カテゴリ:信仰者の歩み( 31 )

よくよく思い返してみると、あの震災以降、落ち着いて会社のことを書いたことが一回もない。私の日常の非常に多くの部分を占めていた社員達との生活。それがあの日、一瞬にしてバラバラになり、消し飛んだ。震災直後、海岸線に住んでいる祖父と助けて戻った後、町の記録を撮るためにすぐまた出かけて言ったため、渋滞の中帰ってきた社員達には、その日、朝のミーティング以来、顔を会わせないまま別れ別れになることになった。

私が、実家の双葉町に帰ってから約10年、気が付くと引き継いだ会社は、いつの間にか教会のようになってしまっていた。というのも、様々な過程があったわけだが、私はクリスチャンとして困っている人を助けたいという思いは最初から持っていて、気が付くと様々な問題を抱えている者ばかり雇ってしまっていた。それで何とかしてそれぞれの生活を立て直したいと思うわけだが、問題が重ければ重いほど、つぼにはまっていてとても動けそうにないものばかりだ。それを見て、事務の手伝いに来てくれていた叔母さんは、『この会社はどうしてこんなに問題ばかり抱えている人ばかりなの??』と思わず口にしたほどだった。

世の中一歩踏み込んでみると、考えられないような不幸や不運に見舞われて身動きが出来なくなっている人がたくさんいる。ああ、それは仕方がないよぉというやつや、どうしてそこで、またそうしてしまうのかなぁ、という残念なものまで様々だ。しかし、人間どんな状況に置かれたとしても、そこで生きているのはその人自身だ。その人がそこでどのようにその問題を捉え、どのように解決していこうとするかを決断することで、変えていけるものなのだ。しかし、問題が問題として残り続けるということは、様々な制約のなかで閉じ込められているからこそ身動きができないのだ。

それには、どうしてもその人自身が変わる必要がある。その生き方でこだわろうとする限りは、常に同じ問題にぶつかり続けるからだ。力でそれを乗り越えられるのなら、とっくに解決しているであろう。出来ないから悩むのだ。であれば、生き方の方向を変えるしかあるまい。だが、自力でそんなことを器用に出来るほど人間は便利には出来ていないのだ。

だから、どうしたら根本的な解決をもたらすことが出来るだろうと考えていたところ、やはり私の短い人生の中で見当たるのは聖書しかないという結論に達したのだ。昨年の12月の終わりに、復活のイエスに出会うという大きな変化をもたらす体験をしていた私は、示されてくることを次々と実行していった。

まず、新年の仕事始めに於いてこのような話をした。

わが社の業務はサービス業である。サービス業に置いては顧客とのコミュニケーションが大変重要になる。顧客が何を考え、何を提供できるかを素早く掴むことが、質の高いサービスをもたらすことになるからだ。人との会話とは、通常少ない言葉のやり取りなのだが、その内容から、前後を予測したり、行間を読むことで相手を立体化させる。その能力が高ければ、仕事はぐっとし易くなる。そのための訓練をこれからしたいのだけれども、その教材として、何を使ってもよいのだが、私は『聖書』と用いたいのだ。聖書には聖書の書き手がある。書き手が何を伝えようとしているかを、考察し、予測することで、いい訓練になるはずだと、、、。

ちょうど知り合いから、聖句日めくりカレンダーを頂いていたので、それを使うことにした。毎日めくるその言葉は大変短く、それだけで判断するのは難しく、また危険なので、社員全員に聖書を配布した。

やり方は、まず一人が読み上げて、その内容について全員に意見させる。気づいたことでも、疑問に思った子とでも良い。具にもつかないことを言うと、何を言いたいんだ? と私に突っ込まれるので、社員は出社すると、すぐに聖書箇所を調べて必死に前後を読み込む。一人が疑問を提起すると、大抵そこに自分の考えを重ねてくる人物がいる。それは、いつもの仕事のチームワークもそうで、立案したりフォローしたりするのは大体タイプが決まっているからだ。そうして、勝手にやり取りが始まって、落ちついた頃に私がまとめて短くメッセージするのだ。

その繰り返しなのだが、通常キリスト教会であれば週一回の集まりであるが、会社の場合は5~6回だ。しかも活動を共にする共同体がある。不思議と、毎日の箇所が連動していき、一気にその議論の内容も深まって行く、この前やったあれとあれは同じことを言っているんじゃないのかとか、あそこでのこの語句と、ここでの使い方は違うようだとか、自ら発見をしていくのだ。

私は彼らと毎日行う、そのミーティングという名の礼拝が、一日に一番楽しみな時間だった。そこで何が出てくるのか予想がつかないからなのだ。そして彼らの内に真理が明らかになり、人格が造り替えられるため、それまで解決不能だと思われていた問題が、いつの間にか霧のように消えて行くのを見るときに、最も喜びを得るのは他でもない私であっただろう。


これは3月2日。何が出てくるのか分からない~肉からの自由~


震災によって、彼らと引き離された時、私にとって彼らが家族同然の位置を占めていたことをよくよく思い知らされた。わが社では、終末論的なことは、朝の挨拶のような感覚でいつも話し合われていたことだったので、社員達は、やはりその時が来たという感じで、あまり堪えていないのかもしれない。一番効いたのは私だったのかもしれない。だた、もう時間がないと切に迫られる中で、やれるだけのことは即やってきたという自負もあり、後悔はない。運良く生き残ってしまったので、後の残された人生を、与えられた目的のために使い燃焼させるだけだ。

