King of  山菜

   廣田家の山で採れた「たらの芽」と「こしあぶら」の天ぷらです。
 
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 東京育ちの私は、田舎で暮らすまで「たらの芽」なんて、食べたことがなかったです。
 毎年食べてる「山菜の王様」
口に入れると、山を吹き抜ける爽やかな春風のような、大地の力強い土の魂のような
  絶品の「たらの芽」
  神様の創造された大自然の恵み!
  これ以上美味な山菜は他にない。断言できます!この季節はまだ山から採って来れますので、野生の美味しい「たらの芽」を食べたい方は、ぜひ遊びに来て下さい!ねっ!
~親戚各地には送ってあるようなので、みなさん~「たらの芽」楽しんで下さい~
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by dynabooksx | 2007-04-27 16:19 | 愛理の子育て日記

私が与える水

イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 ヨハネによる福音書4章13節~

 聖書をお読みになったことがある人なら、誰でも知っている有名な箇所です。サマリアの女に、そこを通りかかったイエス様が霊的な水についての話をするところです。キリストとの対話の中で、彼女は自分自身の本当の渇きに気付き始め、それを本当に癒すことが出来る水を求めるようになる話です。素晴らしい話なのですが、みなさん違和感を覚えないでしょうか? 皆さんは私のように根性が曲がっていないので素直に物語を受け入れたかもしれません。実は私、この聖書の箇所がこれまでずっとひっかかっていました。なぜか? それはいつまでも、かわくことがないという所、別な訳だと再び渇くことがないとあります。クリスチャンのみなさん、これにピーンときますか? そのまま首を縦に振れないのが実情ではないでしょうか? 
 洗礼を受け(救世軍の場合は兵士入隊)教会の一員とはなったが、喜びがない。日曜日、感動するメッセージを聞いたが、月曜からの日常の生活に戻るとその感動がいったいなんだったのか分からなくなる。そのようなことありませんでしょうか。私自身、このことをずっと考えてきました。私は、造り主なる神を知り、罪から解放される十字架も知った。それなのに、依然として私の心の中には強い渇きがある。むしろ、自分自身の中の矛盾をより感じるようになり苦しみが増す。だからこそ、より神を求めるのだが、時折かるく、または完全に神の支配が感じられないようになることがある。確かに以前キリストに出会ったはずなのに、、、、。そのことを思うと、どうしてもこの聖書の箇所をアーメンということが出来ませんでした。

 しかし、信仰生活を初めて十数年、ここに来てこの箇所の持つ深い意味を見いだしつつあります。その理解をわかりやすくするために、一つの仮説を立てました。それは、聖霊の働き(造り主の思いの働き、イエスの思いの働き)が2種類あるのではないかということです。

 一つは、聖霊が外側から私達に働きかけるということ
 ある時、人は何とも言えない導きや、輝いているキリスト者に触れる事によって、神は存在し、また生きていると感じる事があります。ほとんどのクリスチャンは多かれ少なかれこの体験をしていると思います。

 二つめとして、聖霊が外側からではなくて、私達の内側に入り込むこと。
この場合、聖霊が、その人の中で完全に支配権をもち、行動原理の全てを支配し、あらゆる局面において神を認めざるを得なくなる。そう言った場合、その人は完全な神様依存症になり、そこから抜け出すことは出来ません。なぜなら、全ての行動の原動力をつかまれていますから、そこによらなくては生きていくこと自体が不可能になるからです。私も、ふと気付いてみると、相当重症な患者なようです。神以外の生き方で改めて身を立てていこうとしても、もうすでに手遅れなんですねぇ。他のことに喜び自体を感じないのです。相当激しいブドウの木の刈り込みを受けたようです。考えてみれば、出エジプトから続くイスラエル民族の歴史と同じように、それはそれは苦しい信仰の純化の歴史でしたもの、、、。
 聖霊が私のほぼ全てを手中に治めようとするとき、私の中にもう消えて渇いていくことのない泉があるのを見つけました。私をとらえて放さない水。決して乾ききる事のない泉、他者へ注ぎ出せば出すほどあふれてくる泉。そんな泉がわたしの宝です。
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by dynabooksx | 2007-04-26 11:33 | 真也の視点

