母の歩みを思う。

 もうすぐ還暦を迎える母を囲んで、兄弟家族みんなでお祝い会をしようということになり、それにあたり単なる食事会ではなく、後に残るようなそれぞれの彼女に対する思いを綴った文集を作ったらどうかということになり、せっかくならと情報収集、整理事務能力に突出している姉が年表も作ろうということになりました。7月の会に向けてそれぞれが準備をしているようですが、言いだしっぺで一番近くにいる私の作業がもっとも遅れている気がするので今日は頑張って書きます。

 私の母。子供時代、私にとって精神的なよりどころのほとんど全てでした。通常、子供にとって両親がそれぞれ価値観の多くを形作るのですが、おそらく私だけではなく他の兄弟も、意識の表に残っているのは母の存在が圧倒的でしょう。母は、この家において多くの責任を負ってきました。努力によって牽引されるさまざまな能力を持っている人です。私達兄弟も、小さいときから努力する大切さ一生懸命尽くす大切さを教えられました。私などは何度『死ぬ気になれ、死ぬ気になれば何でも出来る』と尻をたたかれたのか分かりません。事実その後、私はキリストの十字架の前に死ぬものとなり、新しい命、生きる力を得るようになっていきます。彼女は私の未来に起こることを予見していたのかもしれません。

 母は、私に学校の勉強を盛んにし、良い成績を取るようにと教育しました。特にそれが激しくなったのは私が中学に上がる前後ぐらいからだったと思います。ちょうどその時、私の兄は地元の高校から東北大学に入学します。それまで、一族にはさほど学業が優秀なものがおらず(基本的に農耕民族ですから)地元の学校から名門大学に行くことが珍しかったため、大きな騒ぎとなりました。その頃からでしょうか? 母が私を教育するキャッチフレーズは『勉強を頑張れ』から『お兄ちゃんみたいになれ!!』へと変化して行きました。私の兄は、我が家の中である意味神格化していったのです。

 元来自尊心の強い私にとって、このことは人生の激しい嵐を意味していました。そんなこと全てを無視して飄々と生きる方法もあったでしょうが、それまで訓練されてきた人と競い勝ち抜いてゆく心がそれを許してくれません。学問に対する純粋な興味と、他人と競い合うだけのむなしい思いの狭間で常に綱引きをしていました。この点について後に兄はこう告白しています。

 俺(兄)は、小さいときから比較的自由に学問をさせてもらった。確かに小さいときは厳しかったが、ある時母に聞いたみたんだ。『どのぐらい成績が良くなったら、お母さんは認めてくれるの?』と、、、。返事はこうだった。『母ちゃんぐらいだなぁ、、』つまり、母がこのぐらい自分は出来たと思う基準を超えることが出来れば、認めてもらえるのだ。小学生の兄は、努力をしついに母が満足する成績を修めることが出来た。それからというもの、勉学を強いるということをしなくなったのだという。だからこそ自分はその後、自由に好きなことを学べたのだ、、、と。

 兄は、母の予測を大きく超え優秀な学業を修める者として成長しました。私の教育の基準は、母自身から兄へとシフトしていました。私の青年時代の苦悩が理解できるでしょうか。常に兄と比較されそれを上回ることでしか評価されはしないのだという思い。これが、全てを支配していました。しかし、この自分自身の存在への強力な渇きが後に、私が造り主に出会う伏線となっていきます。兄は、最近こんなことを言っていました。『真也はよくその状況でおかしくならないで、頑張れたな』と、、。実際、十分おかしくなっているのですが、妻にもこう言われます。『真也君みたいな人が、よくその状況で生き抜いてこれたね、奇跡じゃないの』と、、、 意味はそれぞれみなさんご自由にお考え下さい。この事を思うとき、私が造り主なる神に出会ってゆくのは、偶然ではなく初めから入念に準備されたものであった事が分かります。

