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 おう、今日は寒いな。15℃切ってるな、、、。9月も今日で終わりだ。次々と稲が刈られていく。本来ならば人はこれからの厳しい冬に備えて準備をする季節だ。

 明日から、東京に出かけます。交通手段は前回気に入った、朝4時過ぎ発の高速バスです。目的は、オンヌリ教会主催の教会リバイバルセミナー。随分前から目をつけていましたが、田舎暮らしが少し寂しくなってきたところだったので、ちょうど良い頃合いでしょう。特に弟子訓練一対一養育に興味を持っています。報告書きます。
 東京の皆さん、よろしく。
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by dynabooksx | 2007-09-29 08:14 | 真也の雑記帳

 フランシスコ会聖書研究所訳 新約聖書 第1コリント13章1~13節   最高の道である愛
1、たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、愛がなければ、わたしは鳴る銅鑼(どら)、響くシンバル。
2、たとえ、預言の賜物(たまもの)があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。
3、たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、称賛を受けるために自分の身を引き渡しても、愛がなければ、わたしにはなんの益にもならない。
4、愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は、ねたまず、高ぶらず、誇らない。
5、見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。
6、不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。
7、すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。
8、愛は、けっして滅び去ることはない。預言の賜物ならば、廃(すた)れもしよう。不思議な言葉なら、やみもしよう。知識ならば、無用となりもしよう。
9、われわれが知るのは一部分、また、預言するのも一部分であるゆえに。
10、完全なものが到来するときは、部分的なものは廃れ去る。
11、わたしは、幼い子どもであったとき、幼い子どものように語り、幼い子どものように考え、幼い子どものように思いを巡らした。だが、一人前の者になったとき、幼い子どものことはやめにした。
12、われわれが今、見ているのは、ぼんやりと鏡に映ってのもの。「その時」に見るのは、顔と顔を合わせてのもの。わたしが今、知っているのは一部分。「その時」には、自分がすでに完全に知られているように、わたしは完全に知るようになる。
13、だから、引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、愛。
***ここでいわれている「愛」とは、神様がわたしたち人間に恩寵、恵みとして与え注いでくださる愛、神の愛の絶対的、永遠性を示し、主題は、兄弟愛について書かれています。*****
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by dynabooksx | 2007-09-28 09:21

季節の移ろいを

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 北海道の山は紅葉を飛び越して雪が降ったとニュースで聞いた。ここも、朝と夕と一面に日の光を金色に照り返す。刈り入れの稲の香りと唯一異様なほどに赤い彼岸花が、確実に季節の変化を伝えてくる。

 ここ数日、長男光希のお迎えランニングを再開している。夏休み中の運動不足がたたって、私も光希も幾分太ったからだ。光希などは自分が太ったのを私のせいにする傲慢ぶりだ。数日続けるうち、バラバラだった手足の動きも幾分連動するようになってきた。自分の体だから思い通りになるだろうと思いきやそうではない。いくら別なスポーツをしていても、走ることは走ることによってしか学習できない。いざ意志で脳から信号を送っても、リズムが整わない。御言葉に日々親しむことと同じだろう。

 光希のランドセルを私が代わりに背負い、一緒に走って4㎞程の道のりを帰ってくる。途中で他の子供や大人達が近くまで来て驚いたような顔をする。きっと私を小学生だと思ったのだろう。6年生のお兄ちゃんと一緒に帰ってるという風に、、、。そんな驚かせかたが私は好きだ。皆さんの冷え切った先入観をあっといわせ、思わぬ楽しみを提供するのが好きだ。

 車よりは自転車、自転車よりは徒歩と普段当たり前に通り過ぎている景色でも、速度が遅くなり、また風や匂い、汗の流れを感じる動きをすると違ったように見えてくる。雲の形、動き一つ見ても夏のそれとは違う。確かに田んぼはきれいに区画され、一面整ったように実り、機械で一瞬にて収穫される。高度に人の手を入れ、計画的に農作物を生産しているように見えるが、人が植物自体を創り出せるわけではない。いくぶん育てやすいように手を入れているに過ぎない。太陽の光も、雨も、季節の変化、潮の満ち引きもも誰が決めたわけではなく、絶妙なバランスで遥か昔から整えられ、その上に実る恵みを戴いている。
 こんな単純なことを現代人は忘れてしまっているのではないかと思う。聖書の神がどうのこうのということをいわなくとも、静かに自然の中に身を置けば自ずとわかることだ。農業はいい。土を耕し種を蒔き、あとは恵みがあるようにと寝たり起きたりしているだけで、収穫が得られる。自分に管理を託された部分をしばし用いるだけで、必要なものはすべて用意される。こんな生活をするにつけ、聖書に出てくる古代人の素朴な感動が伝わってくる。天地万物をつくられた方の圧倒的な知恵と摂理である。