夜の散歩

 この時期、ここいらの田舎の夜は急に騒がしくなってくる。静けさの中の騒がしさといったら良いだろうか。田植えの準備の前に、田が掘り返され、水を張る。気温の上昇と共に蛙がなき始めるのだ。昼間も鳴いているのだろが、夜の響き方はそれとは全く違う。四方八方から飛びこんでくるようなのだ。他にも多数の虫の音が聞こえる。いつからこんなにたくさんの生き物の声がするようになっていたのだろう。ついこの前まで、冬だと思っていたのに、、、。
 ふらりと、真っ暗闇の中、家の前の道を歩き始める。立体音響の大合唱も微妙に音位を変え続ける、、。都会に行くと、生きているのがまるで自分たち人間だけのように感じてしまうがここは違う。たくさんの命が間近に感じられる場所。一方的な恵みを体感できる場所。いのちが造られた喜びをいっせいに叫んでいるように聞こえるのは私だけでしょうか?
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by dynabooksx | 2007-04-23 10:16 | 信仰者の歩み

 実はこの何ヶ月間か毎日毎時間毎瞬間、右耳に「耳鳴り」がしていました。最初は何かわからず色々調べていたらこれが「耳鳴り」というものだとわかりました。もともと右耳は「左耳に比べたら聞こえがちょい悪いかも?」と感じていたのですが。。。耳鳴りには色々な原因があるようです。我が家のアイドルひめにょんを産んだ後半年ぐらいして、運転中にめまいがしたり、立ちくらみがして貧血のようになったり、調子が悪く、三人出産して初めて「産後の肥立ち」の悪さを感じていました。調子が悪かったのであまり出掛けられず(まわりの人や友達は「愛理ちゃんは、いつも明るく!元気でたくましい!」と思ってくれたようなのですが。。)人と会うのが面倒くさくなってそのうち不安になったり。。。しかし、私は絶対に神様に癒されると思っていました。私を創造された方が何かの意味があって、私をこのような状態にしているのだと信じていました。必ず癒していただけると信じて祈っていました。しかし、弱い人間ですから「本当に癒してもらえるのかな?」頭を振ってみたり、押さえても聞こえてくるので、気がおかしくなると言うことはこういう事かな?と実感しつつ悩み苦しみました。一つわかったことは、頭を深く前に下げると「耳鳴り」が軽くなるような気がして、これは神様が私に「謙遜になりなさい。」と言うことを教えて下さったのでしょうか。今まで以上に人に対しては謙虚に頭を下げられるようになれたでしょうか。。
 ハレルヤ!!なんと~っ!何日か前から「耳鳴り」がピタッとなくなりました!(なんか~健康食品の広告みたい♪)信じていた通り神様は、癒して下さったのです。私の祈りに答えて下さったというよりも、ただ神様の栄光が私を通して表されたのです。病院に行かなければどうしてもだめな場合もあるのかもしれませんが、私は絶対神様が癒して下さると信じていました。私の罪深いところに、弱さに神様の愛とめぐみが入って下さいました。私が神様を信頼することを強く求めておられました。この世界の全てを霊を支配されている方です。聖書にイエス様が様々な病気を治された事が書かれています。無から有を創造される方です。私は、もっともっと心注いで求めていきます♪
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by dynabooksx | 2007-04-22 09:19 | 愛理の子育て日記

天のおかあさん

 毎晩行っている家族礼拝後、子供たちを寝かせるときに「お母さん、天のお父さんって言うけど天のお母さんって言うのはいないの?死んじゃった?」と我が家の長男光希が聞いてきました。「え~っ光希ってすご~い。天才!お母さんは(私のこと)普通の頭しかないけど、光希は天才だよ!でも何でだろうね?」と含みを持たせてその後お話や、賛美歌、子供のワーシップソングなど子守歌にしながら子供たちは夢の国へ。夫真也に光希との会話のやりとりを伝え「正直答えられなかったんだけど。。。。」というと「創造された方は動物や人間のように雄雌、男女というかたちはないんだ。わかりやすく言うならどちらも含まれているお方だから、*天のお父さんお母さん*って言うのが良いかもしれないね。イエス様が親しみを込めてお父さんと言ったからそんな風に言うけど、ユダヤ教社会が父性中心社会だからじゃないかな?」「あ~すごいよくわかるわ!~どうしてお父さんなのかってずっと何か寂しい思いがしてたんだよね。私にとってお母さんもすごく温かい存在なのに神様はお父さんという言い方しかできないのは何でなんだろうって思ってたから~(おいおい、三世代目クリスチャンとは思えないぞ!って叱られそう~)天のお母さんって言えるならすごい安心!落ち着くわ~」と納得して、ワクワクしてきました。「カトリックは、天のお母さんと言う存在をマリア様と呼ぶのがこの考え方になってるんじゃないかな。でもマリア様って言っても人間生まれの人間育ちだもんね。イエス様は神様生まれの人間育ちだけどさあ~」といって私たちも寝てしまったのですが。。。皆さんもこんな事思ったことありませんでした?a0023043_5482655.jpg
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by dynabooksx | 2007-04-20 05:48 | 愛理の子育て日記

