カテゴリ:真也の視点( 230 )
被災地行きが疲れるわけ
先週2年ぶりに東北地方へと足を踏み入れて来たのだけれども、どうもいまいち体調が戻らない。しばらくこの感覚を忘れていたのだけれども、以前の一時帰宅の際は毎度このような状態になったものだった。

タイトルを被災地としたのだが、書きたい内容は汚染地ということについてだ。今回の会場だった宮城県栗原市は宮城県でも仙台を越して岩手の一関、奥州市へと続く地帯でホットスポットになったことは知られている。自分も以前測定しながら走ってその傾向は分かっているのだけれども、線量計を持って歩くと気づかれしてしまうので、今回は持たずに出かけた。東へ向かうのに持たないで出かけたのは初めてのことだろう。

私の兄弟はこのホットスポットに今も暮らして、一時は引っ越しも考えたほどに被爆には気を使っていて様々な活動をしているようだ。子供の男の子二人は力が有り余っているが、外に連れて行って遊ばせようとしたらそれはダメなのだという。なんと、現在でも校庭での遊びを制限したり給食を止めたりしているのだ。なんとなく時間が経ったので、そこで住むことを決めたのならもう忘れて生活しているものと勝手に想像していたのだ。

子供に危険のある被曝を最小限に止めるために気を使う。それはそれとして、一方ではおそらく何の気も使ってはいない若い夫婦と赤ん坊がその地域で暮らしている。今回はその結婚式に呼ばれたのだ。この同じ条件のはずであることへの意識の差と、差があることに気を使って言葉をつぐむ周りの人々の様子を見てこちらも言葉をなくす。

とにかく、なぜだか口が重くなっていくんだ。そのうち身体も地面に引っ張られるような感じがしてくる。以前から重い土地ではあるはずなのだけれども、重力を増してしまったかのようだ。親戚でも、現在住んでいる場所によって立場や考え方が違ってくる。福島県内に戻った者、県外へ留まった者、関東以西に移った者でもまた違うのかもしれない。本当は気を使わないで話し始めれば何のことはないのかもしれないが、最初の一言で気を遣ったり、何か言いたいことをのどに詰まらせたような感じになってしまう。

だけれども、結婚式という形で集めてくれなければ、もう会うことがないかもしれない人たちと顔を合わせることができた。人生何があるかわからない。当たり前に側にいた人も、明日は遠くに離れなくてはならないかもしれない。いまできることをするしかない。するべきことを為すしかない。明日で人生が終わるかもしれないのだから。
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by dynabooksx | 2014-11-29 01:03 | 真也の視点
人の喜びとは
人間って単純なもので、仕事でもなんでも身体をたくさん動かして疲れさせ、お腹を空かせ、それが満たされることで満足を得る。案外単純なものなんだ。

これ肉体的なものだけれども、精神においても同様で、強い渇きがあってそれが満たされる時、深い喜びを感じる。

問題は人は何によって最も喜びを感ずるようにできているのかということだ。しばしば人は、幸福を望んでいるようで破滅へと進む道を選択し、また破滅へと進む道を選んでいるようでいて、そこに他では味わえないような感動や宝を見出してたりする。

人を愛するということが、自分より相手を優先し大事にすることだと定義するならば、愛することで自分のことを後回しにする、諦めることが現実に必要になる。これは自分にとってマイナスであり、痛みであるはずなのに、実際に行ってみるとその先に真に自分が求めていたものを見出すことがある。

「自分のいのちを得ようとするものはこれを失うが、私のために自分のいのちを棄てようとするものは、かえっていのちをみいだすであろう」とイエスは言った。

「いのち」を人が生きる上で必要な力、目的意識、動機と捉えると、「自分の欲を満たすことを優先して生きると虚しさがくるが、自分満たされることを諦める道を選ぶ者は、反対に、突き動かされるような強い力を、生きる意味を見い出すだろう」ということになる。

これが人の現実、真理だとすると、世の中に垂れ流されている喜びや満足にはどれほどの虚偽が多いことか。それは偽りだと、どこかで気がついていながらも多くの人々は嘘でもいいからと一時の気紛れを求め、中毒患者のようになっていく。一度それが常習化してそこにはまり込んでしまうと、自覚することがなくなり自ら回復することは不可能になる。
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by dynabooksx | 2013-11-08 06:27 | 真也の視点
救いと行い
人は誰しも自分から見える世界は当たり前に捉えられてしまうので、その中に没入してしまうと他人のリアルな感覚を感じられなくなるものである。
あからさまな他人の反応を見て、おおそういうことかと気付かされることが多い。今回落ち着いてみてあらためて感じることは、僕の中にある「平和」だとか「愛」「喜び」「救い」「信仰」「神」の理解とそれに過剰反応してくる人々との間の認識には、きっと大きな開き、違いがあるだろうということだ。とすると、同じ日本人だと思って話していたら、方言がきつくて分からない単語で⁇となるぐらいのやり取りになってしまう。

