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Viva! 合唱コンクール♪
 今日は午前中一人で中学校の文化祭へ。
体育館で行われる合唱コンクールを応援&鑑賞に行ってきました。
中学一年生の親戚のAちゃんに、「課題曲の伴奏をするので、レッスンして欲しい♪」
と頼まれて、この約一ヶ月半毎週一回、勉強、部活など中学校が終わった後
頑張ってました。Aちゃんは、以前ピアノを習っていたので、最初からかなり弾けていたし
途中からは自信もついて、最後は楽しんで本番を迎えていました。
今日が一番上手だったね~なかなかの舞台度胸ですゥ~。拍手!拍手!

(♪太字の曲はクリックすると聴けます。) 

 「夢の世界を」 「カリブ夢の旅」 「マイバラード」 
 「涙をこえて」  「遠い日の歌」など、私が中学生の時から歌い継がれている名曲、大曲が次々と出てきて
すごく懐かしくて、言葉もなく感動しました。
 私の時は他に「ともしび手に高く」 「怪獣のバラード」 「大地讃頌」 「モルダウ」  などがありました。
 
 小学校の時から合唱など、必ず伴奏を担当していたので
自分と重なり合って何だか胸いっぱいに。。。♪ ♪ ♪
一クラスの人数は少ないですが、若さ感じられて、中学校の時に戻りたい!!ような
素敵な合唱の数々でした。

 中学生って私にとっては、すでに未知?!の世界なのですが
こんな風にレッスンの中で交流を持てたことが嬉しいです。

 結果は、一番ではなかったのですが(自由曲が「涙をこえて
女子が高音部を出し切れなかったのが、ちょっと惜しかった!)
でも、いつまでも拍手を贈り続けたいと思う立派な演奏でした。

「いらない、いらない!!!」(本当にいらなかったの)と言い続けたのですが、どうしても。。
と親戚の子のパパがマネージメントしているグループのお食事券と
手作りパンを頂いてしまいました。
 お義父さんとお義母さんと私達家族仲よくご飯を食べに行かせていただこうかな?
と嬉しい予定。
それに、光希君も実は、町や県から、また良い賞をたくさんいただいたので、
お祝いもかねていこう。。    
                 *vivaとは、イタリア語で「万歳」という意味ッ♪

♪もういっちょ 合唱ワールドに入り込んでしまった私の超お気に入り 
「旅立ちの日に」
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by dynabooksx | 2009-10-31 21:45 | 愛理の子育て日記
10月計 1620km 52h
 昨日とうって変わって曇り空。朝はすこしちらつきもした。こういう日はいまいち出掛ける気にならない。ゆっくり休みながら過ごし、夕方に走りに出た。いつもの大熊周回を延長して富岡駅をまわって来た。帰ってから、食事まで時間があったので30分ローラー。


Entire workout (171 watts):
Duration: 2:33:31 (2:44:42)
Work: 1561 kJ
TSS: 149.4 (intensity factor 0.767)
Norm Power:184
VI: 1.08
Distance: 77.669 km
  Min Max Avg
Power: 0 433 171 watts
Cadence: 31 156 89 rpm
Speed: 4.2 55.2 30.6 kph

10月は先週が乗れていないので、後半伸びなかった。またジャパンカップの時はハブの電池が切れていたので、これに+50kmぐらいはあるはずだと思う。寒くなるので11,12月は落ちると思うが、年間2万㎞を越えるのだろうか、、、。
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by dynabooksx | 2009-10-31 20:43 | 真也の運動日誌
『教会』とはいったい何なのか。
 今週ぐっと濃い記事を続けて書き続けてきて、クリスチャンとは何なのかという所にたどり着いた所で、そろそろ『教会』ということについてまとめるように機が熟してきたと感じている。これまでの記事全体を眺めれば、何となく私のイメージしているもの、価値観が分かってくるかもしれないが、焦点を絞って書いたことはないからだ。はじめに断っておきたいが、私は聖書ファンである。最初、強烈に聖書の描く神に出会ってしまったから、どこまでもそこに忠実であろうとするのは仕方がないことだ。迷えば常に聖書から基準を導き出そうとする。だから、その基準を人の話し合いによる調整だとか、集団の論理、皆そのように考えているからという理由で決定しようとする人々とは相容れない。その事でこれまで多くの摩擦を生んできた。もちろん私の罪が私を苦しめたという事も多々ある。しかし、それだけではない。聖書の神を知ってから、いわゆる『教会』と呼ばれる存在と私の間には常に摩擦が存在した。完全にしっくり来たということはほとんどなかった。そこに足を運ぶとき、私の心にはいつも渇きがあった。だからこそ、その事をずっと考え続けていた。今に至る10年は、ほぼその事を考え続け追いかけ続けたためにあったと言っても良いだろう。
 だから、これを読んでくれるクリスチャンの皆さんが、違和感をもたれて当然だとも言える。そして反対に、その中に私と同じような葛藤を覚え続けてきた人がああ、これなんだという発見をすることもあるだろうと期待する。私は聖書の主張する『教会』とは何なのかということを追い求めてきたのである。


