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毎週金曜恒例、Noblogさんの5つの質問に参加します。出版記念という事で、今回から5回にわたってプレゼントがあるようです。私もほしいです。

   以下引用
今回から5回、特別プレゼント企画を実施します。「まったく当り前の教会生活」という本を欲しいと思われる方は、この5つの質問への回答に「本をくれ」とか、「どうしても本がほしい」とか書いてください。希望者の中から独断と偏見で私が選んで、毎回一人に本をプレゼントします。はりきってどうぞ。


1. 美容院ではたらくAさんがイエス・キリストを救い主として信じました。ですが、職業上、日曜日の礼拝に出席できません。どんなふうに声をかけたらよいでしょうか。
牧師さんにうちの美容院に来て、椅子に座りつつメッセージしてくれと頼む。
 私の父はこれの逆パターン(普通そうか、、、)で福音に出会いました。牧師さんではなかったのですが、床屋さんで髪の毛を切ってもらいながら一方的に(半ば仕方なく)話を聞いていたそうです。そんな中になにか真実性を感じて、帰りに古本屋で聖書を買ったそうです。
 平日夜の祈祷会とかは出れないのでしょうか? お願いすればその人だけに礼拝をして下さるかもしれません。

2. 看護学校に通うクリスチャンの学生さんがいます。病院に勤務することになれば、日曜日の礼拝に出席できないことが予想されます。さて、職業選択にあたって、どんなアドバイスをしますか?
私は、クリスチャンホームで育ちましたが、教会に行くのを強要された記憶はありません。また、そこは自分の家族+αの10人程の本当に小さい教会でしたので、コミュニティーとしての特別な意味も感じていませんでした。私の場合、ある日突然聖書が読みたくなり、御言葉の内にある神と一対一の出会いから始りましたので、いつの間にかそこに立ち戻ります。自分の全てを導いて欲しいと願う時、日曜日だけが礼拝ではなく生活全体がそうなっていくでしょう。どんな仕事も神からの恵みとして受け取っていけば祝福になっていくと思います。反対に『これこそがクリスチャンの職業だ』 どんなのだ? というのでも、御心を求めつつ進んで行かなければ、神は遠い所に感じるようになるでしょう。

3. あなたはなんのために教会に行っていますか?
以前に教会でつまづいて、これは大きな問題でした。ここに書くと長くなるので私にとって教会とはをご覧ください。

4. あなたは教会に行く前といった後では、自分がどのように違っていると思いますか。
人の評価にあまり左右されなくなった。自分の確かな価値に気づいた。生きているのが、出会いが楽しみになった。

5. 教会って、やっぱり行かなくっちゃダメなんでしょうか。
日本のクリスチャンは1%、その中で教会に通っているのはその5分の1だと聞きます。ブログ書き始めて知り合う人も、現在決まった教会に行ってはいないという方が多数あります。聖書的には、キリスト者一人とその周りに関わる人(普通いないことはない)がいれば、そこがchurchになります。いわゆる教会の外にも神は豊かに働いておられます。日曜日の礼拝はクリスチャンとしての生活の一部です。私は、福音に触れられるところならどこでも行きます。清野スピリット参照 何でもそうですが、教会に行く事を義務化されるとしんどいですね。
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by dynabooksx | 2004-07-31 10:47 | 真也の雑記帳

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♪どこへ行くのか知らないままに
ただ信じて旅に出かける
なにもいらない主がくださった
たった一つの約束だけ

(コーラス)
時には幾月も歩きつづけ
時には幾年も待ち続ける
空を見上げ星をかぞえながら
変わらない確かな
約束の地へ


私はあなたを祝福すると
全てがあなたからはじまると
見えない足元を照らす光は
たった一つの約束だけ
(コーラスへ)


土浦めぐみ教会オリジナルソングです。
信仰者の気持ちを切々と歌い上げています。
 キリスト者は自分の人生を救い主に委ねます。
ですから、どこへ行くのかは分からない。(誰でも明日は分からないですが) 
しかし、変わらない確かな約束がある。
確かに行き着く場所が用意されている。
だから一歩踏み出す事ができる。
 