先日キリスト教で言う処のこの「救い」ということに関して、僕に「違う、違う」と表現してくれる人がいた。それも実際のところその人がどのようにそれを捉え、生きているのかは、その行動全般から判断するしかないのだけれども、彼は「救いには行いは必要無いんだ」と力説していた。そして、それを理由に関係を断たなければならないと結論づけていた。

多くの人々にとってはこんなやり取りに関心は無いでしょうが、僕もあまり関心がありません。でも他人から言われてはじめて気がつくこともあるというものです。それを聞いて、最初は何を言いたいのか分からずにいたのですが、なぜそういうことを言わざるを得なかったのかがだんだん見えてきました。

まずこのキリスト教が言うところの「救い」について、何が人間が抱える諸問題の解決となりえるのか、この座談会でも繰り返し扱ってきました。但し、ここに一人ひとりの認識に大きな差があるのは、それを信じたかどうか、それを信頼して受け取ったかどうかでまったく違ってくるからです。

こういったわけで、上にも書いたこの「信仰」という言葉一つとっても、それはその人の世界観を浮かび上がらせますが、同じだろうと思って話しているととんでもないことになることもあります。

「救われることに行いは要らない」と主張する人も、その言葉には現在の心情が写し出されているのでしょう。自分は救われているはずだが、それに伴った行動が生まれて来ない。むしろそれとは正反対のような感情や思いに支配されて身動きが取れない。いやいやそんなはずはない。「自分はキリストの贖いによって罪赦されいるはずだ…」と自問自答しているのでしょう。

そんな時、僕だったらこう言うんだけどな。「それって信じていないってことなんじゃないの?」って。

キリストの十字架なんてのは方便で使っているだけで、本気でそれに寄りかかってその中に人生を投げ込んで行くことはしていないしするつもりもない。それは信じていないと言った方が適切。
それともう一つ。キリスト教は是か否かを迫るものであって、その中間はない。信じたいんだけれども信じられないというのは、信じていないということ。当たり前のことだけれどもね。この「信仰」というものはイエスの内にあったもので、彼を突き動かしていた本質。彼の霊の現れ。日本人が一般に「鰯の頭も信心から」といったそれとは一線を画する。

ちと話がそれたかな。イエスを信じるということは、彼の実存に飛び込むということ。聖書に残されている彼の言葉のとおり、そうすれば安らぎを得られる。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。(マタイ11章)

こっちの訳はは安らぎではなく、「魂に休み」でしたね。この「魂に休み」をもって「救い」としたらどうでしょうか。きっと多くの人が、これを求めて探し回っていると思うのです。それで人を見て、直感的にそれが得られそうか否かを判断するのではないかと思います。
単に「信じる」とすると皆好き勝手に分かったつもりになろうとするので、定義を一度この辺りに定めておくと少し軸が分かりやすくなるように思うのです。

すると見えてくるものがありますね。キリスト教会では、上の句、「あなた方を休ませてあげよう」までをよく看板に貼ってありますが、僕はここで文章を切り離してしまうのはあまりに不親切だと思うのです。続きは中に入ってから…としたいのかもしれませんが、要らぬ誤解を生むというか、その後適切に扱われないと詐欺というか、聖書に出てくる追い剥ぎにあった人のようになってしまう気がするのです。

話が長いですね。言いたいことは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば…」のところなのです。くびきというのは、家畜や奴隷に労働をさせるための道具ですから、イエスが負っているそれと一緒に繫れて歩いてみる、傍で彼の荷の負い方を学んでみる。

それを体得すると、魂に安らぎを得られるというのです。そこに至って、人は「本当に自分は救われていたんだ」と感じ入る。自己愛の塊で、自分の利益や身を守ることばかりに夢中になっていて、心が休まることがなかったのが、いつの間にか変わっていたということにはたと気づくのでないでしょうか。

それはイエスのくびきを負うことをしているからです。彼を「信じる」のなら、自ずとそのようになるはずだからです。
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by dynabooksx | 2013-02-18 13:47 | 真也の視点
叫び、、
この雨続きの天気の問題だけではない。何か悶々とし続けて持って行き場のない思いを噛み締めている。きっとこれは自分だけの問題についてではない。誰かのことを思い煩悶しているんだ。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者とともに悲しむ、、、。

頭で分ってはいるはずだが、人々の孤独や寂しさ、氷のような冷たさに直面すると、その冷たさが伝わって背筋に響く。あまりにも長い間、たった一人でその孤独と向かい合いながら生きてきた人生を思い、その厳しい現実に声を失う。

どれほどの人々が今、持って行き場のない心の呻きを押し殺しつつ、人前で必死に笑顔を作りながら生きているのだろうか。それでそもそも、生きていると言えるのかい?? 誰もその人の心の内など知る者はいない。いや、その人自身も自分の真の姿を遠い押入れの隅に押し込めて、探し出せないことにしているのかもしれない。

