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丸鳥披露

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 日が沈むのが随分早くなってきた。普通なら4時半には終わるわが社だが、それでも随分暗くなっている。最近社員のK君に、秋のお楽しみ会しないんですか? と何度か聞かれていた。この手の企画は、私や妻が計画しないと実現することはない。
 この時期になると、風向きにもよるがいつも焦げ臭いにおいがする。稲作特有のにおいで、脱穀したもみ殻を山積みにして燃やしているのだ。黄色い殻が燃え始めると黒くなり、その後白い灰になる。下から燃え広がって行くので下が白っぽくなっており、富士山とは反対だ。外見には静かだが中は何百度にもなっており、ゴム長靴などで入れば10秒ほどで穴が開く。先日から妻は、焼き芋にはまっていたのだが、私も久々にダッチオーブンを出してきた。西部開拓時代に活躍した、焼く、煮る、蒸すが同時に出来る万能なべだ。つくばにいた時は裏庭にかまどをこしらえしょっちゅう使っていた。こっちに帰ってきてから使うのは初めてかもしれない。この鍋の利点は、材料を突っ込んでおくだけで素材の味を十分に引き出してくれる所だ。水分を逃さないため、焦がすこともあまりない。下準備さえしておけば、後は出来るのを待つだけ、、、。
a0023043_2034997.jpg 今回は、丸鳥のおなかに豚レバーを仕込んだ。味付けは塩、胡椒、にんにく、バジルを使った。他にジャガイモ、玉ねぎ、にんじんを突っ込んだ。10人分をまかなうのには少し足りなかったが、夕食前のおやつとしてはちょうど良かっただろう。燃えるもみ殻の中(私達夫婦はこの燃え盛る様子から地獄のゲヘナ料理と命名したのだが)で3時間ゆっくりと調理したため、肉は軟骨も簡単に噛み砕けるほどに柔らかくなっていた。アウトドア料理には最強の武器だ。これを始めると太りそうだ。
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by dynabooksx | 2004-10-29 20:03 | お仕事

トレーニング開始

 先日のマラソン大会で自分の体ながらこんなにも思うように動いてくれないものなのかと、愕然としたので、これを機会に体を作っている。朝は冷え込むときには5度近くまで下がるので、風により体感温度が下がる自転車はつらい。冬場の朝はやはりランニングであろう。持久運動はよく30分以上続けると効果があがるといわれている。これは、人間の体がエネルギーを作るのに2系統の方法があって、一つは糖質(炭水化物)を使うやり方、もう一つは脂質を燃焼させるやり方だ。マラソンや自転車ロードレースのような競技にあって、90数パーセントのエネルギーは脂肪を使うことによって得ている。よって持久力を高めるとは脂肪を効率的に燃焼させることと同義なのだ。しかし、化学反応式からも手軽に反応を起こせるのは糖質のほうで、脂肪が燃え始めるのには時間がかかる。これが本格的に始まるのは運動開始後20分ぐらいからと言われ、そこから10分を追加した結果30分はやりましょうということになるのだ。(これは一つの考え方で、ほんの短時間の運動でも持久力強化に効果が出るという発表もある) 脳内麻薬の関係もあるのだろうが、経験上運動を始めて大体15分~20分ぐらいが精神的にも肉体的にも一番苦しくなる。なんでこんなことやってるんだろうなぁという気持ちになるのだ。不思議なことにそのまましばらく続けているとそれがだんだん快感になってくる。こうなるとスタミナが切れるまでいつまでも続けていたくなるのだ。これはきっと先に述べた脂肪の燃焼状態に大きく影響を受けているのだと思う。

 つらい15分の壁を破るために、今回は秘密兵器がある。MoVo2 FM今流行の小型HDDプレイヤーだ。1インチ5GBハードディスクの中にCD100枚分ぐらいの音楽が入る。おまけに連続15時間ぐらい持つらしい。最近は、さまざまな教会で集会メッセージの音声をネットで提供しているのでそれを聞くことも出来る。でもそれは朝のジョギングには向かないことがその後試して見て分かった。どうもリズムに乗れないのだ。話に集中するといつの間にか足まで止まってしまうようだ。やはり、朝のランニングは元気なリズムのある曲だろう。台風を抜けばこの一週間は晴れ続きだったので、ほぼ毎日走った。日曜日は自転車で3時間近く走った。500メートル級の低山が続く阿武隈高地に出かけるのだが、温度変化の大きい山の上は随分色づいていた。音楽を聴いていると誰もいない山の奥でも、寂しくない。曲が変わると気持ちも変化する。孤独な持久スポーツにはいい道具だと思った。
 ストレスは過剰になると病的な効果をもたらすが、人生にとって必要なものだ。精神的にも肉体的にも、圧力、ストレスがあることによってメリハリが出て、成長する。半年ぐらいの間に私の体は随分なまってしまったらしい。今そこに適度なストレスを与えている。休息を繰り返す度に能力をさらに回復させてゆくのが嬉しい。あくまで、適度にやろう。
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by dynabooksx | 2004-10-25 15:43 | 真也の雑記帳

