カテゴリ:聖書の言葉( 72 )

「さて、過越しと除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかもしれない』と言っていた」(マルコ14:1、2)

 マルコ福音書第14章の背景は、イエスがエルサレムに入場して第4日目、ニサンの月(今でいう3,4月の頃)の13日という時。ニサンの月の10日というのが、マルコ第11章から始まっている。即ち受難週間といわれる時期で、キリストが十字架に向かって進みつつあるときである。

 過越しの祭というのは、ニサンの14日に始まり、午後に、パン種を除いたものを作り、午後には、羊を屠る。日が暮れて即ちユダヤでは日没から日没が一日だから15日の始めから12時間の間に過越しの食をとる。これが「過越しの祭」である。それから21日まで7日半という期間、除酵祭が続く。
であるからその間に、イエスは十字架にかけられたわけだが、祭司長、学者、長老たちがなんとかして、この新興宗教のイエスを、この民衆のデマゴーグ(扇動者)を、片付ける折もがなとねらっていたわけである。ユダヤ教の正統派がイエスを異端とし、イエスは彼らの「言い逆らいを受ける徴」であった。

 今でも正統信仰と自任する人たちが、ややもすると、本当は聖書の根源的現実を最もよく把握している人たちを排撃し、白眼視し、除け者にしようとする。いつの世にも預言者はその時代に容れられない。故里に貴ばれない、というわけだが、教会史をひもといても、先覚者、改革者たちは、殆どみな誤解されたり、認識されずに迫害を受けた。

 イエスはその最大の宗教改革者、人間革命者であった。全世界の歴史を二分した精神界の革命家である、ところがその当時において、イエスは大異端者で、磔殺の刑に処せられた。

 一般民衆は、イエスのめぐみにあずかっており、一応イエスの味方であるので、暗殺の実行が簡単にはできない。けれども結局、民衆は彼ら専門宗教家たちの扇動に乗っかって、イエスを十字架にかける手先になってしまった。

     小池辰雄著 「無者キリスト」より

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自らの既得権益を守らんとする宗教指導者、政治家達が、それまでの支配体制、秩序を覆さんと民衆の支持を受けるイエスを殺そうとする。自分が最後に世から抹殺されることを最初から予見しつつ、彼はその道を歩いた。彼の人生こそが道であり、真理であり、命なのだと信ずる者は、彼の通ったところをたどらざるを得ない。
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by dynabooksx | 2013-11-07 10:43 | 聖書の言葉

棄身の魂

 ここに呼び集められた人々には、何かある一つの特徴がありはしないか。それは心砕ける質の人たちばかりであるようだ。少なくとも傲慢な人間はそこには居ないはずである。罪過を犯しても、心砕けて告白する魂ばかりであろう。

 さて、イエスのご利益にあずかったーイエスはご利益をしたのではないーと思っている大いなる群衆が、ぞろぞろイエスに随いてきた。するとイエスはこれを顧みて言い放った。

 「人もし私に来て、その父母、妻子、兄弟、姉妹、自分の生命までも憎まないなら、私の弟子となることはできない。またおのが十字架を背負って私に従う者でないなら、私の弟子となることができない」(ルカ14:26,27)

自分の肉親、自分自身をも憎むとは、捨身(すてみ)であるということである。ただこの棄身はどこに棄てたらいいのか。ありがたいことに、この身の棄てどころは、キリストの中なのである。キリストの中に投身すれば、もの凄い力が来る。棄てたと思ったら、力が来て、我ならぬ我が活動をする。人生の秘儀秘訣はただこの一点に焦点する。そしてキリストの中に己を捨てることが十字架を負うことの秘訣である。
十字架を負うといっても、上からの力が来なくて負えるものではないからである。みたまの主がわがうちに来て、白熱の生命に変質されるから、そこに力が湧くわけである。それでこそ荷いとか抱きとかいうことが出来るのである。イエスは神のみ霊の人、イエスは神の中にいつも自分を棄てていた。それで神が彼に充満していたから、

 「我と父とは一つである」
と告白できたのである。

 「我とキリストとは一つである」
と、み霊に在れば、言える。しかし、それはどこまでも恩寵による信仰の現実であって、なまの現実ではない。我らの一切にかかわらず、われらをどん底より愛してわれらを救わんがためにおのが生命を棄てたもうたイエスは、ご自身を、今も述べたように、神の中に棄てておられた。これをしも無的実存という。
イエスを私が無者という真骨頂はそこにある。しかも人に棄てられ、棄石となったイエスは全人類の隅の親石となり給うた。われらもキリストの中におのれを棄てて、キリストのふところに入り、キリスト御自身を喰い、キリストという「福音的饗宴」にあずかろう。そしてこの御馳走、永遠の生命を隣人に分かちつつ、新天新地の神の国の「子羊の婚宴」の饗宴にあずからんや!