だがある日、突如として思いも寄らなかったところから、隠していた感情が吹き上げて本人も周囲も驚かせてしまうことがある。何かの間違えかと思い慌てて繕うが、通り魔事件の殺人犯のように、そいつは突然人格を奪っていく。

ああ、だんだんその殺人犯の足音が近づいてきて、もはや私の屋根裏部屋に住み着き始めているようにさえ感じる。理性で押さえ込んでいるのにも限界がある。誰か私を救ってくれないのか。救われることがないなら、この殺人犯の思うがままにして人間関係を破壊し、他人を傷つけるよりは、自分の命と道連れに葬ってやろう。そうして人は自ら死を選ぶんだ。

仏教でもキリスト教でも何でもいい。その道を行く人は、このことをはっきり示して欲しい。いったい救いは本当にあるのかい? 救いがあるのかないのかはっきりさせてほしい。もしあるのなら、それを必要とする人の前に真っ直ぐに示してほしい。今はもう余裕がない時代なんだ。残す時間もない。今日を生きなければ明日はないということが分らないのかい? 頼むから動ける人、声を聴いている人よ、応答してくれ。今動かなくて、いつその機会がくるというんだい? それほどに神の忍耐が悠長だと思っているのか。能書きはもういいから、助けを必要とする人のところへ行ってくれ。

もしあなた自身が最も助けを必要とする人間だと思うのなら、素直にそれを認めて助けを求めて叫んでくれ。その声を受け取る人物は必ずいる。助けが来るまで叫び続けるんだ。途中で諦めるんじゃないぞ。どうせダメなんだから、力尽きるまで、声がかれるまで続けるんだ。

そのうちに貴方の叫びが、人々の救いになることに気がつくだろう。そんなあなたの存在が、他の人のためになることがあるのだということに気がつき始める時、あなたの苦しみは煙のように消えてゆくことだろう。そうなったら、あなたと同じように声を出せずに苦しんでいる人を見つけてあげてほしい。

たのむ。あなたが、自分は救われたのだというのならば、、、。


++++++++以下、引用ローマ7章(リビングバイブルより)+++


15私は自分が全くわかりません。 ほんとうは正しいことをしたいのに、できないのです。 反対に、したくないこと、憎んでいることをしてしまいます。 16自分の行ないが誤りであること、破っているおきてそのものは良いものであること、それは、よくわかっています。 17しかし、どうにもできません。 それをしているのは、もはや私ではないからです。 悪を行なわせるのは、私のうちに住みついている、私より強力な罪なのです。
18古い罪の性質に関する限り、私は自分が全く腐敗しきっていることを知っています。 どんなにもがいても、自分で自分に、正しいことを行なわせることができません。 そうしたいのですが、できないのです。 19良いことをしたいと思ってもできず、悪いことをしないようにと努めても、どうしてもやめられません。 20自分ではしたくないことをしているとすれば、問題点は明らかです。 すなわち、罪がなおも私をしっかり捕らえているのです。
21正しいことをしたいと思っているのに、どうしても悪いことをしてしまう、これが人生の現実であるように思えます。 22新しい性質をいただいた私としては、神様の意志どおり行ないたいのです。 23-25ところが、心の奥深くに潜む低劣な性質には、何か別のものがあって、それが私の心に戦いをいどみます。 そして、ついに私を打ち負かし、いまだに私のうちに住みついている罪の奴隷にしてしまうのです。私は、心では、喜んで神様に従う召使でありたいと願いながら、実際には、相変わらず罪の奴隷となっている自分に気づくのです。
これで、私の実情がおわかりいただけたでしょう。 すなわち、新しいいのちは、「正しいことをせよ」と命じているのに、いまだに住みついている古い性質が、罪を犯したがるのです。 ああ、私はなんとみじめで哀れな人間でしょう。 いったいだれが、このひどい低劣な性質の奴隷状態から解放してくれるのでしょうか。 ただ神様に感謝します! 主イエス・キリストによって、私は解放されました。この方が自由の身にしてくださったのです。

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by dynabooksx | 2012-11-26 20:21 | 真也の視点
今になり、振り返って思うこと。
先ほど目が覚めてから、すっと心の中に浮かんできたことを素早くIPhoneでしたためましてフェイスブックに投稿しました。そのコピーをこっちにも貼っておきます。


+++++++++


心が小躍りしながら早朝に目が醒める。震災の直前も今と同じような状態になっていた。神から示されてくることを、一つも取りこぼしたくないという思いが私を駆り立てたからだった。しかもあの時は、圧倒的な迫り来る何かに背中を押されるように毎朝取り成しの祈りを捧げていたものだった。