社員には、よくこう話してものだ。『日常とは、何気ない毎日の単調な繰り返しのように見えるが、よく見てみると大きな変化がたくさんある。そして、本当に物事が動く時には凄まじい速度で動いて行く。だから毎日を一日一日大事に生きるんだぞ』と、、、、。

自分で話していながら、実際まさにその通りである。私自身も自分で語ってた内容が、何を指し示すものであるのかを明確に意識しないで話していて、時間が経ってビックリするということも多々あった。そのための記録としてこのブログは大いに役にたった。私個人としてのメモではなく、その時多くの人にそれを共有することが出来たからである。


今も社員の数人は私のブログをきっと見続けていてくれるだろう。いま私は、ここ東海に来てまた不思議な体験をしている。福島にいては、出会うことがなかったような人材とよく絡む。ああ、日本といえど広いんだなぁと感じ入る。単に場所が違うだけではなく、私がアクセスする場所とか感度とかも違ってきているからなのだろう。たった半年だが、もうかなり離れがたくなってきてしまっている。目標は、上から与えられている仕事をきっちりこなして、引退することだ。的を完全に捉えつつ、全力で走り抜けたいものだ。社員のみんなの上にも、私の上にあるものと同じ祝福が、いつも行く所を追いかけると信じる。そして許されるのであれば、また共に暮らそう。まず私が道を切り開くから、、、。悲嘆にくれている時間はない。引き続いて時が迫っている。これからはチャンスは一度だと思ったほうがいい。

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西浦海岸の夕日。こっちで知り合った家族とうちとでサイクリング。

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by dynabooksx | 2011-11-15 00:02 | 信仰者の歩み

ダイヤの原石を探して

最近人に会う機会が特に多くなった。だいたいは、普通数年かけて知り合うところを数日で達成するような密度でだ。時間がないという思いがそうさせるのか、私の集中力を高めてくる。

先日もダイヤの原石のような人に会った。これまたなんとこの世知辛い世の中で、よくもここまで生き残ってきたなぁという方だ。同時にその人に対する神の強い愛を感じた。

灯台下暗しとはこのことだ。見えているようでなんと見えていないものかと自分を恥じた。感度は全方向に対して開いておかないと、決定的なチャンスを逃してしまうということが多々ある。若造とはいえ、ここまで来るのに34年も経ってしまった。神の忍耐という他ない。

気が付かないだけで、一番必要としている宝はすぐ手の届く目の前にあるということがよくある。要は自分の目が濁っていないことだ。
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by dynabooksx | 2011-09-29 06:15 | 信仰者の歩み

これからのこと。

もうすぐフェリーも仙台港に着く。懐かしいはずなのに言いようのない胸騒ぎがするのは何故なのだろう。愛する福島も、線量計の電源さえ入れて置かなければ、何も変わらない景色だ。一見何も変わりが無い、何の問題も無いように見えるという所が恐ろしい。

旧約聖書に出てくる預言者達はその与えられる言葉に応じて世に警告を発した。何も変わらず平和な日々に向かって、今目の前に迫りつつある破局について語り、大抵は時の権力者や人々の怒りによって殺された。

今回の旅の最後の所は、帰りのフェリーの予約が取れなかったために一週間キリスト教会に滞在する事になった。何人かの人と個別に会い、じっくりと話をする事ができた。皆私よりも遥かに年輩の方々で、その人生に刻み込んだ歴史に触れた思いがした。その信仰者達に、私が出来ることは何だろうか。
恐らく私よりも早く人生の終わりを迎える彼らが望むこと、、、。それは彼らの走った所がどんなに曲がりくねった所であったとはいえ、それに繋がれていく者達がいて、実を結ぶということだろう。信仰によって夢を抱いている老人も、出来れば命あるうちにその夢の片鱗でも私達の世代が実現化させて安心して送ってあげたいものである。

どんな組織であってもそうだが、そこではそこならではの決まりがあり、秩序がある。そこでしか通用しないものであるかもしれないが、現実それを良しとする人が多数を占めることで維持されているのが普通だ。
今回長めに滞在してみて、今の私にはキリスト教会によく見られる内向きである組織の論理が、もうほとんど心に響かないようになってしまっているのを、何となく寂しい気持ちで感じていた。自分が歩いて来た所を再確認する思いがした。これで、あらためて一区切りがついたというものだ。

さてこれからどこに向かうのだろうか。静かに耳を傾けようか。
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by dynabooksx | 2011-08-22 09:20 | 信仰者の歩み

先日、自転車仲間と私の信仰について少し話す機会がありました。当たり前のことですが、人によって、私のブログは様々に映るようです。

自転車乗りにとっては、自転車関係の記事を楽しみに読んでくれるでしょうし、似た信仰を持つ仲間達はそっち関係の記事が出るのを待っているでしょう。はたまた、どっちも待っていなくて、見たくはないんだけども何故か見てしまうという不思議な人もいるでしょう。

私の中では別に意識して区別をしているわけではありませんで、どちらも自然にリンクしているものです。自転車に乗っている間も私にとっては礼拝のようなものです。人のいない山や森に入っていく時、自分の息遣いしか聞こえないような時は最高の時間です。