   小池辰雄著 「無者キリスト」より

ルカによる福音書14章16~17節
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by dynabooksx | 2013-11-04 06:27 | 聖書の言葉

信即行

あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。(レビ19:18)


 信仰一如は、どこにこれを体得する秘訣があるのか。それはレビ記19:18の
「私は主である」(原文「私はヤハウェ―[実存神]である)
の一言にかかっている。それは単なる付け足しの言ではなく、土台石の言である。原動力の言である。

「かく命ずる私はおまえの主である。信頼せよ、私が力を与えてやるから。おまえはできるぞ、させてやるぞ!」

という上からの力が我らの中に入ってくる力の言なのである。とかくプロテスタント信者が「聖言(みことば)」ということをいうけれども、ルターも「神の言」を強調したけれども(しかしルターはルター派の人たちよりもずっと聖言と聖霊を結びつけていたのではあるが)、もし神言を、み霊と共に現に受け取るのでなかったら、信仰は結局律法主義たるをまぬがれない。もちろんわれらの現実は信仰一如たることがむずかしいが、信仰一如の呼吸を身に体することが重要である。みたまが内住していると、たとい信と行の関係が跛行的であっても、信と行とが不可離の質ををもってくることはたしかである。みたまにあって、根源的に信即行の受け方をしない限り、福音は生きたものとならない。神の言が力とならない。

 キリストに「行え」と言われるとき、私たちはこれは律法の命令と解してはダメである。ところが福音書にたくさんでてくる、そういう命令または禁止的なキリストの言を福音として受けず、律法的にとっている読者が何と多いことだろう。キリストの「行え!」はただちに

「私が行わしてやる、私が力だから、私そのものをまず受けよ!」

とひびいてくる。そこがすなわちみ霊のキリストをうちに迎える事態なのである。そこに「行」が「信」と渾然融合する境地が開かれる。「信」そのものが、烈しい内的「行」として全身の投入、突入であり、行か信か、信か行か。信仰一如、無私無我。在るはただみ霊の主の御はたらき。これを無的実存とはいう。しかも、一人の僕(しもべ)。一人のはしためが、いとも人間らしく、心砕け、微笑をもって行ずるところの天的自然である。

       小池辰雄著 「無者キリスト」より
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by dynabooksx | 2013-11-02 08:35 | 聖書の言葉

「身証」こそが問題

イエスにとっては、神学的、倫理的な言や、紙上の答案が問題なのではない。身をもって答える答案、身証こそが問題である。だからイエスは付け加えて、

「そのように実行しなさい。そしたらいのちが得られますぞ。」
とさとした。

キリスト者が、いかに聖書を研究し、これに通じ、すらすら答えられ、あるいは論文が書けようと、説教ができようと、それが満点であろうと、それで天国には入れない。天国の門は、神が生活を文字と判じて入れて下さる門である。万人共通の文字とは生活そのもののことである。その他の一切の資格はここでは通じない。
「いかに生きたか」は、もはや単なる信仰でもない。人間は何びともこれを判定することをゆるされない。ただ神の判断による。それがイエスがここで「行え」の一語で要求した内容である。「全生涯そのもので行ぜよ」という意である。イエスはあるときは、ただ「信ぜよ」(ヨハネ6:29)と言う。それも「全生涯そのもので信ぜよ」なのである。
この「全生涯」も、ある場合は一日であるかも知れない。否一瞬であるかも知れない。その一日、一瞬が全生涯をひっくりかえすような一日、一瞬であるならば。

「信ぜよ」も「行え」も同然なのである。それは信行不離、信行一如、信行一貫であるからなのである。いわゆる信仰と行為といって因果関係的に、二段がまえ的に考える消息ではない。