いつもそのうちと思っているとあっという間に一週間になってしまいますので早めに答えます。一番最初に私のページを見つけてくださったNoblogさんの5つの質問に応答いたします。はじめて教会に行こうとしたときの想定してのことのようです。

1、まずは教会探しです。自分のいける範囲にある教会、どうやって調べますか。
そうですね。インターネットは何を探すのにも強力でしょうね。もしくはクリスチャン情報ブックなんてのもありますが、はじめて教会を探すときにそんなもの持っている人なんているわけないですよね。

2、ちなみに、そのときに優先することってあります?たとえば、距離とか、宗派とか、子供向けプログラムとか...
かつては、それなりのこだわりを持っていましたが(妻は非常に強力に自分の育った所に愛着を持っていた)今はあまりこだわりを持っておらず、神が保持している教会の幅の広さを知りたいと思っています。強いて言えば、交わりを重視しているかどうかでしょうか。イエス様はあなた方の間(関係)に神の国があるとおっしゃいましたから、、、。

3、あなただったら、見つけた教会を訪ねる前に、もう少し事前に問い合わせをしますか。
たくさん選択肢があればそうのようなこともするでしょう。大学時代にはタウンページで調べいくつか電話したこともありました。でも行って見るのが一番ですね。

4、教会は教会でも、残念ながらこんな教会には行きたくない、という教会は?
これってはじめて教会に行くってのに矛盾しているような、、、。まぁいいや。一時的には、こりゃつらいなっていうのもあるかもしれませんが、それはそれで味があることは確かで、なかなか楽しませてくれます。もう行きたくないなんて事は私はないですね。好奇心旺盛ですから、、、。

5、同じ教会なら、こういう教会にぜひ行きたい、という教会は?
分かりにくいけど、恵みの循環がある教会かな。次々と神の恵みの奇跡を見せてくれるような教会。私の恩師は『教会は病院であるというよりホスピスである』と言います。罪びとである私たちは、救われても完全になるわけではない。教会も然りです。罪にゆがんだこの性質を死ぬまで教会は取り扱って行くのでしょう。
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by dynabooksx | 2004-10-23 21:04 | 真也の雑記帳