でも、この二つを比較してどちらが重要かと問われたら、それは比較する土俵に乗る種類のものではないでしょう。自転車は肉体の健康を保つための手段であるし、信仰は私のあり方、存在全体を規定してくるものであるから、比べるまでもない。このブログも昔の記事にさかのぼると分かるように、もともと信仰と生活の記事がベースにあって、自転車関係の記事は後で徐々に増えてくるようになっている。だいたいにして、本格的に復帰してやるようになってまだ3年ですからね。


ということで、今回は今度の金曜日、12月14日にいわきの小名浜で行われる集会の案内を載せます。まぁ、問題なく毎日を楽しく送っている人は関係ないのですが、今回のテーマは「苦しみの意義」となっています。世の中不公平で不条理に見える人生の痛み、苦しみにおいて聖書がなんと言っているのかを語ってくれるはずです。当日、私は車で行くつもりなので、行きたい人はいわき駅までなら迎えに行きますよ。興味がある方がいたら、dynabooksx@gmail.comまでメールを下さい。勝手にネットに頂いたチラシを載せますが、私じゃなくて直接書いてある所に電話してみても良いと思いますよ。別に案内として配布しているものでしょうから、怒られはしないでしょう。たぶん。
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by dynabooksx | 2010-12-14 08:50 | 信仰者の歩み

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 朝3時過ぎに目が覚めてしまった。妻もそのようでどこか興奮した様子で、電気がついていた私の部屋に入ってきた。昨日、レース終盤で私が思いっきりアタックをかけていた頃、東京杉並に行っていた私の分身のような彼も強烈なアタックをしていた事だろう。きっと、歴史的な日になるよと2人で話していたが本当に良い時となったようで何よりだ。

 もう少ししたら朝の学びが始まる。今やっている前の課は聖霊についての所だった。私の母は正直な人で思ったことを何でも口にする人だ。半分は私もその性質を受けているので、彼女の内面の変化は手に取るように分かる。『聖霊の満たし』について深く考えたとき、彼女の内側に大きな動きというか揺さぶりがあったのを感じた。それまで漠然ともやを見るように感じていたそれをしっかりと自分の中に感じたのだろう。クリスチャンは『委ねなさい』と言われるが、それを道徳としてではなく具体的にどういう事なのかということが、聖霊の内住によってはっきりしたのだろう。
 彼らは、真也の学び(真也の行う学び会)と朝の会を呼ぶが、実際私は自分がやっているとは全く思っていない。私がしたいのは私の価値観を押しつける事ではなく、彼らの内に新しい発見が起こっていくようにする帰納的な学びなのだ。基本的に、私は聖霊のしようとすることの邪魔をしないことを心がけているのだ。今回は、霊的世界の解き明かしが一気に進んでいったように見えたので、私も嬉しくなった。

 『聖書を見てごらん。聖霊が働く箇所になにか共通の表現が頻出する。それが何か分かるかい?』

とこう質問する。一通り考える時間を経た後、『まま』(そのまま、そのとおりに)
という表現がたくさんあるでしょ? ほら、またあった。『御霊が導くまま』と、、、、。

 これが分かるようになると、信仰生活は一気に面白くなってくる。クリスチャンはすべてが自由だ。この霊に導かれる限りこの世の何の制約も受けない。もはや律法の縄目が私たちを縛ることは出来ない。むしろ『隣人をあなた自身のように愛しなさい』という律法(一清さん追加しましたよ)が集約する所を成就させるのが、他でもないこの『真理の霊』だからなのだ。

 救世軍をカテゴリー分けするとしたら、福音派というよりは聖霊派だというのが適切だと思う。救世軍は体質上、聖霊に拠らなければ何も出来ないようになっている。私はそれが救世軍の好きな所である。困ったことにこの聖霊君、どこから来てどこに吹いて行くのか分からない。お好みがあって自分の好む所に自由に吹き荒れる。救世軍は時代の必要もあり、小型ながらある時に強力にその風を受けて世と戦う戦艦であった。いささか旧式であって内燃機関を持たないので、風がなければ自らの存在意義を見いだせる戦場にすら行くことが出来ない。これは人の力ではどうしようもないことだ。動きがなければ人々はとまどい、嘆き、他の道を模索するだろうが、創られた目的が決まっている以上、他の方法は成功する事はないだろう。
 私は、そんな不自由に見えるこの船が実はお気に入りなのだ。今回、いくつもの事が重なって面白いことが起きた。今さら特に驚くような事ではないのかもしれないが、一つの見える形になったことは嬉しいことだった。帆を上げよ、風は吹き始めるぞ。

 
 あれ、当初書こうとしていたことと全く違ってしまいました。実はこの記事を紹介したかったのです。

Vol.265『私を証拠する真理の聖霊を送るからね』(15章26節)

 ああ、もう行かないと、、。
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by dynabooksx | 2009-10-05 05:28 | 信仰者の歩み

 取り上げて書いてみたいことが山ほどある。しかし、仕事に追われる事もあってかなかなか書けない。そのまま出せばいいような気もするのだが、なぜか一方でストップをかけている。書くことによって頭と心を整理するのだが、溜まってしまってオーバーフロー気味だ。

 ここ、一週間ほど何か新しい呼びかけを受けているような気がする。それがなんだか分からないが、昨日から色々なものが壊れたりちょっとがっかりな事や報告が続いている。特にここでは書けないが、仕事がらみで気になっているある人のこと、、、。やはり、しばらく会わなくなってもまだ立ち直るきっかけがつかめていないようだ。多分、半分ぐらいはその事で重くなっているのだと思う。やっとすこし頭から離れ始めていたのに、、、。