 こんどは何を植えようか、、、、。
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by dynabooksx | 2007-09-28 07:51 | 真也の雑記帳

秋風吹く日は、み言葉を

 柳生直行訳 新約聖書 第1コリント書1章18~31節   神の力と知恵なるキリスト

18、十字架の福音は、滅びの道を行く人たちから見れば愚劣(ぐれつ)と思われるだろうが、救いにあずかるわれわれにとっては、神の力そのものである。
19、聖書に、「わたしは知者の知恵をほろぼし、賢者の賢さを無に帰せしめる」イザヤ書29:14
と書いてある通りである。
20、神はこの世の知恵を愚かなものにした、とこんなにはっきり言われているのに、それでも知者がどこかにいると言うのか。学者がいると言うのか。また、恐れるに足る世の論争家がいるというのか。
21、この世の知恵をもってしては、だれも神を知ることはできない。神の知恵がそうさせているのである。それで神は、人の目には愚劣と見える宣教という手段を用いて、信ずる者を救うという方法をお取りになった。
22、ユダヤ人は奇蹟を欲しがり、ギリシア人は知恵を求める。
23、だが、わたしどもはひたすら、十字架にかけられたキリストを宣(の)べ伝えている。この十字架のキリストはユダヤ人には邪魔ものであり、異邦人には愚劣なものと見えるだろうが、
24、神に選ばれた者にとっては_ユダヤ人たるとギリシア人たるとを問わず_神の力であり、また神の知恵なのである。
25、というのは、神の愚かさは、人間のどんな知恵よりも賢く、神の弱さは、人間のどんな強さよりも強いからである。
26、その何よりの証拠が、神に選び出されたあなたたち自信である。兄弟たちよ、考えてみるがいい。世間の人々に尊ばれるような、賢い者や力のある者や身分の高い者が、あなたたちの中にいったいどれだけいるか。そういう人はほとんどいないだろう。
27、それは神が、この世の賢い者を恥ずかしめるために愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために
弱い者を選び
28、力ある者を無力にするために、あって無きがごとき者、すなわち、身分の卑しい者やさげすまれた者を、お選びになったからなのである。
29、ではなぜそのような者ばかりをお選びになったのかというと、だれも神の前に自分の知恵や力を誇ることがないようにするためである。
30、あなたたちがキリスト・イエスとの交わりに入ることができたのは、神の恵みによるのであり、また元来キリストのものである知恵と義(ただ)しさと聖(きよ)さと救いとを自分のものとすることができたのも、神の恵みによるのである。
31、聖書に「誇りたければ主を誇れ」エレミヤ書9:24 とあるのは、まさにこのことを言っているのである。
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by dynabooksx | 2007-09-27 09:52

 神様は面白いところにリバイバルを起こされます。リバイバルはどこで起こるか全然予想することが出来ません。私にはこのことが栄光に満ちた驚くべきことだと思われます。私たちは次のリバイバルが大きな大衆からではなく、2,3人しかいない小さな町の教会で起こるだろうと思われる理由を既に学びました。その選択権が神様の御手にあるという事実を感謝しましょう。その方は時間だけではなく場所も選ばれます。あなたがたはリバイバルがどこで起こるか絶対にわからず、そこから一定の法則を探し出すことも出来ません。人々はその一定の法則を見つけようとして必死になってきました。過去のリバイバルの歴史を読んで『リバイバルの前には多くの人々が徹夜で祈ったのだ』といいます。そして自分たちも徹夜で祈ることに決めます。また他の法則を見つけるとそれもやってみます。しかし、いくらそうやってもリバイバルは来ません。それが当たり前です。もしそんなことでリバイバルが起きるのならそれは全部徹夜祈祷会のおかげとなり、神様の栄光が隠れてしまうからです。そうです。時間と場所。リバイバルを起こす方法はすべて神様の主権の中にあります。主が選ばれた人々はどんな人でしたか? 主が使われた方法はどんなに多様であったでしょうか? リバイバルに関してあなたがたはどんな法則も引き出すことは出来ないのです。毎回新しく、変化し、不思議な点が出てくるため『わかった、こうやればいいんだ』と断言することはできません。リバイバルは神様の主権によるものなのです。