    小池辰雄著 「無者キリスト」より

http://bible.com/81/luk.10.25-37.ja1955
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by dynabooksx | 2013-11-01 07:16 | 聖書の言葉

『十字架と無私』

「さいわいだ、たましいの貧しい人たちは、天国はその人たちのものだから」

とは、実にその言の奥に

「私の霊は無一物、何ものでもない、全く神のものだ。そしたら有難いことに、天の父が全く私を支配して下さっている。私はそんな天国になった」

という自身の体験の告白が秘められてあるのだ。「天国」という原語の「国」(バレイシア)「支配」を意味する語で、神意の支配するところが「天国」である。漢訳聖書には「虚心者福矣以天国乃其国也」とある。すなわち「虚心なる者は福なり、天国はすなわち其の国なるを以ってなり」とよむ。
霊の貧者を虚心なる者と訳した。虚心とは無私の謙虚な心ばせの意であるから、なかなかよい訳語だと思う。
とにかくこの山上の垂訓の第一言をイエスの告白と気がついたら、要するにイエスの言はすべてその本質においてイエスの告白であると実感するに至り、私はふしぎな力にうたれた。そして私はイエスの中に投げ身するより仕方がなくなった。「キリストに倣いて」ではなく、「キリストの中へ」という棄身の衝動にかられた。するとまたこの第一言はふしぎに次のようにひびいて来た。

「幸(しあわせ)だよ。おまえは、たましいが貧しくなったね。天国はお前にやるよ」

と。ああ何かをのぞもう! このイエスのみ言のほかに。
 私の投身したのは、キリストの聖言(みことば)の中に。それは「貧しさ」の極地なるキリストの実存の極みたる十字架の中への投身であった。キリストの中に入って、キリストの愛の十字架に十字架され、私がすっかり罪から解放され、「私」からすっかり脱落している無私、無我を体受したとき、何とそれは楽な、鴻毛よりも軽い、深山の霊気よりもすがすがしいたましいの誕生を見たことか。その十字架の無言の言で、「私」はすっとんでいることに気がついた。十字架という事実にまさるいかなる烈しい強い愛の言が天上天下いずこにあるか。行即言である。
事実をもって迫る無言の言、事実という言が人間のたましいを動かす。「十字架の言」とパウロがいったのはこのことである。

 私はキリストの十字架で、すっかり自分の霊が「無私」とされ、「貧しく」されているのを発見した! 私はもう何も憂えない。霊的傲慢やパリサイ的信仰や御利益や観念は、真にキリストにつく者の世界にはない。山上の大告白のこの第一言は、これらの逸脱や転倒や安易やズレに対する最大の否! である。イエスの全福音は実にこの第一言で喝破されている。キリストの福音は何だと問われるなら、私はイエスのこの第一言をもって答えるに躊躇しない。

「霊が貧しい」とは、私たちの霊がすっかりキリストの十字架で贖われ、砕かれている恩恵をうけとることをいう。そして「砕け」そのものを「貧しさ」そのものを「無」私そのものをわがたましいの姿となすことである。それは第一のアダム、旧き我の「死」の相である。

       小池辰雄  「無者キリスト」より
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by dynabooksx | 2013-03-04 21:24 | 聖書の言葉

「神の国は近づけり」

洗礼のヨハネが先ずユダヤの荒野で、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ3:1)

と宣言した。今までの生活態度を転ぜよ、転向せよ、という積極的な勧めの言葉が、「悔い改めよ」(メタノエイテ)である。天国を迎える準備は心魂の転換である、というのである。
 ヨハネはたたみかけて烈しい言葉で、現在の生活態度を責めた。最後の預言者として烈しく審判の言を投げ、特に王ヘロデが弟ピリポの妻ヘロデヤを奪ったことを非として難じた。そのためにヨハネは捕えられ牢に投げ込まれた。

 この知らせに接するや、イエスはガリラヤに退いて深く祈り、故郷ナザレをあとにして、ガリラヤ湖の北辺のカペナウムを根拠と定めた。そしていよいよ伝道に立ち上がったのである。

 その第一声が洗礼のヨハネの悲願を受けて、

「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(マタイ4:17)
「時は満てり、神の国は近づけり。汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)