時にひたすら進み続け、時には行き詰まり、何年もただ神の時を待ち続ける。
そんな時、ふと夜空を見上げる。そこはいつもと変わらないどこまでも広がる星空。
創り主を想う。

 今、キャンプ用の椅子を外に持ち出して書いています。
周りでは子供達が花火を、上には星が瞬いています。
心静かにし、確かなものへ身を委ねます。
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by dynabooksx | 2004-07-30 19:40 | 聖書の言葉

 普通、キリスト教会では当たり前に聴く言葉でしょう。
けれども、私には
『教会生活』
という言葉が初めて聞いたときから非常に新鮮に響きました。

救世軍では、単純に『教会』を『小隊』と呼ぶためもあるでしょうが、
そういう言葉、使われ方をしたのをあまり聞いた事がなかったのです。

この言葉は、信徒が教会でまたは生活の場で、
どのように神と、人と関係を保っているか
を表現したものでした。

話している方には当たり前で特別意識はしていなかったでしょうけれども、
私にとってはこの言葉が信者一人ひとりを大切にしている事を象徴しているような気がして、嬉しくなりました。

おそらく救世軍は、発祥当時から
教会(羊の群れ)としてではなくムーブメント(伝道隊)を主体として活動してきたため、
牧会という事はあまり優先されなかったのだろうと思われます。

初期は救われた人を、当時の教会に送っていったが、
教会が路上に生活していたような人を受け入れなかったため後に、
受け皿を用意していったという過程があります。

現在、そのあたりの考え方がどうなっているのかそれぞれだと思いますが、
そこにある魂をどうやってその人らしく輝かせるかという事は、
何かの活動に参加させる事より重要な事だと考えてます。

 もう一つ、好きな言葉を
『取り扱い』です。

これは隣町の教会でよく聞きます。
例えば『神は祈りの中でその人を取り扱う』などです。
この言葉を聴いてから祈りが楽しみになりました。
祈りが私達から神に一方的になされるものではなく、まっすぐ求めていく中で祈りが変えられてゆく経験をするのです。

あたかも自分自身の中に直接働くように。

これを知ると祈りはやめられなくなります。

近くにいる人は私のことを異常と思われるかもしれませんが、
独り言のようにもごもごしゃべっているのを見たことが時々あります。

私の中で、祈りはいわゆる手を組んで、目をつぶってするだけのものではありません。

仕事をしながら、運転をしながら(ここで目をつぶったらあぶない)しています。
普通に話しています。
大声で歌っているときもあります。

誰もいないところで話しているのを見たら、そういう時なので危険ではないですので、
友達のいないかわいそうな人なんだと気にしないでほっといてください。
 
 あっ調子良くなってきたからもう一つ、
『御言葉の楔(くさび)を打つ』です。
これもいいですねぇ。

聖書の御言葉によって、右へ左へ不安定な自分を神の下へ打ち付けていく。
これも佐藤彰師が使う言葉です。

打ち付けられるのは自由が利かなくなって苦しくなると思うでしょ?
 これがいえいえ、霊的に打ち付けられるという事は、肉的に自由になるんですよ。
それに打ち付けるという言葉は異常のように思われるかもしれませんが、
もともと創り主は人がそのように生きるようにデザインしています。
その祝福から離れる事は実は、苦しい事ですが、なぜか人はその自由を求めます。
死に至る事も知らずに、、、。
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by dynabooksx | 2004-07-29 15:03 | 真也の視点