 私は、『教会』を大切にしていないのだろうか。興味深い事に、これまで、数人の牧師や指導的な立場にいた人に『教会の破壊者』だとか『サタン』だとか呼ばれたことがある。今となってはその程度のことはもう慣れっこ(慣れるな!!)なのだが、そのぐらいリーダーと対立することは多かった。もちろん、対立する人ばかりではないですが、、、。一部ですよ一部。そうでもないかな?? 一生懸命教会または自分自身を守ろうとしている人にとって、私の存在は邪魔らしい。私はもともと変に群れることを嫌うので、それでも無理矢理付き合い続けることはないのだが、似たようなことが何度かあった。
 その最初の頃、信仰をもって間もない二十歳になるかならないかの頃はかなりその事に悩んだものだった。どうして同じ聖書の神を信じているはずの人々のはずなのに、こんなにもしっくりこないのだろうか。この人達と共有できる何かがあるようには思えないと、、、。初めは私も、田舎からポンと飛び出していっただけで、他が何なのかが分かりませんので只違和感を感じるだけで突き詰めることはしなかった。それが、変化していくのが大学の聖書研究会に出会ってから、、、。そこには、私が求めていた仲間がいた。同じ臭いがするクリスチャン達がいた。だから、それを分かち合いたいという当然の要求を満たすことが出来た。未だに、私の中の『教会』の原型はあそこにあるのだと思う。その後の引きこもりに至るまでの事を書くとそれだけで埋まってしまうので省く。繰り返し言いたいのは私は『教会』を追い求め続けてきたということなのだ。

 このブログのリンクに『真也の信条』としてあるのがお気づきになっただろうか。ある本から抜き出したのだが一部を載せよう。

一、私が召命を受けているのは教会に出席したり参加したりするためではない。私自身が教会としての役割を果たすためである。

一、礼拝は参加するイベントや観察するプロセスではない。礼拝は私自身のライフスタイルそのものである。


 これが、私の『教会』についてたどり着いたところである。聖書を丹念に調べていくと『教会』というものに関して、自分と別にそういったものが存在して、そこに行くとか行けとかいう表現がどこにも出てこない。つまり教会に行けというメッセージは聖書にはない。これは何を示すのだろうか。代わりに出てくるのは、『あなたたちが教会である』というメッセージ。ほとんどこれに尽きる。このことに気がついた時、長年の疑問と納得がいかなかった事に対して一気に光が差してきた。
 現在朝方、毎日両親と聖書の学びをしているのだが、そのテキストが終わりに近づいてきた今『主の働き』という課をやっている。そこで奇しくもちょうど今回の記事に重なる内容にぶつかってきた。抜き出してみよう。


1,聖書的な教会観
 『クリスチャンにとって一番チャレンジをうけることは、私が教会のために何かをすることではなく、私が教会自体となっていくことです。』(F.C.マータ)

 信徒と教会との関係において、信徒が教会の中にいるということは、聖書の主張ではありません。信徒は教会のために働くということも、聖書の主張ではありません。それでは、信徒と教会との関係において、聖書の主張とは何ですか(エペソ2:20~22)

 信徒自身が教会です。ですから、信徒の働きを知るためには、教会の働きが何かを知らなければなりません、、、、、。

 2,聖書的な信徒観
 私たちは時々、『私はただの信徒に過ぎません』という言葉をよく聞きます。それは謙遜のように聞こえますが、その人は主に召されたことを理解していません。聖書では全てのクリスチャンが主の働き人であると言っています。信徒は、一般的に思われているような牧会者の脇役ではなく、むしろ教会の働きの主人公なのです。



さすがオンヌリの養育テキストだけの事はある。最後にこんな内容が出てくるとは私も驚いた。このテキストに対応する手引きのようなものにはこうあった。

『信徒は牧会者の働きの対象ではない』
要するに信徒は直接神から養われるんだという意味でしょうね。真の牧者は自らの羊に囲まれて暮らすのではなく、失われた羊を探し求めるために召されているというわけか、、。とすれば、牧師も成熟した信徒も教会から外に出て行って当然だということになります。

分かりますか? 落ち着いて読むとびっくり発言でしょう? 私が言っているのではないですよ。韓国のとある大教会の主張です。聖書はクリスチャンがクリスチャンだけで集まって楽しくやれとか身を守れとは主張してはいない。むしろ反対で、世に出て行けと呼びかける。だから成熟したクリスチャンが、それまで慣れ親しんだ教会を離れて世に出て行こうとするのは当然のことなのである。それを妨げようとすれば、自然の事を妨げるのでゆがみが出る。だから、教会に人を留めておこうと躍起になる教会は不健全になり、信徒の成長が抑えられたり、信仰が歪ませられたりする。
 例を出そうか。朝のテキストの作成元になっているオンヌリ教会は信徒になって7年ぐらい経つと外に出て行くように促されるそうだ。また、恵泉塾の札幌キリスト召団は、会員に毎年はがきが送られるそうだ。『そろそろ他に転会しませんか?』と、、、。まったく逆の発想である。世に対して信徒を送り出そうとする聖書の姿勢を当たり前に実現している。