震災後少し落ち着いた頃に自分のブログを眺めて驚いたことは、震災2日前の3月9日に「怒りをもう少し止めてくれ」との内容で書き込んであったことだ。
確かあの日、僕は福島第一原子力発電所の放射性管理区域内のゲートの内側に入る仕事をしていた。入口が渋滞で車を列にして待ってた時、レミオロメンの「3月9日」の曲がラジオから流れて来たのをはっきりと覚えているからだ。

あの時の海と空があまりにも美しかったのが忘れられない。それをiPhoneで撮りたくて、コッソリ持ち込もうとしたが守衛に見つかって取り上げられた事も記憶に残っている。
みんなで仕事をした現場作業は本当に楽しかった。奴等今頃何をしてるんだろうなぁ。

弟子から警告されていたからとはいえ、あと2日であんなことになるなんてなぁ。俺達は、本当に伝えるべきことを伝えたのか、為すべきことを成したのか、真剣に悩んだよ。

それであっという間に世の中が終って行くのかと思いきや、どうもスムーズにそうは行かないようなので、僕も頭の中を軌道修正せざるを得なくなった。

まだ自分の人生に残りの部分があるのなら、それを全力で燃焼させる。

原発事故は今の世の中に対しての警告であるのだけれども、あれは同時に私に対してのものだ。お前が動かなければ、これぐらいのことをする覚悟があるという意思表示なのだ。それで鼻っぱしでやられたんだ。

私は聞いてはいたが、それはさすがにやり過ぎだろうと神にくってかかったが、事が動き始めてではもう遅い。後悔先に立たず、だ…

しかし、驚いたことに私の町の知人の多くの人々が、今回の出来事を「神からの救い」として捉えていることを何度か確認した。何か特定の宗教をやっていたからだというのではない。誰もが、格闘の中で自分のこれまでの人生と向かい合い、そのような結論に行き着かずにはいられないのだ。

私の弟子は、震災の2ヶ月前に、自分の勤めていたガソリンスタンドがまもなく無くなるんだと宣言をした。酔っ払って足下が定まらず、歩けない映像を見たとも言っていた。
正直何のことを言っているのか、私も良く分からなかったのだが、優しい彼が自分の職場の仲間のその後を心配しているのに対して、私は自分の町の人々が救われるようにと祈った。

ここまで時間が進んでくると、あの時の内容が恐ろしくさえ思える。どうも神は本気で私の祈りを実現させようとしているらしい。それでまた、寝ているのが惜しくなってくるわけだ。


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by dynabooksx | 2012-11-11 04:59 | 真也の視点
十字架への道
十字架の道、十字架への道、それはイエス自身の人生、イエスの心、思いの向かう方向を指し示すもの。

キリスト教会は、それを自分たちの集団のアイデンティティーだとしてそれを掲げる。なぜそのようなことをするのだろうか。

なぜだと思いますか? クリスチャンの方ならば、どうしてなのか話してもらえますか? それは教会の建物がやっていること、教会を建てた誰かが置いただけで、自分には関係がないことでしょうか。

イエスがその身に負った犠牲、その罰と痛み。そのお陰で私たちは、癒され、自由を得、活き活きと生きる力を得ることとなった。クリスチャンならそう言うだろう。

きっとそのことに感謝し、大きな喜びを得たことがあっただろう。では今はどうだい?

人生に言いようもない空虚さを感じているのではないのかい。そんな筈はないと、何度も打ち消そうとしても、繰り返し繰り返し押し寄せる、孤独と暗闇、空しさの波。

クリスチャンになれば、もっと幸せな人生が来ると思った。充実した毎日を送ることができると思った。もう苦しみを味わうことがない、人を傷つけたり、自分が傷ついたりする必要がなくなると思った。

でも実際はそんなことはない。それどころかより旗色は悪くなるようにさえ見える。嘘だと思って、空想の世界、理想の世界に逃げ込んでみようとするが、それとは関係なしにひたひたと厳しい現実は迫り来る。

駆け込み寺のように日曜日の教会に逃げ込んでみる。そこは日常の苦悩を思い出さなくて住む空間。神の支配する聖(きよ)い空間で、存分にその空想の世界に浸れるかもしれない。

でも、それはその特異な空間、場所でしか通用しないもの、仲間内での暗黙の了解の中でだけ実現する楽しみ。だから彼らは集まってくるのかもしれない。

それでその時間が終わると、それまでの記憶は全て失くしたかのように別人になって世の中に出て行く。それは教会の中だけの秘められた楽しみであり、それを世の人に悟られてしまっては都合が悪いからだ。

そんな風当たりが苦しい人は、関わる人をその夢の中の人々だけで固めようとする。生活を出来るだけクリスチャンと呼ばれる人だけにする、関わりを限定するのだ。それでよりその世界に没頭していくようになるのだ。


でも実際のところどうだい? 苦しみは無くなったかい? 仲間ができて孤独は癒されたかい? 不安は解消したのかい?