a0023043_851723.jpg 私は、救世軍というキリスト教プロテスタント、更に言うならばメソジストから分かれた団体に両親が属しておりました。当然、私もそこに行くようになり、後に創り主に出会うようになるのですが、この団体は一般のプロテスタント教会から見た目からして違っています。統一された制服があり、教会を小隊と呼び、士官(牧師にあたる立場)には大将~中尉まで階級があります。前に書いたようにそれ以外にも独特の呼び名がたくさんあります。その中でも特に違うのが、『洗礼、聖餐』の儀式がないことです。洗礼においては兵士入隊がそれにあたり、聖霊のバプテスマを強調いたします。聖餐に関しては、もともと使っていたぶどう酒が救世軍が掲げる禁酒、禁煙に反するためか制度そのものがありません。(もっと詳しく分かっている方いたら教えてください。) ともかく、150年前の発祥当時、当時の教会の形にとらわれないで福音の為なら何でもするというのが、この団体のモットーでした。
 そのような所で育ったので、他の教会の礼拝に出た時、聖餐式に出くわすとビックリしました。(一度見るとそんなでもないけど、、、。きっと一般の人が見ても不思議に異色に思うでしょう。でも救世軍の仕組みはもっと驚くでしょう) 前に愛理が、本当の自由知っちゃったよという文の中で自分は救世軍というフィルターを通して~ と書いていましたが、私もそういう形、儀式にとらわれない救世軍のやり方は何か他より優れているような印象を持っていました。しかしどうしてそんな思いは土浦めぐみ教会でのある日曜日に打ち破られました。
 その日は聖餐の日曜日でした。いつもどおり小さく切ったパンとグラスに入ったぶどうジュースを手に取るのですが、その時清野牧師が言った言葉が忘れられません。
 『 聖餐は信仰の弱いもののための神からのめぐみです。 』
思わず隣にいた妻と顔を見合わせました。同じ事を思ったからです。キリストを味わうという事を実際に模して行動する事によって弱い信仰を助けるのだという。これにはやられました。私の優越感など、この言葉の前に脆くも崩れ去りました。
 信仰の弱いもののためのめぐみ、この信仰に立つ限りあらゆる儀式、形は祝福されるでしょう。

追伸 清野先生、写真勝手に載せてごめんね。これは、田舎に帰ってくる直前、3年前に撮ったものです。めぐみ教会では民族衣装月間というのがあって、この期間はネクタイをしてくると怒られます。(笑) 着ているのはインドネシアのものだそうです。
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by dynabooksx | 2004-07-28 15:00 | 驚き、発見

蛙と百合

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 3年ほど前に私が撮った写真です。ああ、またこの季節が来たのだと思い出しました。夏の終わりを予感します。
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by dynabooksx | 2004-07-27 19:54 | 真也の雑記帳

『天国と地獄』

 前に社員から『天国と地獄って本当にあるんですか』と聞かれたことを書きました。その続きを書きます。
 
 実際にはそれほどじっくり話す時間はなかったのですが、ただ 

『 創り主を見出さないで生きることは地獄だと思うよ 』 

と答えたのだった。
残念だが、私は天国も地獄も実際に行って見てきたことはない。

半年ほど前にビタミン注射をした時に、ショック症状が出て意識が突然なくなったことがあったが、
それも入り口ぐらいまでで死んだわけではない。
*(その病院でも初めてのことだったらしく行く度に非常に心配してくれている)

 この世は天国だと語る人がいるかもしれない。(家の97歳の爺さんはよく言っている)
 本当だろうか?
私には生きてゆくことが、本当に大変な事に思える。
まず、不精の私には、日々働かなくてはならないことがなかなか受け入れられない。
それも、周りと比較され頑張っているとかそうではないとか評価を受ける。
自分を評価してもらうために努力するのだが、それでも上には上がいる。
努力すれば努力するほど下に対する優越感と、上に対する劣等感が増してゆく、
そんな事をしているうちに人とのふれあいが楽しくなくなっている自分がいた。

いったい何のために生きているのだろう。

そんな疑問が湧き起こった。
誰も私をわかってくれない。
誰も本当の私を知らない、恐ろしくてそれを知らせる事は出来ない。
いつも孤独の中にいた。
そんな時代を思うと地獄のようだったと思う。

それでもここまで生きて来れたのだから、その時はその時で満足し、喜ぶ事があったはず。

テストで良い点を取った。大学に合格した。欲しかった物をお金をためて買った。
それらはその時々に私を満足させてくれた。

でもそれらは深いところにある欲求を満たしてくれないため、
求めれば求めるほど私を苦しめた。

 私は、自分の存在を知ってほしくて必死に努力したのだが、
もしその頑張りをほめてもらっても心から喜ぶ事が出来なかった。
それが知ってもらいたい本当の自分ではなかったからだ。
私が知ってもらいたかったのは、背伸びする必要のない本当の自分。
弱さも醜いところもたくさんある、人に気に入られないであろう自分。
そんな自分を表現できるはずもなく苦しんだ。
高度に自分をコントロールし、違う自分を作ろうと努力したが、すればするほど嘘が苦しめた。
そんな時に十字架に出会った。

