど、これでも以前の平日練習量にも全く足りてない。でもまぁ、やはり自転車はいい。そろそろ暖かくなるので、出来るだけ自転車で用を足すことにする。そのうち郡山までも行くぞ!! いわきも行くよ。
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by dynabooksx | 2011-02-28 09:14 | 真也の雑記帳

 真也君の兄家族から贈られた「自動たこやき器」
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真ん中からひとつひとつにガードがついているので、たこ焼きが勝手にひっくり返ってくれるのです。
素人の私たちでもお店顔負けの美味しい焼きたてたこ焼きが食べられます。

 先日、畑で一人草取りをしていた隣の隠居のSちゃんに
「Sちゃん、春らしくなったね~暖かいからって無理して働きすぎないでね~」と(その日我が家のおやつに焼いていた)焼きたてのたこ焼き
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を渡してきました。
その渡す現場にちょうど分家のMちゃんが歩いて通ったので、後からMちゃん家に焼きたてたこ焼きを届けてきました。その後は子供達の分を焼いて食べました。
 
 今回の中身は、ゆでだこ、長ネギ、チーズ、天かす、紅ショウガを入れました。
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キャベツがあいにくなかったのだけれど、とっても美味しかった~♪
うちに来たお客さんと時間がある場合は、たこ焼きするのですが、みんな喜んでくれるから、本当に楽しくて美味しい嬉しいプレゼント頂いたな~って家族で喜んでいます。
ありがとう~ございます~☆
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by dynabooksx | 2011-02-27 17:52 | 愛理の子育て日記

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詩編

146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。



今朝の聖書箇所である。詩編は比較的誰にでも味わいやすい箇所だ。語句については「長らえる限り」の意味がなんとなく分かる気がするが、よく分からないとか、「ほめ歌をうたう」とはどんな様子だ? とか質問があった。「長らえる」は日常語ではないかもしれないが、日本語能力の低下が問題だ。しかし「ほめ歌」は確かに独特表現だ。当たり前のように受け入れている語句のこういう質問が大切だ。ここまでの話と関係ないが、ふとパウロの言う「自己推薦する者」という言葉をこの辺りの方言で訳す語が浮かんだ。「てめほめする者」だ。てめ~(自分)の事を褒めようとする者という意味です。ただそれだけです。

次に、詩なので独特のリズム、繰り返しや韻をふんでいるということを説明した。日本語だと分からなくなるが原語では掛詞になっているものもあると話したら、一人が「~~YO!! とか言ってるかもYO」と発言して笑わせた。この箇所も2度同じ内容を繰り返している。「命ある限り」は「長らえる限り」と同義だし、「主を賛美し」は「神にほめ歌をうたおう」と同じだ。

「嬉しい様子が伝わってくる」と社員が言うので、「よほど嬉しかったことがあったんだろうねぇ。数日前の詩編の箇所も窮地を救われた所だったもんね」と話していたところでふと犬のココの事が浮かんだ。

度々登場する名犬ではない、ココ。月水金と出勤してくる人恋しいココ。ココは、私と愛理には、凄まじいほどのなつき方をする。見かけたときの騒ぎ方と喜び方と言ったら普通ではない。普段世話をしてもらっている飼い主さんへの表現を越える。何故だろうか、、、。そもそも、アイツは俺に命を救われたからだろうな。危なく保健所送りにされる所だったんだからな。とここまで話した所でピーンと来た。同じ事を社員の一人も気がついたようで、瞬間互いに目を見合わせた。犬が飼い主に忠誠を尽くすのは、窮地にいた所から命を救われた体験があればなおさらだろう、、、と。ココはそれまでほとんど躾も散歩もしてもらえずに過ごしていた。だから、どれほど新しい飼い主が、精魂込めて世話をしているか肌で分かるに違いない。一緒にいたのはほんのちょっとで、それからずっと事務のおばちゃんの所で飼ってもらっているのだが、その喜びを忘れないのだろう。

愛理のことを好きなのは、いつも内緒で美味しい物をもらえるからだ。そのためか見かけた時の騒ぎ方は俺のソレを上回る。とてもカワイイやつなのだが、躾が足りなくて自分勝手な方向にあちこち行ってしまうのが難点だ。主は愛する者をむち打たれる。これも必要なことだ。主人と共に歩むには、これも大事なことなのだ。
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by dynabooksx | 2011-02-26 19:12 | 聖書の言葉

難しいが栄光に満ちた道

だれでもわたしついてきたいと思うなら、自分捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしついて来なさい。 ルカ9:23