人生はこれからまだまだ続く、たとえ肉体が滅んだとしても、それでも私達は消滅しないのだぞ。一時しのぎは通用しない。私達は本来、永遠に続く性質を持っているんだ。

きみがここまで歩いてきて、そしてこれから歩もうとしている道が、本当にキリストが望んでいる道なのかどうか、真剣に考えたことがあるかい?

それを求めて苦闘し、彼のたどった道を、あまりにも細くみすぼらしいその道を、怯えながらも一心に往きたいと、もがきながら歩んだことがあるのかい?

その道を見出す者は少ないと聖書はいうんだ。使われることがあまりにも少なくて、草はぼうぼう、まるで警戒区域、僕の故郷のようだろう。ポツリ、またポツリと、そこを行った人がいたらしいという噂を聞く程度だ。

なぜならその道の名は「十字架への道」。イエスがたどった、そのいのち、人生でもって切り拓いたその道自体なのだから、、、。彼に自分の代わりに犠牲を負わせることは望んでも、自分が重荷を負うことは望まない。自分が誰かのために犠牲となり、死んでいく人生など想像したくもない。だから、その道をあえて行こうとする者など、多いはずがないのだ。

救いはどこにある。問題の解決はどこにある。この混迷し行き詰まった時代において、誰もがそれを捜し求めている。誰もが必死に自分の身の安全、利益、保障を求めている中で、いったいだれがそれを指し示すのだろうか。

きみが自分をクリスチャンだと自称するのならば、神が貴方に期待していること、望んでいること、それが実現するためなら自分の命、人生を犠牲にしてもよいとまでした、その思いに敏感であってほしい。
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by dynabooksx | 2012-11-01 05:35 | 真也の視点
人生の意味
これまできっかけがなかったけれども、演劇の世界ってどこかで頭突っ込んでいたらかなりはまっていただろうなと思う。なぜなら、そこは仮想の現実を作り上げて観客をその世界に引きずりこんである意味だますところだから、、。

世界観を描いたり、そこでちょっといたずらしたりするのが好きなんだな、私は。でも不思議なんだな。本来あらゆることに強烈な好奇心を示すはずの私が、大学に入ってからというもの、世界観や活動範囲を広げるどころか、むしろそれまで夢中になることができたあらゆることに関心を失って行って、最後の一点しかない人間としては非常につまらない男になっていった。私としては、手足がもがれるような大変気分が悪い出来事だった。なぜ、そうなるのか、自分の人生はどこに向かうのか。世の中の人々と歩調を合わせられない不器用な自分だということは幼い時から十分理解してはいたはずだけれども、私が抱えていたその問題を理解できる人は、誰もいなかったように思う。

しかし、それもここまで来るとその理由がはっきり分かってくる。私の人生は明らかに、意図的に切り落とされ、剪定されて来ていたことが分かる。ある目的を持って実りをもたらすために、私の意志とは関係なしに私の関心、動機自体を背後で支えていた方がおられたことが分かる。うすうす気がついてはいても、鈍感な私は、繁栄の道とは違うそれを認めることを良しとしなかった。

311が来る前までなら、人は私を成功者だと呼んだかもしれない。確かに良い社員たちに囲まれ経営は極めて順調で外から見れば何の問題もないように映ったかもしれない。しかし私の心は全く別なことを考えていた。それは私の道、これまで刈り込まれてきた道の延長にあるものとは違うのではないのか。私は大きな間違いを犯しているのではないのか、と、、、。

それであの事件があった。私はそれまでの自分の人生と、その後残されている時間を頭の中で測った。あとどのぐらい残されているのか。私の人生がここまであったことの意味を残りの時間で果たすことができるのか。私は負債を負っている。


私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ローマ1:14


これまでの訓練で為されてきたとおり、私は自分の人生の集約点を一点に絞る。神がそれを私に望んでいることが今はわかる。というよりも、ここまで来たならば諦めるしかあるまい。まだしばらく健康を保たせて欲しい。負債を返し終わるまでは、、。

++++++++++

ヨハネによる福音書15章

1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっている枝実を結ばないものは、がすべてこれとりのぞき実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

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by dynabooksx | 2012-10-14 06:58 | 真也の視点
「祈る」ということ
現在ヨハネによる福音書を進んでいるのだが、最近のハングアウトで繰り返し出てくるテーマがある。祈りということ、願うということ。パンク座談会では、「自己破壊を受け入れろ!」だとか「祈りは自己破壊だ!」ということが出て来ました。つまり聖書で言う祈りとは、「神に聞く」ことであって、行動原理の主体を自分から神へと変えることだということを確認してきたのでした。そんなところで見つけたのがこの動画。



