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キリスト教についての注意書き
 新約聖書(回復訳)ヘブル人への手紙13章11~15節
11,なぜなら、動物の血は、大祭司によって罪のために至聖所へ持って行かれますが、その体は営所の外で焼かれるからです。
12,こういうわけでイエスも、ご自身の血を通して民を聖別するために、門の外で苦しまれたのです。
13,ですから、わたしたちは彼のそしりを担い、営所の外に出て、彼へと行こうではありませんか。
14,わたしたちは、ここには永続する都を持っていません。わたしたちは来たるべき都を求めているのです。
15,ですから、彼を通して、絶えず賛美のいけにえを、すなわち、御名を言い表す唇の実を、神にささげようではありませんか。


解説
営所の外に」と「幕の内側に」とは、本書における二つの際立った点です。幕の内側に入るとは、至聖所へ入ることを意味し、そこでは主が栄光の中で御座に着いておられます。営所の外に出て行くとは、宗教から出ることを意味し、主はこの宗教から拒絶されて追い出されました。これは、わたしたちが霊の中にいて、宗教から出なければならないことを象徴します。経験から言えば、今日、実際の至聖所はわたしたちの霊であり、実際の営所は宗教です。わたしたちは、霊の中にいて、天のキリストを享受すればするほど、ますます宗教の営所の外に出て、苦難を受けたイエスに従っていくでしょう。霊の中にいて栄光を受けたキリストを享受することは、わたしたちが宗教の営所の外に出て行き、拒絶されたイエスに従うことができるようにします。
わたしたちは霊の中にとどまって、栄光の中におられる天のキリストに触れれば触れるほど、ますます宗教の営所から出て、卑しめられたイエスへと行き、彼と共に苦しむでしょう。天におられるキリストに触れ、彼が栄光を受けられたことを享受することによって、わたしたちは活気づけられ、地上で十字架の狭い道を取り、彼のそしりを負う事ができます。

 牧師をしていた両親や祖父母がもっと自由にこの世に馴染んで、楽しく生活してくれたら良かったのに、と何度もおもい、話したりしました。何だか損しているんじゃない?世から何だか敵視されてない?何で今までの仕事を続けて地位と名誉を受けなかったの?私としては、両親、じいちゃんばあちゃんにもっと楽な愉快な人生を歩んでもらえたら良かったな~。。。と。
 
 聖霊様が私に働きかけてくださるとき、「もしかして、これって、十字架の道を歩むって事?。。両親祖父母と同じような道を歩むのかな?(牧師になるとかではなくて)」、解説にあったようなことが現実になるときに、イエスっ子を名乗る私もやはりビビッてしまい、「聖霊様、ほどほどのところでゆるしてください!」と言いたいです。私の魂は、この道以外は進めないのですが、うっすらとツライ香りのする風が吹いてくると、「やっぱり~やだ~!これなんだ~」とがっかりしたような、安心したような。

 ご利益ではない、ステータスでもない、知識でもない、名誉でもない、キリストの中でキリスト教を生きるということは、世と対岸を歩くようなことですね~。お勧めできないですねこれも。世の楽しさを知っていて、愉快で楽しい事や自分が大好きな人には、この道ってお勧めできないな~
私も愉快で楽しい事がとっても好きで自己ちゅうなんだけどなァ~ 

私(愛理)からの変な注意書きでした。
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by dynabooksx | 2011-01-31 22:15
地の塩、世の光
今日も、たくさんの人と話す機会があった。こういうものはその時のタイミングなので、計画してあるものではない。じっくり一時間ほど話すことが出来たのは、仕事場の施設の施設長なのだが、優れた人間性と能力を備えているにもかかわらず、自治体の公の組織というのは硬直していて、皆自分の利益ばかり求めて、集団が全く機能していない、税金がどぶに流されている。どこも同じだなぁ。キリスト教会も良く似たものが多いのではないかと話しを聞きながら考えていた。

私もここに来てから10年が経つが、その過程には多くの試みと戦いがあった。私自身の成長とともに、だんだんと大きな問題も容易に解決できるようになっていったのだが、たいていどの場合も最後は私の信仰の問題であり、私が自分のこだわりを捨てて、神の前に屈服しその力と支配を受け入れることで急速に結末をみていった。振り返ってみて、最終的にほとんど勝率100%なのだが、自分で何かを為したという実感がない。自分が手を引いた事で、事が進んでいくのだから、勝手に動いて行ったという感想があるのみなのだ。だからして、これは恵み以外の何ものでもないと心から言うことが出来る。私の行くところどこでも祝福するという約束は、真実なのだ。