 時は満ちた、機は熟した。ユダヤ教がゆきづまったからである。神の国、すなわち神の威光と恩寵のあふるるところ。天国、すなわち神の意志が自由に体現されるところ。そういう天来の霊気が漂うときが、到来した。その何よりの証拠は、かく宣言するキリスト自身がそのような天国体であり給うところにある。

 ヨハネ福音書第一章にある如く、キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのものである。

 彼が「悔い改めよ」「回心せよ」というとき、それはおのれを問題とするな、人を問題とするな、右顧左眄はいらぬ、ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということである。

キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくことこそ肝腎である。キリストの言行は本体の現象面である。この現象面を媒体として本体を体受しないで何で「福音を信ずる」ということができるか。イエスのこの伝道の第一声はこのような気合で受けとめてかかることが大切なのである。

   小池 辰雄  「無者キリスト」より

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キリストは神の霊言の実体で、不滅永遠の生命であり、罪の世を照破する光であり、神の恩恵と真理に満ちた体現者であり、惜しみなくこの一切を与える救主である。すなわち彼が天国体そのもの
ただ私にひたむきに来よ。無条件に私自身をやる、という気合である。「福音を信ぜよ」とは、この福音体なる私を体で、全存在で受けよ、全存在を私に投げ入れよ、ということ
キリストの言や行を福音書でいくら研究しても、研究といった角度でそれがわかるものではない。それらの言や行の発言体そのものたるキリストの中におのれを投げ入れ、祈り込んでゆくこと

文体もあるのだろうけれども、どこにも無駄がない。信じ受け入れた人にとっては当たり前の内容だけれども、それを体験したことのある人物が、どういうわけか現代のキリスト教会にはかなり少ないことがわかってきた。それで世の人々は戸惑いを憶えてしまう。イエスが感じたユダヤ教の行き詰まり、とはそのようなことだろう。
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by dynabooksx | 2013-02-21 12:43 | 聖書の言葉

聖霊の火

『聖霊の火』

彼はまたこうも言った。

「私は火を地に投ぜんために来た。この火がすでに燃えた以上、私はまた何をか望もう。けれども私には受くべきバプテスマがある。それを成就するまでは、何と思い迫ることか。私が地に平和を与えんために来たと思うか。私はあなた方に言うが、そうではないのだ、反って分争である。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に分れ争うことになる」(ルカ12:49~53)

 火は何か。聖霊の火である。聖霊の火が点ると、生き方、考え方がちがってくるので、この世的な生き方の人々と分裂が生ずる。しかしこれも分裂のための分裂ではない。真の和合への分裂現象である。しかし、他の者たちがこの不滅の火を受けようとしないならやむを得ない。しかし聖霊は愛の火であるから、聖霊を受けた人は、愛をもって荷い、耐え、望んでゆくのが本当である。
キリストと共に十字架を負う光栄を賜る。聖霊の力はよろこんで十字架を負わしめ、天国をそこに現じつつ歩かせる。このような霊燈を万里のかなたまで運んで人々の胸に点火することが本当の伝道あって、「伝燈」と申したいくらいである。

     小池辰雄 無者キリストより
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by dynabooksx | 2013-02-18 13:41 | 聖書の言葉

ゲンさんの絵

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本日ゲンさんが、島田の最終処分場前で画を描きました。テーマは「活き活きと躍動するいのち(神の思い)」だと思います。わたしはこれに言葉を添えたいと思います。

初めにあったのは神さまの思いだった。
思いは神さまの胸にあった。
その思いこそ神さまそのもの。
初めの初めに神さまの胸のうちにあったもの。

神さまの思いが凝ってあらゆるものが生まれ
それなしに生れたものは一つもない。

神さまの思いにはあらゆるものを生かす力があって
それはまた、生きる喜びを人の世に輝かす光だった。

光は人の世の闇を照らしているというのに、
闇に住む人はそのことに気がつかないでいたのだった。


ヨハネによる福音書第一章(ガリラヤのイエシューより)


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これは、天地創造前の絵。

追記、、
福田さんが、素早く合成で作ってくれました。
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by dynabooksx | 2012-11-07 18:41 | 聖書の言葉

詩篇 第46篇

1神はわれらの避け所また力である。悩める時いと近き助けである。2このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。3たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

[セラ4一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまい喜ばせる。5神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。6もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く神がその声を出されると地は溶ける。