 一歩外を見ると、悲しいことが多く、人が生きていくのになんと辛いことが多いのだろうと思わされる。きっとその悲しみの一部が私の中にも流れ込んで来るのだろう。暗闇の中にいるように感じている人は、どうやって光を見いだすことができるだろうか。そもそも自分自身に失望し、真の姿が露わにされるのを恐れ光を避け、嘘をつき続けて闇の中に隠れようとし続けるのに、、、。他人事なんだからほっときなと言われるでしょうが、なかなかこれで私もしつこいようですね。


 妻は面白い事を言う。世の中には3つのタイプの人がいるのだと。勝手に先に使ってしまって怒るだろうか、、。まぁ、ダメなら削除されるだろう。

① この世で、夢も希望もなく生きていく人たち。
② この世には希望がないが、天国に希望をもって生きる人たち
③ この世を天国のように生きる人たち



 どうだろうか。特にキリスト者の皆さん。あなたの目には普段回りで見かける人々はどう映っていますか? 同じクリスチャン同士で集まっていれば、いくらか①から目を背けていることも出来るでしょう。ああ、勝手に私が決めつけてしまっているかもしれませんね。でも、放っておけば自滅していってしまうと気になる人に、とことん付き合おうと思ったら闇の深さに唖然とするかもしれません。相手を信じて、向こうも小さなことから誠実さを取り戻し立ち直って欲しいと願っても、すべて裏切られ、それこそ7の70倍許せの世界になって来ます。最終的に私は白旗をあげました。私に、その人を何とか出来るなんて思い上がりもいいところでしたね。

 あとは、私の友人が言うように『つぶれるしかない』のかもしれません。確かにそうですね。私も彼も自分につぶれることで①から抜け出たのですから、、、。でも、変な言い方だけどうまくつぶれるのも才能みたいなところがあって、僕らみたいに引きこもりになったりうつ病になったり、それまで出来ていたことが何も出来なくなっていって、もうこれ以上生きていくことが出来ないというところ悟らざるを得ない所まで追い込まれる人は、実は幸運なのかもしれない。実際それで死んでいく人たちもたくさんいるから不謹慎かもしれないが、そこからそれまでとは全く違う新たな命を得ていく人達がいるのも確かだ。

 人が一番苦しいのは、現実を受け入れられない時であると思う。実際の自分の姿を受け入れられない時、目を背けたいが再び見させられるという所を延々と繰り返させられるので気が滅入る。現状さえ素直に受け入れられれば、半分以上は解決したようなものだ。そこから次のステップに進むことができる。自己中心な自分を認めざるを得ないところまで一気に追い込まれて、そのこだわりを捨てさせられた人は幸せなのかもしれない。

 あまり苦しまないで欲しいというのは親心のようなものかもしれないが、苦しみを通らなくてはならないのもまた真実なのだろう。今は手元を離れたが、その人の上にも私には思いもよらない創り主の計画があるのだと信じます。



イエスは群衆が押し寄せてくるのを見て、山に登って行った。彼が腰をおろすと、弟子達が周りに集まってきた。そこでイエスは彼らに教えはじめた。

 神によろこばれるほんとうに幸福な人は、だれだと思うか。
     ほんとうに幸福な人、それは自我を捨てたひとたちである。
          天国は彼らのためにあるのだ。

     ほんとうに幸福な人、それはいま悲しみにとざされている人たちである。
          彼らは慰めと力を与えられるであろう。

     ほんとうに幸福な人、それは心の優しい人たちである。
          彼らは全地を相続する者となるであろう。

     ほんとうに幸福な人、それは飢えかわくように神との正しい関係を求める人たちである。
          彼らの求めは十二分にみたされるであろう。

                         マタイ福音書5章(柳生直行訳)
 
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by dynabooksx | 2009-09-08 06:06 | 信仰者の歩み

愛するおばさんへ。。。

 昨日の朝もこの時間(午前3時)に起きてキーボードを叩いていた。膨大な量を一気に書き続けてきて、夜が明けてもう十分だろうとアップロードしようとしたその瞬間。ブラウザのバックボタンを操作したらしく、原稿用紙十数枚分になるであろう長文は全て消し飛んだ。使用したのは時間だけではない。涙を拭くために箱ティッシュを4分の1ほど使用した。なんでこんなに出るのだろうと思うほど止めどなく出て、書き終わったとき大量の丸めたティッシュがパソコンの周りに転がっていた。あの文と同じものは2度は書くことが出来ないだろう。今日これから書くものはそれとは違ってはるかに淡泊なものかもしれない。それでも、感情豊富な私が、めいいっぱいそれを載せて書いたものより読みやすくなる可能性もあるかもしれないと思い、またこうやって指を動かしている。



 おばさん。日曜日は、僕と話をするために我が家に来てくれてありがとう。あの勢いに一瞬は面食らったけれども、後になってみると、きっと僕はずっとこうなることを待っていたのだと思う。おばさんは、僕のことをずっと息子のように思っていたと言ってくれたね。正直、実の母親以上に暖かみを覚えたよ。その言葉は真実だと思うし、心から嬉しかった。もちろん、おばさんにはおばさんの歩んできた道があり、僕には僕の道がある。それぞれの道が違っていれば、物事の見え方も変わる。行動、対処の仕方、生き方も自ずと違っていくだろう。