 そして、もう一つ身近な例を出すべきだろう。私たち夫婦が育った救世軍である。救世軍にはもともといわゆる『教会』というか信徒を囲うことや、教会に人を集めるという発想がなかった。それよりも救世軍は『教会』を必要としてもそこに来ることが出来ない人たちのために、『教会』自らが移動して行った。当時の『教会』の既成概念を破り、貧民街へ出て行きそこを活動の場にした。信徒である教会が世に出て行ったのだ。世に出てそこにいる人たちの要求に応えようとすると、様々な社会問題を扱わずにはおれない。そうやって今から150年前、まだ国家に福祉の概念がない時代、それを建て上げ軌道に乗ると自分たちはさらに困難な所に行くと言ってそれを他に譲っていった。現在でも福祉についての歴史を学ぼうとすると救世軍の名が出てくるのはそういうわけである。時間が経てば初期の志は劣化してくるのが普通なのだが、私は恵泉塾にて、現在もまた生きて働くその創業時と同じ精神とその背後にある聖霊の働きを目の当たりにし、深い感動を覚えた。かつて、救世軍も人間改造所と呼ばれた時代があった。世の中に適応できず、不要とされ価値がないと見なされていた人々を次々と回復させていったからである。だから本質を求める人は、今同じ事が起こっているあそこに足を運んでみるべきだと思う。

 私は、クリスチャンが集うことに何から何まで反対しているわけではない。目的を明確化せよと言っているわけだ。その目的は、信徒を養育し送り出されるまでに成長させること、そこにこそすべてのクリスチャンが召された意味ある。これが希薄になると、教会の存在意義自体が不明確になる。何のために人々が教会に行くのかがよく分からなくなる。自分は何のために日曜日教会に行っているのだろうか? と疑問を感じる人はその事を見いだすチャンスとなるだろう。



 さて、こんなんである程度私の考え方を理解してもらえるだろうか、、。間に、学びの時間が挟まったために途中で書く勢いがとぎれてしまった。また追記するかもしれない。とりあえずこの辺りで、、。

 
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by dynabooksx | 2009-10-31 05:38 | 真也の視点
高瀬川渓谷~葛尾~R114 55km 2h
a0023043_2032999.jpg
 午後時間を確保して走ってきた。いつもとは違うコースにしようと高瀬側渓谷を上った。今日はやたら暑い。最高25℃ぐらいに達しているのではないか。こういう時、川沿いの道は虫が多くてかなわない。かなりの小虫を吸い込んだ。それにしても、見事な紅葉。これから半月が最高のところだろうか。奥に行けば行くほど山吹色に輝いている。カメラがないのが残念だった。明日時間があったらまた行ってみよう。秋はゆっくり景色の変化を見ながら走るのが吉だ。

 今週は月火水と走り、木を落として今日それなりに走った。土日を走り込むなら週2日の休養が必要だし、週末がそれなりなら1日は休ませないと疲れが溜まって帰って練習の効率が上がらなくなる。連続で走れるのはだいたい3日まで、休むのも練習のうち。


Entire workout (176 watts):
Duration: 2:01:18 (2:01:22)
Work: 1277 kJ
TSS: 130.5 (intensity factor 0.805)
Norm Power:193
VI: 1.1
Distance: 55.066 km
  Min Max Avg
Power: 0 356 176 watts
Cadence: 37 174 86 rpm
Speed: 0 65.5 27.3 kph
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by dynabooksx | 2009-10-30 19:56 | 真也の運動日誌
クリスチャンとは
 先の記事で、実際にローマ書を実際に読んでくださった方へ。当然こういう記事は、ある程度聖書に通じた方が読んでくれているのだろうという前提で書いているわけですが、そうでない場合、もしくはいったん全く違った読み方でインプットされてしまっている方のために少々解説が必要なのかと後で頭を冷やしてから考えた。あんまり詳しくやると講解説教みたくなるのでやりませんがポイントだけ押さえてみよう。

 さてどうしようか。7章、8章の全文を載せるとなるとそれだけでかなりのスペースを食う事になる。だから、テキストは先に紹介した護郎ちゃんの訳を使うこととして進める。

 ざっと読んでまず引っかかるのは中心命題のでしょう。これらが対立概念で語られていることが分かるでしょう。『肉』の側に対応してくる言葉を抜き出してみると、罪の欲情、欲、死、死への実り、欲しないこと、悪をもたらす律法(別訳は法則、以下の意も同じ)、罪の律法、罪と死の律法、神への敵対、神をおよろこばせできません、と出てきて、『霊』に対応するものを探すと、神に対して実る、律法から解放、神に仕える、善の実践、神の律法、キリスト・イエスにあるいのちの霊の律法、解放、律法の要求が満たされる、いのちと平和、となります。

 これで何か感じませんか? 肉と霊がそれぞれ指し示すもの。この2つが対立していてその中程に『律法』がちらつくという構造。律法について説明するとこれまた長くなりますが、簡単にいうと決まり事ですね。決まり事を守る事で人は救われるのかという命題。法律で人、または社会を救えるのかという事と同じ。決まり事があると言うことは、基本的にそういうガイドラインを定めないと人は道をそれるし、そもそも道自体が分からない。しかし、それを定めたからといってそれで道をそれる事がなくなるわけではない。飲酒運転の罰則を重くしていっても、今度はその罰を恐れてひき逃げは増えたりする。結局は律法を強化すればするだけ、罪が重くなっていく。それらを一字一句全て守り切ることは人には出来ないから、律法の効果は結局のところ、人には罪があるのだという事を分からせるだけで、それ自体が人を救うことは出来ない。