祈りの二つの性質をよく説明しています。私もかなり以前からケセン語聖書は持っていたのですが、震災後に出版された「ガリラヤのイエシュー」という本があることは知りませんでした。北海道の友人から教えてもらって早速仕入れました。これから福音書を扱うときはこれをメインの参照テキストになりそうですが、ちょうどこの「祈り」について際立つ場所がありました。口語訳とこのガリラヤのイエシューを並べてみます。


16:25わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
26その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
27父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。

25このことをそなたらに、俺はたとえで語って聞かせた。
もうたとえでなど言わないで、父さまのことをはっきりと話して聞かせる時が来る。
その日が来ると、そなたらは俺の心に添いたいからと、心の底から願うだろうよ。
けれども、いいか、間違うな。そなたらのためにこの俺が父さまに頼んでやるとは、言っていないぞ。
27そのわけはこうだ。そなたらはこの俺をとても慕ってくれている。
この俺が神さまのもとからきたのだと本気でシッカリそう思っている。
それを御覧の父さまはそなたらを目に入れても痛くないほどそれは可愛く思っていなさる。
だからこそ、俺からお頼みすることはまるで無用のことなのだ。



強調したいところをにしました。これ以上しつこい説明はいらないと思います。その日、神の息が吹き渡る時、起こること、、、。
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by dynabooksx | 2012-10-13 14:51 | 真也の視点
彼のこころを行うこと
ぐっと涼しくなってきました。今週の火曜、水曜は名古屋に出掛けていましたが、知人に「あれ?真也君半ズボンじゃないの?」と言われてしまいました。やはり東海ぐらいなら通年それで通すぐらいの根性が必要でしょうか。喉元過ぎれば暑さ忘れると言いますが、東海の暑さももうずいぶん前の出来事のように思いますし、あの震災以降これからもう2度目の冬を迎えようとしていることに、また新しいステージの到来を感じています。

8月後半から絶え間なく毎朝のハングアウトを続けています。いい大人が毎日毎日何をやっているんだと思うでしょうが、どこまでやってもネタが尽きるどころか、より深まって現実の事象に対して具体的にリンクして影響力を増していきます。その中で、タイトルに「彼のこころ」とした、この事が繰り返し登場しそれが鮮やかに、明らかになっていくことをメンバーは体験しているはずです。キリスト教徒であれば「御心、みこころ」と呼ぶのでしょうが、縁の無い人にとっては全く理解不能な文言でしょう。

人の心には様々な思いがあります。人が集まるところには、それらが多種多様に渦巻くことになりますが、私たちの会はそこに一つの理念を持っています。

日本の未来を考える座談会 中心理念

同じ思い、一つの思い、心を合わせと続きます。この文章は、パウロという人物がある集団へと向けて書いた手紙の一部なのですが、「わたしの喜びを満たして欲しい」とあるように人々の一致を求めていたことが分かる。人間は、他者との関わりによって生きもするし、また死にもする。ということを繰り返し書いてきたが、これは文字通りのことだ。多くの人が、この「関係」の破壊によって自らの命を絶つ。

この時代を眺めるに、どれほどこの関係の破壊、破滅が起こっていることだろうと思い知らされる。ちょっと目の前を覗いてみれば、家庭、学校、友達、会社、地域、いたるところに共同体の機能不全を見出すだろう。それがあまりにも酷いので、人々は自らが傷つくことを恐れ、心を閉ざし引きこもる。言論の自由だと憲法でうたわれているはずのこの国に、どこにそんな場所を見出せるだろうか。闇から闇へと隠してしまった自分の本当の心を打ち明けて、それを正面から受け取ってくれる相手、そんな親友に恵まれている人などどれほどいることだろうか。家族であっても、夫婦であっても相手を思いやるという名目の下に、本当は分かち合うべき多くのものに封印をかけ、物理的には近い所に住んでいながら、冷めた関係の中を呻きながら暮らしている。

今日の食事にも困るような途上国の子供達の輝くような目を見たことがあるだろうか。あれと日本の子供達を比べてほしい。子供達は正直だ。私たちは彼らを見て、かわいそうだと思うかもしれないが、彼らが今の私たちの日常を知るのなら、反対に同情されるかもしれない。
今回の震災で多くの人々がショックを受けた。ショックの受け方は様々だろうが、ついに時代は動くということを察知した人も多くいたことだろう。または、めくれて真実が露呈した原発にカバーをかけるように、必死に元通り中身が見えないようにと繕うことに必死になっている人もいることだろう。

時代はどこに向かうのだろう。自分の人生はどこへ行くのだろう。これは福島や津波の被災地だけではなく、日本、いや世界の人々を揺さぶっただろう。国は収束宣言をし、除染除染と元通りにするのだとつつがなく進んでいるように見えるが、一見無くなったように見えるこの揺れは、いずれあれが単なるスタートだったと思うほどに増幅していくだろう。人々はさらに戸惑い、道を求めざるを得なくなる。それがこの刈り取りの時代だからだ。