 実際僕は、おじさんとおばさんの過程で実の息子のように育ったんだ。僕の兄弟みんなを同じように実の子供のように思ってくれていると話してくれたけど、そこの所は僕だけ違うね。僕が生まれた頃、我が家はもっとも大変な時期だった。もし、何かが少し違っていたら、この世に生まれ出てくることはなかったのかもしれない。もう1人子供を育てる余裕は我が家、特に私の母にはなかった。既に男の子と女の子が一人ずついたからね。余分だったんだ。人一倍大きな田んぼと事業、また借金を抱えるようなギリギリの生活、足の不自由な祖父と病気で倒れて看病が必要な祖母。簡単に考えてみても、強い緊張状態であったことは想像に難くない。僕は、両親が一番苦しかったそんな中で生まれてきた子供なんです。だから、何度もおばさんの所に預けられたんですね。3つ子の魂100までと言いますが、幼児時代の影響はその人の人生にとって大変大きな影響を及ぼすことが知られています。きっと、今のような私があるのはその経験が大きく作用しているのでしょう。
 僕は、人一倍強い孤独を感じる人間でした。今でも断片的に覚えていますよ。母は僕を預けて行くために、よく嘘をついた。まともに話せばわめき散らすに決まっていますからね。遊びにいくように見せかけて油断させておいて、疲れて寝付いた頃に置いてくる。目覚めてみると現状が分かる、、、。そんな経験が、人を冷静にそして鋭く見抜く私をつくっていったのかもしれません。ああ、今更両親にとやかく言うつもりはさらさらないですよ。笑い話で話すことはありますけどね。それ以上に両親は大変な時を過ごしていたでしょうから、、、。でも家族旅行の行きがけに真也がうるさいから置いていったってのは、ちょっとむかつくな、、、。(笑)
 おじさん、おばさんには本当にかわいがってもらいました。僕実際可愛いからね(笑) 3歳以下なので、記憶はかなり曖昧ですが、後で聞かされた話もありいくつか心に残っていることがあります。なにより、小高い丘にあったあの家の側で目を大きく見開きながら写っている幼き日の僕は、幸せそうに見えます。夕暮れ時に巣に帰って行くカラスたちを見て、『カラスはいいなぁ、帰る家があって』と言ったのも覚えていますし、食事の席で作法を教えてくれたことも覚えています。正直記憶はほとんどないのだけれども、弟のように扱ってくれた2人の従兄弟にも感謝しています。なかなか扱いの難しい子供だったでしょう?

 ともあれ、僕は子供ながらにして鋭い、冷めた視点を持つ子供になっていった。実の親や兄弟であっても、この心の内を理解することはあり得まいと相当小さい時から悟っていたんだ。今思うと寂しい子供ではあるけれども、それが僕の人生で、そうなることを運命づけられていたんだ。今はその頃を心から感謝している。人間なんか苦しくなったらいつ裏切るかわかったもんじゃないと鋭く現実を見ながら、僕が生きるすべを模索し続けたんだ。


 大学時代、僕を心配して電話をくれたと話していたね。ごめんなさい。これは本当に思い出せなかったんだ。大学4年の夏というと僕は完全にうつ病状態だったからね。精神活動が著しく落ち込んでいるし、混乱していた時だから、記憶も定かじゃないんだ。結果的に、僕や愛理を責め立てる内容になってしまったけれども、おばさんが本当に言いたかったことはそんなことじゃないよね。僕には分かるよ。実の息子のように思ってくれていたんだから、、、。実はね、僕もずっとおばさんのことが気になっていたんだ。実際幼き日を共に過ごしているのだから当然だろうね。残念なことに、様々な事件で僕の両親、祖父、そしておばさんの家族とは大きな溝が出来てしまい互いに憎み合うようになってしまった。そのごたごたを子供ながら最もダイレクトに見てきたのは僕だと思うよ。もう、上の兄弟は大学で家を離れていたからね。そのあたりの出来事で、僕はさらに人を見切っていったのかもしれません。人なんて表面的にはなごやか、にこやかでいても、腹の中じゃあ何を考えているか分かったもんじゃない。静かに僕は親類を見ていました。兄は、そんな僕を離れていながら心配してくれていたようです。僕にそういうごたごたを出来るだけ見せるなとね、、、。

 でもね、全てのことには計画があったんだ。おばさんが一番嫌がるであろう創り主の計画がね。僕は人に絶望し、人生を悲観して育っていった。だからこそ、自分が生きている意味が欲しかった。他人に認められたかった。何とか人との比較で優位に立って幾分でも安心したかった。そんなことで、青年時代は消費しました。廣田家は、それなりのバイタリティーをみな持っていますからねぇ。かなり我力でも頑張れるんですよ。まず、兄貴には負けたくなかった。母には、兄貴を全ての人生の目標のように育てられましたからね。くだらないとは思っても、見返してやるために絶対に負けるわけにはいかなかった。オールマイティーな僕の方が実は優秀なんですけどね(笑) やっぱり、昨日とは書き口が違う、、、。こんな軽いノリではなかったはず、、、。でも、そんなことを続けていてもいつかは終わりが来る。大学に入ってからは目標がなくなって一気に空しくなっていったんです。無理にマインドコントロールして学問もやっているものだから、未来にそうなることは予想していましたが、置かれた状況を考えると突き進むしかなかったんですね。きっかけはいろいろありますが、最も大きな流れはこのことにあって、大学の後半はうつ病のようになっていったんです。そこから先は、ここで書かなくても、以前の記事をあらえば十分に見つけることが出来るでしょう。