このところ、厳しい記事が続いてしまったかもしれない。ちょっと生き急ぎすぎかもしれない。これが自分の使命だと感じてはいるのだが、遊びをなくしてはいけないとも思う。しかししかし、世の中を見るに、なんと行き詰まり切った状況なのだろうか。自分を犠牲にしてでも他の人々を生かそうとするために使命を果たそうとする人々が少なすぎる。少ないからこそそのような人が輝くともいえるが、一人がカバーできる範囲にも限界があるだろう。今日の彼も、行く先を案じて疲れきっていた。

こういう人たちの為にも、私の役割は大きいと再認識した。これまで、私も自分のこと、自分の家族のこと、自分の会社のことばかり考えてきた。自分の会社がかなりのまとまりを見せてきたからには、これからは、どうしようもないと思える周辺のために仕えていくということが必要となるだろう。私たちの益のためではなく、その人たちの益のために、、、。それが出来るのは、主の犠牲を知っている者の特権だから、、。そう考えるとこれまで膠着していて解決がないと考えられていた物事にも俄然やる気と解決が見えてくる。完全な愛は恐れを取り除くのだ。

まずは、私たちの仕事でなくても受け持てるものは率先してやろうと思う。相手の仕事あっても、こちらのノウハウを与えよう。実際、同業者からは抜きに出てしまっているが、これからは周りの底上げのために動いてみよう。手間や労力はかかるけれども、それ以外のマイナスはないのだから、、、。こう考えてみると、競争社会、強いものが弱いものを踏みつけていく社会だが、それとは違ったものを生み出していけるような気がする。小さなところからだが、それは確実な絆となっていくだろう。そのようなことを考えて働いている人が、身近にいることに励まされた。

そういう人を、神様は与えて下さっているんだねぇ。彼は勉強家なので、話の中にたくさんのことわざ等を入れてくる。私はそれに重ねて次々と聖句を合わせていった。そんな言葉が聖書にはあるのかいと目を丸くしていた。彼にも聖書を買っていかなくちゃな。まだ定年引退まで7年もある。あきらめないで一旗はためかせてほしいものだ。また話しに行くのが楽しみになった。

いったい誰がクリスチャンだというのか。誰が地の塩、世の光だというのか。これまでの自分のあり方を振り返って、恥ずかしくなった。


補足で、、。

完全な愛は恐れを取り除くというのは、聖書の言葉なのだが、聖書で言う「愛」はキリストに見られる自己犠牲の愛を示すので、完全な愛といえば自分の犠牲を一切気にしないと言う事になる。従って自己を守ろうとする必要を感じていないので、当然恐れは無くなるというわけだ。極めて単純なロジックだが、他人に物事を説明するにはこの様な理解が大切なのだよ。説教者の皆さん。
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by dynabooksx | 2011-01-31 20:12 | 真也の視点
私の信仰に見習いなさい
書きたいことがたくさんある。たくさんありすぎる。次々処理していかないと後から後から追いかけられる感じだ。こんな速度で毎日を送ったら、一年後の自分はまだ生きているのだろうかと思うほどの密度の濃い毎日を過ごしている。それは、この与えられた一日を、最大限に活用し、よくやった僕だという言葉を頂きたいからだ。すべての出会いは一期一会かもしれない。そう捉えて接している。明日相手に何かあるかもしれないし、私に何かあるかもしれない。今伝えなければならないことは、今しかないと思えるからだ。

土曜は、土浦に行き、日曜は浪江の教会に行った。教会というところがこれほどまでにエキサイティングなところだと今まで感じたことはない。きっと私の側にいた人もそのように感じたことだろう。実際昨日、ある方は、2,30年通っていて最も興奮、感動した最高だったと話していた。本当は教会はそのような場所なのだ。命が溢れ、血は踊る。じっと座っていることが出来ないほどに、心が震えるようなことが起こる場所なのだ。聖霊の臨在とはそのようなもので、十字架のあるところには新生が与えられる。


日曜は、集会後どうしても私は話さなければならない事があった。説教に応答して、その内容に問いかけをしないではいられなかった。それは人は本当に救われえるのか!! という本質に関してだったからなのだ。イエスは私たちの罪のために十字架に架かって死んだので、私たちは罪を赦されている。それは確かにそうだろう。でもどうだ。未だに罪に囚われ、縛られているというのはどうだ。確かに正直な告白であることは認める。しかし、今も罪に囚われているが神様は赦しているから大丈夫だというのはどういうことなのだ。

それであなたは救われていると言えるのか!! 何が救いなのか、、、。ローマ書を用いながら私は説明を施そうとした。明解に私の信仰との違いが分かるように端的な言葉を使って話した。結果、あなたの信仰は違う。それはちょっとおかしいと言う。それはそうだ。その違いが分かってほしくて話をしたのだ。

