カテゴリ:暗唱聖句より( 3 )

聖霊がもたらすもの

私が発する言葉、主張の中に数多く『聖霊』という句が多く含むであろう。聖書というのは、内容に膨大な厚みを持っていて、読み手の心の内や理解を映し出す。去年の12月からというもの、これを示す言葉が非常に目についてくる。逆に言えば、それまでは読んでいてもさらりと読み流していて、クローズアップされて来ていなかったというわけだ。

聖書のあらゆる記述は、この聖霊に集約される。これはイエスが旧約聖書の主は自分なのだと宣言されたことと符合する。イエスのあらゆる活動は、彼の内にあり、天の父の想いに対してそのまま働く聖霊によって支えられていた。だから、私たちがこの聖霊を受け取る時に、イエスが語っていた全ての意味を理解する。イエスを動かしたそのもの自体を受け取ることになるからだ。イエスは、自分が十字架にかかる時期が迫ってきた時に、弟子達に残した言葉。


その日には、わたしわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 14:21わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身あらわすであろう」。ヨハネによる福音書


私が最近大変気に入っている聖句だ。これは口語訳だが新共同約で暗記している。『その日』とは、この聖書の場面では、最短でイエスの復活の後に起きるペンテコステの出来事を指しているが、つまり聖霊が下る日だということだ。このすぐ後の箇所には、


14:26しかし、助け主すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。


とある。その時、かつてイエスが語られたことを思い起こされるとは、その時になって初めて、語られたことの本当の目的、意味を見出すということだ。これが助け主といわれる聖霊の役割なのだ。


本文に戻る。新共同約だと、こうなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたが私の内におり、わたしもあなたがたの内にいることがあなたがたに分かる。

『内』という言葉が入るとより分かりやすくなると思う。つまり聖霊が下る時、イエスが父の内にいる。これは、イエス自体が繰り返し語ったことなのだが、イエスが父の語るように語り、思うように思ったということが分かる。そして、あなたがたとは私たちのことであるが、私たちがイエスの内にいる。私たちが、イエスの思いに包まれていることが分かる。そして私たちの内にイエスが住んでいることが分かる。聖霊を受ける内住するということは、そういうことだ。

後半

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

口語訳で『いましめ』とされているが共同約では『掟』と同じ意味だが、これはここのところ繰り返しやっている『互いに愛し合いなさい』だ。イエスが弟子達に命令として与えるこの掟を守る者は、イエス自身を愛する者であると、、、。弟子であれば、師の思いを成し遂げたい、遺言を実現したいと願うはずである。イエスを愛する者は、イエスを地上に遣わした創造主なる神、父なる神にも愛されることになる。そして最後の所、イエスもまたその人を愛して、その人にイエス自身を表すのだと言う。

これで、聖霊の為すところであり、イエスが実現しようとしたことが明確に分かる。聖霊は、私たちを神の支配の中に服従させることにより、神と人との関係を相互の愛によって、完全に回復させる。そして、イエスの弟子をイエス自身へと作り替えるのだ。だから、聖霊を受けるということは、神と人との融合、一致なのだ。

だが、同時にそのことを話し、真っ直ぐに主張したばかりに、イエスは十字架にかけられた。お前は神を汚していると、、、。罪ある人間は、その傷跡と恐れのために神を拒絶する。そしてあらゆる手段をつかって、自分を正当化する。あまりにも大きな間違いに、自力で向かい合うことが出来るほど、人は強くないのだ。それが死に直結する内容のことだと分かっていればなおさらのことだ。

だからこそ、その責めを自分が代わりに負って死ぬことでしか、その大きな隔たりを埋めることが出来ないことを知っていて、それを計画していた父の思いに忠実に従った。そして、自分の生き様、死に様をもって示し、切り拓いた、父の元へ至る道、十字架の道、自己を放棄して他者へ仕える道へと私たちを導こうとされた。その事を、聖霊が下る『その日』、私たちは知ることになるのだ。
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by dynabooksx | 2011-11-10 04:09 | 暗唱聖句より

イエスの遺言

子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたは私を捜すだろう。「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

                             ヨハネによる福音書13章


いましばらくあなたがたと共にいると言ったのち、まもなく姿を見なくなるという別れの直前の場面。いわばこれはイエスの遺言である。複数の聖句を絡めると立体化するが、そうすると幅が広がるので、今回はそういう論理構成は用いない。ずばりその与えられた遺言自身に目を向ける。

あなたがたに新しい掟を与える。以前は戒めという訳もあった。つまり決まり、律法、命令のことである。イエスはユダヤ人達に対して、聖書(旧約聖書)の主は自分なのだと答えられた。旧約聖書の中心である律法の主は自分であり、その私があなたがたに新しい掟を与えると言う。つまり、律法の本質はこれなのだと示したのだ。

