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ビジネスと信仰

 仕事のことについて書きたいと思いますが、いろいろあるのでいまいち的が絞れないかもしれませんがご容赦ください。
 私は現在、従業員10人程の会社を経営しています。その中で、人間関係をよく学ばせてもらっております。経営をしておりますと、どの業界でも競争といいますか、市場原理がとても強く働いているのを感じます。私自身も田舎に来てから、何かほしいときにはたいていネットで底値を調べ購入します。このことによって、無駄な投資と時間を節約出来るわけです。本当に便利な世の中だと思います。どこにいても情報にも物流にも差を感じられないのです。私の仕事はもともと公共でしていたこともあり、競争の波にはあまりさらされていませんが、よりよいサービスを追求するために競い合うことは必要なことのように思えます。より厳しい競争がある業界は活発に変化成長していくため、見ていて面白く興味を惹かれます。携帯電話の開発競争なんて凄いでしょう?
 社員が自分の仕事に誇りを持ち、喜んで仕事をするためには、その価値観を提供できなければなりません。私自身人生を大いに楽しみたいし、社員にも会社を利用して人生を豊かにするように言います。かかわりの中で、人を動かすもっとも強いものは『目的意識』であることを知りました。これを与えることなしにどんなに事細かに仕事を指示したとしても、良い仕事は出来ません。サービス業は人が相手ですので、たとえ技術的なことを問題なくしたとしても、顧客に喜んでもらいたい、自分ももっと工夫をして良い仕事をしたいという意識がなくては、その心は伝わりません。それでは私の考えるサービスではないのです。『目的意識』は他から一方的に受け入れるものではなくその人の中で悩み、試行錯誤しながら造られていくものだと思うので、私は核になる考えを一つの参考として与えます。明確な答えは与えません。そうしてしまうと考える力を失ってしまうからです。それにもし私の価値観を押し付けたとしても、それをその人の中で検討し、『本当にそうだ』とならない限り、それは人が言ったことであり自発的な行動は得られないでしょう。
 私が何を言いたいか分かりますか? あいだあいだで説明はしませんでしたが、信仰で得た理解、洞察が活きているのです。まづ、私たちの人生には『目的意識』は必要不可欠です。なぜ、何のために生きるのか、これがなくてはどんなに忙しくしていても虚しさが残るばかりでしょう。次にそれに続く『自発性』です。聖書の神は『起きて床をとって歩け』といわれる方です。十字架によって新しい価値観を与えられた後、生い立ちや周りの状況のせいにするのではなく、自分の足で歩くことを要求されます。人によって神との出会い、またその後の導きは違っているでしょう。私の場合、私をかたちづくり、また全てを知る神に出会ったのが高校3年の時、十字架の意味(論理的に)を初めて知ったのが大学2年の時ですが、はじめの感動があってから、時間を掛けて内的なものが整理されていきます。神様は簡単に答えをくれないのです。限られた存在である私たちにとって、完全なる神の視点で見ることは不可能でしょう。ですから、右にぶつかり左にぶつかり、時には前後に進むことも出来ず、上を見上げる事しか出来ない状況の中で、聖書の神が本当に信頼に足るものである事を知りました。神様は私たちをロボットのように扱う方ではありません。能力に圧倒的差があるのにもかかわらず、対等な契約を結ばれる方です。それを守る自由も守らない自由も与えられています。私たちが自発的に礼拝するのを待っているのです。非常~に忍耐深く。(このあたりが私とはスケールが違います)
 なんかかっこいい事ばかり書いてしまいましたが、現実には厳しい問題があります。自分の会社内部の事だけだったら私の一存で動かすことも出来るでしょうが、会社対会社などで契約を結ぶ場合などは考えさせられます。契約は、当然互いの条件を出し合って決めていくものですから、こちらの主張をはっきりと言います。相手のやり方に不備があった時など、今後そのような事が起こらないためにも問題点をきちんと追求します。しかし、言われるほうがそれを受け止めようとする姿勢がない場合、たいてい閉口する事になり私の中にも苦々しい思いが残ります。なぜなら聖書は『人を許せ』と言うからです。頭では分かるのですが、利害が絡み、それが自分個人だけのものではないとなるとそう簡単にはいきません。許せといっても相手が、許しを求めない限り許すことは出来ません。この辺も十字架によって先に罰を許してしまう神様とは違っています。
先に話した水谷師が『人を愛する事は出来ないが、切っていく事は得意だった』と語っていましたが、私もそうです。相手が何もいえないように論理的に追い詰めていくのは得意分野です。でもそれでは人を萎縮する事は出来ても、解放する事は出来ないんですね。会社の中ならばかわいい社員たちなので、多少何かあっても受け入れていこうという気持ちにはなりますが、敵とさえ思える思える相手の場合、強い葛藤があります。
 今日も、進めている契約の中で『今回は何も言わず、許して行こうと』決心して交渉の場に臨みましたが、事実を曲げた相手の一方的な主張を聞いていると、こちらが不利になるため徹底的に反論してしまいます。正義感の強い私はこういうとき黙っていられないんですよね。特に論理に完全な矛盾があるのに当たり前のように主張してくると、、、。会社間でもこんなだから、これが国家とか民族間だったらすさまじい事になるのでしょう。今日は興奮して寝れないかと思いましたが、ブログで発散したので落ち着きました。こんな私です。
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by dynabooksx | 2004-06-29 21:02 | お仕事