何が正しいか

 物事をいい事なのか悪いことなのかで何でも判断できると考える人がいる。私は、どんな物事も裏表があるので、そういう言葉を簡単には当てはめたくない。その人が良いこと、悪いことと考えることはそれはそれで真実だと思う。だが違う見方もあることも確かだ。人の価値観に違いがある以上、全ての人の要求を満たすことは出来ない。私の価値観を押し出せば、誰かの価値観が圧迫を受けることがあるかもしれない。逆もまたそうだ。共に生きる以上それは避けられないことだ。問題は、どのようにすり合わせるかだが、前提に違っていて当然という考え方がないと、自由にやり取りするのは難しい。まぁ、それも私の考えだが、、、、。
 本来は同じはずなのになぜ違うのだと思うと苦しくなる。そういう人は、相手が自分と違っている事を認めてしまうと反射的に自分が間違っているのではないかと思ってしまうのではないかと思う。よく言えばやさしい人なのかもしれない。でもちょっと考えてみてほしい。確かに、考えが同一であれば摩擦は生まれないだろう。でもそんな付き合い楽しいでしょうか。人と接するのが楽しいのは、そこに一人では味わえない相互作用があるからなのではないでしょうか。それは、お互いが違う人間だからなのであります。神が私たちを一人として同じように創られなかった理由もここいら辺にあるような気がしてなりません。単に服従させるだけならロボットのように自由意志を持たないものに創ればよかったはずです。しかし、神は自らに従わない自由もお与えになりました。
 少し内容がそれたかもしれませんが、何が正しいのかということは人の言うことに絶対などということはないということです。あえて言うとしたら、全てを創り、支配している方以外に正義はないでしょう。
 私は、自己主張が強いと子供のころから言われてきました。確かに、いつあなたの考えはと聞かれてもすぐにその時の自分なりの考えで答えるでしょう。周りの状況に左右されることはあまりありません。当然、随時さまざまな影響、刺激を受けているので変化しますが、その場しのぎで心にもないことを言ったりすることはありません。かつて、人の期待する自分を追い求めて一度完全に行き詰まったからです。自分の意見をはっきりと言うということは、自分の考えが絶対でないということを知っているからでもあります。相手に否定されるのが嫌なら、心に秘めているのが一番だからです。それは、物事に対する一つの見方だと言う事を言っているに過ぎず、違う角度からの見方、もっと言えば私の見方をひっくり返すような価値観に出会うことを期待しています。でもそんな私にとって当たり前の事でも、相互の変化を求めない人にとっては脅威かもしれません。
 私は、変化を求めます。自分が変わって行くことに対してあまり恐れがありません。ここまでも確かに私は私ですが、全くというほど価値観が変化しているのは事実です。もし、以前の私ならこんな悩みや問題を抱えることはないのだろうなと思ったりすることもあります。しかし、神は委ねるほどに私の想像をはるかに超えたことをなさり、新たなもの、変化を下さる方です。神が不変なものなら、私が不変である必要はありません。神が正義なら、私が正義である必要はありません。神が真実であるなら、私が真実である必要はありません。私は、何が正しいものであるのかを知りませんが、ただ私の罪のために死んだイエスを信じます。そこにしか私の拠り所はありません。それは、この方によらなければ神の前に正しいなどと言えるものは一つもないからです。
 人を思いやりなさいとことさらに聞くことがありますが、本当の思いやりはこの十字架の死以外にないのではと思います。私自身の事を思っていっているわけですが、どんなにその人を思って良い事をしたとしても、そこには多かれ少なかれ利己心が含まれます。私に好意をもってくれている人なら、多少は出来るかもしれませんが、裏切って捨てていく人たちの為に黙って死んでいくなどということは到底考えられません。思いやりという言葉も、自分の立場を有利なものにする道具に使われないとも限りません。そんな人間の限界、事実を知り、キリストが来られた事の意味を知っていくときに初めて、人を大切にすることを知るのでしょう。自分の限界を知るのを恐れる限り、十字架の必要を強く知ることもないでしょう。いや、十字架があるからこそ、自分の限界を認めることが出来ると言ったほうが良いかもしれません。
 いずれにしろ、福音は人を自由にするという言葉を信じます。
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by dynabooksx | 2004-10-22 22:29 | 真也の視点

不安になること

 空前の韓流(はんりゅう)ブーム。テレビのあちらこちらで韓国の様々な話題が取り上げられ、次々と有名人が来日しどこの局もどうしたら視聴者の好奇心を集める事ができるか激しく競い合っている。日韓共同開催したワールドカップの時より盛り上がり方は急激なのではないかと思う。私も韓国のドラマ映画大好き♪キャハ♪愛理的には俳優より美しい綺麗な女優さんたちを見る事が好き。日本人には感じない純粋さと力強さがある。私もみんなもこのブームをとても喜んでいる。韓国は近くて遠い国だと言われてきたのに何だか急に身近に感じられるようになってきたから。だけど。。。。。不安になるのは、こんなに情報に乗せられちゃって大丈夫かなということ。テレビでファンが何百何千人と有名人に群がって騒いでる様子をみる。「かっこいい。」「シビレル!」言いながら。でもみんな私達日本人が過去に韓国、朝鮮の人たちにどれだけ残酷なことをしてきたのかわかってるのかな。そしていまだにこの国をリードしている人たちが足並みそろわず心から本当の謝罪をしていないということ知っているのかな。テレビで美しい人たちを見る度に狂っていたあの時代は韓国人朝鮮人というだけで残酷な目にあってきたんだ、こんなに美しく取り上げられる事もなく殺されていった老若男女子供がどれだけいたのかな?と思うと悲しく胸が締め付けられる。本当に身近な国と国仲良くしたい。喜び合いたい。それには心から謝罪する必要があるよね。みんなが狂ってしまっていたからという言い訳もしたくなることもあるけど、、、どうしたらいいのかな?仲良くしてる韓国人の知り合いも友達もいるけど普段はそんな話題は出ない。このままでいいのかな。盛り上がっていく世の中を見ながら不安になってしまう今日この頃なのです。
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by dynabooksx | 2004-10-19 21:55 | 愛理の子育て日記

