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テント生活

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 いよいよ10月も終わりになる。寒くなると言いつつ、いまいち秋らしくならない日々が続いている。数日前は夏の夜のような陽気だった。そう言えば、去年もちょうどこの頃だったなと思いだし、一昨日小型のテントを昼間に2階の部屋にに組んで置いた。

a0023043_8284851.jpg 帰ってきた子供達は大喜びで絵本を持ち込み、閉じた空間を楽しんでいた。2人用の山岳テントに子供3人も入って暴れるとものすごい熱になる。私が見に行った時は、30度を超えていただろう。
 昨日の晩は、長男だけがそこで寝ていた。たまには一緒に寝るのもどうだろうと思い。寝てみたが、評判通り甘えん坊で、腕や首に次々に組み付いてくる。振り払っても振り払っても、テントの壁に当たって戻ってくる。おかげさまで、普段一度も途中で起きることのない私が、両手の指ほどは繰り返し起きた記憶がある。朝、本人にどうだったか聞いてみると、『気持ちよかった、今日も寝る』だって、、、、。
 この時期、外気温が10℃ほどなら、テント内は20℃を超えるので、子供などは何も掛けずに寝ていられる。男は、子供を腹に抱えることはできないが、この閉鎖空間の中、不思議な一体感を覚えられる。
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by dynabooksx | 2007-10-31 08:28 | 真也の雑記帳

救い主を信仰する力

 新共同訳聖書 ルカによる福音書17章11~19節 
        重い皮膚病を患っている十人をいやす
11、イエスはエルサレムへ上る途中、サマリヤとガリラヤの間を通られた。
12、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
13、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14、イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15、その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
16、そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリヤ人だった。
17、そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
18、この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19、それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 
 以前、私のお友達の病気について、皆さんにいやしの為のお祈りをお願いしました。
はじめからあった神様の計画であり、信じて祈る者の声を聞いてくださる神様は、私たちをまもり導いてくださいました。お友達の病気がいやされています。学校に行けるようになり、医者が変わったら診断も多少変わり、少しずつ良くなっているとのことでした。本当に皆さんありがとうございます!!できれば続けてこれからの歩みについてもお祈り下さると幸いです。このお友達と私の誕生日が同じ日!どうしても他人事と思えず、自分の分身の事のようなのです。
 人間の罪を赦し、病魔を消し去り病気をいやし、この地上にある呪いを全てその十字架上で打ち破ってくださった万軍の主、救い主に感謝の祈りと賛美を献げつつ。。。
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by dynabooksx | 2007-10-29 09:58

今日は残念。。。

 今日は宇都宮に行く予定でしたが、この雨。去年から、レース前日からキャンプを張ってこのイベントに参加していて、今年も楽しみにしていたのに。。。森林公園中がお祭りムードで盛り上がり、あちらこちらでテントが張られていて、夜中楽しく過ごす人たちもいたりして。私たちは疲れてすぐに寝てしまいますが。。。
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 自転車のレースでは国際レースなので、素敵な♪外国人選手の走りを目の前で見られます。よくもこんな山道をそんなスピードで走れるなあと驚いてばかりです。
 さすがにこの雨では、キャンプするという気にはなりませんね。こんな時は静かに読書したり、聖書から神様の御声を聞くことにしましょう。やりたいことができないときは、他の選択肢が与えられたと思って、そのことを感謝して過ごしますね♪。。。。。
う~んでもやっぱり残念♪a0023043_1243023.jpg
   


                       

               

                            

                                      えへへへへへ。。。。。。しろめにょん
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by dynabooksx | 2007-10-27 09:07 | 愛理の子育て日記

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宇都宮ジャパンカップサイクルロードレース


 秋キャンプとしてこれは固定行事なのだが、どうも雲行きが怪しい。土曜日はほぼ駄目なそうだ。お友達もアマチュアレースで走るので、応援したいが雨は辛かろうなぁ。下りの落車を気をつけてくだされ。荷物はすべて準備したが、後は雨次第だな。
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去年の模様はこちらから、、、

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by dynabooksx | 2007-10-26 15:32 | 真也の雑記帳

Let's 草食!