再び中心理念を書いてみたい。文語訳で、、。

1 この故ゆゑに若もしキリストによる勸(すすめ)、愛による慰安(なぐさめ)、御靈(みたま)の交際(まじはり)、
  また憐憫(あはれみ)と慈悲とあらば、
2 なんぢら念(おもひ)を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、
  我が喜悦(よろこび)を充しめよ。
3 何事にまれ、徒黨(とたう)また虚榮のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ。
4 おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。
5 汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。
6 即ち彼は神の貌(かたち)にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず、
7 反かへつて己を空(むなしう)し、僕の貌をとりて人の如くなれり。
8 既に人の状(さま)にて現れ、己を卑(ひくう)して死に至るまで、十字架の死に至るまで順したがひ給へり。


5節、汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。その中身が6,7,8の内容になっています。ここに焦点を合わせて朝の座談会を行っています。聖書にはこのような言葉もあります。

人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。 (箴言19:21)

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイ7:21)

これを見るといかにこの『思い』が重要であるか分かるだろう。そしてそれを伝達するものが、今やっている数日前のところ。

けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(ヨハネ16:13)

キリスト教会ではよく「聖霊を受ける」ということがテーマに上る。(または、消し去ったかのように全く会話に出ない場合もある) そしてそのことによって生じる特殊な現象に夢中になったりする。しかし私に言わせれば、そんなことはどうでも良いことだ。聖霊が伝達してくるものは、父の心、イエスのこころだ。それが自分の心に迫れば、人は行動原理を変えざるを得なくなる。イエスの成し遂げたかった思いを遂げさせたいと強く願い、それに突き動かされるようになる。それに対して世の何物も障害となることは出来ない。それは十字架へとまっすぐ続く道だからだ。

いったい誰が、そんなところに何物にもまさる喜びや、どこまでも連鎖していくいのちが隠されているなどと見出すのだろうか。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ14:6)
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by dynabooksx | 2012-10-11 22:54 | 真也の視点
今の私を動かすもの
いま、双葉町の家族が2組蒲郡に遊びに来てくれています。総勢7名がわが家に寝泊りしているので、なかなかの迫力です。初日は、地元の人に案内していただいて、森にカブトムシ取りに出かけましたが、大興奮で0時近くになってやっと寝たようです。でも、実際に興奮していたのは私かもしれなくて、こんな時間に目覚めてしまっているというわけです、

ちょっと仰々しいタイトルをつけましたが、今の私の行動の源泉になっているものを書いてみようと思います。

震災における影響は、当たり前のことではありますが、私の心に繰り返し繰り返し津波のように衝撃を与え続けていたようです。最初の一年ぐらいは、無我夢中でどんどん変化していこうとする世の中の動きを追いかけました。避難することに徹したのですね。追加の地震や、原発の様子も急変する可能性もあるので、常に情報に目を配りつつ、次にどのような行動をすべきかを考えていました。以前から当たり前のように言われていた浜岡の可能性と関東圏の汚染状況を考えると、愛知県が最低ラインかといったんそこに留まりましたが、震災直後からの動きのように、いつ何時同じ状況に直面するか分からないので、安全を確保しながら瞬時に対応できるようにと気を配っていました。

さてそれからまたしばらく経ってくると、世の中はあの災害など何事もなかったかのように、元どおりになろうと、元どおりであったかのように振舞おうとします。まるで私達の存在などなかったかのように、あっという間に原発の再稼動は決定し、相変わらず汚染された場所に人を住まわせ、警戒区域もどんどん解除して行きます。政府が収束宣言をしたように、まるでスケジュールどおりに復興に向けて進んでいっているかのようです。

でもこんなものは虚構なのです。多くの人がこれに気が付きつつあるでしょう。もちろん元の何事もなかった生活に早く戻りたいと願うでしょう。でも残念ながら現実はそれを許してはくれません。これまでも原発は絶対安全なものなのだと通されてきました。それが今回の結果なのです。上辺だけ平静を装った世の中が、本当に平和であるはずがありません。実情は何一つ変わってはいない。全体としては、むしろ悪い方向に流れていっているように見える。人々が、虚構の平和を願い秘められている危機に関心を持たなくなればなるほど、危機は高まることになる。追い詰められた、絶望的な気持ちで事の成り行きを見ていた。日本人とは、これほどまでに他者に無関心で、盲目な民族なのかと、、、。

様々なことを思った。原発事故など、まるでなかったかのように装っていく世の中を前に、同時に自分の存在も消えてゆけばよいと思った。どうしてあの津波や事故で終わらなかったのだろうか。もういっそのこと、他の原発と共に世界が終わればよいとも思った。そうなる可能性は、今でもある。繰り返し言われているように4号機のプールに何かあれば、年間20mSVの地域など日本列島全てを覆うだろう。

