聖書のあらゆる記述は、この聖霊に集約される。これはイエスが旧約聖書の主は自分なのだと宣言されたことと符合する。イエスのあらゆる活動は、彼の内にあり、天の父の想いに対してそのまま働く聖霊によって支えられていた。だから、私たちがこの聖霊を受け取る時に、イエスが語っていた全ての意味を理解する。イエスを動かしたそのもの自体を受け取ることになるからだ。イエスは、自分が十字架にかかる時期が迫ってきた時に、弟子達に残した言葉。
その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 14:21わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。ヨハネによる福音書
私が最近大変気に入っている聖句だ。これは口語訳だが新共同約で暗記している。『その日』とは、この聖書の場面では、最短でイエスの復活の後に起きるペンテコステの出来事を指しているが、つまり聖霊が下る日だということだ。このすぐ後の箇所には、
14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
とある。その時、かつてイエスが語られたことを思い起こされるとは、その時になって初めて、語られたことの本当の目的、意味を見出すということだ。これが助け主といわれる聖霊の役割なのだ。
本文に戻る。新共同約だと、こうなる。
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたが私の内におり、わたしもあなたがたの内にいることがあなたがたに分かる。
『内』という言葉が入るとより分かりやすくなると思う。つまり聖霊が下る時、イエスが父の内にいる。これは、イエス自体が繰り返し語ったことなのだが、イエスが父の語るように語り、思うように思ったということが分かる。そして、あなたがたとは私たちのことであるが、私たちがイエスの内にいる。私たちが、イエスの思いに包まれていることが分かる。そして私たちの内にイエスが住んでいることが分かる。聖霊を受ける内住するということは、そういうことだ。
後半
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
口語訳で『いましめ』とされているが共同約では『掟』と同じ意味だが、これはここのところ繰り返しやっている『互いに愛し合いなさい』だ。イエスが弟子達に命令として与えるこの掟を守る者は、イエス自身を愛する者であると、、、。弟子であれば、師の思いを成し遂げたい、遺言を実現したいと願うはずである。イエスを愛する者は、イエスを地上に遣わした創造主なる神、父なる神にも愛されることになる。そして最後の所、イエスもまたその人を愛して、その人にイエス自身を表すのだと言う。
これで、聖霊の為すところであり、イエスが実現しようとしたことが明確に分かる。聖霊は、私たちを神の支配の中に服従させることにより、神と人との関係を相互の愛によって、完全に回復させる。そして、イエスの弟子をイエス自身へと作り替えるのだ。だから、聖霊を受けるということは、神と人との融合、一致なのだ。
だが、同時にそのことを話し、真っ直ぐに主張したばかりに、イエスは十字架にかけられた。お前は神を汚していると、、、。罪ある人間は、その傷跡と恐れのために神を拒絶する。そしてあらゆる手段をつかって、自分を正当化する。あまりにも大きな間違いに、自力で向かい合うことが出来るほど、人は強くないのだ。それが死に直結する内容のことだと分かっていればなおさらのことだ。
だからこそ、その責めを自分が代わりに負って死ぬことでしか、その大きな隔たりを埋めることが出来ないことを知っていて、それを計画していた父の思いに忠実に従った。そして、自分の生き様、死に様をもって示し、切り拓いた、父の元へ至る道、十字架の道、自己を放棄して他者へ仕える道へと私たちを導こうとされた。その事を、聖霊が下る『その日』、私たちは知ることになるのだ。