 その後、僕は一度それまでの自分に完全に死んだ。完全に行き詰まってしまったんです。力を使い果たしてもうそれ以上一歩も進むことができなくなってしまったのです。自殺しようとこそ本気で思いませんでしたが(もし本気で思えばとっくに死んでいる。僕みたいなタイプは、、)、日々今日も生きていることを恨みながら、誰もいない薄暗い部屋で何日ももがき苦しみました。それがもっと長引いて、愛理との出会い、子供(長男光希)のことがなかったら、人生を自らの手で終わりにしていたことでしょう。
そこで、僕は完全に破綻した僕の人生と喧嘩ばかりして一緒にやっていけるはずのない彼女、そしてそのまま行けばいずれ生まれてくるであろう赤ん坊とを全て創り主に預けました。ただでさえ、僕だけで完全に行き詰まっているのに、個性の強い「あの女」(いい響き♪でしたよ)とガキと一緒にやっていけるはずはない。苦しいときの神頼みですがるしかなかったのですね。
 そこからスタートして今の僕があるわけです。これは『約束』なんです。僕の結婚は神への献身で始まった。その結果、僕の行くところどこでも祝福するというのが約束なんです。これは、誰にも止められないでしょう。この世界を創った創り主自らすることですから、、、。おばさんが強調するように、先祖のおかげだというのも確かにそうでしょう。それぞれがその時代時代で立場立場で必死にやってきた。その事によって今の廣田家がある。でも、僕とは見ている位置が違うんです。先祖のおかげだというのを延々と辿ればどこに行き着くでしょうか。最初の人類まで行くでしょう。そしてこの世界(宇宙)が出来た時まで、、、。


 もう、昨日書き終わった時刻になってしまいましたが、随分分量が少ない気がします。おばさんが僕の人生を案じてくれていたように、僕もおばさんのことが気にかかっています。僕なら、おばさんの苦しみを解放出来るかもしれない。これは実際かなりの思い上がりなんですけどね。せめて、その中継になることぐらいは出来るかもしれません。心がやさしいおばさんのこと、、。その優しさでもって他者との関係を新たに建て上げていって欲しい。悔しかったり悲しかったりする感情は膨大にあるかもしれませんが、それはかつての僕も同じです。出来れば僕を使ってもっと怒りをぶつけてもらえませんか? そういう目的のために僕は生まれて来ているのです。他者の痛みを背負うために、、、。本来のおばさんの美しさ、僕は知っています。側にいる実の母以上に想っています。


       30年間離ればなれになっていた一番下の息子より、第二のおかあさんへ愛をこめて




追記 おばさんは自分では直接インターネットが出来ないのかもしれない。もし、以前の文を印刷して見せてくれた人が側にいるのならば、どうぞ今回もこの手紙を届けて下さい。そして、出来れば部分ではなく、他の僕の記事全体に目をとおして欲しい。

 今回おばさんが目をとおして取り上げてくれた記事はこれでした。マーカーを引いてあるコピーを持っていたようでしたが、たくさん書きすぎていて、どの文から引用したのか分からず捜すのに苦労しました。きっとこれで間違いないですね。色々と補足を書こうとも思いましたが、今になってさっと読み返してみても、良く書けていると思うので特に書き足す必要はないでしょう。大事なことだと思い、力を入れて書いた文章なので、返答があって嬉しく思います。文脈に関係なく部分を抜き出すのではなく。書き手が全体で何を語りたいのかを読み取るように再度読んでみてください。おばさんならきっと分かるはずです。さらに付け加えるとすれば、この内容の大半は爺さんも同意するはずですよ。言われ方によっては感情が拒否するかもしれませんが、新約聖書のローマ書7章、8章が理解できる祖父は人間の真実な姿を本当は知っています。もし、疑うのであれば、全文をコピーして渡して読ませて見て下さいな。同じ屋根の下で過ごしてきた時間はそんなに軽いもんじゃあないんですよ。あなたが父を想うように私も祖父を想うことは当たり前のことです。僕が破壊してしまった(そうは言っていなかったかな??)という廣田家の回復を心から望むのなら、堂々と公に心からの真実を成すべきです。いつでも、僕は待っていますよ。また、こちらから出向くこともあるかもしれません。関係の修復を心から願います。私たちに出来ないことであっても、神には出来る。これが私の確信です。


 最後に聖書の言葉で締めたいとおもいます、

神の子たち悪魔の子たちの区別は明らかです(違いがはっきりしてくる)。正しい生活をしない者(神の御心を行わない人)は皆、属していません(神の子ではない、神の性格を受け継いでいる者ではない)。自分の兄弟を愛さない者同様です。なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。第一ヨハネ3:10 

 この言葉を先日、父に贈りました。

 それに対して今朝、父が私に返してきた御言葉。

あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。黙示2:4

 誤りがあれば神の前に低くなり悔い改める。さすがはこの田舎で40年も隠れキリシタンのように信仰を捨てなかった私の父である。
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by dynabooksx | 2009-08-18 05:25 | 信仰者の歩み

 6月つくばのヒルクライムレースにて土浦めぐみ教会に寄れそうなので久しぶりにホームページを見てみた。最近信仰に関する記事がほとんどなかったのだが、少し書かなくては寝られない雰囲気になってしまってこうしてキーを叩いている。