 両親が、小さい頃の私を評する言葉。『真也は、どうにも手のつけられない子供だった。やれと言えばやらない。やるなと言えばやる。制御不能のきかん坊だった』 私の従兄弟やかつて牧師としていた方々も、他の兄弟とは違う激しさをもっていたと言っています。そんな私が、優秀で品行方正な兄と比較され型にはめられていくのですから、それに対する反発は説明するまでもないでしょう。切れて飛び出すところでしょうけれども、そこが変にまじめなところで負けたくない一心で努力し続けます。当時の母は、なぜことあるごとに息子が激しく反発するのか本当に理解できなかっただろうと思います。今でも一つの出来事が忘れられません。

 高校生だったある日、生活態度か勉強に関することか何かで、当時私のいた2階に母は上ってきました。その日の私は乗りに乗っていました。一言、二言母が口にしたところで、一方的に弾丸のように言葉を打ちまくり撤退させる事に成功したのです。普段、そんなことで簡単に引き下がることのない母が、案外簡単に降りていったので、戦いには勝利したものの、ちょっと不安になってきました。あまりに手応えがなく、相手が弱かったからです。そっと、階段を下り母を捜しました。気配がどこにもありません。一通り回って奥の寝室をのぞいたところ、ベットにひざまずいて祈る後ろ姿がありました。
 ちっ、まずいものを見たと物音を立てずそのまま二階に戻っていきましたが、私の心にはそれまでとはまったく違うものが広がり始めていました。なぜ、神に祈るなどと言うもっともみじめで力のない姿が、感動を与え私の心の苦しみを軽くするのだろう。彼女の信じすがりついているものはいったい何なのだろう。この疑問が、しばらく後に受験勉強の圧力の中で、それまで一度も自分から開いたことのない聖書を開かせる力となったのだと思います。そこから始まる出会いは、過去のブログの記事にあるとおりです。預言者サムエルへ母ハンナの熱心な祈りがあったように、私もこの母の祈りに支えられていると思うのです。
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by dynabooksx | 2007-05-30 11:13 | 真也の雑記帳

カナン人は死なず、、

 この所、ずっとリビングライフによりヨシュア記を読んできましたが、昨日で無事24章まで終えることが出来ました。ヨシュア記は神が約束された土地を、イスラエル民族が先住民であるカナン人と戦いながら勝ち取り、相続していく物語です。民がこの戦いが神の戦いであり、完全なる信頼をおいて服従していくときに思いもよらない方法でいくつもの困難を乗り越えていきます。反対に、それを忘れ言いつけをまもり、自らの知恵や力を信じて歩むときに手痛いしっぺ返しにあいます。そしてその痛みからもう一度悔い改めをし、関係を回復していくのですが、これはヨシュア記だけではなく出エジプトから捕集に至るまで、さらに聖書全体がこの繰り返しを語っている、また新約の時代である私達キリスト教会の歩みも同じであることは歴史が示しています。

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンに侵攻してゆく際、常に先住民との戦いがあります。倒しても倒してもカナン人は消えてなくなりません。征服が一通り完了しても民に敵対するカナン人は依然として生存しています。なぜ、神は約束の地を与えると約束してくださったのに、共同体に脅威をあたえる彼らを全て消し去ってしまわないのでしょう? このことを考えるにはまず、その前段階をふまえておく必要があります。

 神は、イスラエルがカナン人と戦う際、『聖絶』(すべて滅ぼし尽くすこと)を求められました。これは、現代の道徳観に照らしてみると非情だといえます。なぜ、愛の神である方が、他民族を根絶やしにしろなどというのでしょうか? 人間の視点で見ればそのようなことになりますが、人と神の関係・信仰によって読むならばこうです。
 確かに、先住民のいる土地に別な民族が入ってゆくということは、前に住んでいた人達がじゃあどうぞ、譲ってよそへ行ってくれることがなければ、成り立つはずはありません。一緒に住もうよという考え方もありますが、民の数は100人や200人でありません。何十万という人が、しかも共通の神を信じるという価値観をもって団結して進んできた民族がちょっと庭をちょうだいよということが出来るわけはありません。当然戦いによって勝ち取ることになりますが、戦い方も戦意を喪失させるだけで血を流さない方法もあるでしょう。しかし神は聖絶せよと命じられました。ここで重要なのは、イスラエル民族にとってカナン人は、容姿がきれいで背も高く、文化的にも進みまた物質的にも豊かであったため魅力的であったということです。確かにその地を受け継ぐために戦わなくてはならないが、彼らの中の良いものを頂いてしまうという選択がありました。通常私達見聞きしている占領と略奪はそうです。しかし、神はそれを許可なさりませんでした。すべて滅ぼし尽くせというのです。このため、イスラエル民族はつねにこの厳しい神に従うかどうかを、普通に人間の頭で考えればまったく勝ち目のない戦いや障害を前にして、神に頼るしか道がないというギリギリの所で試されていきます。もし、アカンのように、言いつけを破り、戦いで得たほんの少しの金銀をこっそり隠し持っていると、たった一人の行いだけで、部隊全体が敗北してしまいます。