人は、本当に救われ得るのか? 何が救いなのだ。本当に罪から自由になるのか? いったい誰がクリスチャンだと言うことが出来るのか? これは大変重要なことである。なった気になって、それで済ませられるような問題ではない。現実の切なる問題なのだ。


人は自分の現在いる場所から読みたいように聖書を読む。それは当然のことで仕方がないことだ。見える範囲、理解できる範囲でそれを捉えようとする。だから分からない、読めないというのも分かる。だから、メッセンジャーは自分の都合の良いところを切り貼りして聖書を語るのだろう。しかし、聖書は全体で一貫した主張を持つ書物だ。ここはこう読めても、あそこの意味が立たないと言うのでは困るのだ。聖書の編纂者がどうして現在の形にしたのか。これにどうして一貫した聖霊の働き、主張があると認められたのか。それが読み取れるようなメッセンジャーになってほしい。そのためには、聖書の記者達と同じように、聖霊によって読む必要がある。それは、自分の見方で聖書を読むというのとは、全く別な行為なのだ。

信仰とはなんなのだろう。私はこの問いかけをした。私はこれしか分からない、これしか出来ないという主張は分かる。では信仰とは何なのか。何よって歩むことが信仰なのか。よくそれを考えてほしい。確かに自分は聖書を理解できないかもしれない。今の自分にはとても賛同できない内容なのかもしれない。しかし、聖書の約束はどうだと言っているのか。神は何とおっしゃっているのか。それに立脚するのが信仰ではないのか!! そうして聖書を読み、自分が砕かれ、日々聖霊によって再構築されていくところが信仰生活なのではないのか。それが永遠の命なのではないのか。


口先だけの聖書講義はもういい。聞き飽きてうんざりなのだ。その人が本当にキリストを身に帯びているならば、まさにそのような人生を送るだろう。それは言葉ではなく生き方、生き様であり一目瞭然なのだ。パウロは「私の信仰に見習いなさい」と言った。これを聞いて多くの人は違和感や嫌悪感を感じることだろう。そういう謙虚さのない、自分を神のようにしている彼が嫌なのだと評価するのではないのか。とても見習うべき人物でない。または自分とは関係がない。多くの教会人はそのように捉えるだろう。

しかし、なぜ彼がそのように言ったのか、言い放つことが出来たのか。それを良く考えてほしい。私たちは、福音を知っている。だが、本当に福音に生きている人を身近にどれぐらい見ることが出来るだろう。イエスは「私を見た者は父なる神を見たのだ」と話された。あの人を見れば、神が本当に生きている方だということが分かる!! という人物が、また自分をそのように語る人物がどれぐらいいるだろうか。大変高慢であるべきでないクリスチャンの姿だときっと評価されるだろう。そのために、イエスは十字架にかけられた。自らを神だと言う「神汚しの罪」にて彼は告発され殺されたのだ。彼の内側に活き活きとして働いていた神性を見抜くことが出来なかった。もし、気がついていたとしても、自らの保身のためにそれを受け入れることが出来なかったわけなのです。民衆の多くも、自分たちの苦しい生活を、ローマからの支配を開放してくれない救い主などいらないと、自らの欲によって彼を正しく認めることが出来なかった。その罪によって彼は十字架にかかったのです。


私の信仰に見習いなさい。パウロはそのように言う。まさに、私に見習えばあなたはキリストを見る、キリストを生きると言わんばかりだ。現在多くのリーダーがこのようにメッセージすることだろう。私は人間です。私は罪びとです。ですから私を見ないで神様を見上げてください、、、と。では、何のためにあなたはそこに立たされているのかと私は問いたい。あなたが神の前に真実な歩みをしないで、誰がその道を続けるというのだ。誰が理想の空論と化したキリスト教を復活させることが出来るのか。こんな力のないもののたまにあなた方は身を捧げてきたのか? いや、捧げてきたのではあるまい。それは建前で、自分が何かを得るために、自己実現の為に、欲に惹かれたに過ぎないのではないのかと問いたくなる。それがキリスト教だ。それが救世軍だというのならば、そんなものこの世で何の価値があるのだろうか。この世の他のグループと何の違いがあるというのか。
パウロのように、自分こそがモデルだぞというほどの信仰者が続々と起こるようにならずして、どうやってこの国は救われていくというのだ。いったい誰が、自らの身をもってキリスト者の生き様を示すというのか。誰が、キリストの体を現すというのだ。


そういうあなたは、その口から発する言葉でどれほど私を傷つけているのか分かりますか? あなたはどれほど普段の生活で、夫婦の間で、子供との間で、両親との間であらゆるところでキリストに従っていると本当に言えるのですか? と問いかけを受けた。当然の問いかけだろう。そういう挑戦が大切なのだ。