 ここでいう『肉』というのは、神への敵対、神をおよろこばせできない、とあるように、神を神として思わない。自らの創り主である神を主人とせずに、自分自身を人生の主人公として生きてゆく生き方、自己中心。それを『肉』と表現しています。普通、自分の人生を自分の思うように生きていくのは当たり前の事ですよね。自分の命は自分のものだから、生きていくのが嫌になったら死を選ぶ。いつも書くことが極端ですね、私。そう、これは当然のこと、当たり前のこと。だから、聖書はそれを『罪』と呼び、生まれながらにして全ての人が持つのだと語るのだ。きわめて論理的でしょう? こういう所に私は美しさを感じてしまう、、、。

 それに対して『霊』は神の霊、キリストの霊である聖霊の事。これは、律法によってがんじがらめにされた私たちを解放し、真に神に喜ばれる者として変化させる力を持つ。これは自らの努力というように内側から出るものではなく、外からの働きかけに拠るものであるため体験した人でないとその実体は分からない。これによって、先に述べた自己中心から解放されて、私たちは本来の主(あるじ)を見いだし、新たな人生の意味や目的に目覚めていく。これがキリスト教のいう『救い』であり、彼はそれを得た。人生の主人公を、自分から自分を創り、また救って下さった方へとシフトさせた人をクリスチャンと呼ぶのだ。


 最近、キリスト教会が内輪に向いているからだろうか。『特別な体験がなくともクリスチャンである』との主張をちらほら聞くようななった。おそらく小さい時から教会で育った2世3世を刺激しないための配慮であろうか。かくいう私も一応は2世か3世?である。まぁ、言葉尻を捉えている、意味をはき違えているとでも何でもいいので必要があれば、非難なり返答が欲しい。
 生まれながらに罪を持っている全ての人が、神に出会う。自分の人生の軸足を、自分の目的をかなえることから、自分を創った方の目的に生きるようになる、というのを特別な体験と言わずして何というのだろうか。まさにコペルニクス的転回である。まぁ、どれぐらい罪に苦しむかどうかはその人の性質にもよるだろうが(馬鹿真面目な私はかなり苦しんだ。性格が災いしている、、)特別な体験がないというのは、その人が未だ自分の人生を生きているからなのではないかと思う。さらに具体的にいうならば、教会の活動に参加しているとかなにかで、自分の信仰の代用をしたつもりになって満足している。とすれば、本来の聖書の基準に照らすと教会に足を運んでいる人のうち、クリスチャンはごくわずかしかいないのかもしれない。多くの人が、信仰を、それまでの自分の人生をもっと豊かにするもの、+αぐらいにしか見ていないように感じるからだ。この信仰によって経験する体験は、それまでの人生観を一変させる。パウロが表現するように、古い人が死んで全く新しい人になる。生まれ変わる、と表現するのが適当だろう。新しい人になるというのは、この世に根を下ろす木から切り取られ、天に根を下ろすイエスキリストの木に接ぎ木されることであるから、天から来る聖霊の養分によって全く違う実を結ぶようになるのだ。だから、先のヤンキー牧師さんの記事にあった『自分物』という一言に反応してしまったというわけなのだ。
 パウロは、救われた後、それまで必死になって追い求め走ってきた正義や獲得して来たものが、どうでもよくなってしまった。自分の人生が何のためにあるのか、本当の正しさはどこにあるのかを見いだしたため、自分の命が危険にさらされることなどお構いなしに、その目的のために走り抜けた。そんな人をどうやって7章にあるように

わたしは知っています、わがうち、すなわちわがのうちには、住まないことを。意欲はわたしにあっても、善の実践ともないません欲する善はせず、欲しない悪をこそしています

と適用することできるというのか。救いを得る前のパウロは、律法の要求を満たすこと、善をなすことをしたくても出来ないというカラカラと渇く葛藤を味わっていた。どこまで努力しても、神のためだと言いながら結局は自分の事しか考えられず、人を愛することが出来ない、神との関係を修復出来ないことにイライラしていた。しかし、キリストの十字架とその意味を伝えてくる聖霊を知る事によって、長年の問題に対する完全なる解決を得たというわけなのだ。
 しかし、かくいう私もこのことにはっきりと気がついてきたのはここ2,3年の話。これが分かってきてから聖書がまた一気に開けてくるようになり、身の回りの物事も急に回り始めて来た。私が、人生の軸足を移していった瞬間だったのだろう。キリストによって救われた者として生きるようにと、、。


それゆえ、今や、キリスト・イエスにあるものは何の罰も受けません。キリスト・イエスにあるいのちの霊の律法が、あなたを罪と死の律法から解放したからです。
律法が肉のため弱体になってできなくなったことを、神はなしとげられました。
すなわち、(人の)のゆえにみ子罪の肉の形つかわし、肉において罰せられたのです。
それは、肉によらず霊によって歩むわれらの間に律法の要求が満たされるためです。
それは、肉に従うもの肉のことを、霊に従うもの霊のことを求めるからです。
肉を求めれば霊を求めればいのちと平和です。
ローマ人への手紙8章