深みの生活に入ることを求めている人たちは、霊的な問題に関しての最終的な権威として、新約聖書を全面的に受け入れなければならない。そしてキリスト自分の人生最高の主、統治者とする思いがなければならない。
さらに、自分の全存在を十字架の破壊力に明け渡し、自分の罪だけでなく、義に対しても、また以前誇っていたすべてのものに対しても同様に死ななければならない。
 もしこれが過重な犠牲のように見えるならば、キリストは主であって、私たちに対してどんなことでも思い通りに要求できる方であること、その方が私たちに自分捨てて、日々十字架を負うこと求めておられることを思い出さなければならない。
 それに続く聖霊の強力な油注ぎによって、取り去られたものに比較できないほど多くのものが魂に回復されるようになる。この道は困難な道ではあるが、栄光に満ちたものである。その甘さを知った人々は、失ったものについて不満を言うことは絶対にない。代わって与えられたもので十分に満足している。

 人間の惨めさの一つに、我意があるが、至福の秘訣の一つは、自分自身の意思征服することである。それ神に明け渡すことは、休息であり、平和である。

                       ~A.W.トウザー聖書日課より 2月29日~


+++++引用終わり+++++


私が頻繁に引用する聖書箇所である。基本的に私は十字架しか語らない。十字架、自分に死ぬということを好まない場所、反対の勢力が強い場所に行けば行くほど、強烈にそれを語るだろう。多くのキリスト教会では、シンボルとしてこれを掲げてはいるが、その本質についてまっすぐに説かれることは少ない。だれも死にたくないし、人殺しにもなりたくないからだ。日々十字架を背負ってだぁ?? 何アホなことをいっとるんじゃあ(何故か関西弁) というのが普通だろう。誰もそんなことを望まない。だからこの道は狭き門、見出す者が本当に少ない道、行きたがる人がほとんどいない、一人通ればしばらく間があいて、雑草が茂り始めるような道なのだ。

いつも通り赤青で色分けしてみた。ブログを読み続けている人ならこれが何を意味するものであるのか、おおよそ分かるでしょう。不思議じゃあないですか。普通で書くべき、「死」やそれを意味する「十字架」が神や命を表すで表記されるなんて、、。

月並みないいかたですが、十字架は本当にスゴイんですよ。神であられる方が、私たちのために罪ある者とされた。それは罪ある私たちが、神との関係を回復し、生きる者となるためであった。のために、青と見なされることさえ否まれない。そのことによって自らの罪気付き赤へと行く道を知ることとなった。とまぁこういう寸法です。

そして、この道に生きるものは、キリストの霊を内側に持ちますから、彼と同じ道をたどる、同じ方向の生き方をします。以前青であった者キリストの命によって赤へと変換され、今度は救うため青の中に飛び込んでいき、その犠牲でもって回復させるわけですね。これがキリスト者の生き方です。単純な話なのですが、世の人には理解不能です。完全に世に逆行した生き方をするので、損得勘定では全く測ることが出来ないからです。天国まで入れた損得勘定なら十分分かるんですけどね。それだけのことです。
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by dynabooksx | 2011-02-26 07:22

あめんど

潤身爺ちゃんが天に帰って9ヶ月が経ちました。
爺ちゃんが大切にしていたアーモンドの木。もう少しで花開きます♪
聖書ではおなじみですが。ここに来るまでは見たことがなかった私。
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よく実がなると分けてくれました。
何よりもあめんどの花がこんなにも美しいなんて知らなかったので感動でした。
木の実を食べると長生きすることはよく言われていますが
潤身爺ちゃんの食生活を見倣えば健康で天寿を全うできそうです。
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NHK「100歳万歳」に潤身じいちゃんが出演したときに出てきた、松の木も病気もせずに元気です。
ふと、じいちゃんの吟じる、「相馬流れ山節」が聞きたくなりました。

季節は、巡って。。。新しい春がきていますね。
潤身お爺ちゃんのことを大切に想って下さっていた皆さんの想いと共に祈りつつ。。
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by dynabooksx | 2011-02-25 10:36 | 愛理の子育て日記

神を待ち望む

不活動~最高の活動

 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ待ち望め主を。 ●詩編27:14


 不活動は逆説的に、最高の活動である。それには主が弟子達に「さぁ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われたように、からだの活動の停止が含まれる。弟子達は待った。そして聖霊が、全員の上に力をもって来られたのである。
 旧約聖書では、神を待つことは、期待を持って臨在の前に来て、肉体的、精神的に不活発な状態で、そこで待つことを意味した。
「悩むキリスト者よ、あなたの考えやめよ」とある昔の詩人は書いている。完全に任せることが必要である。その場所で、待ち続けている人の上に神の光り輝く栄光が下り、活動を与えて下さる
 あなたは不活動である活動をもって神へ近づくことができるという意味が理解できるだろうか。私たちは、何かをしようと努力する肉あるいは生まれつきのものの中で、活動していない心をもって、神に近づくべきなのである。待つ姿勢で神に近づくのである。