 私が中学三年生の時「ゴクミ」後藤久美子ちゃんから電話をもらった事がある。ゴクミちゃんの実家が私と同じ杉並区にあった。(私今でも結構ファンなんです。)同じくファンの友達と二人でゴクミちゃんの好きなガーベラの花とちょっとしたプレゼントを持って家の前でウロウロ。「今日は絶対ゴクミちゃんが帰ってくるまで待ってみよう!」思いっきり受験生なのに何時間か待った。ラッキーなことにお母さんとゴクミちゃんが帰ってきたのだ。家の前でウロウロしていたので不審がられたが女の子でファンだと言うことですぐにフレンドリーに話しかけてくれて、最後はそのうち電話するから♪ということだった。キャーと喜んでワクワクキャーキャー言いながらうちへ帰ってきた。2ヶ月程して「後藤ですけど。愛理さんいますか?」と電話が来た。受験生の私にゴクミちゃんが読んでよかった本、受験生の心得のようなものを聞いたと思う。ゴクミちゃんは私より一つ歳上だ。ほんの15分間ほどのことだったが嬉しくて嬉しくて。友達にも電話はきた。忙しいのにまめな人だなあと改めて好きになった。アレジと結婚して子供がいてタイヤのCM夫婦で出演してフランスのお城に住んでいるというゴクミちゃんを時々想う。a0023043_204306.jpg
これはうちの愛乃(ひめの) ひめひめです♪ 6ヶ月になりました。キャー♪
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by dynabooksx | 2004-10-18 19:46 | 愛理の子育て日記

テレビを見ていて

 日曜日の夜。ダッシュ村って実は浜通りのある町なのだ。隣町の山奥に一般の人は入れないように色々仕掛けがしてある。いつも山を越えて出掛ける時「こっちに行くとダッシュ村だー。」言いながら。結構知っている人が関わっているらしい。ある意味町おこしみたいに活性化してるようだ。TOKIOの面々はやっぱり常磐道できているのかしら?恐ろしくのろまな特急「スーパーひたち」使ってくるのかな?今度近くを通ったらのぞいてみよっと。
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by dynabooksx | 2004-10-17 20:36 | 愛理の子育て日記

町内マラソン大会

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 知らないうちに、町内駅伝大会は中学校のマラソン大会と合同になったようだ。大会を盛り上げるためだろうか。前回のときは、9チームほどだったものが今回は当日1チーム棄権し、6チームでの参加となった。ちょっと寂しい。
a0023043_17195972.jpg第一走者スタート、私もいる。まだ先は長い。

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同じチームでうちの隣の隣に住む吉田さんが栄光のゴール!!6チーム中5位でした。ああ、苦しかった。やっぱり走ってないと駄目だね。足に重りがついているみたいだった。
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最後は打ち上げで、、、、。釜飯食べました。光希と知希はつまみ食いまくり。よし、これからぼちぼち体作るかな。
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by dynabooksx | 2004-10-17 17:48 | 真也の雑記帳

今日の夕日

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ねぇねぇ真也君(光希は私をこう呼ぶ)外見て、きれいだから、、、。
そういわれて外を見てみると、そこは黄金の世界。
こんなに綺麗なの見たことないな。写真を撮ろう。
みっくんも行くから自転車取ってくるまで待ってて、
待たずに出かけるが、光希は走り出せば猛烈な速度で追ってくるのは分かっている。
ほら、すぐ追いついてきた。
これ、みっくん見つけたんだよ。
そうだな、記念にぱちっ。
帰りはまた競争になる、、、。
光希といえど、負けたくない。

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by dynabooksx | 2004-10-16 17:27 | 真也の雑記帳

 当たり前のことなのだが、現実には当たり前とは言えないのがつらい。しつこいようだが、書かせてくれ。中心に語りたいことは『罪』のメカニズムだ。通常の人間中心の思考にこの問題の解決はない。それどころか自らその泥沼の中にはまり込んで行く事になる。『教会』は確かにこの世にある存在だ。天の御国にはない。永遠の人生を思うクリスチャンにとって一時的なものでしかない。しかし、キリストがこの世に来てくださったように、私たちもまたキリストを頭とするその体を構成するものとして、この世で生きることの使命があると考える。
 教会は罪びとの集りであることは以前書いた。聖書の見方に立つならば、全ての人が皆罪びとなのだから、当然といえば当然だ。しかし、教会に集う人たちは『自らが罪びとであることを知っている人』であると信じたい。自分が罪をもっており、自らがそれを解決する能力を持たないことを知るからこそ救いを求めて神を礼拝し、教会に集ってくるのだ。もちろんそこで重要になるのは『罪からの救いをもたらすのは何か』ということである。なんだそんな事かと思われるかも知れない。だけどそんな事にしか救いはない。