ではわが家に来なさい。私の私生活のすべてを見せるから、、、。と私は話した。


それで向こうはぐっと詰まってしまったようだが、それで乗り込んでくるぐらいの気概のある信仰者であってほしい。牧師ならばなおさらのことだ。わが家まで来る勇気がないのだとしても、帰ってゆっくりと聖書に向き合ってほしい。わたしに感じた違和感が何であるのかを自分で調べてほしい。ベレヤの人々が、必死になって聖書を調べたように、それまでの自分の先入観は一度どけて、聖書が何を語っているのか、神が何を語っているのかを十分に探求し、祈り求めてほしい。それは誰かのためであるというより、あなた自身の救いに関することだからだ。


あれだけ話しておいたから、きっとブログにも目を通してくれているはずですよね。本当に興味があるならば、きっと見てくださっているはずです。私があなた方と交われるのは、あとどれぐらいあるのかと思って接しているのです。もうまもなく転任かもしれない。または士官をお辞めになるかもしれない。しかしそんなことよりも、あなたの救いに関することが最も重要なことで、いずれ神の前に立たなくてはならなくなるのだ。この際他の人のことは考えないでくれ。自分のことに集中してもよいのではと思う。ここまであなた方は十分以上に頑張られた。もうこのあたりで休んだら良いのではないか。明確な召命がないまま、群れを牧することがどれほど苦しいことなのか、どれほど厳しい戦い、攻撃にさらされてきたのかを思うと胸が痛む。

じゃあ真也さんがこの教会を牧会すれば良いというのは、単なる責任放棄の発言ではなかったのかな? それだと困るのだけれど、私は救世軍に対して何の義務も負ってはいないつもりですから、それは士官であるあなた方の責務でしょう。でも、安らぎを得たい、養いを受けたいということであの発言をしたのなら、今後私が集会を導き、メッセージをしても良いでしょう。きっと他の人もそれがいいって言いそうだし、、、。というより、うちに来るのが一番いいのだけどね。まぁ、それはそちら次第と言う事で、、。それまでなかった新しい聖書の発見があったら教えてください。祝福がありますように。

こんなところで誰に発信してるんだ??
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by dynabooksx | 2011-01-31 05:54 | 真也の視点
実験
 悪魔に一日心を預ける実験をしてみました。
実験と言うよりは、私の心がそうならざるを得ない状態に追い込まれたので、「これは、どこまで落ちるのか、体験しよう。」と思い、(わけわかんね~)「人を赦さない実験」と題して実験をしました。

 まず*憎みたい人を呪う言葉を思いつく限り言ってみる。
*自分に対してどれほど嫌な事をしたのか言い続ける。
次は
*自分に対して思いつく限りの愚痴を言う。
*自分がダメなところを言い続ける。
*そういう自分や環境の愚痴を言い続ける。


 いつまで経っても、言い続けられるので、いつの間にかそんな自分に酔ってきます。自己憐憫って結構気持ちが良いものです。
昼ごはんの支度をしたり、家事や仕事をしている時、一時も人や神様を呪う気持ちを忘れずに過ごします。心のどこかで「もう聖霊様は、こんな私のところからいなくなってしまったかな?」心配なのですが、「私が悪いんじゃない!このこみ上げてくる怒りが自然にいつまでも湧き上がってくるから仕方ないし、これで良いの!」
赦すとか忘れて、人をのろい続ける自分に酔い続けます。

しかし、こんな気持ちでいるのにも疲れてきました。体の調子も悪くなって、昼ねしました。
怒りもパワーがいりますね!
「もう赦そう。聖霊さまが悲しまれて、私からいなくなられることは絶対嫌だね。」
赦す祈りを神様に献げました。
「赦さない自分とその赦せなかった時間の自分を赦して下さい。」と。
「イエスさまの血で私を覆ってください。」と祈ったら、一瞬で気分がスッキリ~♪とげとげした憎しみの心が晴れて、なんともいえない平和な気持ちが流れ込んできました。

 人としてこの悪魔の支配している地上にこられたイエス様は、どんなだったでしょうね。
「人間は、なんと悪魔に支配されているのだろう。」わかっていはいたけれど、驚いたでしょうね。
十字架にかかる前は、きっと「こんな地上からすぐにでも天に帰れたら良いのに、苦しみから開放してほしい。」と思ったでしょう。しかし「悪魔の支配を打ち破り、人間が神の子となって、天国へ入るためには、十字架で流す血、神様への生きたささげものが必要でそのことを全うするために自分がいるのだ。」と悲しくも、覚悟を決めたでしょう。