畑から間引いてきた小松菜。今日も大量におひたし食べます。血液、綺麗になりそう♪
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                       ひめにょん♪
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by dynabooksx | 2007-10-26 09:47 | 愛理の子育て日記

 私たち兄弟が幼い頃、両親は”沈黙ゲーム”をさせました。一番長く沈黙していた人が勝ちです。ある日、そのゲームをしていたとき、突然このような考えが浮かびました。『もうこんなゲームをする必要なんかないよ。』

 しかし、私は最近でも、全く違った理由で沈黙ゲームをしています。心から感じ、思うこと、恐れのゆえに話さず押さえてしまいます。葛藤があるとき、それに直面するのが恐ろしく、人間関係の混乱を整理するのに多くのエネルギーを消耗することが恐ろしいのです。あなたを苦しめるその何かに対して、、苦しくないふりをするとき、沈黙ゲームをしているのです。
 私は、数年間互いに沈黙ゲームをしている夫婦を知っています。彼らは正面からぶつかるのを避けるため、そのゲームをしていますが、実は親密感を回避しているのです。私は職場で沈黙ゲームをしている社員たちを知っています。彼らは波紋を起こさないために、そのゲームをしていますが、実は恨みと挫折の中で数年を過ごします。私は信仰のない隣人や友人と沈黙ゲームをしている教会員たちを知っています。彼らは拒絶や恥を避けることができますが、ノンクリスチャンに霊的いのちを提供する機会を失っているのです。

 今、あなたはだれと沈黙ゲームをしていますか。沈黙ゲームのうしろにはいつも恐れがあるのです。

              ~単純に信じてください/ジョン・オットゥバーグ



 恐れは人を萎縮させ、コミュニケーションを難しくします。恐れが支配する所には硬直した人間関係があります。表面的、外面的に人のうわべだけを見て、それ以上内側を見せ合うことを拒絶する関係です。こういったものの背後にあるのはやはり恐れであり、自分が批評、批判されることの恐れともいえるでしょう。
 ですから、このような所では『批判』は『サタン』と同義語です。それちょっと違うんでないの? という声が聞かれようものなら、よってたかってそこに怒りと憎しみを放出します。その背後には、恐れによって行き場を失い、閉じこめられていた大量の憎悪が潜んでいるからです。そのような人は、人間関係を心から楽しむ事は難しいでしょう。常に仮面をかぶって、自己を押し殺すことが人付き合いなのだと思いこんでいるため、内面には笑顔と裏腹に言いようのないものを抱え、もしそれが何かの手違いで放出されようものなら、大変な事になるであろう事を直感しているからです。

 そのような人は、自分の内側に解決がないことを本当は知っています。どこまで行っても内向きで閉じていく方向にあるからです。それを打ち破ってくれる誰かを心の底で必要としているでしょう。そういう人が現れるといったん歓迎したい気持ちにはなります。しかし、実際の行動は拒絶します。恐れがあるからです。これが十字架です。
 実際、誰かが犠牲になることなしには、この恐れを解放、解決できないでしょう。ゆがみのあるところ、目立たないところでこの犠牲は起こります。たいてい、弱いものがその犠牲になるでしょう。職場であれば部下、家庭であれば子供などです。強いものは弱いものへ、自分より強いものから受ける圧迫から来る怒りをぶつけます。この連鎖によって恐れが全てに行き渡って行くのです。

 そこで、神は最も強いものが、最も弱いものになり最も底辺でその憎しみを受け取ることを計画しました。そのことなしに、この根深い恐れが取り除かれることのない事を知っていたのでしょう。
 この歴史的事実を知っている人は、批判される事も憎まれる事も恐れません。どんなに強い負の感情もキリストによって受け取られ、すでに解決されている事によって恐れが取り除かれていることを体験しているからです。そろそろ沈黙ゲームにも飽きてきませんか? 
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by dynabooksx | 2007-10-26 05:24 | 真也の雑記帳