神の御声を聞く

 この文章を書く前、今までの長文の2倍ぐらいの文を書きましたが、ネットワークエラーでなぜか飛びました。雷鳴っているからかな。ちょっとがっかりしましたが、文章を書くときにいったん破棄してもう一度書くとまとまったものが書けるということを聞いたことがあるので、気を取り直して書きます。
 今回、土日と魂のふるさとである土浦めぐみ教会に行っていました。そこで水谷惠信師という素晴らしい働きをしている人の話を聞きました。一つの集会の最後で心に残ることを言いました。『人を本気で愛するとき、世の常識や教会の決まりでさえ飛び越えることがある』とテーマは『捨て身の愛』でしたがぐっと来ました。私の生き方が『捨て身』であるからです。愛なのかどうかわかりませんが、これまで私の歩みは他人と距離を保てず、傷つけたり傷つけられたりしていました。体当たりするか、引きこもるかのどちらかしかなかったのです。今ではそれが俺だと開き直っていますが、その時々は本当に悩みました。周りからは、要領が悪いだとか、人を思いやらないだとか言われたこともありました。事実そうでした。でも今、それが私の賜物であると考えています。私を捨て身で、自分の命を投げ出そうとするほどの決意で受け止めて下さった方がいたからです。私の命はその方に買い取られたものです。どうかこんな私を皆様お許しください。それにしてもめぐみ教会に帰るといつも新たな思いにさせられます。今回も5つほど書いてみたいことが浮かびましたが、今日どうしても書いておきたいことがありますのでそれを先に書きます。
 『神のみ声を聞く』このことは、アブラハムもモーセも経験したと書いてありますし、教会の中でも聞いたことがあります。水谷師は『もうすぐこの世を滅ぼさなければならない、そのための準備をしなさい』との声を聞いて教師をやめ、恵泉塾を作ったそうです。でもそれは、概念的なものであり一種の思い込みのようなものだと解釈しておりました。自分がそれを体験するとは思いもしませんでした。クリスチャンなのにこんな事いっちゃだめかな清野先生!(第2礼拝で清野先生の言ったことに掛けています。わかんない人ごめん) 真也君春だからおかしくなったんじゃないの? って思う人もいるでしょう。そうなのかもしれません。でも確かに声を聞きました。この確信は私の中でたぶん変わることはないでしょう。その声は言います。『私の言葉を語りなさい。あなたは私の言葉を直接聞いているのに語らないのか』と。実はこの言葉がしばらく前から頭にこびりついて離れませんでした。ふとしたことからこのブログを書き始めましたが、心に流れてくるものを出さないと苦しいのです。便秘のときのように。(表現悪いかな) そして一つ二つ書いているうちにネタが尽きると思いきや次々と浮かんで来るのです。私の小さいころを知っている人、あんなに書いたりしゃべったりするの苦手な私が次々文章を書くの不思議でしょう? 自分でも不思議なんです。
 今日の朝、目覚めてはっきりとその声が『創り主』からのものであることを確信しました。論理的にそれを説明できないのが悔しいのですが、私の理解を超えてその言葉が迫ってくるのです。聖書を読むのがちょっと怖くなりました。次に何を言われるのか分からないからです。前にも『お前が語らなくて誰が語るんだ』っていうのは何となく感じたことがありましたが、聞こえないふりをしていました。でも今回のはもっとはっきりとしたものでした。『声』というか『思い』というのか何者かが直接私の心に呼びかけてくるのです。これには参りました。降参です。語られることをそのまま言うだけなら私にでも出来ます。そのことに対して恐れはありません。趣味の聖書探求も、すればするほどそれは私から生まれた知恵、理解ではなく、誰かに用意されていたものをそのままもらったような感覚が残るだけでした。これっていわゆる召しってやつなのかな。それもどっかで作り話だろうって思ってたのに、、、。朝起きてしばらく呆然としていると愛理が来ました。起こったことを話すと、『私も御心を行わせてくださいと最近祈ってるのよ』といって一緒に祈ってくれました。このことも私にとっては奇跡のようです。すべての物の創り主である方にとって、私たち夫婦を導くことなど造作もないことのようです。ただただ驚くばかりであります。