祝!101

 廣田家そして町の最高齢者、潤身おじいちゃんが101歳を迎えました。
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           ~廣田家四世代~
 去年の今頃、「100歳お祝い会」の準備だのNHK「100歳万歳!」の取材だのと、バタバタしていたことを思い出していました。頭もボケず、身体も動かし、文章も書く。自宅のお風呂に自分で入り、「裸を見られるのは恥ずかしい」と言い家族に世話をさせない純情さ、週一で床屋にいく、毎日のように出掛けては人とも会う。テレビの取材も自分でこなしていく。。。。このパワーはすごいとしか言いようがありません。真也ちゃんもきっとこんな風に私が天国に帰った後も生き続けるのでしょうね~廣田家に注がれている祝福はすごいです。私も100年以上生き続ける人と同じ屋根の下で暮らせる幸いを感じています。
とにもかくにも「潤身おじいちゃん♪101歳おめでとう!」a0023043_135014100.jpg
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by dynabooksx | 2007-04-19 13:52 | 愛理の子育て日記

 (愛理の記事です)
 聖書は人に知恵を与える。自分がどこからきてどこへ行くのか。何故この地上にいるのか?どのように生きていけばよいのか?私のこの身体がなくなっても残る「魂」に強く粘りのある力を与えてくれるもの。書店に売られている様々な書籍と形は同じであるがそこには私たちを創られた創造主の息吹が思いが働いて動いている。教会で養われなければ聖書の深い理解はできないのだろうか?すばらしい説教を聞いてそれが自分の人生に共鳴していくだろうか?教会から外に一歩出たとき力を発揮してくれるだろうか?聖書は人に知恵を与える。聖霊によって自分でみ言葉を消化していける力を与えてくれるのだ。もちろん、神様を知り始めは、柔らかい噛み砕いたわかりやすい説教は吸収しやすい。聖書のみ言葉のすばらしさを味わうのはそこからだ。しかし、そこに教会や組織を動かしていく為の思いが入り込んでしまったらどうなるのか?聖書のみ言葉は聖霊と共に生きて働いている、み言葉を自分のものとして、自分を創られた方の思いとして、自分と神様の思いをハモらせることができるのだ。生活の全ての瞬間場面に働いて下さるのだ。やはり私には聖書のみ言葉にフィルターをかけてしまうことはできない。玄米を白米のように精米してしまうように、お店で売られて簡単に手に入るファーストフードやお菓子がもとの素材を変えてもとは何だったのかわからなくしてしまうようなそんなことはできない。み言葉そのものに強力な力があることを知っているのに教会や組織というフィルターをかけることはできない。やはりこれが、私に与えられた生き方です。他の人々の生き方を教会や組織での働きを全く否定してませんので、もし非難をしているように思われる方がいましたら違いますので、くれぐれも誤解しないで下さい。お願いします。
 み言葉に生かされています。これからもこのスタイルで仲間と共にみ言葉に生きていきます。
聖霊が私に宿っているなら知恵もその為の働きも導いて下さいます。
田舎は「異教の地」「地獄」と言われるかもしれませんが、み言葉はどこででもいつでも神様の息吹として入って下さるのです。私はみ言葉に生かされていきます。
 ♪いずこにある 島々にも いずこに住む 人々にも よろこばしく のべつたえよ 聖霊きたれり
  聖霊きたれり 聖霊きたれり あまくだりし なぐさめぬし 
  地のはてまで のべつたえよ 聖霊きたれり
                            救世軍歌集より
  
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昔の信仰の友のいるところへ(一度離れたのに調子が良くてすいません♪)また私を大切にして下さった人々の中で居心地の良いところで、分かり合えるクリスチャンの中でぬくぬくする事も夢見たけど、やはり旗色を鮮明にしていきます。寂しなあ~そして悲しい!でもすっごーーーーく晴れ晴れです。ペンテコステ万歳♪
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by dynabooksx | 2007-04-18 09:36 | 愛理の子育て日記

今日の御言葉

 しかし、今わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。私を世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。ヨハネによる福音書17:13~

 私は、ひとつ大変なことを忘れていたことを思い出しました。私はこの地では、礼拝が出来ない、交わりはないのだといつの間にか勝手に思いこんでしまっていました。確かに、つくばにいた頃を考えれば、同じ年齢、近い考え方をもったクリスチャンはたくさんいましたので、相互の刺激が大変気持ちよく毎日飽きませんでした。
 しかし今、霊的な砂漠のように思えるこの地にあって、礼拝が出来ることを発見したのです。何を今更アホなことを言っているのだとお思いでしょう。あれがない、これがないとないものばかり考えていましたが、もうすでに私は多くの物を持っていました。私には妻がいて、子供がいる。共に礼拝をする仲間がいる。何でこんな事に気付かなかったのだろう。私達は、クリスチャンの夫婦だったのだ。