しいたけ№2

廣田家の裏山のしいたけは、今日も豊作です。
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      えっへへへへへへへ。。。。。。
      今日は炊き込みご飯でも作るぜ~♪
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by dynabooksx | 2007-10-25 13:28 | 愛理の子育て日記

不思議だ、、、。

 実は、この2週間ほど絶不調な日々が続いていた。初めはのどが痛くなって風邪のようだったが、その後の回復がどうもおかしい。あまりに遅すぎる。しかも、酷い風邪になると副鼻腔炎を併発してしまう。ずっと熱っぽくなって青っぱなが出て、ボーッとし続ける現象だ。目の前に一枚眠気のベールがかかってるようだった。行動のあらゆる意欲が吸い取られ、何もする気にならない。隣の社員曰く『そういうときは、霊を連れてきているのだ』という、、、。 そういえば、体中が筋肉痛で引きずるように重い、、。こんなのしばらくぶりなので、自分が自分でないようで驚いた。

 妻には、『あんなちっちゃな字で毎日毎日目が真っ赤になるまで、没頭しすぎなのよ。米に字がかけるんじゃない?焦りすぎ!』と言われなるほどそうだなと思った。身体の具合を思うと、ちょっと無理をしすぎていたのかもしれない。これからはスローフード、スローライフだわな、、。あらゆる事にスピードを求める社会だからこそ、ゆっくりと成り行きを眺め、味わう余裕も大切だなぁ。

 こんな事を書いているのも、今日の朝は目覚めが断然違うからだ。ここ数日は5時に起きるのがやっとだったが、今日はしゃっきり3時に勝手にスイッチが入っていた。何が違うんだ? 昨日の社外セミナーか? うん、そういえばだるいながらも行ってきたら、うちの事務員さんが私の顔が違うって言ってたわ。スッキリしているとか何とかって、、、。よく知らない人の所に出掛けていくと元気になるタイプなのかも。それとも、どこかで憑かれた霊を置いてきたのか、、、、。


キリスト者とは信仰によりて安息に入ったもの、信仰によりて己が業を休んでいるものであります。律法の下にある者は己が業をもって神の前に義とせられんとしたために、遂に信仰のみによりて義とせらるるの境地に達することができず、その結果休みに入り得なかったのでありますが、キリスト者は神の約束を信じ、信仰によりて義とせらるることを信じて、己の業を完全に休み、己の奮闘努力をすべて放棄してしまったところの者であります。この徹底せる安息に入った者がキリスト者であって、そのところには何らの不安がなく、何らの固苦しさもなく、ただ平安と歓喜とのみが支配しているのであります。
                   (『著作集』第2巻.205~206頁)


 先の記事で載せた黒川幸吉氏の文ですが、違和感覚えませんでしたか? 私に言わせると、聖書呼んでも人の話を聞いても何でもそうですが違和感を覚え、引っかかりを感じるところが大事なのだと思います。なにも、心の中にそれまでと違うと感じるものがないのだとすれば、その活動は失敗だったと考えるべきなのでしょう。

 キリスト者とは信仰によりて安息に入ったもの、信仰によりて己が業を休んでいるもの

 実は、私も頭で理解しつつも、いまち納得しかねていました。しかし、ここ数日10年前をしばし思い出させる軽い鬱のような状態の中で、ああなるほどそういうことかと腑に落ちました。私の場合、自分の身が不自由になればなるほど、神の恵みを身体で感じるようになっていった。逆に、自由で活動しすぎると自分が主人のようになり、息切れする、、、。 