このところちょっと重いのが続きすぎるな、、。それに、お前いったい何時に起きてるんだって言われそうだ、、。
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by dynabooksx | 2009-10-30 04:13 | 真也の視点
分水嶺~ローマ7章、8章~
 昨日はインターネットの力を借り、1000kmも離れた友人と朝方まで互いの召しについて話し合った。いくら話しても、どこまで話しても話が尽きない。全く距離や制限を感じないで会話が出来る。しかも、会議室機能でもっと多くの点を結び同時に話が出来る。各地の前線にいる仲間達はこういうものを使って互いに励まし合うといいと思う。夜8時から朝4時まで寝たぞ、今日は元気だ。

 さて、分水嶺と題したが、これはついこの日曜日の話である。宇都宮のジャパンカップから帰ってきた私たちは夕方家に着いた。長男と次男とを置いていったのだが、夜の集会に連れて行かれたのか誰もいなかった。長距離を運転すると凝りによって筋肉が疲れるので、少し走ってくると称してライトをつけて出かけた。普段足を運ばないのだが、久しぶりに浪江の小隊(教会)に行ってみたくなったのである。わざと山の方遠回りして、体を温めてから向かった。着いてみると案の定、上の2人は礼拝中あちこち暴れていた。まぁ、私が何か言ってもあまり変わらないのだが、内容は集会が終わったあとのお茶の時間のことである。

 集会にはいつもすぐ側に住んでいる独身男性が来ている。年は私よりはるかに上だが、いろいろと心に重荷をもつ方だ。一度話し始めるとなかなか止まらず周りはただただ聞いているしかないようだ。今回は、カトリックについてあれこれ話をしていた。近くの本屋でなにか見つけたらしい。彼自身もカトリックに通っていたこともある。

『カトリック(ローマカトリック教会の事)は歴史を見ると本当に酷いね。虐殺や腐敗、こんなに色々あるのかとビックリしてしまった。』とひととおり一方的に話す、、、、。

普通なら、周りは仕方がないと思って適当に相づちを打つだけなのだろうが、私は瞬時に切り込む。

『カトリックは確かに、教会の世的な部分を一手に引き受けていった感はあるね。だからこそ世の論理が入り込み腐敗が進むのも早かったのかもしれない。集団が大きいから数の論理だけで動き易いしね。でもね、カトリックでなければ出来ないこともたくさんあった。例えば、この聖書。このように編纂されたのはカトリックのような組織力がなければまとめ上げることは難しかったと思うよ。それに世界宣教も、、、、、。もしかしたら救世軍も世に対しての部分が強いから同じ傾向があるかもね。』と続けた。

自分の発したことが一方通行でなく、返事が返って来たことに喜んでいたようで、続いて彼は語った。それが今回のテーマである。

『でも、どうして信仰は堕落していくのだろう。パウロは自分のことを罪人の頭(かしらと読む。お頭の意)だと言っているがクリスチャンもそういう謙虚さを持っていれば、大丈夫なのだろうかね』
と、、、、。

周りはうんうんと答えているが、それはまずいだろうと私は切り返す。

『パウロが自分の事を罪人の頭だと言っているのは、いわゆる日本人の言う、自分をちょっと低めに言っておいて謙遜なふりをしたのでも、単なる謙遜でもない。彼がそう言ったのは、それが事実だったからなのだ。このパウロの言葉は、クリスチャンとなって救われたパウロが今の自分を指して言っていると解釈する牧師やクリスチャンがいるが、私はそうは思わない。これは、救われる前の彼、ユダヤ教に燃えていたときの自分を示しているのだ。パウロは、キリストによって救われた自分が未だ罪の中であり、罪人の頭であると言っているわけでは断じてない。もしそうなのだとしたら、ローマ7章8章はどう読むんだい? 7章は納得出来たとしても8章を解釈できないじゃないのかい?』と、、、、。

彼は、会話が出来て満足したようだった。『ローマ7章8章ですね。あとでじっくり読んでみます。』と帰って行った。


 ローマ7章、8章の間には完全なる分水嶺がある。ここを越えるかどうかで、水がどちらに流れるのかが決まる。山はどこから登っても、たどり着くところは同じだというようなものではない。救いが本当にあるのか、ないのか。もし、存在しないのなら私はそんなくだらないものに人生をかけるつもり毛頭ない。この境界線がはっきりと浮かび上がってこないのだとしたら、救いはその人にとってまだ確かなものになってはいないのだろう。長年教会に通い続けているはずの人であっても(だからかもしれないが、、、)、『罪の解決』ということに関して聖書が語る正しい理解をしていないことが多いように思う。おそらくその背景には次ようなものがあるのではないかと私は考えている。


 牧師や指導的な誰かに、結局は罪はなくならないのだと教えられ続けて来たのではないか。どこまで行ってもあなたは罪人であってそれに縛られる、語る私も罪人なのだからお互い様という事で、なんとか精一杯やってるんだから言ってることとやってることが違う私の私生活をあんまり責めないでね、つまり人を見ないで神を見ろ とかいう意味のメッセージ。そういう人は、教会や牧師を批判してはいけないとか言って必死に壁を作ろうとする。私みたいのが側に来ると最悪で、必死になって避けようとするのですぐ分かります。気持ちとしては分からないことはないですが、それはちょっと寂しいですね。または、そういうメッセージをしておいたほうが、信徒の現状に近いから素直に理解してもらえて『先生の話分かりやすい~』とか褒めてもらえるという妥協と迎合の理由で語る。そうなると、キリスト教の主張は仏教の悟りや道徳に近いようなものだと人々は理解するようになる。ああ、やっぱりあれもこれも同じなんだなぁ、、、と。これなら世の中と摩擦は起きないわけで、いかにも平和なクリスチャン像を保てるというわけだ。
 わざとあからさまに書きましたが、ここまででなくともどこかでそういったメッセージを込めてはいませんか? 牧師の皆さん?