 5月の連休に行われた青年部のキャンプの模様(見てもらいたいのは一番下の清野師のメッセージダイジェスト。)がアップされていた。懐かしい(といってもしょっちゅう会っているが、、)清野先生の顔とメッセージ。ダイジェストだが、先生がかつてインドネシアに渡るまでが目に浮かぶようだった。先生の気持ちが流れてきて学生時代の思い出も甦ってきていつの間にか目が潤んでいた。

 自転車の刺激もなかなか他にはないが、この刺激もそれとは全く違って心に深い影響を与える。私には刺激的すぎて危険ともいえるほどだ。ここ十年間を振り返ってきて、祝福されているのは事実であり、めぐみが追いかけて来ていると言っても良いだろう。紆余曲折ありながらも、最高のものを与えてもらっていると感じている。心の深いところにもらった宝は誰にも奪えないものなのだが、その宝にはこっそりしまっておいただけでは想像もつかない素晴らしい仕掛けがあることも知っている。母教会であり、私たち夫婦の原点でもあるその場所に行くと、普段忘れかけているその仕掛けの事を思い起こさせられる。

 短い先生のメッセージ。みなさんも何か感じましたか?
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by dynabooksx | 2009-05-18 23:06 | 信仰者の歩み

祈るということ

 私は、元来孤独で一人でいることを好むタイプの人間だった。おおよそ学校という所が嫌いで、誰に強いられるわけでもなく黙想をするのが好きだった。ある日、ずっと小さいときからしていた行為がキリスト教で言う『祈り』に近いものであることがわかった。いや、それはキリスト教に限ったことではなく、その他の宗教にも似たような行為の習慣があるため、人の基本的な構造なのだろう。

 私が幼いときからその行為を必要としていたのは、放っておくと心がどんどん萎縮していったからなのだと思う。基本的に現実生活で生きていくのが辛いように感じるため、内的世界で自由に飛び回る領域を確保していないと、そのうち本当に活動不能になるからなのだろう。『祈り』の中で私は、内的葛藤を吐露し、それを解きほぐすきっかけを得る。それなしには、今もまたこれからも生きてゆく意味を見出すことができない。

 今日が、またそれに続く明日が苦痛になるということが皆さんにもあるでしょうか? 何か特別に差し迫って何かがあるというわけではなく、もっと根源的な不安、、、。たいてい目の前に大きな問題があるときはそれに目がとらえられて、その深い虚無感からは反対に逃れられる事が多いものだ。聖書にもそんな空虚感を書き記した人がいた。


eccles 1: 1
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
eccles 1: 2
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
eccles 1: 3
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
eccles 1: 4
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
eccles 1: 5
日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
eccles 1: 6
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
eccles 1: 7
川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
eccles 1: 8
すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
eccles 1: 9
昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
eccles 1:10
「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
eccles 1:11
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
eccles 1:12
伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
eccles 1:13
私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。
eccles 1:14
私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
eccles 1:15
曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。
eccles 1:16
私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
eccles 1:17
私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
eccles 1:18
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。



 これは、イスラエルが最大の栄華を誇ったソロモン王の遺した言葉だと冒頭に書いてある。思えば、一番最初に聖書を読んで感銘を受けたところもここであった。きっと当時の心情にぴったりだったのだろう。この無常観に満ちたように見える聖書の箇所を無理に明るく装う必要はないのだと思う。先を読み進んでもらえば、そのまま共感できる部分が多くあるのではないかと思う。

 私にとって『祈り』は放っておくと空しく細切れになっていく日常を、再び繋ぎ直す効果を持つ。苦痛が多くあったように感じ忘れることによって切り離したいと思う時を祈りによって振り返ることによって、その中にも私の考えを超えた確かなものがあったことに気づくのだ。

 今日は気持ちよく起きることができた。それだけでもありがたい。
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by dynabooksx | 2007-11-27 06:26 | 信仰者の歩み

黒崎幸吉2

 黒崎幸吉氏についてのつづきをやろう。


 キリスト者

 世の歓心を得んことに汲々として、ために世とそのうちにあるものを愛し、世に向かって戦うの力を有せざるキリスト者ほど憐れむべき者は他にはないであろう。彼らには自己に確固たる立場がない、したがって、世の歓心を求めてこれに追従する。しかるに世はかえってかかる者を嘲笑し、軽蔑し、踏みにじりて外に棄ててしまうのである。内には能力なく外よりは侮蔑せられ、行くにところなくとどまるに家なく、あたかも喪家の犬のごとくに意気地なき有様を示しているのは彼らである。なにゆえに彼らは塩たるの任務を自覚してその辛さを示し、防腐力を発揮しないのであるか。
                     (『著作集』第1巻.221~222頁)


 なんと、コメントしたら良いものか。あまりにストレートに言い当てていて言葉に詰まる、、、。半世紀前の彼が、こう言い得ていてさらに現代のキリスト者を、特にリーダーシップたる男たちを見たならばなんと表したであろうか。世に喜ばれたいとなびくキリスト者ほど惨めなものはない。浮き草のようなその本質を、世の荒波にいる人たちは瞬時に見抜くであろう。
 塩というのは何であろうか。生活必需品などという甘いものではないのだと思う。むしろ死海を思い浮かべると良い。塩だらけで生き物が住めないあの湖だ。イエスが、塩のようであれと言ったのはその一途さのゆえに、世から疎まれるようであれという意味ではなかったのかと私は思うのだ。このようでなければ、戦う力はおろか、どこに戦いがあるのかすら見いだせないであろう。