 十字架が私の罪のために立てられた事、
まさに自分中心の生き方から抜けられない私のためにキリストは死なれたことを知ってゆく時に、
私の内に隠れていたもっとも知ってもらいたかった自分がより明らかにされ
赦されていることを実感し、
自由になっていった。

自分ばかりを見つめ一喜一憂していた私が、
人の評価を気にしなくなり、確かな約束の内に生きたいと願うようになったのだ。
私の存在の意味を確かに肯定してくれる存在、
それを知らなかったら私は以前として苦しみの中にいたことであろう。

 聖書では、確かに罪の裁きがあることが書いてある。

小学校の時、朝校門で小冊子と聖書を配っていた人がいたのを覚えている。
死後の裁きについてカラーの絵で書いてあった。罪びとは死んだ後、火の池地獄のような所で永遠に苦しむと、、、。あれは何の団体だったのでしょうか。
下校時刻にはゴミ箱は聖書の山でしたので心苦しくなり何冊かもって帰ってきた覚えがあります。
(廃棄物処理業の訓練だった?)

 でも、聖書を探してみても、即裁きがあるとは書いてないのだ。それどころか

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:18

を見ると、もう裁きがなされているというのだ。
落ち着いて読んでみるとぞっとする言葉。

御子を信じないこと、それ自体が裁きだというのだ。
厳しい世界。

この世の中で人々は何不自由なく暮らしているように見える。
だが、その中に厳然として裁きがなされていると聖書は言う。

イエスを救い主として受け入れるのは、残念ながら従来から訓練されている私たちの努力では出来ない。

イエスの道は、この世から見て華やかで栄光に溢れているようには見えない。
だから見出すものが少ない『狭き門』なのだ。

神は等しく誰をも愛すると聞かされている私たちは、この現実に愕然とする。

しかし神は助け手(聖霊)を送ってくださる。
その霊は創造主のことを直接証しして下さる。だから心配はない。この事を知っていれば、、、。

追伸 反対に創り主を見出してゆく人生は、この世にあって天国を味わっているようだ。
日々自分を神に投げ出していく事によってより神のものとされている事を実感する。
そこには自分で人生を設計していた時には予想も出来なかったような出来事、出会いが起こっていく。
なんとエキサイティングな生き方だろう。

私たちは、本来そのように生きるようにデザインされていると聖書は語ります。
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by dynabooksx | 2004-07-26 17:25 | 真也の視点

リゾートプール完成!!

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a0023043_1910767.jpg しばらく前に、片面3M程もある大ビニールプールの写真を載せましたが、事務所の玄関の反対側に、屋根のある半端な場所がちょうどあったのでそこにプールをはめ込んでみました。結果、ちょうどぴったりで、屋根つきで強い日差しはさえぎられ、前は田んぼと里山、窓を開ければ事務所の中と直接話せる、そんなリゾートプールが出来上がりました。

a0023043_19104618.jpg 浄化槽の散気管を100wのブロワ(これはプールを膨らますのにも使いました。手でやったら何時間もかかったでしょう)とつなぎ、ジャグジーのようにしてみました。さらに、浄化槽用消毒剤(これは認可を受けていないだけでプール用のと成分は同じ)を薬筒にいれ塩ビ管にくくり付けました。塩素消毒すると水がまったく腐らず、3日目ですがまったくヌルヌルしません。こんなに違うと思いませんでした。
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by dynabooksx | 2004-07-25 19:23 | 愛理の子育て日記

相馬野馬追

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 この時期はイベントが続きます。野馬追いの他にも、夜は小高町の花火(といっても4000発ぐらいだが)などもあります。
光希が「お馬さん見たい!」というもので、本場の原ノ町までは行きませんでしたが、
出陣して帰ってきた騎馬たちたちが演じる、わが双葉町の小野馬追いを見に行きました。
a0023043_7221739.jpg 一日中走り回ってきて疲れていることと、10機程の数ではなんだか迫力に欠けました。
それでも光希は満足していたようでした。