世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 イエス様の喜びとはどんな喜びでしょうか? 造り主の霊と一致することは造られた者にとって喜びですが、神の霊ご自身であるイエスの霊が、私達に働きかけ造り主を知る事。これはイエス様にとって大きな喜びであり、それを知る私達が他者に造り主を伝える事によって、そのイエス様の喜びをまた2重に味わうことになる。そんなふうに私は思うわけです。
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by dynabooksx | 2007-04-18 06:23 | 聖書の言葉

むずかしいね~

 教会に行っていないけれど、神様を信じて日々喜びに祝福に生きているクリスチャンがいる。この国では、教会に行っているクリスチャンの数をはるかに上回るそうである。教会の中枢で奉仕していた頃の私は「教会に適応していけないのは本人が信仰がないからだ。怠け者なのだ。」と思っていた。けれども冷静に一歩引いたところにいてわかるのは、「教会には行きたくない気持ちわかる!!よ!」ということ。色々思うことがあるし結局無責任な言い方しかできないのだが。私自身がそのことを感じているのに、神様を知らない人に伝道して教会につながっていけるように働くということは、できない。教会は苦しいところなのだろうか?両親が牧会してきた教会では常に人が溢れていた。教会に集う一人一人に心をかけていた姿を思う。どうしてできない教会があるのだろうか?聖書のみ言葉は、いつも答えを教えてくれる。私を創造してくださった方、神様は私の思いつかない方法で導いて下さると確信している。「教会には面倒くさい人間関係、その他色々あるみたいだ。」という思いが自分でわかるのに、この御用ができるだろうか?できない。神様のみ心がおこなわれますようにと祈っている。聖書に「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。」と書いてある。神様を知らない人に伝えたいという思いがあり、神様に用いていただきたいと思っている。しかしその後に、祝福された教会生活を送れる人もいるし、送れない人もいるかもよ。と変に気を遣ってしまう。これは神様の領域であるのかと思い、むずかしいなと思う今日なのである。

夫真也の注解
妻が言っている教会というのは、狭義の意味での一般に考えられる教会であり、また彼女が触れ霊的な解放ではなく圧迫を強く覚えることのあったものを指しているのだと思う。もちろん、人の集うところには当然罪があり、圧迫を受けるものだがそこでどれだけ十字架が語られるかどうかで、その教会の方向性が分かるのだと思います。

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by dynabooksx | 2007-04-17 14:18 | 愛理の子育て日記

今の状況です♪

(これは愛理の書いた記事です) 
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 「この世の人とも仲良く、クリスチャンとして生きていける。」という自信と「ずっと牧師の子供として育ったから他の世界もみてみたい。」という好奇心が私をここまで来させました。これまで人の差別や軽蔑の中でも、はじめて体験する祝福された教会生活の中での孤独感も、子供を3人出産し身体の疲れが出て体調が悪く弱さを感じるときも、周りの人々に賞賛され認められた時も常に変わらない神様の愛と祝福がありました。この世で体験できる全ての幸せを私は神様から受けました。毎年業績を上げる競争相手のいない守られている会社を経営し、何の不自由もない生活、買いたいものほしい物は何でも手に入る、自分の得意な音楽を好きな時に人に教える、子供達は自然の豊かな美しい田舎で伸び伸びと成長している、学校でも(学力は今のところ?)子供が提出した作品は全て良い賞を頂けた。
(親が子供に期待をかけすぎる事は、子供の心の重荷になるでしょう。)他の人から見ると「まだ、まだ。」と思われるかもしれません。 次のステップを私たち夫婦は踏み出す必要があるのかもしれません。
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 ライブドアの元社長堀江氏が「お金って100億あったら次は200億、300億ってほしくなるもんなんですよ。」と逮捕される前に語っていた。人はお金、名誉、賞賛、地位をどこまで求め続けるのだろう?きっと満足するまでだが、どこで満足できるのか?ということである。
 
    不安で何も見えないわからない
       しかし 
  「一歩、神様の前に出てゆだねる。」
 ♪まぼろしに見たる主が われをさしまねき 「重荷になやむわれをたすけよ」とのたもう
  「汝が十字架にない われにしたがえ」と  み声はさやかなればわれはしたごう 
                                           救世軍歌集より
 心ある方、どうぞ共に祈って下さいますか?お願いいたします♪
*この記事を読んでくださっている方々すいません。。結構はっきりと色々書いているのですぐに献身するような印象を与えてしまっているのですが、まだ御心を求めて日々家族で夫婦で祈っているところなので、祈りつつ見守ってくださると幸いです。
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by dynabooksx | 2007-04-11 15:03 | 愛理の子育て日記

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。