 とすれば、信徒を罪の中に縛り続けてきたのはあなたです。聖書の正しいメッセージを曲解し、神と人との間を裂いてきた。つまり、救いなど結局はないのだと語ってきたのですよ!! その責任は重いでしょうね。言葉としてはそれらしいことを語ったとしても、心の中に救いがなければ、結局はすぐに周りに伝わりますし、そういう行動が随所に出て来てしまう。よく目を覚ましてもういちど聖書を読み直してくださいよ。なんか、牧師に厳しいな、俺。個人的な恨みでもあるのだろうかと思われているだろうな、、。それだけ重要な立場だということですよ。


 あなたは今、本当に救われていますか?

このシンプルで今さらながらのメッセージが、あまりにも大切なのだとハ・ヨンジュ氏は言う。私もその通りだと思う。クリスチャンはこの問いかけを日々確認するべきだと思う。そしてもし、それがぼやけてきているのだとしたら、真実にそれを求めたらよい。結局、私たちの拠り所はそこにしかないのだから、、、。

みなさんはローマ7章、8章をどのように読みますか? そして、今なお自分はとらわれの身だと感じているあなたのために、、。同情を込めて救われる前の7章ばかりを読むのではなく、落ち着いてゆっくり8章を音読してみて下さい。パウロの内側からこみ上げてくる解放と自由の喜びがあなたにも伝わって来ませんか?



補足 パウロが自分を罪人の頭と言っているのは、かつてキリストとキリスト者を迫害し、本来最も遠いところにいたはずの自分にも、キリストは現れて救って下さったのだという彼の深い感動を表している。罪が深ければ深いほど、また十字架も輝くことになり、その人はより深くイエスを愛するようになる。

 自転車乗りのみなさん、書いていないだけでちゃんと乗っていますからご心配なく、、、。



ローマ書を読みたい人はこちらから、、、、。(前田護郎訳)

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by dynabooksx | 2009-10-29 05:40 | 真也の視点
いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい すべての事について感謝しなさい
 チョ・ヨンギ牧師による御言葉のメッセージ
いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい
すべての事について感謝しなさい

↑クリックするとメッセージがみられます。

 クリスチャンなら誰でも知っている、聖書を読んでいてとても心に響く御言葉ですよね。
教会学校の幼年科あたりなら、すらすら暗唱出来てしまう、覚えやすい御言葉です。
以前、色々思いめぐらしていたとき、
この御言葉のように過ごせたら、うつ状態、うつ病の人が減るのではないのかな?と思っていたのですが
メッセージの中でわかりやすく語られています。
無理にハイになると不自然で疲れるのですが
 神様を認め信じてその愛を感じられるようになってくると
自然に心から何かわからないけれど、あたたかい命がみなぎってくる感じ。。。
自分がどこから来て、どこへ行くのか、はっきりと本当の姿がわかったときに、
何とも言えない安心と喜びに包まれる。。。
 
「いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい すべての事について感謝しなさい !」 
これらのことをできそうで、なかなか出来ない人間に神様の命令です!

    
   一日を終え、平安な気持ちで、明日の朝まで良い眠りにつかれますように。。。。。
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by dynabooksx | 2009-10-28 22:40
罪を吐き出せば神様との対話ができます。
10月23日 罪を吐き出せば神様との対話ができます
人間はなぜ恐れにとらわれるのでしょうか。それは、罪とどのような関係がありますか。


 最初の人、アダムが罪を犯して隠れたとき、神様はアダムのところに来て「アダムよ、あなたはどこにいるのか」と言われました。アダムは神様が来られたのに恐れました。罪を告白しなかったからです。光の中に出ていく人々は暗やみから解放されますが、光の中に出ていっても身をすくめて背を向けている人は依然として暗やみをもっています。

 教会に通っている人がみな、光の中にとどまっているわけではありません。罪を告白せずに覆い隠している人の場所は暗やみの場所です。その場所は私たちに恐れや苦痛や痛みを与えます。「もしも私の心にいだく不義があるのなら、主は聞き入れてくださらない」(詩編66:18)

 心にある罪をすべて吐き出してください。告白してください。そうすれば、神様との対話が始まります。心に大胆さが生じ、光が臨みます。


 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)



 数日前の箇所ですが、さかのぼって載せてみました。聖書のいう『罪』の性質と結果のところです。私たち心の中に他人にはそのままで見せることの出来ないようなものを抱くとき、後ろめたさや恐れを感じます。最初の人類もそのようにして、主の言いつけを破ったことに対して恐れ、身を隠しました。このことによって、私たちの本当のあるじである創り主と私達の間には深い溝が出来てしまいました。私たちは、自分で何か特別悪さをしたというわけでなくとも、その最初の人類の子孫である限りその性質を引き継いでいるというのが、三浦綾子さんの小説『氷点』のテーマにもなっている『原罪』です。
 初期には高い志でもって建てられたどんな国家や共同体も、時間と共にいつの間にか腐敗していくのは、すべての人々の中に『罪の性質』があるからです。その性質によって私たちは命の源である方から切り離された状態にあるので、放っておくと徐々に活性を失い、死に近づいていきます。社会全体に恐れや不安が蔓延しているのはそのためです。