 3月末に水谷恵信先生の講演を聴きに行った際、カナン人の存在理由を二つ語っていました。一つは、先に語ったように神を頼るかそれ以外のものを頼るかの2者択一を迫る中で、信仰を試し純化させていく役割。もう一つは、イスラエルの民がカナンに入った後、すぐに食料を得られるために土地を耕作しておく役割があったといいます。確かに、カナンに入り最初の収穫があった時点で、パタリと天からのマナは降らなくなります。何十万といわれる人々の食料が同時に供給されるためには、広大に整備された土地が必要であったというのです。

 我が家の歴史を思うとき、現在101歳になる祖父のことを思わずにはいられません。私は、彼の中にある自分はいったい何者なのだという激しい渇きを見るとき、私達の無力さと人生の非情さを思います。なぜ、先祖代々お寺の総代であった廣田家に、福音の種が蒔かれる事になり、キリスト教に改宗するきっかけとなった彼が、こんなに年をとっても自分自身から解放されめぐみの中を生きることが許されないのか? そしてその周りにいる人々を動揺させ、脅迫し関係を壊すような言動をし続けなくてはならないのか? この強烈な個性をもった祖父は祖母が亡くなってからもうすぐ30年ですが、精力的に生きてきました。いまだ使命感に燃え、日々歩んでいます。(私には心の悲鳴が聞こえるのだが、、、、) 私達周りの家族は、あと5年だろう、もしかしたら10年生きるかもしれないと言いながらここまで歩んできましたが、ついに100歳の大台を超え、さらにすこぶる快調です。
 カナン人は死なず、、、。私達が私達の信仰のために、神が与えてくださったこの偉大なるカナン人を心から感謝し、愛するようにと神が導いているということに、最近家族全体が気付き始めてきました。この戦いが私達の戦いではなく、万軍なる主が戦われ、解決されることであることでありこのことによって、祖父につながるすべての人が祝福を受けることに気付き始めました。

 イスラエルの民の信仰を純化し続けた異邦人(カナン人)が、ユダヤ人の中から生まれたイエス・キリストの十字架によって接ぎ木され、めぐみを相続していくことになる。このイエスに不可能なことはないと、これまでの導きを振り返りながら再確認しました。また、祖父によって先祖から引き継がれ、また父の信仰によって祝福されたこの地を、私が相続してゆくのなら、さらに聖別されたものとして捧げ、また用いられるようにし、次の世代へとこの助けと導きを伝えてゆくのがあとに続くものとしての役目なのだと考えさせられました。
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by dynabooksx | 2007-05-29 12:05 | 真也の視点

うちのエベン・エゼル

 
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 英一お義父さん(師範)が書いた聖句を、表具屋さんで何万円かかけて綺麗にしてもらったものができました。我が家の応接間に飾られています。今まであった絵画やわけのわからない言葉は、奥座敷にしまってしまいました。。。へへっ。。
 この異教の地で「神様の祝福が溢れ続けていることの記念と感謝」を込めつつ。
        うちに来た地元のお客様達にみ言葉にふれてもらえますように。。
*エベン・エゼル
 エベンは「石」 エゼルは「助ける」 神様がイスラエルの民を「石(=巌)」となって
助けてくださったという感謝の表現です。
 最近、夫婦で人生の区切りや出来事の後に色々な形で、我が家のエベン・エゼルを残していこうと話しています。
 人間ですので忘れやすい。創造主である神様の助けと守りがあったことを忘れず感謝♪
 家族の記念として残していきたいです。