 私は、聞くことにおいて受容的、見ることにおいて活動的である。それでも私たちの天上の喜びは、活発なことにあるのではなく、神を受け入れることにある。



+++++引用終わり+++++


さらに前田貞美氏の信仰箇条を再び引用したくなった。


兵士への十訓
   
一、如何なる事があってもキリストに堅く根ざし動揺してはならない。
二、キリスト教の人生航路は最後はたとえ物質的には恵まれなくとも勝
  利である。
三、キリストの十字架を恐れてはならない、神は信ずる者と共にある。
四、神を待ち望む望まないかが、人生の幸不幸分岐点である。
五、はっきリした個人的回心と聖潔があるかどうか反省しよう。
六、聖潔を維持する為には、常に聖書を読み祈り、出来る限り小隊への
  集会に出席する事である。
七、出来る限り家庭を開放して家庭集会をする事はクリスチャンホームを作る基となる。 
八、第一に祈り、第二に仕事をする事が大切である。仕事が忙しくて祈
  る時間がなくなった時は、その仕事は危険だと思え。
九、家庭の行事(出産祝、結婚式、新築祝、葬式等。)はなるべくキリ
  スト教主義でやろう。それは子孫をクリスチャンにする基となるか
  らである。
十、神と偕なる五十年の人生は全く感謝であった。安心して神に自分の
  人生をまかせて、おかれた立場で神の御旨を行う事が出来れば、こ
  れは「人生最大の幸福」というべきである。


これを読むと、彼が感じていたものと同じ、心の底から湧き上がってくるような喜びを感じる。神を待ち望むこと、このことの意味を本当に知る教会員や牧師がどれほどいるだろうか。サウルは、主を待つことが出来なかったゆえに退けられた。その後の彼の人生は、焦りと恐れの中でもだえ苦しんでいく目を覆うばかりの光景だ。かつて主を知っていた者が、神と断絶されその御声を聞くことが出来なくなった恐怖はいかばかりであろう。一時は、有用な器として用いられていた主の僕が、その不従順のゆえに遠ざけられ、ますます心を頑なにして自分の身を、その手がけた群れを教会を破壊していく様を私は見てきた。どうしてあれほどの人が、、、といぶかしく思うが、どれも小さな妥協、これぐらいなら神に伺いを立てないで、自分の判断でしても構わないだろうという隙間が、小さな神との亀裂を生み、事態が悪化し始めた所で素直にそれを認めて悔い改めて回復すればよいものを、逆に正当化して居直ってしまい救いようがなくなってしまう。
周りから見れば、立派に牧師という大変な職務を、大変な労力を払って、人間的な努力、血のにじむような努力でやっている、素晴らしい人という評価を受けるかもしれないが、もう御声を聞くことが出来ないその心の呻きはいかばかりであろうか。かくも小さな罪が、時間の経過とともに練り子全体を膨らますのである。こうなると、もはや自力では回復不能だ。預言者が外から現れ、祝福と裁きの神の言葉を語り、それを受け取るしかない。いや、すでに素直にそんなことが起こるはずはないことは分かっている。だから、殉教の血が必要なのだ。キリストの僕の血によって、その打たれた傷によって、打ちすえた者の傷は癒される。主はこのような十字架の僕を必要とされている。主が、父なる神に従順で、そのカルバリの道を歩かれたように、主のたどった道を静かに追従する僕を、、、。

ちょっと辛気くさくなった。各地の嵐や中東情勢、地震のニュースを見ていると、どうも何かが動き始めているような気がしてならないからだ。引き続き、イスラエルを中心とした中東に注目しなければならない。何かが起こるとするならば、聖書が言うように必ずあそこからだ。貞美さんが、「待ち望む」と書いたのは、キリストの兵士なる人々に、活動に流行らないで、聖霊を受けるまでじっと待ちなさい!!と伝えたかったのだろう。それこそが幸、不幸を左右するのだ、、、と。本当にその通りだと思う。あとはもう一つ、彼自身の再臨を待つ想いであったと思う。いつも彼は天を仰ぎつつ地上を生きた。自分が召されるのが先か、天が来られるのが先かどちらなのだろうと思いつつ過ごしていただろう。それを待ち望みつつ過ごす人生は幸福なのだ。その人の周辺には、すでに天国が実現しているからだ。聖霊を着る人は、天国を着る人だ。その人は、ただいるだけで、神の国を拡大する。聖霊がそれを為すからだ。神を待ち望むだけでいい。それだけでいい。それこそが、神の望まれることなのだから、、、。
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by dynabooksx | 2011-02-25 05:31