 キリスト者の中には愛、愛と称して人の悪を責めることができない人がある。これ一見愛なるがごとくに見え、そうではない。これは人間愛であるかも知れぬけれども聖愛ではない。聖愛は義を離れて存在しないのである。殊に近代思想の傾向として悪の存在を極力稀薄ならしめんとしている時代、またキリスト者は不義不正をもこれを不問に附する者と考うる人多き時において、われらはこの点を極めて明らかにすることを要するのである。
                      『著作集』第1巻.287頁)


 私は、随分前から『私がクリスチャンであるのは、自分が傷つかないためでも、人を傷つけないためでもない』と言い続けていた。もし、キリスト者が他人を傷つけることがないのだとしたら、キリストの十字架はどうやって理解するというのか。彼の生によってユダヤの学者達がどれほど精神的圧迫を受け、また死によって彼を慕った人々の心をどれほど踏みにじったであろうか。そう、彼は預言通り確かに『躓きの石』となったのだ。私たちは、この『躓き』によって死から命へ移ったのだということを忘れてはならない。彼を師とする我々クリスチャンは、滅びに向かう人々を躓かせる存在にならなくては、塩の役目を果たすことはできない。躓きを与えることのできるキリスト者を求むる。

 
 われらは絶えず自己の実価以上に自己を示さんとするの誘惑に陥っている。‥‥‥ 今日のキリスト者も心にもあらずして敬虔なる態度をなし、心にもあらずして熱信を装い、いかにも信者らしき態度をして人々に誇らんとしているのも、皆この誘惑にかかっているのである。‥‥‥‥‥‥‥
 われらの心の状態は常に神の聖前に明らかであって、これを覆い隠すことができない。万人こぞってわれらの真面目を賞揚するも、われらの心が不真面目であったならば、われらに何の役にも立たない、万人こぞってわれらの不真面目を攻撃するも、われらの心中神の前に真面目であるならば、少しも憂うる必要はない。要するに他人の毀誉褒貶は一つの浮雲に過ぎないのであって、われらは絶対にこれを眼中に置かないことが必要である。否、他人がわれらをその実質以下に見ることがかえってわれらに益を与えるのであって、これによりかえってわれらは人に依らず神に依ることができるようにせられるのである。‥‥‥‥
 かくのごとき心の態度をとることができるならば、虚飾虚栄は全くわれらを離れ去ってしまうであろう。われらは常に赤児のごとくに天真爛漫たることをうるであろう。われらは神の前にわれらのありのままを展開し、したがって人の前にもまたそのままにふるまってなんら恐るることもなく、また臆することもないであろう。キリスト者の心は実にかくのごとくでなければならない。
                     (『著作集』第1巻.374~375頁)


 世から認められたいと願うものは、如何にして自らの評価を高めようと苦心するのだが、キリスト者は自らの価値が低く評価される事をチャンスだと理解する。その時に、サタンの攻撃はゆるみ、神のみとの密接な関わりによって自由に活動できる事を知っているからである。


 ‥‥‥‥‥‥彼ら(キリスト者)は上官に煙たがられて免職の憂き目に逢うであろう、彼らは同業者と歩調を共にすることができず孤立の困難に遭遇するであろう。彼らは不当の利益を貪ることができずして、いわゆる失敗者の中に数えられることがあるであろう。この不義の世において神の国とその義とを求むる者の位置は決して安全ではない。しかしながら、それにもかかわらず彼らはその生活上絶対安全の地位にいるのである。神彼らを守り給うからである。
                     (『著作集』第1巻.395~396頁)


 キリスト者とは信仰によりて安息に入ったもの、信仰によりて己が業を休んでいるものであります。律法の下にある者は己が業をもって神の前に義とせられんとしたために、遂に信仰のみによりて義とせらるるの境地に達することができず、その結果休みに入り得なかったのでありますが、キリスト者は神の約束を信じ、信仰によりて義とせらるることを信じて、己の業を完全に休み、己の奮闘努力をすべて放棄してしまったところの者であります。この徹底せる安息に入った者がキリスト者であって、そのところには何らの不安がなく、何らの固苦しさもなく、ただ平安と歓喜とのみが支配しているのであります。
                   (『著作集』第2巻.205~206頁)

 キリスト者と言えば何とはなしに弱々しく、不自由であり、窮屈であり、偽善的であり、形式的であるかのごとき感を与える。しかしながらこれは光の中を歩む者の態度ではない。キリスト者は神の前に生きる者であり、したがって神に対する畏れをもちつつ、しかも自由に、闊達に、自己の罪を罪として告白することを恐れず、赦されし罪人たる歓喜と、光の中を歩む者の公明さをもつ者である。キリスト者の生活の態度は「光の中を歩む」一語に尽きる。
                    (『著作集』第2巻.275頁)


 命に繋がれている者の大きな特徴として、変化し続けるということが挙げられるだろう。死人はそれ以上、活動することはない。命あるものは、常に自らを活かす対象に向かって大胆に変化する。人生の主体を、自ら放棄し、キリストが生きるのだと認識しているがゆえ、世の人が持つようなこだわりのほとんどを捨ててしまっている。そのような人は、身に受けるあらゆるものを恵みと捉え、それを本来の目的のために有効に用いるだろう。キリスト者は世の成功を完全に放棄しているが、神がそれを祝福するがために結果的に本質的な成功に導かれるだろう。
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by dynabooksx | 2007-10-22 07:07 | 信仰者の歩み

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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