真也から一言  ああ、俺もこのことについて近々書こうと思っていました。写真先に載せられてしまった、、、。これは、私のもっとも好きな聖句の一つです。解説をしますので次回をお楽しみに、、、
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by dynabooksx | 2007-05-29 11:24 | 愛理の子育て日記

 26日(土)のお昼過ぎから磐梯山の麓は桧原湖近辺でキャンプをしました。予定はしていなかったのですが、お天気が良く、気分も良く何だか、キャンプをしたくなったのと、外でバーベキューをしたくなったので思い立って、すぐに準備して出掛けました。夜は「休暇村磐梯高原」の温泉で(大人500円、子供250円)温まり、テントの寝袋でガーガーと寝ました。
空には満天、星降る夜空の下、創造主のすばらしさを感じながら。。。
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 日曜日は、第26回桧原湖ファミリーサイクリング大会♪ 長男光希と真也君、従業員の人が参加しました。風が強かったものの晴天に恵まれ。。。


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 子供からお年寄りまで1000名以上が参加したそうです。光希は、真也君の援護もあったようですが、小学2年生とは思えないスピード!!約32キロメートルを一時間半ほどで帰ってきました。この速さは実際に走ってみた人にしかわからないと思いますが、大人をぐんぐん抜いて「すごいねー!何年生?」と抜かすたびに言われたようです。
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                 そして、オンタイム賞、金メダルと賞品を頂きました。

 本人は金メダルが嬉しかったようで、次の日学校に行って、先生やお友達に見せたみたいです。
親としては、色んな自転車のレースに出場し、自分自身の可能性を見出してほしいと願っています。


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by dynabooksx | 2007-05-28 20:07 | 愛理の子育て日記

子供の集まる我が家

 土曜日の朝は、ピアノを一人教えているのでそれが終わりやれやれと思っていると、
 今まで会ったことがない子供たちがうちに遊びに来ています。毎日のように誰かが遊びに来て、ぎゃーぎゃしています。光希と同じ小学校の5年生のお兄ちゃん達なのですが、、、山を越えて自転車で遊びに来てくれたようです。
「光希、遊ぶ約束してたの?」と聞いても本人も「う?・・ん?」
 まあ何でも良いです♪我が家には近所から遠くから光希と遊びたくて、子供が集まってきてくれる?来ちゃう?。。。お兄ちゃん達から色々教えてもらったり、可愛がってもらい、年下には慕われて、光希は本当に幸せだなあと思います。 
 私も親として子供たちが伸び伸びと遊べるように見守りたいと思っています。
 そして、機会を生かして、私のおなじみ聖書紙芝居でこの辺境の田舎でも、子供達に「福音の種まき」ができたらと思い。いつもは読んでいるのですが今日はどうかな?
 神様の御心を求めつつ。。です。
 今日の午後は、これから磐梯山の麓に行ってキャンプをします。明日、檜原湖のファミリーサイクリング大会が行われ、真也君と光希と従業員の人が参加するのです。約34キロ自転車で走ります。
 お天気が持ちますように、、、。
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by dynabooksx | 2007-05-26 10:41 | 愛理の子育て日記

今日の祈り

 我が家のメインボーイ、元気いっぱい光希君が学校で何かトラブルがあったようだ。本人は、ひょうひょうとしているが、学校で友達の背中を押したとかでアザを作ってしまったということで、保護者から学校にクレームが入ったのだという。まぁ、子供どおしの事でお互い絡み合いながら様々なことを学んでゆくものなのだが、この現代社会、様々な状況、環境にある家族、子供がある。この殺伐とした社会で、どうやって生きていったらよいのか、どうやって子供を守っていったらよいのか悶々としている方も多くいることでしょう。まして、私の愛する光希君はまぎれもなく私の子。持って生まれたバイタリティーと人なつこさ、人と関わることが大好きな子なのである。さらにさらに、父親は息子に『人に迷惑をかける子供になりなさい(本気で人と関わることは人を傷つけることも傷つけられる事もある。しかし、その先に本当の関係があるのだから恐れるなということ)』を教えてきている。人間関係が希薄になって来ているこんな世の中だからこそ、そこを突き破って人の心の奥に飛びこんでゆく事が出来る子供になってほしいのだ。造り主を知っていればこそ、そんな光希を神は祝福なさることでしょう。