                 ~リバイバル/マーティン・ロイド・ジョーンズ


一節の黙想 ローマ9:8
 もし、救いが私の行いや信仰によって受けることができるものならば、私は今、深刻な危機に置かれるしかありません。私がいつ罪を犯し、私の信仰が冷たく凍り付いてしまうか、また、いつ変化するか、あらかじめ知ることができないからです。しかし、私は聖書をとおして、救いが私の行いや信仰によるのではなく、変わることのない神のみこころによるのだということを知ったとき、初めて、まことの平安が私の中にあることを悟ったのです。

                     内村鑑三/聖書研究家
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by dynabooksx | 2007-09-26 08:19

秋の夜長は、み言葉を

 柳生直行訳 新約聖書ヨハネ福音書 第1章1~18節 生命(いのち)の言葉
****以下の言葉という所に「イエス・キリスト」と代わりに入れて読んでみて下さい。
                                    わかりやすくなると思います。****
1、天地創造以前にすでに言葉があった。この言葉は神と共にあり、しかも神と同質のものであった。
2、この言葉は初めから神と共に存在していた。
3、万物はこの言葉によって造られたのであって、これによらずして造られたものは一つもない。
4、この言葉に生命(いのち)があった。そしてその生命(いのち)は人の光であった。
5、光は暗黒の中に輝く。そして、いかなる暗黒もこの光を消すことはできなかった。
6、ある人が、神からつかわされて来た。それはヨハネという人であった。
7、彼が来たのは証し(あかし)をするためであった。すなわち、その光について証言をし、彼によってすべ ての人々が信じるようになるためである。
8、彼自身は光ではなかった。ただ、その光について証し(あかし)するために来たのであった。
9、それは、すべての人を照らす真(まこと)の光であった。そしてその光が、この世に来ることになったのである。
10、こうして、言葉であり光である彼はこの世に来た。この世は彼によって造られたのである。だが、この世は彼を知らず、また受け入れようともしなかった。
11、いわば自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けたのである。
12、しかし、彼を迎え入れた者、すなわち彼を信じた者には、神の子となる特権を彼は与えた
13、彼らは神から生まれたのであって、両親の願いや情欲から自然の過程を経て生まれたのではない。
14、この言葉は人間の肉体の形をとり、しばらく私たちの間に住んでいた。わたしたちはその栄 光を見た。それは父の独り子の栄光であり、恵みと真理(まこと)に満ちた栄光であった。
15、ヨハネは彼のことを証し(あかし)して、大声で言った。「『ある方がわたしのあとから来なさるが、彼 は、わたしよりはるかに偉いお人だ。わたしの生まれる前からおられたからだ』とわたしが言っていたのは、 この方のことだ。」
16、わたしたちはみな、この方の内にある無限の富のなかから、恵みに加えてさらに恵みを与えられたのである。
17、律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理(まこと)とはイエス・キリストを通して来たのであ る。
18、神を見た者は一人もいない。ただ、父のお傍(そば)にいる神の独り子だけが、神をわたしたちに示して下さったのである。
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by dynabooksx | 2007-09-25 22:24

大落下

 実は失敗について記事を書いた直後に、大失敗というかアクシデントに直面しました。これまでにないようなはずかしい出来事でしたが、数日経って、身体の傷も心の傷も癒されてきたので書きます。

 先々週の休みに電気屋さんに行った際、最近巷を騒がせている新型ipodに心を惹かれました。現在使っているのもオークションで安く手に入れたもの(ipodではない)ですが、容量が少し足りないことと今度のnanoという小型のものも動画が見られるとのことで、CGNTVのコンテンツなどを一人こそこそ見ようと想像していました。

 しかし、衝動買いしないのが私のえらいところ。ぐっとこらえて、webで眺める日々が続きました。まぁ、なくてもどうってことないからな、、、俺はミーハーじゃないぞと言い聞かせながらいるうちにMeizu miniPlayerというのを見つけました。