神の言葉を取り次ぐ者

今朝の礼拝(社員ミーティング)の箇所は、瞬時に私の心を貫いた。出かけていって、そのページを目にした瞬間打ち抜かれたような気がした。それは、私の召しをそのまま示している所だったからだ。
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この申命記5章は、モーセが十戒を神から頂く有名な場面だ。その後半というか、最後の所がこの聖書箇所なのだが、これを目にした瞬間、私が神から受けた言葉とそのまま同じであることが分かった。そしてこの箇所における新共同訳の見出しが「神の言葉を取り次ぐ者」だ。主は私に、「語る言葉をそのまま語れ、引くことも足すことも許さない」と仰った。お前は、私の言葉を直接聞くことが出来るのに、それを伝える事をしないのかという強烈な迫りだった。語ること、伝える事というのは、その通りに生きることである。神の言葉を口で語りながら、それを無視し実行しないということは不可能だ。もし出来るとすれば、それは偽りの言葉となる。言葉自体をゆがめざるを得なくなる。しかし、主はそれを許さないとおっしゃった。それが私の召しである。ここまで来たら諦めるしかない。もう私の人生、私のための人生が残されていないことは分かっている。もう全て終わった。あとは、私の問題ではない。全て主が、神の言葉が責任を持って事を為されるだろう。その計画に従って、、、。私が願うのは、その業を最前列の特等席で見たいということだ。そのぐらいは願っても良かろう。明日は、何があるのか。待ち遠しい。


申命記

◆神の言葉を取り次ぐ者

5:23 山は火に包まれて燃え上がり、あなたたちが暗闇からとどろく声を聞いたとき、あなたたちの部族の長と長老は皆、わたしのもとに来て、
5:24 言った。「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。
5:25 しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。
5:26 一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか。
5:27 どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します。」
5:28 あなたたちがわたしに語ったとき、主はその言葉を聞かれて、わたしに言われた。「この民があなたに語ったことを聞いたが、彼らの語ったことはすべてもっともである。
5:29 どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。
5:30 あなたは、彼らのもとに行って、それぞれの天幕に帰れと命じなさい。
5:31 しかし、あなたはここにとどまり、わたしと共にいなさい。わたしは、あなたに戒めと掟と法をすべて語り聞かせる。あなたはそれを彼らに教え、彼らはわたしが得させる土地においてそれを行う。」
5:32 あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。
5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。




わたしとかあなたとかが、激しく入れ替わるので、読みやすいようにモーセを緑主なる神を赤にしてみました。
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by dynabooksx | 2011-02-24 22:21 | 真也の視点

汝の敵を愛せよ

まだ声がかれているが、峠は越えて節々の痛みは無くなってきた。ここ数日は、早起きを止めて子供が起きるまで一緒に寝ている。というよりクスリを飲んでいるためか目覚めない。寝ている二階の下の部屋はピアノが置いてあるのだけれどもここ数日、愛理の大声の代わりに、美しい旋律が聞こえてくる。今日は「かいぬし我が主よ」だ。一声、二声でもなかなか起きない光希君が、いつの間にか起きてしまうので音楽というのは不思議だ。

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昨日のミーティングの聖書箇所は、イエスの山上の説教からだった。せっかくなので、6章全体を所々短くコメントを入れながら朗読したが、「どこかで聞いたことがある!」という意見が多数だった。その中で、特に顕著に感じる所「汝の敵を愛せよ」の箇所を取り上げたい。


ルカによる福音書

6:27しかし、聞いているあなたがたに言う。愛し憎む者親切にせよ。 6:28のろう者祝福し、はずかしめる者のために祈れ。 6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 6:30あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。 6:31人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。 6:32自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。 6:33自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。 6:34また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。 6:35しかし、あなたがたは、愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。 6:36あなたがたの父なる神慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。 6:37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。 6:38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
6:39イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。 6:40弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。 6:41なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にあるを認めないのか。 6:42自分の目にあるは見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちり取りのけることができるだろう。 6:43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。 6:44木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。 6:45善人良い心の倉から良い物を取り出し、悪人悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。



ここまでは朝に書いていたのだけれども、一日あれこれを過ごしているうちに今になってしまった。やはり、朝早く起きて十分な備えをすることが大切だ。調子も落ち着いてきたし、明日からは切り替えられるかな。