 教会に通うようになってある程度すると、教会に人を誘う、または福音を伝えなさいと勧められるかもしれません。どうやって伝えるかがよく問題になりますが、本当に議論されるべきなのは何を伝えるのかです。あなたは何を伝えたいですか? 誰かが言っていたことではなくてあなたが伝えたいことですよ。これもいざ掘り下げてみるといろいろ出てくると思う。正直に話してくれればの話ではあるが、、、。ある人は、クリスチャンの生活がどんなに慈愛に満ちていて、周りの人を思いやっているかを伝えようとするだろう。またある人は、神を信じるとどんな社会的成功、尊敬を得られるかを語る人もいるだろう。実際そのようなことはあるだろう。私はそれを否定するつもりはない。しかし、あえて問いたい。それが最も伝えたいと思うことなのかと、、、、。
 もし、罪から救われて罪の性質がなくなった自分自身を伝えようとするのなら、信仰生活にすぐに息苦しさを感じるだろう。自分の本当の姿から目をそむけなければならないからだ。もし、それを強行するなら、どんどん自分を切り刻み捨てていくことになり最後は崩壊するだろう。私はそんなことを神が望んでいるとは到底思えない。伝えるのなら断然、罪ある私、そのための十字架の贖いだ。教会が、この原点から離れ、人の目、耳に心地よい人間賛美に誘われる時、宣教の使命は消え内側に閉じたものへと変化する。自分たちの価値観を守るためには外に向かうより、むしろ外からの刺激をシャットアウトしたほうが都合がよい。それを知るのには、批判に対する反応の強さで測ることが出来るだろう。罪人であることを心の底から認めている人々は批判を恐れない。むしろ、そのことによって罪の解決としての十字架が浮かび上がるため逆に喜ぶのではないだろうか。私などは、批判されると喜んでしまう。(かなりマゾだな) というのは、突っ込んで来てくれるのは、興味のある人だけだからだ。関心がなければ受け流され、無反応なだけだ。私たちの不完全さ、無能さが明らかになればなるほど、恵みは輝く。土の器に盛られる恵みだからだ。器が素敵だから盛られるものも素晴らしくて当然だというのでは恵みではない。受ける価値がないのに受けるから恵みなのだ。
 教会が世的な素晴らしさを求めるとき、恵みは消える。礼拝の対象が、神ではなく教会になり、牧師であり、信徒になる。もともとそんな欠点だらけのものが期待に答えることは出来ないため、皆真実の姿を隠すようになり、付き合いは表面的なものになっていく。自分が周りからどう見られるのかが気になるため、いつも周りを見回し戦々恐々としている。そんな状態を平和と認識しているため、真実を知ろうと輪を乱すものがいるならこぞって結託する。江戸時代の5人組制度のようだ。これは日本人の精神風土に大きな影響を与えている。農村部に行くほどいまだに色濃く残っている。確かに外見には平和だが、心中は平和ではない。私はこれが日本人に福音が届きにくい、恵みを受けられない原因ではないかと考えている。まず、神が聖書がなんと言っているのかより、周りの人がなんと言っているのかを優先するからだ。これをうまく使えば、この世の権威としてのキリスト教を伝えられるかもしれない。しかし、そこから外部からの批判、迫害にあっても喜んでキリストについて行く弟子がおこされていくとは考えにくい。神のなさることは私の想像を遥かに超えているが、、、。

 教会が衰退、これは教会に集う人数のことを言っているのではない。霊的熱情、宣教という使命を失っていく事をイメージして書いた。当然そうなれば先は見えるのだが、、、。私たちが神から愛されるのは、罪がなくなったからではない。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。第一テモテ1:15

ハレルヤ、罪びとを救うためにこの世に来られ死んでくださった方によって、罪人であること公に告白できる喜びをなんと表現したらよいのだろうか。


追伸  キリストがこの世に来られたことを知り、それを享受して生きるのは、地上にいるうちにしなければ意味がない。地上から去った後に、それを知っても実際に活動できるわけではないし、私みたいに自己本位な人間はもう自分には関係ないと関心を持たないだろう。聖書には、キリストは黄泉に下って、宣教されたと書いてあるが、、、。ともかくキリストが来られたことを伝えるのなら今のうちだ。サタンの縛りがあるこの世だからこそ、この福音が輝きをもつ。
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by dynabooksx | 2004-10-16 17:00 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。