 この罪というのはやっかいなもので、恐れが伴うので光が当たるのを嫌い、どこまでも水面下に潜ろうとします。だからこそいつまで経っても解決しないのです。そもそも本人には解決があり得るなんてことは想像しないでしょうから、ますます隠すようになるのですね。だから、それを自力で解決することはまず不能なのです。

 ところがどっこい、この神様は最後の一手を用意していました。それが十字架です。自らのひとり子を地上に送り、その方を人々が憎み、見捨て、十字架にかけて殺すことによって私たちの罪が公に明らかになりました。これって、実は決定的なことでそれこそ最後の望みである救い主を殺してしまったので万事休すになるところなのですが、実はそこにこそ私たちを罪から解放し、自由にする神の隠された計画があったのです。
 罪が明らかになるようになって、裏で私たちを誘惑し、神の前に立つことの出来なくしていたサタンの力は消滅し、創り主との関係を回復します。十字架には人の心の奥底にある罪をあぶり出しそれを明らかにすることによって、効力を失わせる力があるからです。それをよく知っている人は、その中心を逃しませんし、依然として罪の中に苦しんでいる人は十字架を必死に避けようとします。そこが苦しみの場所であるはずなのに、それでもなお暗やみにいるというのは、けっこう暗やみも居心地のいいところなんでしょうね。自分の真の姿を隠し続けようとする人にとっては、、、。


Ⅰヨハネ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
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by dynabooksx | 2009-10-27 16:27 | 聖書の言葉
妻子に関心のない男ってどうよ?

 妻子に関心のない男ってどうよ? 


3つめ。もうタイトルをそのまま持ってきました。ヤンキー牧師氏は常々女性方に対して、日本の男性全般を、『軽い人格障害か何かだと考えるように』と語っていますが、私も含めてまさにそのようだろうと思います。彼と同じく私は軽い方だと思いますけどね、、、。


 日本の社会は男性が一生、人格的に未成熟でも能力があり社会的責任さえ果たせば、大人扱いされてしまいます。周囲は誰も、その未熟さを指摘したり、責任追及をしません。ですから、男性本人は妻だけが自分を責めるので、妻を「うるさいやつ」「困りもの」「唯一の敵」扱いしかねません。

 それはキリスト教会も時には例外ではありません。熱心な奉仕と集会出席と献金と聖書知識があれば、「成熟した男性クリスチャン」と判断されかねません。(聖書は役員や監督に成熟した家庭人であることを求めているのに!)。時にそうした自分物が牧師となることも。



 このあたりが日本の社会の薄っぺらいというか、人間のとらえ方が成熟していない所なのでしょうね。時代というものもあるのでしょうが、自分のことしか考えられない、自分しか愛せない人が得てして集団をリードする立場にいちゃったりします。それでは本当は困るはずなのに、周りもあまり何も言わない。放っておくのがいいと思っているのか、他人に感心がないのか、きっと取り巻きもまた自分のことしか考えない人たちなのでしょう。ヤンキー牧師さんはあっさりと『自分物』と書きましたが、そういった人が牧師になると共同体は普通致命的なダメージを負います。そういう変化が感じられないのならば、もう既にその前から致命的な状態になっているのでしょう。自分の目的、自分の野望を達成するために牧師になろうとする人がいる。そういう輩は、さも敬虔なふりをしながら、誰かのために命を捨てるのではなく、誰かの命を踏みにじってでも自分が生きようとするでしょう。こういった場合、それに気がついている周りの誰かが、自分の身をなげうってストップをかける必要があるでしょう。無論相手が牧師という立場があるので、それをする人のダメージは甚大でしょうけれども、、、。

 牧師になることで成功したい。周りから認められたい。ひとかどの者だと思われたい。そういう願いは社会一般では当然の要求だと思われるでしょうし、むしろそういう向上心が良い牧師に導かれるのだと思っている信徒もいるかもしれません。特に生育段階で心に傷を持っていて、自分に強い劣等感を持っていればそれを何かで埋めようとするのは本能的なものなのですが、解決もたらす持っていき場所が間違っているのです。それを、引き続き古い自分のままに成功や獲得に持っていくことに解決を見いだすのではなく、新しい価値を得ることによってむしろその反対である失敗、放棄である十字架に自分が導かれていくべきなのです。そのことに気がつかず、その牧師の姿勢に違和感を持たない取り巻きの人々は、それだから何も言わないのでしょうね。でもね、そういう人がリーダーになったら、あなたがたはその牧師の食い物にされますよ。その牧師は自分のことだけ、自分が満たされることだけ考えているのですから、、、。信徒を大切にしているように見えるのは、自分を尊敬してもらいたいとか、いなくなってしまったら、献金によって自分の生活を養ってくれる金づるを失うかもしれないからで、本当に信徒の心の問題を解決しようとしているのではない。解決してしまうと自分から離れてしまうかもしれないので、むしろ重荷を増して身動きが取れないようにしようとする。そういう人は、信徒を神に結びつけるのではなく、むしろその間を裂いて入り込み、自分に服従させ、依存させようとする。奴隷化していくわけですね。ここまで書かれると少し恐ろしいと思いますか? または、単なる私の空想話か被害妄想だと思いますか? そうであってくれたら本当にいいと願います。でも現実はそうではない。ここまで書かれないと気がつかないのだとしたら、周りにいる人たちがあまりにも霊的に盲目なのです。霊的な危険に鈍感過ぎる。無知すぎる。いや、本当は気がついて心を痛めている人がいるはずです。様子を見てなりを潜めているでしょうけれども、、、。賢い人は距離を置いて対処するでしょうが、確実に被害者は発生する。結局、対処出来るのはそれに気がついているその人の他にはいないのです。