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 このサイズで2.4インチ液晶に8Gフラッシュで16800円。夜じっと眺めながらポチッとしてしまいました。数日後届きまして、夜喜んで色々いじり回していました。FMチューナーの調子を見たいと思って周波数が移り変わる画面を見ながら、サンダルはいて玄関から外へ出て数歩出たところ、足に何かがひっかかった。暗闇(田舎はホント真っ暗なのである)に身を投げた直後斜めの石垣に頭を強打し跳ね返って土の上に首でブリッジするように落ちた。全て闇の中なので、情報が足りずしばらく何が起こったのかわからなかった。脳震盪をおこし、頭の中が『キーン』となっていたが意識までは飛ばなかった。何とかはいつくばって家に戻ったのだが、何か流れていると思ったら手は真っ赤だった。
 身体に衝撃を受けて意識が飛びそうになるのは、自転車で何回も経験しているが、頭を強打したのは普段ヘルメットをしているため今回が初めてだった。身体を起こして風呂で土を洗い流そうとするが、起きると別世界に行きそうになる中を行ったり来たりしながら20分ぐらいぐったりしていた。後で落ちた畑を見に行くと携帯プレイヤーが土へ縦に刺さっていた。

 妻からは『真也君、その物品は主の為に購入したものだったわけ?』とたしなめられ、『そうです』と胸を張って言えない自分が悔しかった。でも、ちょっとのあいだ当ててくれていた手が急速に痛みを取って、癒されていくのがわかった。
 首もものすごい強さでひねっていて、「こりゃ翌日首が動かなくなるなぁ」と思ったが、何のことはないいつもより肩が軽くなった感じだった。今は、傷口のかさびたがとれて少しかゆいです。
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by dynabooksx | 2007-09-25 12:40 | 真也の雑記帳

思いがけない来客に

 昨日は、遠く会津から牧師のお友達が遊びに来てくれました。この連休は大学時代の友達が来てくれるのではないかと期待していましたが、もう少し先に伸びそうなので、どうしようかねぇと言っていたら神様が送って下さいました。

 お友達といっても、その方とは私が2,3歳の頃からのおつきあいで親に近い年の方ですが、全く世代の違いを感じさせない素敵な方です。一晩泊まっていってもらったのですが、夜遅くまで様々なことについて語り合いました。私にとっては、昔から身内みたいな感覚でしたが、妻にとっては東京での生活が長かったため、同じ団体の牧師といっても、中央と地方という環境が大きく違う活動をしてきた方の生の話しを聞くのは大変新鮮なものだったでしょう。

 20代の前半の頃は、自分の目の前に立ちはだかることが、広がっている世界のすべてのように感じていましたが、落ち着いて見回してみると、決してそんなことはない。むしろ自分が壁を生み出していたのではないかと、この方の自然体の姿を見ると考えさせられます。また来て下さい。ありがとうございました。こちらからも雪の降る前にきっと行きます。
 
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by dynabooksx | 2007-09-24 19:32 | 真也の雑記帳

神様に信頼する

 リビングライフの黙想エッセイからです。


 神様に信頼する

 列車の中で本を読んでいたある乗客が、ひとりの女の子をじっと見つめていました。その子は客席の間をはしゃぎ回りながら、他の乗客に話しかけたり自分の人形を自慢したりしていました。彼は本を読むのをやめてその子と話し始めました。それは、その子が誰と一緒に旅行をしているのかを知りたかったからでした。ぱっと見た感じでは、そこにいた全員と仲が良く見えたので、だれと一緒なのか分からなかったのです。その時、列車が暗く長いトンネルに入り、社内のランプがチカチカし始めました。
 すると、その子は廊下の一番端に座っていた男性の方に座っていた男性のほうに向かって走って行き、彼に抱きつきました。その子が誰と旅行していたかはすぐに分かりました。

 この世の人々はイエスを愛する私たちをじっと見ています。彼らは私たちがいったい誰と一緒にいるのかを知りたがります。すべてが順調であるときはわかりにくいかもしれません。しかし、暗く長いトンネルに入った瞬間、疑う間もなくすべてが明らかになります。彼らは私たちが神の胸に飛びこむのを見て、すぐに気付くでしょう。苦難は私たちを神の人として準備させるものです。同時に私たちを見ていたこの世に向かって私たちの助けがどこから来るのかを新たに教えるきっかけとなるのです。

                ~女性の人生を変える8つの選択/ジル・ブリスコ
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by dynabooksx | 2007-09-23 17:10 | 真也の雑記帳

愛は意志?