十字架にかける人々、自分を殺す人々を赦した方です。
自分をムチ打つ人々を赦した方です。
自分を罠にかけることを赦した方です。

 その方が今も活きて、聖書の言葉を通して、出会いを通して、日常を通して、奇跡を見せてくださっています。
赦せない心を持っていると、悪魔が喜んで可愛がってくれるようになります。
私のした実験はあまりお勧めしないけれど、実験をしなくても日常的にこんな心に支配されていることってあるかもしれませんね。
自分では嫌でも「赦します。」「赦す。」と口で宣言してみませんか?
悪魔の支配とは違う、明るい、あたたかい、やさしいものが心に流れ込んできて、あとは導いてくださる方に、心をおまかせしてみませんか?

 救い主イエス・キリストの血によって洗われ、覆っていただいて、赦せない罪のおもいから開放されるように心から祈りをささげます。ハレルヤ!

*あとがき
誰を憎んだかって?わかるでしょう~。勘がいいあなたなら。
まこと(真)なり(也)君ですよっ。
  


夫より、、、

ああ、いつもながら突然行動を開始する私ですが、今回のはこれまた突拍子もなく感じたようですねぇ。あまりやりたくない事ですが、たとえ奥さんの許可が取れなくても、信仰者として示された時は凛として行動する。あとできっと分かってくれるはずだと思うからです。
しかも、付き合った当初から憎まれるのには慣れているし、、、。俺で良ければ好きなだけ恨めって感じ。その先にあるのは十字架のみだからね、、。次はどんな突拍子もないことやろうかな、、。よ〜く耳を澄ませて、タイミングを測ってね。

いや、正直に言うと、一人で出かけてゴメンナサイ。
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by dynabooksx | 2011-01-30 11:32
へり下る
 昨日雛飾りを倉庫から出してきました。
「うちは、人形にお願いしなくても、神様が守ってくれるから雛人形出すのもうやめようかな~?」と言うと「私、きれいな人形大好きなんだから、人形を拝んだりしたことないでしょうが~」
とひめにょんに言われて「それもそうだね、日本人は、昔はこんな風に着飾っていたんだし。」と納得して飾りました。(意外にちょっと面倒くさくて繊細すぎるイエスっ子だね私。)
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今朝、「あれ、もう雛人形出したの?トマト頂いたからおすそ分け。」と言いながら、お姑さんがトマトを持ってうちに来ました。
とても寒いけれど晴れ渡る青空で、太陽が部屋中に注いでいました。
お姑さんが「レースのカーテンでもあれば良いな。人形に陽があたり過ぎて色あせないかと思って。」と言われたので
私は「大丈夫でしょ~。」と言いました。
「どうせいずれは飾らなくなるんだしいいか。」とお姑さんは言って、そのほか会話して戻っていきました。
「何かって言わないと気がすまないんだろうね~。」と心の中で思って、何だか嫌な気分に一瞬なってのですが
「そういえばレースのカーテンはないけど、日よけになるのあったな~」と思いこのタペストリーを窓際に飾りました。被服も置いて。
雛人形や、塗り物の道具に陽が当たらなくなって、より美しさが際立ったような♪

お雛ちゃんたちもにっこり笑顔♪
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心は神様に、人の思いやりはどんな形であれ感謝して受けましょ、わたし☆
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by dynabooksx | 2011-01-30 11:18
深みへこぎ出す
今さらかいと言われそうだが、昨日「信仰とは何か」ということを考えながら気がついた事があった。人はどのような時に、神に頼り、信仰を発動するのかということ、、。


通常人は自分の理解や能力の範囲で物事を捉え、行動の指針を立てそれに従うが、それならば、途中で予期しないアクシデントや最初っから強い不安に襲われている場合でなければ、信仰を用いる必要はないだろう。ある程度の経験がある信仰者であれば、過去の知識から常識の範囲で大抵のことは乗り越えて行けるだろう。

人間の意識は様々な方向へ広がっている。一つの所で難しいと感じれば、また別な所で行動をすることを選択出来るだろう。しかし難しいと思われるところに一歩踏み出す時ほど、信仰が要求される場面はないのではないかと思う。とにかくこの神様は、自分に信頼して頼って来られることを喜ぶからして、そのような生き方をする人を特に大切に思うようだ。


聖書にも、普通なら無鉄砲なバカヤロウだと言われる愛すべき人物の話が出ている。


マタイによる福音書14章22-33節
(22) それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
(23) 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
(24) ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
(25) 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
(26) 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
(27) イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
(28) すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
(29) イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
(30) しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
(31) イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
(32) そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
(33) 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