 この話題になると、一気に文が進みますね。自分に直接関係がないなら放っておけばいいのに何ででしょうね。テーマからそれました。でも、この依存状態って夫婦関係においてもよくある話なのでは?



 戻ります。この記事は男性にフォーカスを当てて書いているものですが、そういう人格的に未熟な男性を捕まえてうまく手なずけるというか、ペット化する女性も存在すると思います。さも、自分は大変な夫を持って、それに尽くして良い妻を演じているようだが、実際本当に夫が自立することを望んでいるのではなく、未熟な夫に必要とされることを楽しんでいる、共依存の関係ですね。そういうのが実際あるのではないのか。そうなると、本来互いの欠け目を補いあって共に成長し祝福されるはずの家庭が、男性にとってどこまでも奴隷化され地獄のような場所になる。(本人は気がついてはいませんけどね、、、。頭なでなでされて、彼女だけは僕の苦しみを分かってくれるとかなんとか言って、、。そのようにして、自立を阻害されているのではないのかと、私には見えてしまう。) 
 そういった男性は体は大人でも中身は子供ですから、妻に鋭い指摘をされれば、手のひらを返したように暴れかえるでしょう。ですからもしかしたら、奥さんもそれが恐くて、分かってはいても仕方がなく問題を先延ばしにしているのかもしれません。

 結局のところ頼みの綱は奥様方だと私も思うのですが、妻が夫を責め立てて指摘してくれないのであれば、どこに解決法があるのでしょうね。それにしても、夫の未来を信じて、一歩も引かず問題を指摘し続けてくれるパワフルな女性を伴侶にもった男性は幸せですね。地獄だと思いますか? もし、それを楽しめたら、それこそこれほど頼もしい伴侶はいませんよ。私はヤンキー牧師さんとは逆に、未婚の男性の諸君に呼びかけたい。そういう女性を捜し求めて下さい。いませんか、近くにうるさく色々と指摘してくる迷惑なやつ!?
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by dynabooksx | 2009-10-26 22:20
ワールドビジョンと小さないのちを守る会
 今夜は、私達がワールドビジョンでサポートしているラオスの9歳の男の子と
5歳の男の子にお誕生日カードと封筒に入れる日本のカード、ピカチュウのシールなどを用意しています。
明日郵便で送る予定です。
a0023043_19412192.jpg

ウガンダの女の子もいるのですが、女の子には髪留めや綺麗なシールを入れたりしてます。

 今この瞬間にも地球の、世界のどこかで助けを必要とする子どもたちが数え切れないほどいます。
ワールドビジョンが掲げているように「何でも出来なくても、何かは出来る。」
私達が出来る何かを献げていくことが必要だと思っています。

 そして我が家の子どもたちへの教育。もちろん聖書の御言葉を学ぶ事は、必要です。
実際に愛し合うとは、助け合うとは、お金はどのように使ったら良いのか、
リーダーになった場合にどのように生きるべきか、財産はどう使うべきか、
社会に出来る貢献とは、世界の各地に兄弟姉妹がいるという国際交流、等。
大人になるまでに学んで欲しいことがたくさんあります。
これからもワールドビジョンで世界の子どもたちを出来るだけサポートし続けたいです。

 といって、日本に生きている私達。愛する日本でも助けを必要とする子どもたちがたくさんいます。
最初は、「私、誰かの里親になりたい!」という気持ちが強くて。
自分の子どもを産むのは、もう良いや、「子どもを育てたい!」という気持ちからでした。
そんなに簡単な事ではないですが、願い、私の夢です♪
「小さないのちを守る会」に賛同したのは、里親になる何かのきっかけが欲しかったからです。
~知らない間に真也君は、水谷師の大ファンになってしまいました。~
夫婦で「これだけメッセージを世に送れるのは、日々膨大な数の相談なり、体験をしているからだろうね。」
と話してました。

 日本の大きな悲しみ、世界の悲しみ、苦しみたくさんあるけれど、
私は、子どもについての問題を想い、考えたいです。
どこの国の子どもも神様にあって幸せになって欲しいと願い、祈り、知恵をいただいているところです。

 
 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方(創造主なる神)を受け入れるのである。」
            新共同訳 新約聖書マルコによる福音書 9章36~37節

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by dynabooksx | 2009-10-26 20:02 | 愛理の子育て日記
  

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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