忠義を重んじ、馬を使って戦争をしていた時代から日本も随分変わりました。

人々はエゴイストになり、他に対する関心は薄れ、自殺者が増えています。
 
若者が命を賭けたいと思うほどに使命を感じ胸を躍らせる。

この国は大戦の痛みがあり、ストイックなものへのアレルギーがありますが、人々は本物の生きがいを求めています。

固定していた価値観が崩壊し、この混沌とした時代に変わらないものがあるのでしょうか。

真に人を活かすものが、、、。 
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by dynabooksx | 2004-07-25 07:38 | 真也の雑記帳

a0023043_2084967.jpg 光希が2000年、知希が2001年、愛乃は2004年ベビーです。

光希の時は、私たちにとって激動の時代であり初めての事でもあったので不安で、また新鮮でした。

知希の時は、光希のキャラクターが強力すぎた事もあってか、記憶があまりありません。

ただ、生まれる前日、土浦めぐみ教会のコイノニアという韓国との交流プログラムで、
韓国のご婦人方が2,30名ほどいらっしゃった時に、バーベキューをして夫婦でおなかいっぱいになったその朝、おなかが張ったままいつの間にか生まれていたという記憶はあります。

一週間も前駆陣痛で苦しんだ初産に比べ、嘘のような安産でした。

つくばに居た時は、毎日が夢中であっという間でした。

愛乃は3人目という事もあり、こちらに来て落ち着いてから生まれた子なので、
最後は共に分娩台に上り、出産を味わいました。
お前が生んだんじゃないだろって言われそうだな、、、。 
 
長男と次男はいつも共に行動し、同姓の仲間がいて本当に良かったなと思います。
一人だったら家庭では親との関わり合いしかないですから、、、。
そこにもう一人生まれるとまた事情は変わります。
関係が一気に複雑化します。

下の子をめぐって上の二人が取り合いをしたりするのです。

私が抱いていても時々光希は、
『真也君だけのひめちゃんじゃないでしょ』とかいってきます。
なにはともあれ家族が増えるのは良い事です。

ですが、もし私があの時神に出会っていなかったら、、、と思うとぞっとします。
だって私自身でさえ御する事ができないのに。
この天真爛漫な小悪魔どもをどうしてコントロールできるのでしょう。
今頃、思いどうりにならなくてノイローゼになるか、反対に子供をそうしていたでしょう。

『創り主の中にこの子達の本当の価値がある』
と思うときに、身を引き締められると共に肩の荷がどっと降りる気がします。

私達未熟な親の背後に、完全なる親、導き手がいることを知るからです。
さらに、私たち自身の生活も子育てに終わるだけではなく、
これからワクワクするような出来事、出会いを用意してくださっている事も重ねて感じます。

この世で生きてゆくのが、こんなにつらいものなのかとほぼ絶望しきっていたもう一歩先に、
こんな世界が広がっていたなんて想像もしませんでした。

神様は、私達が、本来用意されている創造の世界に従って生きる時、日々新たなものを下さります。
ここに気づくためにはどうしても痛みが必要なのかも知れません。
 
   聖霊よ、どうか私たちの上に、神の創造の秩序をもたらしてください。
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by dynabooksx | 2004-07-24 20:07 | 愛理の子育て日記

 先週に続いてNoblogさんの5つの質問に参加いたします。

1. 唐突ですが、あなたの教会は色でたとえると何色ですか。
白かなぁ。でも雨のすじがついてところどころ灰色かも。

2. もし、その色を変えるとしたら、何色にしたいですか。
そうですね。普通なさそうな色。ピンクとか? いかがわしいか、、、。 

3. ところで、教会の建物、外側は何色が中心ですか。
大野の教会は屋根がでかくて確か緑でした。浪江の教会は作り上見えません。

4. そんでもって、内側は何色が中心でしょうか。
中は木目調なので茶色です。

5. あなたの友人が「教会ってどんなところ?」と聞いてきたら、なんと答えますか。
罪びとの集まり。ひとくせもふたくせもある人がいる所。でもなかなか味わい深くユニークなキャラクターが多い。
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by dynabooksx | 2004-07-24 08:48 | 真也の雑記帳

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。