 夜、妻は光希のした事を厳しく追及、叱責していた。しかし、いくら追求しても彼の行動の動機が見えてこない。私も、何か友達に対してイライラしたことがあったのか? 嫌なことがあったのか? といっても首を振るばかり。もしかしてと思って、『光希、おまえは本当はやりたくないのになぜか悪戯をしてしまうのか?』と聞くと大きくうなずき涙をこぼすのだった。

15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。ローマ人への手紙7章


偉大なる使徒パウロが晩年になっても葛藤した事柄が、こんな小さい子供の中に、今も人間の不自由さとしてあるのだ。私は彼を抱きしめ共に祈った。


天のお父様、私達は自分で自分をコントロールできません。自分で自分を思うようにすることが出来ないのです。何とも苦しく、どうしようもなく自分を苦しめ不自由にするものが私達の中にはあります。神様あなたの助けを必要としています。光希の全てをご存じのあなたが最善に導いてくださることを信じます。どうぞこれからことあるごとに、神様あなたに光希がどうしていったらよいかを聞く心を与えてください。全ての支配者であるあなたと共に歩む幸いで満たしてください。今日、光希に語りかけてくださったことを感謝して、イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン

 いつもおちゃらけている光希がこのときばかりは、自分からはっきりアーメン(ヘブル語でそうですという同意の意味をもつ語)と言いました。父という形で、一人の魂が神に触れる現場に立ち会えるということはなんという喜びでしょう。天気は雨でも心は晴れ晴れなのでした。  
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by dynabooksx | 2007-05-25 20:29 | 信仰者の歩み

ストロベリーTime

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 廣田家は4月生まれと6月生まれが多いのですが、毎年6月は、お店には苺がない時期なので、ケーキにのせるフルーツを探すのに苦労していました。今年は、我が家のいちご園でこの調子で収穫できれば、お店になくても大丈夫。店頭に並んでいる苺より甘い♪そしてあまずっぱい、本当の苺の味がします。皆さん、イチゴ狩りにもいらしてくださいね!
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by dynabooksx | 2007-05-24 10:29 | 愛理の子育て日記

夏の準備に、、

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 今年の夏も、暑くまた楽しい夏になりそうだ。きっと私達も方々へ出かけるだろうし、この地にもたくさんの人が訪れてくれることでしょう。その時に皆で楽しくスイカ割りだ~ということで、今年は例年にも増して大量15本の苗を植えました。
 まず豆トラクターで、一通り耕した後、うねを作る前に肥料を入れるために一列掘り進む、そこに牛で作った堆肥(約3Hrの現在牧草地になっている我が家の田んぼは草が刈り取られた後、堆肥となって一部帰ってくる)を入れその上に、入れると甘くなると評判の米ぬかを入れる。たいてい精米所に行くとあるものだが、この時期タケノコを煮たりだとか引き合いが多いためなかなか手に入らずあちこち駆け回りながら、体中にかぶりながら集めてきた。その姿に心を打たれたのか愛理も手伝いに来てくれた。私は、普段ぶすくれていても、主のためだとスイッチが入ったらどんなことでもするのだ。ここで農業を習得しておくのが後のために役に立つと判断したのだ。
 そのうえに、化学肥料をぱらぱら蒔き、両側から土をかぶせ30センチほどの高うねを作る。育ちと雑草の繁殖を抑えるため、黒いポリビニールを土の上に敷き、ひねを使って小型のハウスを作る。スイカは雨に弱いため、直接当たらないようにするのが肝心だ。こうして農園は完成した。写真を見て分かるだろうか? 今回は骨組みの作り方に工夫を凝らした。前回は本数をつかったわりには、たるみが出たり水が溜まったりして格好が悪かった。今回は、祈りつつ幾何学的な美しさを神が与えてくれるようにと願った。そして出来たのがこれだ。一本の軸に対して結線が一カ所ではなく二カ所出来るように配置した。結果、素晴らしく安定感のあるものとなった。母もうまくできたと褒めるので、神に知恵を求めるとこうなるのだと付け加えておいた。