互いに愛し合うこと。親しい人との間でならこれも可能かもしれない。しかしこの愛し方には条件がある。「私があなたがたを愛したように」だ、、、。イエスが、弟子達を愛したやり方で愛せとな、、。イエスの生き方の全ては十字架に向かっているので、十字架における自己放棄の仕方で互いに愛しあえと言う。こんなことは、イエスの内側で彼を動かしていたものと同じものが、私達の内になければ実現不可能だ。それをどうやって実現させるかは14章以降に書いてある。それは、また別枠でやる。


後半。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

互いに愛し合うという特徴が、イエスの弟子たちの性質であり、それが大きなインパクトになる。私は、これこそが伝道であると思う。14章以降に繰り返し出てくる。わたしを愛する者は、私の掟を守ると、、、。つまりこれが実現していることが、私たちがイエスを愛していることを示し、またイエス自身を表すことになる。とこういうわけだ。
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by dynabooksx | 2011-10-28 09:02 | 暗唱聖句より

生ける水の流れ

先に予告していたとおり、暗唱聖句のカテゴリーをつくった。神から与えられている私の召しは「言葉」に関してのもので、それを正確に伝達することだ。だからある人から見ると、私は言葉に対して以上に高い関心を持っているように映るようだ。

長い信仰生活を送ってきた人であっても、私が聖書について語ると、初めて聞いたかのように目を丸くする人がいる。それはきっと、私が聖書が汲み出してくる真理に対して、混ぜ物をしていないからだろうと思う。極めてシンプルだからだ。現実に合うように変形させたほうが、人に広く受け入れ易いように思われるかもしれないが、私が仕える方がそれを許さない。お前の私情をはさまず、そのまま伝えよと言ってくるので仕方がない。おそらくいいように加工すれば、その意図を曲げた私に責任が来るだろう。


聖書の言葉を一言一句暗記しようとすると、普通に流して読んでいては気がつかない側面が見えてくる。記憶という者は連鎖的になっていて、常に意味のつながりを探ろうとするからだ。聖書の中で「真理」と表現されることは「霊的な真理」なので、私達が通常この世界で生きてきて表面的に見える理とは内容が一変している。だから、その延長で記憶、理解しようと思ってもいったい何のことを言っているのか全く見当がつかず、途方に暮れる。心配することはない。イエスに付き従って、ずっと側にいた弟子達であってもそうだった。私たちがそのようであるのはもっともなことだ。

前置きが長くなったが、今朝暗唱しようとしている聖句。


イエスは立ち上がって大声で言われた。渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じる人は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。
                         ヨハネによる福音書7:37


日本語として意味を考えれば、全く荒唐無稽な文章だろう。まず渇きを感じる人がいて、こっちに来て飲めという。喉の渇きを癒すという場面なのに、次に続く言葉は「私を信じる人」だ。さらにさらに、その人の内から川が流れるとな?? 訳が分からない。もう止めておこうとなるのが普通だ。

実は私も、この聖書の言葉が本当の事を言っているのかどうか長い間疑問であった。なぜなら、自分はたいへん渇きを覚える人間であることはよく分かっており、イエスのところに行って飲むこともしていた(教会に通っていた)はずであった。しかし、また渇くのである。とても、川が流れ出るほどに満たされるなどということはない。すぐまたパカパカに渇く。この聖書の記述は本当のことなのか? と長い間疑問だった。後に聖霊が、私のあり方を一変させることによって、その疑問は解決するのだけれども、かなり長い間、ずっと腹に留めて追求し続けた。あきらめの悪い性格なのである。

あっさりとだけ私に示されたことを書きたい。まず人が感じる「渇き」とは何なのか。そしてイエスの下に来て飲めというものは何なのか。それは続く言葉で分かる。「信じる人」だ。つまり、イエスが飲ませようとしているものは彼に対する「信仰」なのだ。そして、私たちの渇きの本質もまさにそこにある。いったい何が信用に足るものなのか、何が確かなものなのか。激しく移り変わり、それまでこれは大丈夫だと思っていたものに足元をさらわれるような世の中にあって、人々は深く傷つき、渇く。イエスは、自分に対する信頼によって、創造主と被造物である我々を連結させ、一つにしたいと願っている。だから、そこに繋がれた人は、その豊かな与え手によって、あらゆるものを流れ出させる存在へと変えられるのだ。それらは、その人の内から出てくるものであるが、その人のものではない。だから、尽きることのない川の流れのようになる。全ては信じることによって、繋がれ、発揮されるように出来ている。これ以上やるとしつこくなるので、止めておこう。
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by dynabooksx | 2011-10-26 06:27 | 暗唱聖句より

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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