7万軍の主はわれらと共におられるヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ8来て、主のみわざを見よ、驚くべきことを地に行われた。9は地のはてまでも戦いやめさせ折りやり断ち戦車火で焼かれる

10「静まってわたしこそ神であることを知れわたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。11万軍の主はわれらと共におられるヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ




10節の箇所。引用は口語訳であるが、「静まれ」というところ、新共同訳では「力を捨てよ」となっており、直前の節の内容と結びつきやすくなる。武器を捨て、力を捨てよと言うのだから、要するに無防備になれということ。必死に戦ってそれでもなお圧倒されてくる現状なのに、武器を捨てたら死んじゃいますよあなたという世界、、。この詩の作者は何がいいたいのでしょう。


1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。



でも、注意深く本文を読んでいくと、神自身が戦いの道具を焼かれる。それらが必要ないようにされると書いている。それによって人々は、力を捨て、神を知ることになる。「知る」ということは、神に心を寄せる、信頼を寄せるということ。人は神を知らなければ、その存在の保証をしらなければ、武器を取り自分で自分の身を守るべく戦わざるを得ない。しかし、神との関係を回復し、いのちを得た人にとっては、それは必要のないことだ。彼はいのちの使い道を知っている。与えられた自由を用いて存分にこの世界を飛び回る。それは「避けどころ」を知っているからだ。私達の避けどころ、それは十字架の下、、、。不安と欲とによって誘惑をし、戦いを仕掛けてくる敵に対して唯一対抗出来る場所。逃げ込む場所はすぐ側にある。自己を放棄して生きる道。誇り高い人間の尊厳に逆行して生きる道。イエスがその身を犠牲にして指し示した道。もはやわたしはその事以外は語らない。


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by dynabooksx | 2012-10-17 04:10 | 聖書の言葉

クリスマスが近づいてくる。田舎だと正月のイメージだが、町だとよりその感覚が強い気がする。このイザヤ書の箇所は紀元前700年ごろ書かれたと言われており、遥かあとになって生まれ来るメシヤ(ギリシア語のキリスト、救い主の意)を預言したものである。(正確には旧約全体がそうであるが、、、) 

まさに『誰がそれを信じ得たか』だ。誰がそんなことを予想しただろう。イスラエル民族を救うための王が、こんな姿で現れて、死んで行くなど、、、。そして、預言者たちが記述し、その意味が定かではなかったたくさんの箇所が、この一点を指し示していたということなど、誰が想像しただろう。彼が地上にやって来て、人々の前に現れ、様々な業や言葉を残し、その預言が成就されていくまで、真理は伏せられていたのだった。

私達は彼の生き様、死に様によって、道とは、真理とは、命とは、義しさとは何かを知るに至った。彼は痛みを知り、弱さを知っていた。その弱さの内に、私達を罪から解放する強さを宿していた。

彼が十字架につけられたのは、彼自身の神に対する冒涜のため当然だと私達は考えたが、のちに大きな思い違いをしていたことを知ることになった。彼が間違っていたのではなく、私の目が濁っており、あり方が歪んでいるが故に、彼をキリストだと認めることが出来なかったのだと、、、。

待ち望んでいた救い主を、役立たずだと投げ捨てた後で、失ったものの大きさに気づくとは皮肉なものである。そのような犠牲によらなければ、私達は何をどこでどう間違えてしまったのかを知ることはおろか、どうやってそれを取り戻すのかなど思いもよらなかった。

これによって、『めぐみ』ということを知るのである。人類の歴史にあった最大の出来事によって発した事実が、いま終わりの時代にあって、急速にその集約点へと向かって行く。

今年のクリスマスは今までとは違う。福島にあった日常が消え、そこにはもはや当たり前にあったそれがない。ただ思うのは、2000年前にあった出来事が、いかに特殊で非日常だったかということだ。その時は、ユダヤの片隅であった出来事が、後に世界を巻き込んでいく物語へと発展するなど誰も予想しなかった。特別なこととは、目立たない日常の中に先行して起こされることだ。いまだ見えない未来へと、その足音が聞こえないだろうか。主が来られる。



イザヤ書第53章

53:1だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。

53:2彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。

53:3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。

53:6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。

53:7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。

53:8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。

53:9彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。

53:10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

53:11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

53:12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。


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by dynabooksx | 2011-12-10 01:03 | 聖書の言葉

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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