言うことは勇ましいが、転けるときは見事に転ける漁師のペテロである。師匠が水の上を歩いているのを見て、思わず、「んじゃ、俺も!!」となったのだろう。その前に、逆風が吹いており、船を進ませるのが困難だと言うことも興味深い。さらに前の部分を見れば、五千人の給食を終えたばかりなので、弟子達のボルテージは最高まで高まっていたのではないかと想像される。

無謀だと思えるペテロの行動。船から足を出して波の立つ水面に突っ込んでみる。勇ましく飛び出したは良いが怖くなって沈みそうになる。そこが信仰の発動ポイントなのですねぇ。そういう状況に置かれて初めて信仰が必要になり「主よ、助けて下さい」の言葉が出てくるのです。こういう異常行動を起こさない人は、自分の生き方の範疇で、理解できる範囲で暮らしていくことでしょう。もちろんその選択もアリですが、クリスチャンであれば信仰を用いて生きていきたい。私はそう願うわけです。

このことを考えるとわくわくして来ませんか? 私は人間のタイプなのかなぁ。恐怖感よりはだいたい好奇心が上回るのです。ここは無理だろうという所にこそ神の力が働く。そういう場面に自分を突っ込んで行きたい。そこで信仰を用いてみたい。聖書を読むにつけそういうものが湧き上がって来ます。

数日前からどうもむずむずしていて、スッキリしない思いがあったので、ひとまず何をしろというのか良く分かるように示してくれと祈ってみた。そしたら、出てきたね。ああ、それかぁ~。それは、もうこじれきって無理っぽい話だけど、確かに俺の力の範疇は越えるわなぁ。それは信仰の領域だわ。んじゃ、何があるのか分からないけれども、信頼して行ってみることにした。きっと、悪いようにはならないと思うから、、。


あれ? タイトルは「水の上を歩く」だったかな? 聖書を知っている人ならきっと分かるでしょう。深みにこぎ出せは、ルカ五章です。
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by dynabooksx | 2011-01-29 06:23 | 真也の視点
ロゴスとレイマ
今日はちょっと書きすぎですね。いつでもこんなに時間があるわけではないので、書きたいと思う内容があるうちに書いておこうと思うわけです。痺れを切らすと困るので、そろそろ自転車の記事も書きますよ。

少しまえに紹介した「偉大な神、偉大な信仰」から引っかかった所、、。


信仰が養われるためには、単に聖書を読んで、ロゴス(書かれた言葉)として理解するだけでなく、ロゴスを読む中から、レイマの言葉(語られた言葉)として受け取る必要がある。


レイマという言葉は以前聞いたことがあったような気がしますが、説教等で耳にしたことは無かったように思います。ちょっと検索してみたら

http://www14.ocn.ne.jp/~h-b-c/2008.02.17.pdf

が出てきました。これなんですよね、これ。私の場合、最初っからこれでしたので、教会に足を運ぶ人はみんなそれで集まっていると思い込んでいました。そりゃあ違和感を持つわけですね。誰かがこのようにきちんと教えてくれれば、さほど悩むことも無かったのですが、これを共有できる人に出会うことは、ほとんどありませんでした。たいてい声を聞くとかいうと、口をつぐんで頭のおかしい人を見るような顔をされる。だからキリスト教会においても、たとえ預言の賜物を持っていたとしても押し隠してしまうのでしょう。教会にとってもその人にとっても残念なことです。もちろんその内容と性質を冷静に見極められる人物も必要だとは思いますが、、、。

聖書を読んで、どれもこれも自分に直接語っていると感じて、文字ではなく、思いとして直接流れ込んでくるという経験をしたことのある人はどれぐらいいるのでしょうか。そのときには、文章読解とか、考察だとかそういうことを超えて、文字であるはずの言葉が迫りとなって、私たちの頑なになった心を打ち壊し、新しく造り替えようとします。そういう経験が無ければ、そもそも聖書などという荒唐無稽に思える書物を、まともに取り上げようなどとは思わないんですけどねぇ。

そうでなければ、きわめて部分的な読み方で処世術とか道徳論として取り上げるしかない。それもかなり無理のある読み方だが、、、。まぁ、自分が納得できるかどうかを基準で進んで行く読み方は、その人の信仰に左右されるが、自分に合わないと思うところは、読み飛ばすか黒く塗りつぶすしかなかろう。そういう人には、聖書全体の主張が極めて一致している、などという主張にはとても賛同できないだろう。