さて、汝の敵を愛せよだが、時間が空いてしまって何を書きたかったのかが思い出せない。だからその時の集中力が勝負なのだ。今、ゆっくりと御言葉を読みながらゆっくりと朝の感動を思い出してきた。そうだ、敵を愛するということの意味。イエスが十字架で為したことの意味。神に敵対する者であった私たちが、彼の十字架での愛、彼の犠牲によって敵であった私たちが、神の下へと引き寄せられたこと。
敵を愛するということの意味。敵対する者のために命を捨てるということ。だから考えられないような内容が次々と並んでいる。頬を殴られたらもう一方を殴らせてやれ、上着を取ろうとする者には下着も与えてやれ、ほとんど死ねといわんばかりである。イエスは、自分の命をもってそのモデルを示された。その命によって、私たちが溢れるほど豊かな者となり、同じように他者のために生き、また死ぬことが出来るようにと、、、。

イエスの語る愛とはこのようなものである。イエスの中に流れる命に依らなくて、どうして私たちはこのような生き方ができるだろうか。神の勝利の仕方、イエスの勝利のやり方は十字架に示されている。自分に死ぬことによって、敵を愛し、味方へと変換すること。敵を抹殺するのではなく、そのまま神の下へと引き寄せ、十字架によって、キリストの血によって、甦らせ、新たに生まれる者とすること。これが勝利だ。それを知っていればこそ、我々クリスチャンは喜んで命を投げよう。まずその生き様、死に様を私自身が人生をもって示したいと思う。時間を無駄にしたくない。時が迫っているのだから、、。
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by dynabooksx | 2011-02-24 21:37 | 真也の視点

私のオリーブ山

 もう4年以上になるが毎朝、長男君、次男君は自転車で急な上がり下がりの続く、舗装された山道を使って登校している。もっとなだらかな道があるのですが、この道を使うとかなりショートカットできる!
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なので、運動神経&体力満点の二人にはとっておきの道である。私も、長男次男と共に毎朝7時前から、この山道を登り下り、小学校の下まで一緒に走る。約3キロぐらいあるかな?そして一人で同じ道を帰ってくる。。時々苦しそうに自転車を漕いでいると高い木の上から、灰色のふくろうが可愛く見守ってくれているので励まされる。
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早朝のこの運動は、おばちゃんの私にはとてもきついのだが、反面、山を制覇した!という達成感がある。自転車でヒルクライムする夫やその仲間の皆さんの神経なんて知りませんが。。。少しだけわかるような☆

 この数週間、この山道の途中の登り切ったところで、一人でお昼過ぎて3時頃祈りに行っている。
最初は次男の下校に合わせて山道の途中で待っていたのだが、待っている間にあまりにも自然が美しいので歌ったり、祈ったりしたくなって今は、少し早く行って次男と会い「ゴメン~お母さんここでお祈りしていくわぁ~」とすれ違ってバイバイしている。待ち合わせしない日もここにむかう。

 到着すると最初は、山道を駆け上がってくるので心臓の鼓動が山々に響いているように聞こえるが、だんだん静まってくると、とんびの鳴き声、遠くからやってくる風が木々を伝わって吹き渡り、凍ったため池が少しずつ溶けて流れる水の音、決まった時間に上空を飛ぶ飛行機、竹藪であそぶすずめ達。阿武隈山地の山並みは、いつまでも見続けたい美しさがある。
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 何ものでもない私という魂が、神様の前に立たせていただく時間。
自分についている名前さえもなくして、ただ神様の前に立つ。
自分の思いも考えも全てを放棄して、天のお父さんに向かう時間である。
自分一つで立つ。全くの無の状態。
きっと、ヨガとかヒーリングといわれることもこんな感じでリラックスするのかな?宇宙と一体になるような意識を持つような新興宗教もあるようですが、それは一時の癒しでしかないのでしょうね。
もちろん、家でも寝室で居間で台所で、そしてピアノの前で神様に心砕かれて、満たしていただくけれど、ここは、特別
イエス様も一人でよく山や寂しいところに行かれて祈ったのですね。
自分が人間の欲のままに崇められたり、褒められるところから離れて、静かに天の父に祈っていたのですね。
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神様の前で無の自分から、また山道を下りてきて日常生活に戻ると、いかに多くのものをいただいているのか、そして多くの必要のないものを身につけて、蓄えて、持ってしまったのかを知らされる。
静まるこの時間が、神様に向かう時間がとても好きです。

*あぁ~これが本当の恵みの座かな?
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by dynabooksx | 2011-02-24 10:07

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。