 キリスト者は神の約束を信じ、信仰によりて義とせらるることを信じて、己の業を完全に休み、己の奮闘努力をすべて放棄してしまったところの者

 なかなか現代でここまで言い切るクリスチャンは少ないだろうけど、実際私たちが日々直面している最も困難なものは、この戦いなのだと思う。それまでの生き方に完全に行き詰まり、ほぼ全ての力を奪われるという経験をしてきた私でさえ、しばらくするとこの事を忘れてしまう。何事かを自分が何かをなすことに夢中になってしまう。そんな私にブレーキをかけてくださったのかもしれない。
 ふと、肩の荷がおりていた。
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by dynabooksx | 2007-10-25 04:48 | 驚き、発見

しいたけ

 菌を植え付けて裏山に置いてある枯れ木から、しいたけが次々と収穫できます。
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今日はキノコをたくさん入れた、スープでも作りましょう♪


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えっへへへへへへへ。。。。。
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by dynabooksx | 2007-10-24 09:39 | 愛理の子育て日記

黒崎幸吉2

 黒崎幸吉氏についてのつづきをやろう。


 キリスト者

 世の歓心を得んことに汲々として、ために世とそのうちにあるものを愛し、世に向かって戦うの力を有せざるキリスト者ほど憐れむべき者は他にはないであろう。彼らには自己に確固たる立場がない、したがって、世の歓心を求めてこれに追従する。しかるに世はかえってかかる者を嘲笑し、軽蔑し、踏みにじりて外に棄ててしまうのである。内には能力なく外よりは侮蔑せられ、行くにところなくとどまるに家なく、あたかも喪家の犬のごとくに意気地なき有様を示しているのは彼らである。なにゆえに彼らは塩たるの任務を自覚してその辛さを示し、防腐力を発揮しないのであるか。
                     (『著作集』第1巻.221~222頁)


 なんと、コメントしたら良いものか。あまりにストレートに言い当てていて言葉に詰まる、、、。半世紀前の彼が、こう言い得ていてさらに現代のキリスト者を、特にリーダーシップたる男たちを見たならばなんと表したであろうか。世に喜ばれたいとなびくキリスト者ほど惨めなものはない。浮き草のようなその本質を、世の荒波にいる人たちは瞬時に見抜くであろう。
 塩というのは何であろうか。生活必需品などという甘いものではないのだと思う。むしろ死海を思い浮かべると良い。塩だらけで生き物が住めないあの湖だ。イエスが、塩のようであれと言ったのはその一途さのゆえに、世から疎まれるようであれという意味ではなかったのかと私は思うのだ。このようでなければ、戦う力はおろか、どこに戦いがあるのかすら見いだせないであろう。


 キリスト者の中には愛、愛と称して人の悪を責めることができない人がある。これ一見愛なるがごとくに見え、そうではない。これは人間愛であるかも知れぬけれども聖愛ではない。聖愛は義を離れて存在しないのである。殊に近代思想の傾向として悪の存在を極力稀薄ならしめんとしている時代、またキリスト者は不義不正をもこれを不問に附する者と考うる人多き時において、われらはこの点を極めて明らかにすることを要するのである。
                      『著作集』第1巻.287頁)


 私は、随分前から『私がクリスチャンであるのは、自分が傷つかないためでも、人を傷つけないためでもない』と言い続けていた。もし、キリスト者が他人を傷つけることがないのだとしたら、キリストの十字架はどうやって理解するというのか。彼の生によってユダヤの学者達がどれほど精神的圧迫を受け、また死によって彼を慕った人々の心をどれほど踏みにじったであろうか。そう、彼は預言通り確かに『躓きの石』となったのだ。私たちは、この『躓き』によって死から命へ移ったのだということを忘れてはならない。彼を師とする我々クリスチャンは、滅びに向かう人々を躓かせる存在にならなくては、塩の役目を果たすことはできない。躓きを与えることのできるキリスト者を求むる。