だが、そうはならない。破滅へ真っ直ぐに向かっているようにも見えるが、奇跡的なところで皮一枚で留まっているようにも見える。まるで何かの手が働いているようにさえ、私には思える。とすると、まだこの世界はしばらく続く。私のほうが軌道修正するしかない。だが何を目標に、支えに生きてゆく。どれだけのものをその場所で築いたとしても、一瞬ですっ飛ばされるんだ。以前にも増して、消えてなくなることのないものの為に動かなくてはと思った。

でも自分は抜け殻のような状態で何もする意欲が出てこない。搾り出そうとすれば何かは出てくるかもしれないが、その先にあるものなどたかが知れているし、良い結果を生まないことは経験から知っていることだ。しかしどうする、、、。

そんな時に、ある誘いによって人を通して、これからの自分の行くべき道、あるべき姿を垣間見る出来事があった。その中心の言葉は「休みなさい」だった。震災後から、私の中では自分は抜け殻のようになっているから、何もしない、休んでいる状態になっていると思っていたのだが、実際には全く休んではない。常に心で苦闘して悶々としていたのだ。かといって、それを展開させて具体的な何かにしていくことにどうしてもゴーサインが出ない。単に力がないとも言えるが、何かを押さえ込まれているような気さえする。

そこに「休みなさい」という言葉が来た。ちょっと概略を話すと、私はその時関西で行われていたクリスチャンの事業者達の集いに参加していた。その集まりが終わった頃、つかつかと私の所にひとりの女性が来て、「神からあなたに預かった言葉があるので、話します」と言うのだ。まぁ、私も奇妙な世界はかなり見てきたつもりだけれども、初対面の人にいきなりそんなことを言われて驚くが、内容が「神から」だというので内容を聞いたのだ。それがまぁ、いきなり私と神様との間でしか知りえない、誰にも言ってない内容をつらつらと冒頭から話し始める。普通の常識からいったら、とても相手に言い得ないような内容を当たり前のようにぶつけてくる。さすがに恐ろしいと一瞬思った。今更ながら、神を畏れるという感覚を思い出した。

様々な内容について15分ほど聞いたのだけれども、その中で心に残っていたのがこの「休みなさい」。確かに
、私が福島の実家に帰ってからの毎日は戦いだった。12年前、久しぶりに帰った故郷は、自分が育ったところだとは思えないぐらい異質な空間に感じた。あれから私自身の方が変わっていたのだろう。感じる違和感を押し返すように抵抗することで最初は精一杯だった。それが5年ほど過ぎて、後で育った社員達にいつも私の足りないところを助けてもらうようになり、会社は遥かにやりやすくなっていた。内側に戦いがなくなって来れば、外側に展開して行くときだというところで震災だった。社員は日本中にバラバラになった。家族同然に感じていた私には、手足がもがれたような思いだった。

福島県内にも数人残っているし、もちろん友人もたくさんいる。一時帰宅やその他の用事で県内に戻ると、そのまま居たいような、早く離れたいような正反対の思いがぶつかり合う。でも、あそこまで出て行ったからには、何かを持ち帰らなければ、出てきた意味がない。そんな思いで過ごしていたのだ。

「休みなさい」この言葉は、何かをしなければと盛んに思って自分で自分を駆り立てていたのに対して、実際何も出来なくなっているその姿でよいのだと、そう語りかけられたような気がした。「謙虚になって、私が与えるめぐみを素直に受け取れ」と、、、。神が私に願っているのは、そういうことなのかもしれないと考えをシフトした時、私が最初に出会った時からここに至るまで、特に震災によって、手にしているものを放棄させられた意味が分かったような気がした。

神はこれまで以上に、私が受身で相手に寄りかかり、信頼せざるを得ないところに追い込むつもりなのだ。とすると、それに応じてこれまで以上の物事を預けてくるということは、これまでの道のりからわかること。これまでのものを全部放棄させたということは、練習ではなくいよいと本番になるのであろう。つまり

神の前に休む⇒自分の(自分のための)活動を停止させる⇒自分に死ぬ

ということなのだ。ここまできて、私の進むべき道が見えてきた。行くべき道は神の手の中にある。必要な準備もその中にある。私はそれを受け取って行く。まぁ、言われてみれば当たり前のことなのだけれども、こんな単純なことを忘れてしまうのだ。

このことを思い出したおかげで、私の身はぐっと軽くなり、活動の焦点が絞れるようになってきた。これまでは、自分の身を守る、自分の利益を守ることを考えていたので、神が私に求めることと相対するために、綱引き状態になって身動きがとれなくなっていたのだ。神の中に自分を放棄していくことをしない私は、やはり私ではなかろうと、この避難生活の中で思い知った。


すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

                  マタイによる福音書11章



負いやすいくびきを思い出したのである。
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by dynabooksx | 2012-08-17 03:10 | 真也の視点
  

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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