2009年 11月 25日
創り主を認める
ちょうど隙間時間があったところで、そこに残った2人の従業員と縁石に座り込んでお茶をする時間があった。
月曜の練習で130kmぐらい走った時は、100kmを過ぎた頃からガス欠になりはじめ、馬鹿にしてほとんど食べないで走っていたら、家に着いた頃は意識朦朧となった話をした。脳は血糖で維持されるのでそれがなくなるとダメージを受ける。まだ今もちょっとおかしいんだ。脳は体重の10分の1以下なのにその割にかなりのカロリーを使うんだよな とか話していた。
すると社員がいう。『人間の脳はその一部しか使っていないのですよねぇ。』
私、 『うん、まったく使っていないということはないだろうけど、私たちが普段意識できているのは、私たちが考え、感じている全ての一部かもしれないねぇ。だから分かっているようで、自分のことほど分かっていないのかもしれないよ』と、、、、。
と、こんな何気ない会話から話は深まっていた。
今の子供達はゆとり教育だとか個性の教育だとかいって、やりたいことをやらせるようにと変化してきている。でも、どうだろう。私たちが本当にしたいこととは何なのかな? もし、それをそのまますることが出来るのなら、きっと幸せな人生を送ることが出来るだろうね。それを求めて人々は、色々な事に挑戦し、どこかにちらつく空しさを埋めようと努力するのだけれども、それを追い求めれば求めるほどよく分からなくなっていくのが実情なのではないか、、、。よけいその空白が大きいことに気がつくばかりで、、、。だから、馬鹿正直にそこに行き着いてしまった人は絶望を感じて立ちつくす。多くの人はそこまで突き詰めないで、必死にそこを見ないようにと目を背けて別なことに夢中になって気を紛らわす。
僕はこう思うんだ。どんなに我々が自分の内面を深く見つめてその内にあるものを実現しようとしても、結局は何も出てこない。それが正解だと思うんだ。例えばね、フォークやスプーンが私たちだとすると、自分で自分はどうしてこういう形をしているのだろう。どうやってこのとんがりや、丸いカーブを使ったらいいのだろうと試行錯誤しても結局は分からない。自分たちを創り、用いる方を認め。その方に使われてこそ、初めて自分たちの価値が明らかにされるのではないのか、、、と。つまり、道具である我々は単独では何も出来ない。聖書はそういう世界観をベースにしているんだ と、、。
これまで人生の荒波に翻弄されて続けてきた2人は、その意味をよく理解していたようだった。ここから、彼らが創り主に用いられるという明確な実感を持つ所まで導くお手伝いをするのが群れのリーダーである私の役目である。
伝道 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。(イスラエルの王ソロモンの言葉)
by dynabooksx
| 2009-11-25 07:05
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