 
 われらは絶えず自己の実価以上に自己を示さんとするの誘惑に陥っている。‥‥‥ 今日のキリスト者も心にもあらずして敬虔なる態度をなし、心にもあらずして熱信を装い、いかにも信者らしき態度をして人々に誇らんとしているのも、皆この誘惑にかかっているのである。‥‥‥‥‥‥‥
 われらの心の状態は常に神の聖前に明らかであって、これを覆い隠すことができない。万人こぞってわれらの真面目を賞揚するも、われらの心が不真面目であったならば、われらに何の役にも立たない、万人こぞってわれらの不真面目を攻撃するも、われらの心中神の前に真面目であるならば、少しも憂うる必要はない。要するに他人の毀誉褒貶は一つの浮雲に過ぎないのであって、われらは絶対にこれを眼中に置かないことが必要である。否、他人がわれらをその実質以下に見ることがかえってわれらに益を与えるのであって、これによりかえってわれらは人に依らず神に依ることができるようにせられるのである。‥‥‥‥
 かくのごとき心の態度をとることができるならば、虚飾虚栄は全くわれらを離れ去ってしまうであろう。われらは常に赤児のごとくに天真爛漫たることをうるであろう。われらは神の前にわれらのありのままを展開し、したがって人の前にもまたそのままにふるまってなんら恐るることもなく、また臆することもないであろう。キリスト者の心は実にかくのごとくでなければならない。
                     (『著作集』第1巻.374~375頁)


 世から認められたいと願うものは、如何にして自らの評価を高めようと苦心するのだが、キリスト者は自らの価値が低く評価される事をチャンスだと理解する。その時に、サタンの攻撃はゆるみ、神のみとの密接な関わりによって自由に活動できる事を知っているからである。


 ‥‥‥‥‥‥彼ら(キリスト者)は上官に煙たがられて免職の憂き目に逢うであろう、彼らは同業者と歩調を共にすることができず孤立の困難に遭遇するであろう。彼らは不当の利益を貪ることができずして、いわゆる失敗者の中に数えられることがあるであろう。この不義の世において神の国とその義とを求むる者の位置は決して安全ではない。しかしながら、それにもかかわらず彼らはその生活上絶対安全の地位にいるのである。神彼らを守り給うからである。
                     (『著作集』第1巻.395~396頁)


 キリスト者とは信仰によりて安息に入ったもの、信仰によりて己が業を休んでいるものであります。律法の下にある者は己が業をもって神の前に義とせられんとしたために、遂に信仰のみによりて義とせらるるの境地に達することができず、その結果休みに入り得なかったのでありますが、キリスト者は神の約束を信じ、信仰によりて義とせらるることを信じて、己の業を完全に休み、己の奮闘努力をすべて放棄してしまったところの者であります。この徹底せる安息に入った者がキリスト者であって、そのところには何らの不安がなく、何らの固苦しさもなく、ただ平安と歓喜とのみが支配しているのであります。
                   (『著作集』第2巻.205~206頁)

 キリスト者と言えば何とはなしに弱々しく、不自由であり、窮屈であり、偽善的であり、形式的であるかのごとき感を与える。しかしながらこれは光の中を歩む者の態度ではない。キリスト者は神の前に生きる者であり、したがって神に対する畏れをもちつつ、しかも自由に、闊達に、自己の罪を罪として告白することを恐れず、赦されし罪人たる歓喜と、光の中を歩む者の公明さをもつ者である。キリスト者の生活の態度は「光の中を歩む」一語に尽きる。
                    (『著作集』第2巻.275頁)


 命に繋がれている者の大きな特徴として、変化し続けるということが挙げられるだろう。死人はそれ以上、活動することはない。命あるものは、常に自らを活かす対象に向かって大胆に変化する。人生の主体を、自ら放棄し、キリストが生きるのだと認識しているがゆえ、世の人が持つようなこだわりのほとんどを捨ててしまっている。そのような人は、身に受けるあらゆるものを恵みと捉え、それを本来の目的のために有効に用いるだろう。キリスト者は世の成功を完全に放棄しているが、神がそれを祝福するがために結果的に本質的な成功に導かれるだろう。
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by dynabooksx | 2007-10-22 07:07 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。