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 植えてから2週間ほど経つのだが、もう植えたときの倍ぐらいに成長している。今年もたくさんの実りを与えてくれると期待している。みんなでスイカ割りしようね。


a0023043_9214170.jpg他にも色々植えています。これは子供の観察用に鉢植えに植えたトマト。右の何だか元気のないように見える方は、実は先日、愛乃が光希と所有権をめぐって争いになり、怒りにまかせて葉っぱをみんなむしってしまったのでした。夕方私が仕事から帰ると、愛乃もうつぶせでぐったり、トマトさんをいじめてしまった罪にさいなまれているようでした。『じゃあパパと一緒にトマトさんに謝りに行こうね』といっても首を振るばかり。強情なやつだ、、、。もっとも私に近い性格を持っているのは愛乃だろう。私も幼稚園の頃、兄弟に馬鹿にされたのが悔しくて洗面所にあったカミソリを振り回し、追いかけ、最後に勢い余って自分の頭を切ったということがあった。それに負けずとも劣らない愛乃の気性、う~ん将来が楽しみだ。
 数日経ってトマトさんの息がまだ絶えていないことが分かった。新芽を次々と吹き返している。もしかしたら、苦難の道を通ったこのトマトさんの方がより多くの実を付けるかもしれないとひそかに思うのだった。
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by dynabooksx | 2007-05-23 09:23 | 真也の雑記帳

落ちた ひめにょん

 昨日の夕方
 廣田家の池にアメンボを捕まえようとした愛乃が、あやまって落ちておぼれました!
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 そばで一緒に遊んでいた長男の光希がすぐに気がついて、池に飛び込み(水深90センチほど)愛乃を救出してくれました。
 私は家の中で台所にいたので全くわからず、ひどい泣き声が聞こえてきたので、「また光希が泣かしているのかしら?」と外へ叱りに行ったら、泥水を全身に浴びたひめにょンとズボンがびしょ濡れの光希が立っていました。
 100年も昔、実は潤身おじいちゃんには兄がいたのですが、2歳になったかならないかの時、この池に落ちて死んでしまったのだそうです。
 愛乃には、神様の完全な護りの中、頼りになるバイタリティーに満ち満ちた兄がいて、難を逃れることができたことを神様に感謝しました。光希はみんなにほめられてデレデレ。。。
 愛乃は「ひめちゃん、いけにドボンっておちちゃったの。でもおっきいおにいちゃんが、たすけてくれたのよ。」と何回も「おにいちゃん、ありがとう!」と繰り返してました。本当によかった、よかった♪


夫より加筆、、、 水深90センチは間違いです。もともとはもっと深かったでしょうけれども体積物が溜まっているので現在の水深は50センチ程度です。私は子供時代、何度もこの池に逆さにつるされました。もう一つ同じく逆さづりにされた伝説の井戸が我が家にはあります。
 私が、川で釣ってきた80センチ級の鯉が4,5匹いるはずですが、手をたたいても将軍は出てきません。(華麗なる一族より、、、)
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by dynabooksx | 2007-05-22 12:33 | 愛理の子育て日記

いちごひめ

                      我が家のいちご園です♪
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                毎日10コ以上真っ赤な苺ちゃんを頂いています。
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              自然の新鮮なエンザイムを日々頂いて、元気いっぱいです!


夫のうんちく、、、  エンザイムとは酵素のことで、三大栄養素(炭水化物、脂肪、タンパク質)からビタミン、ミネラルと進んできた先に続く最近の栄養学のトレンドである。
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by dynabooksx | 2007-05-22 12:18 | 愛理の子育て日記

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。