追伸 誰かこの言葉の聖書箇所あったら教えてださい。どっかで聞いたことがあるような気がするので。
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by dynabooksx | 2004-06-28 20:52 | 驚き、発見

私にとって十字架とは

 前回は、私にとって聖書とはというタイトルで書きましたが、続いて聖書の核心である『十字架』について私にとってどういうものかということを綴ります。
 最近放映されたパッションは聖書数千年の歴史の中で十字架の12時間だけに焦点をあてた映画です。イエスの贖罪を信じるものたちが、イエス教徒と呼ばれず、クリスチャン(イエスはキリストなのだと主張する人たち)と呼ばれるようになったのは、彼らが『十字架』にただならぬこだわりを見せたからです。
 キリスト教会や結婚式をするチャペルには必ずと言っていいほど、中心に十字架がおかれています。十字架とは何なのでしょう? パッションを見た方ならばそれがむごい処刑の道具であることがわかるでしょう。そんな人殺しの物語をどうして二千年も語り継がれてきたのだろう、そんな疑問が浮かびませんか?
 ずばり、私から見た、私にとっての十字架を書きます。それは『 抑圧からの解放 』です。聖書には、私たちは神と緊密な関係(それが当たり前であったために意識はしなかったであろうけれど)を保つようにデザインされましたが、そこに『罪』が入り込んだと書いてあります。創世記にはその様子が詳しく記されてあります。食べてはいけないと言われていた木の実を食べたアダムとイブは、神に呼びかけられた時、恐ろしくて応じることが出来きず、隠れていましたというのです。
 ここでの『恐ろしい』と『隠れる』がキーポイントです。私たちが罪の中にあるときそのようになるというのです。私たちは本能的に自分の中に嫌な、認めたくない部分があるのを多かれ少なかれたいてい知っています。普通はそれを克服しようとしたり、ないかのように振舞ったりします。
 私は「十字架を掲げる』という言葉が好きですが、クリスチャンが十字架を言い表す時、それは『 私は罪びとです 』と言っていることと同じことになります。掲げるをつけるとするならば、公に罪びとであることを公表するといったことになるでしょう。なぜならキリスト者は十字架を『私の罪の身代わりのためにイエスが十字架で死んでくださった』と理解しているからです。よく考えてみてください。罪は隠れたところにあるもののはずです。これは尋常なことではありません。隠しておきたいはずの事を、高らかに宣言するなんて、、、。
 自分を隠して生きることは苦しいことです。罪の部分を切り離して考えようとする試みをするでしょうが、すればするほど自分の一部分を切り捨てていくことになります。理想の自分と現実の姿に愕然とするのです。聖書にはキリストは神と私たちを和解させるために地上に来たと書いてあります。自分を否定して、偽って行くことしか出来ない私たちを、十字架によって和解させました。つまり、神の子であるイエスが十字架にかかり、神に対する反逆が明らかになることによって、私たちの罪が公に(神の前にも人の前にも)明らかになることによって、『隠れる』という罪の性質は消えうせることになるのです。これは私にとって何よりも大きな『福音』です。罪が隠れた(拒絶された)存在でなくなるときそれはすでに『恥』ではなく『誇り』となります。神の子が私たちのために死んでくださるほど私たちを愛してくださったということになるからです。そしてそれがそれを体験した人にとって深く、大きな問題であればあるほど、その喜びも増すでしょう。
 教会は、罪のない人の集まりではありません。罪人、正確には自分が罪びとであることを(イエスを十字架につけたことを)知っている群れです。この世にある罪人の群れですから色々な問題もあるでしょう。事実私も教会に失望し、生きることへの意欲を失っていた時がありました。しかし、『十字架』が語られるとき、そこに解放がおこります。がんじがらめになった人間関係にも光がさすでしょう。私の好きな歌に『十字架のみもとには、神の不思議あり~♪』というのがあります。これは体験した人でないとわかりませんが、十字架の下(罪の裁きを免れる所)では本当に不思議なことが起こります。不思議っていい響きだねぇ~。
 あなたの『罪』は明らかにされていますか? 残りの人生(といってもまだ27だが、、、)十字架を高く高く掲げて歩みたいと願う者です。
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by dynabooksx | 2004-06-25 17:41 | 真也の視点