 私は、昔から浮き沈みが多いとか、感情表現が豊かだとかいわれてきた。要するに不安定だということだろう。結婚をし、またたくさんの人間関係に支えられる中で、何よりもキリストとの関係において充実を感じる時に変化してきたものもあるだろうが、中身は感情、感覚、直感人間であることを否定するつもりはない。

 以前、ある牧師から『愛は、感情ではなく意志なのだ』というメッセージを聞いたことがあった。随分前なので、部分的にしか覚えていないが、感情は低位で、意志が高位なのだというニュアンスは確実だったと思う。
 私がなぜこのテーマについて書こうと思ったか分かるだろうか? それは、キリスト教会全体に、感情は悪だという刷り込みがあるような気がしてならないからだ。確かに神が人を愛しキリストを送られたことに、並々ならぬ決意と強固な意志を読み取れる。しかし、私にはそこに豊かな感情も感じずにはいられない。
 教会が、感情を否定しそれを進んで取り扱うことをしないとき、人々のつきあいは希薄化し、うわべだけで笑顔を交わし、本心を隠すようになり、信仰と生活とか切り離されてゆくのではなかろうか。こういったものを外部の人は瞬間的にかぎ分ける。何かくさいぞ、、、と、、、。

 こんな風になってしまうのは、聖書のいう愛や、感情の役割についてゆがめられて理解され、また語られてきたからなのではないかと考えている。私は、感情は神が人に与えてくださった宝物だと思っている。人が最も人らしく、また同じく人格、感情をもつ神と豊かに交わるために必要不可欠なものであると、、、。
 イエス様を見てほしい。突然泣き出したり、怒りだしてあたりのテーブルをひっくり返したり、その心理を読み取れない者にとっては唐突で情緒不安定なやつだと思うかもしれないが、感情が豊か、また表現も豊かであるのは間違いない。(私には、そうにしか見えない)
 旧約の神を見てもまた然りだ。私は、イエスの内にある神性と旧約に出てくる神になんら違和感を覚えない。福音書の記者達が、聖霊によってイエスの人格の中に、自分たちが旧約聖書から学んで知っていた神と全く同じものがあるのだと悟った様子が目に浮かぶ。やりとりの中にうごめく神の思い、感情が見えないだろうか。

 確かに、愛は意志であり、どうやってもその人を扱うという決意があるものだろうが、同時にその人に対する愛情、愛着、つまり感情が豊かにあるのが普通ではないか。それまで含めて初めて愛ではないのかと思うのだ。それなのに、感情が卑下され除外されてしまうのはなぜだろう。

 これについて最近一つの結論に到った。愛について大切な理解が一つ抜け落ちているのだ。愛といっても種類がいくつかあるだろう。人が自分の身を守るために持っている自己保存欲求、自己愛は教えられなくとも本能的にもっていることだろう。ここれ扱いたいのは聖書でいう隣人愛についてだ。自己愛と隣人愛の絡みについて書くと、それはそれで長くなりそうなので、ここでは書かず、この隣人愛を愛だと定義する。
 愛は、自分たちの意志次第であると理解した場合、窮屈さを覚えないだろうか。そうだといえる人は正直な人だと思う。つまり扱いたいテーマは『愛はコントロールできるのか』ということなのだ。私がどっちだと言いたいかは書かずとも分かるだろう。コントロールできると教えられ実践する人は、たいていの場合挫折し、自分は駄目なのだと思う。もしくはそう思いたくないために真実な姿を偽って、それらしく振る舞う。これが『くささ』の原因なのだろう。

 善いこととしようとする意志はありますが、行いが伴いません。私は自分の望む善いことをせず、のぞまない悪いことをしているのです。ローマ7章 フランシスコ会訳

このパウロの告白が正直な現実の人間の姿ではないだろうか。愛そうとする意志はあっても、それを実行することが出来ないのだ。このことから、愛は私たちがコントロール出来ないものであることを認めるべきだと思う。愛は、神の領域のものだ。私たちは神をコントロールすることは出来ない。わが社にも私の父が書いた聖句『神愛也』が額に入り壁に掛けてあるが、聖書は『神は愛です』と言っている。そうだとすれば、愛は神の領域のものであり、コントロール出来ないものと考えるのが自然でなかろうか。

 愛は神からの賜物である。賜物とは一方的に頂く恵みである。私たちの側ではどうすることも出来ない。私たちは、愛を求め実現しようとするがそれを為すことができない。だからこそ、渇き、求めて神を礼拝するのだ。そこから来るものには神の豊かな感情も付随する。神が私たちをどれほど大切に思っているかを知り、その感情に支配されるときにはじめて真に人を愛することができる。律法を成就することが可能になる。この理解だが定着するなら、クリスチャンは人を愛せないという姿を隠すことなく堂々と神の御前に進み、教会はもっと自由で人間味のある所になるのではないかと思う。

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5章
 
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by dynabooksx | 2007-09-23 06:52 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。