ここは馴染めるが、こっちは、どうも反対の意味を主張しているようだ。だから、これは誰か他の人が書いたものではないのかとか、何かの間違えでは無いのかという主張をしたがる。聖書を専門に語る立場の牧師であってもそういう人は多いのではないのか。口には出さないまでも、正直そのように感ずる人は多いだろう。
事実以前、私もそのように感じていた部分が、いくつかあった。その段階段階があって、一見バラバラに見える内容が、あるとき一瞬で視野が通るように組み合わさる。そしてそれぞれのブロックがまた組み合わさるという感じで、徐々に統一感が出ていったように思う。

その際には、必ず自分の信仰のあり方が正されなければならない出来事、自分の姿勢を修正させられる出来事とセットであった。ここに来て、今更ながら聖書が神によって書かれた言葉、聖霊によって記述された言葉であると告白することが出来る。あらゆる部分が同じ主張をしているように感じるからだ。もちろん、一つ一つの文化的背景などを知らないと、状況が飲み込めない部分があるが、全体で言いたいことは分かる。聖書を編纂した人たちは、そういう一体感で判断し、まとめ上げたのだろう。

でも実際のところ、時折突然と強い促しで呼びかけてくるその声は、後でよくよく探してみると、どれも結局は聖書にある言葉なんですね。まぁ、そういうものなのでしょう。
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by dynabooksx | 2011-01-28 15:43 | 真也の視点
慰め主
今日は時間があるので、次々書こう。数日前の一日一生の箇所。


[1月24日]

私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることが出来ない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。(ヨハネによる福音書第14章16~18節)


わたし達がキリスト信者となったというのは、洗礼を受けてキリスト教会にはいったということではない。または私たちの智能をもってキリスト教の教理を理解したということでもない。
私たちがクリスチャンになったということは、私たちがある「聖者」を友としてもつようになったということである。しかも単にある古い記録において、ある理想の人を発見したというのではない。今活けるある聖い友人を発見してその伴うところとなったということである。すなわち私たちは大いなるパラクレートスすなわち「側にある者」を得たということである。寂寞の世にあって孤独の生涯を送るのをやめて、大なる「訓慰者」(なぐさめるもの)を平常の友としてもつようになったということである。



自分が本当にキリスト信者なのかどうかを判断したいとすれば、この霊を明確に見出し、日々感じているかどうかだろう。この霊を友とするものは、イエスと同じように神の子となり、たった一人孤独であっても地上にあって確かな慰めを受ける。それゆえにもし、世の中と逆行したり人に疎まれることがあっても、その霊の語るように語り、望むように望むことが出来る。それ以上に確かなものがないことを知っているからだ。この慰め主を持っている人は目に光がある。その人の内に命を感じる。何故だかは分からないが、周りの人はその命に惹かれて寄って来る。こうして文字通り、世の光となるのだろう。
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by dynabooksx | 2011-01-28 11:44 | 聖書の言葉
恵みを受けるには
現在、心を病む人が急増している。皆さんの身の回りにも目立たないか、目をそらしているだけで、きっといらっしゃるでしょう。私の記事を読まれてい方自身がそうだという自覚を持たれているかもしれません。


私の記事はどうしても、私が知っているキリスト教会に繋がりながら、病んでいる方達の事をイメージして文章を書いてしまうのですが、いつももう一歩だと言うところで残念に思うから繰り返し欠かざるを得なくなるのです。


突き詰めて聞いてみると、彼ら(彼女ら)は結局、「恵みは欲しいが、神に従いたくない」と言う。こうすれば、神は祝福を与えて下さると聖書に書いてあるぞと話すが、この行き詰まった状況を救って欲しいと願うと同時に、既に破綻しかけている慣れ親しんだ自分の生き方に固執し、それを手放すことをよしとしない。

これでは、都合が良すぎるのではないのか。神の恵みを受けたいと望みながら、その支配は受けたくない。それは土台無理な話だ。両方とも逆向きの性質のものを同時に求めているからだ。神を自分に従わせることは出来ない。もちろん、その過程としてヤコブのようにさんざん神と格闘して力を出し尽くすことは大事な要素だと思う。これなしに、私達は自分を折るということが出来ないからだ。恵みがほしいと思ったら、力の限り求め続け、たたき続けることだ。

今朝のミーティングの箇所は、
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であった。

信仰というものの定義である。この箇所の前後では、人は何によって神に認められ、また恵みと祝福を受けるのかが記されている。これは確かな事実であるから、とても受け入れられる状況でなくても、その小さな信頼でもって受け入れていった者が実際にその世界を体験し、まだ実現していないのにも関わらず、それが必ず成ると信じて感謝することができる。そういった、確かな人生を送ることが出来る。神を信頼すれば、神は喜んで下さり、その喜びに私達も預ることが出来る。こんなことは、その道に入った人しか分かりっこない。