あじさいむすめ

a0023043_52830.jpg私の父方のおじいちゃん、要するに
私のお父さんのお父さんですね
私が6月生まれなのでおじいちゃんに
「愛理は可愛いあじさいむすめ♪
あじさいむすめ♪」と抱っこされ
可愛がってもらっていたようです。
あじさいが綺麗に咲いているのを見つけると
私が二歳の時に天国に帰っていった
おじいちゃんの事をおぼろげながらに思い出します。
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by dynabooksx | 2004-06-23 05:29 | 愛理の子育て日記

a0023043_52014.jpg
6月23日(水)朝4じぴったりの東の空です。デジカメではこの時の色の半分も出せていないのが残念です。
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by dynabooksx | 2004-06-23 05:21 | 愛理の子育て日記

a0023043_5755.jpg真也君のお母さんです。要するに私のお姑さんです。
何とひめちゃんで7人目、7人の孫のおばあちゃんです。
大人数の家族、大変な時もあるけど、楽しいよ。
かなり濃くて、深い。感謝♪
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by dynabooksx | 2004-06-23 05:09 | 愛理の子育て日記

a0023043_53416.jpgびっくり事件が起きました。
お昼過ぎから事務所(自宅から約80メートルくらい
離れた同じ敷地内にあります。)
で仕事をしていました。
子供達は三人とも自宅の2階で
お昼寝をしていました。
午後3時頃事務所の玄関がコンコンと音がして。。
しばらくすると、おもての大きなガラス戸の所に現れたのは。。。。
何とひめひめ♪を抱っこした光希!!
汗びっしょりで、力の限界で泣きそうになって。。。。
真也くんのお母さんがびっくりしてひめひめを抱き上げ
みんなもびっくり!!
光希に聞くとひめひめが泣き出したので
2階からひめひめを抱っこして下ろし
そこから事務所まで、(大人でも結構重いと思うのに)
抱っこしてつれてきたのです。
事務所の玄関は抱っこして両手がふさがっていたので
開けられなかったので
おもてのガラス戸までまわってきたのです。
「みつくんーーーありがとうーーー!!」
「ママもみつくんみたいなやさしいお兄ちゃんほしかったよ!!」
とみつくんと抱き合いました。本当に良い子に育っています。
神様、光希を感謝します♪
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by dynabooksx | 2004-06-22 12:08 | 愛理の子育て日記

