2009年 12月 09日
いのちを持つ書、聖書。
『聖書』
不思議な書物である。二千年もの間多くの人に読み尽くされ、批判を浴びてきたのにそれでもなお色あせずに未だに影響力を持ち続ける書。本好きの私にも、これについては別格の風格を感じている。まったく支離滅裂で意味が通じないように見えるところが、ある時にものすごい説得力を持って真実を語ってくる時がある。バラバラのジグソーパズルが一気に組み上がって来るように、、、。確かに、日本語聖書であれば日本語の読解能力というか、理解能力の助けを借りるのだが、本文批評とか解析によるとか註解書によるとかそういう次元ではなくて、まったく違う勢いの説得力を持って迫ってくる時がある。それをいったん味わってしまうと、その人は一生この書物の虜となる事だろう。
私の場合は最初にそれを経験したのは高校3年生の時だった。私は人に物事を強制、指示されることが嫌いなので人に言われて聖書を読んだという事はほとんどない。だが、あの晩は違っていた。なぜか引き寄せられるように当時持っていた口語訳の聖書を開いたのだった。その時の感動は未だ色あせるものではない。単なる文字の羅列であるはずのそれは、濁流のようにして私の内に流れ込んできた。当時の私は、田舎でそれを分かち合えると思える人を誰も知らなかったので、それから数年間は心に秘めていた。後に知り合いにその時の事を話した際、『それは聖霊体験だね』と言われてはじめて客観的にそれを捉えるようになった。
確かに、最初のそれはそれまでの私の人生観を大きく変化させた。変化させたというより変化させ続けたきっかけとなったという方が正確だろう。それによってどこまでも影響を受け、引きずられて行っている。きっと最初のその体験がなければ、後に多くの教会人と摩擦を起こすこともなかっただろう。もっと周りを見て、人を見て変化がないように、摩擦がないようにと生きた事だろう。まずそういった無難な教会生活に私が落ち着くとも思えないが、、、、。あの時の体験が、今の私の方向性を完全に決定づけたのだろうと、ここまで来るとよく分かる。人生が一つの線につながっているように見えるからだ。
現在、私の聖書の読み方は以前とはずいぶん違ってきた。前は、自分にとって益になる事を探しだそうとして読んでいたが、今は違う。私の心には次々といろいろな思いが流れ込んできて、それを聖書を読むことで確認するとぴったり一致してくる。私の内にある告白と同じものを聖書に出てくる人物にも発見する。だから、自分の意志で自分を聖書に沿わせようと努力することもなくなってきた。必要を感じないのだ。聖霊が私を完全に支配下に置いてきているのだ。支配下というと奴隷のようだが、たしかにそうだとも言えよう。しかし
ローマ: 8: 2
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
第2コリント: 3:17
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
とあるように、聖霊の性質は自由と解放をもたらすものなので、その支配下に入ると至って自由なのである。この服従を了承するまで、私も随分時間がかかってしまった。まぁ、まだ人生は終わっていないのだが、もう終わった感じでいる。そう、私の人生は終わった。それまでの私とは違うものが、私の人生を支配し動かそうとしている。そういう実感がある。だから、自分自身に苦闘する期間はもう終わった。さんざん苦しめられてきた、ローマ7章にあるような言うことを聞かない自分に苦しんだことを思い出すことすらなくなってきた。
ここまで、長かったような短かったような。よく前のことは思い出せない。きっとこれから先も、あっという間に通り過ぎて行くのだろう。自分に対しては何の心配も、不安も、不足も感じない。御言葉の必要を覚えるのは、自分のためというよりは、他の人のためという意味合いが強くなって来ているだろう。人々がいくら代わりのもので埋めようとしても癒されないその渇き。それが聖書の中にはある。その辺りのことを今度書こう。
by dynabooksx
| 2009-12-09 03:46
| 真也の視点