外から眺めているだけでは、何も感じられないはずだ。中に飛び込まないで、外からうまい汁だけ吸おうとするのはなかなか難しいようだ。何とかそれを提供したいと願うが、その源が私ではなく神なのだから私の勝手が効くわけではない。だから、我々はその生き様でもってそれを示す以外になかろう。

冷たいようだが、それが事実、この世界の真実なのだから仕方が無い。崩れかかっている古い生き方を手放すしかないのだ。それを手放すのなら、きっと神が受け止めて下さる。それが信仰なのだ。


この箇所について二つの意訳聖書を紹介しましょう。

さて、信仰とは将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、まだ見ていないものの確実な証拠を見る目である。現代訳

信仰をどう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるのかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。リビングバイブル

まず、この文章を書いているのはパウロだということを意識する必要があるでしょう。神から受けた使命を果たすことだけに自分の命を燃焼させたパウロ。その彼が信仰について定義し、彼の生きた現実、実感でもって語っています。パウロだけでなく、神に認められたかつての信仰者達も同じ告白をしたことでしょう。
信仰者にとって、目に見える現実は、確実なものではありません。それは事実の影のようなもので、見えないものの中に真理があることを知っている。だからそれを確かに望みつつ、これから起こることを既に成ったことのようにし確認することが出来る。神が為そうとすることは必ず成るからである。

私は結婚に至るとき、『あなたを祝福する』という声を聞いた。それは、あなたの信仰を祝福するという意味だ。私は、破滅しかかった自分の人生を諦めて、もし未来があるのならご勝手にしてくださいと委ねた結果、それを神は喜ばれた。その喜びは明確に私の心の変化となって返ってきた。その延長線上に今の私はいるわけなのだが、委ねる度合いが大きいほど祝福と恵みも増す構造になっているのだ。

普通目に見えないものに委ねるということほど不確かで、不安なことはないと思いますが、よく考えてみると、私達が目にしているものがどれほど確かなものなのかと私は問いたい。どれも形あるものはいずれ崩れ去っていくものだ。あなたが確かに握っているというものが、あなたが窮地に陥ったときに、実際どれほど頼りになるものかよく評価しておくべきだ。信仰とは、確かなものを仰ぎ見て、心から信頼することだ。本当に信頼するならば、その方が示すままに生きるようになるはずだ。信頼するのならば、従わないということはあり得ない。
信じて従う者を神は祝福される。
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by dynabooksx | 2011-01-28 10:38 | 真也の視点
神の怒り
朝の静かな時から少し、、、。

ローマ1章よりだったのだが、神の怒りとか裁きということに関して。

当然この語が示すところは、私達の滅びだろう。神の怒りを受けることに関して聖書は、

神を知りつつも、なお神として崇めないこと
朽ちることのない神を、朽ち行く人間や鳥や獣に似せた像と取り替えたこと
創造主を差し置いて被造物を拝し、これに仕えた。

この事によって、人は神から離れ、神に似せられた本来の性質から離れて行くのだが、それを神はそのままにされたとある。穢れるままに任されたとある通りだ。そして、悪を行う者には誰であろうと患難と苦悩があり、不義、邪悪、貪欲、悪意に満たされ嫉妬、殺意、争い、欺きが生じたのだという。


ここで、こう思わないだろうか。私達をこんな状態に放置して置くなんてなんと酷い神なのだろうと、、。そのように思うのが普通だろう。私達を苦しみの中に放置される神。しかし落ち着いて読んでみると、それは自らが選択した道なのだという。本来の創造から外れていったものを、神が排除し、消去するのは神の立場から言えば当然なのだが、それを放置されたということは、許容なのではないのだろうか。パウロはそれを2章4節で「その豊かなる慈愛と忍耐と寛容とを軽んずるのか!」と表現する。

また神の怒りと裁きについて、上記の神から離れた者達の行いは、次々と負の連鎖を生み仲間を増やして行く性質のもので、また放っておいても自ら滅びに至っていくものだから、そのどこかで神の怒りが示されなければ、我々はどのようにして立ち返ることが出来るのであろうか。また、その滅びをどこで食い止めることが出来るだろうか。


またもう一つ。2章1節から

だから、ああ、すべて人を裁く者よ、あなたには言い逃れる術はない。他人を裁くことで、あなた自身を罪に定めているのである。裁くあなたが同じ事をしているからだ。

これは私の事ですね。裁く資格がないのに自分の判断で他人を裁く。裁きは神から来ることを肝に命じるべきだと思いました。まぁ、私が間違っていれば、その測りに応じて裁いて下さるとは思いますが、、、。そういうぶれない確かさのある神様でなくては心許さないですから。
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by dynabooksx | 2011-01-28 06:32 | 真也の視点
  

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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