結婚について思うこと②

「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」エフェソ 5:31
 パウロ先生は独身であったのに、男と女について随分深い理解があるなと驚かされる箇所です。読んでみると何てことない当たり前のことでしょ?って思うかもしれませんが、現実の生活に適応してみるとハットさせられる言葉です。
 誰しも、心から争いを望む人はいないでしょうし、誰とでも仲良くしたいと思うでしょうが、現実にはそう思うようにはいかない場合があります。唯一神信仰もそうですが、どちらを選ぶのか、2つのものに同時には仕えられないということがあります。
 日本では古くから家長制度があり、『家』の概念が根強く(田舎に行くほど)残っています。例えば、結婚した妻は長く『 嫁 』として表現され家に入ったものとして理解されます。今でこそ女性は男性と同等(それ以上かも)の権利を持つようになりましたが、それも戦後のことです。家において絶対的権力を持つのは家長であり、妻はそこにおいて外から来た召使いのようなものであったため、気に入らないと”出て行け!!”となるのでした。補足ですがこれは一般論で、私自身の経験を述べているのではありません。私の両親も、私自身もどちらかというと逆パターンに近いです。(笑)
 しかし聖書は言います。
人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
聖書ではコミュニティーの最小単位は、『家』ではなく『夫婦』だといいます。もっと掘り下げるならば、優先されるべきは夫と妻の関係であって親でも兄弟でも、子供でもないというのです。このことは現実的にとても大きな意味があると思います。『個』という概念があまりないこの国では、子供が自立することが難しいと言われています。集団の中でほかと同じようにできること、問題を起こさないことを求められるため、自らものを考え先頭に立って行動をすることの訓練がなされていないのです。このことは『結婚』において大きな問題となります。なぜなら夫婦は一つの新しい『家庭』としてそれぞれの親を離れ、新しい価値観を作り、その中で子供を育てることを求められるからです。この時に家庭の主導権をそれぞれの親に求めていたのでは、一体となる家庭を築くことはできないのです。私は、長男に次のように言います。
『光希(みつき)、お前はやりたいことが出来たら早く、俺たちの所を出て行っていいんだからな。お前たちがいなくなったら、パパとママはゆっくり二人で過ごすんだから、、、。』
実際、何でも自分でやらなくては気がすまない、そういう子に現在育っております。『自分で、自分で』が口癖です。すさまじい行動力があり、いずれ私たちの手には負えなくなるでしょう。楽しみです。
 現在、私の親と同じ敷地内に住んでいますが、私が『家族』と表現する時は、親たちは含めておりません。あくまで親は親であり、私たち家族は夫婦と子供たちなのです。妻には”そんなこと言わなくていいじゃない”と言われますが、それが夫としてのリーダーシップだと考えております。問題が起こらない時は、必要ないと思われるかもしれませんが、方向を示し続けることが家庭においても教会においても重要なことだと思うのです。

追伸 教会においてのリーダーシップは別枠で書きます。

結婚について思うこと①はこちら
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by dynabooksx | 2004-06-21 20:36 | 真也の視点

さよなら20代!

a0023043_20856.jpgあと数時間でなんと30歳です。
あこがれの30歳でもあったけれど。。。
20代とお別れしなければいけないなんて
かなり寂しいです!
学生生活、就職、真也君との出会い、
初めて知った教会生活、信仰生活のすばらしさ。
結婚、光希、知希、愛乃と三人の子供を出産。
子育て、会社の事務手伝い。。。。。。
私の人生の一番華やかで楽しくて、失敗して、苦労して
でもいつも神様の祝福が溢れていて♪
あーーホント寂しいよーーだれかーーーーー
でも20代でしたいと思っていたことは、大体出来たので
これらの経験の上で30代は更に充実できたらいいなぁ。
神様はもう祝福すると約束してくださっているので
御心のままに30代エンジョイ♪しよっと。
ありがとう20代。そしてさようなら。
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by dynabooksx | 2004-06-19 20:10 | 愛理の子育て日記

うつぶせ

a0023043_16172.jpg 最近、ひめひめ♪は、うつぶせに置いておくと
いい感じでいます。
だっこされている感覚に近いからでしょうか。
頭の形もきれいでいられるかな?
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by dynabooksx | 2004-06-19 16:18 | 愛理の子育て日記

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。