2009年 11月 20日
アシェラ像を打ち壊せ
毎日更新されるCGNTVのQTでは今、歴代誌下から分裂したあとのイスラエルの歴史を追っている。この場面の人間模様、かなり現実的な面白い所で北、南王国とも回復と堕落を繰り返しながら徐々に没落していく。そのどれにも『神への信仰』が中心にあり、行き先を左右している。
堕落の歴史をさかのぼるのなら、その理由はどんどん見いだすことが出来る。どこまでも行けば、アダムとイブの所までいくのだろうが、王国が分裂したのは、ダビデの姦淫のためであり、偶像礼拝が一気に進んだのは、ソロモンが海外から多くの側室とその宗教を持ち込ませたからだろう。どれも、小さな妥協がどんどんふくらみ、最後は取り返しのつかないところまで行ってしまう。最初はこれぐらいは大丈夫だろうというほどの小さなことなのだが、それに囚われると人はそれを隠すために次の行動が歪ませられ判断を狂わされる。いったんそうなってしまうと、もう本人の努力ではどうしようもなくなる。本人の生き方自体が歪んでいくからである。
幸いなことに私たちは、自分以外に信じる対象を持っている。その方は正義の方で、万物を創りまた支配している方であるので、その方の語ることには偽りはなく、実行されないことはない。自分のあり方がもし曲がって来て行き詰まってきたとしても、もとのところに戻る自由がある。戻らない自由もあるのだが、それが破滅の道であることは体験として知っている。
アシェラ像を打ち壊せ!!
とタイトルをつけた。カナン地方土着の礼拝対象なのだが、国の力が回復または堕落するとき、この像が登場する。国の運営が思わしくなく力が低下すると、人々は様々な方法でそれを取り戻そうとする。一つはバラバラになりかけた人々の心を集め、集約することだろう。そのためには、人々が喜ぶものを提供する必要があるだろう。アシェラ像は農業宗教的性格を持ち、繁盛、繁栄をもたらす官能的、性的傾向を強く持つ礼拝対象だった。きっと人々はこれによって自分たちの繁栄と幸福が約束されると思い、喜んで迎えたことだろう。
しかし、どうしたことがそういった頼りになる神が登場すると共に国は荒廃していく。ここで気づけば良いようなものだが、何度もこの像は建てられていく。それに頼る人にとってはそれほど魅力的なものなのだろう。
『偶像礼拝』先の記事にも書いたことだが、自分の目的のために神をこしらえ、用いることである。これを表面的に捉えてはならない。現代社会の中に、仏壇の仏に手をあわせて本気で自分の生活を導いてくれると思っている人がどれほどいるだろうか。習慣としてやっているだけで、ほとんどいないのではないか。
私たちは、道を見失い不安になるとき、なんらかの道しるべを必要とするものだ。状況を脱するために良いと思うものはいろいろ試してみることだろう。その選択が自らの良心に照らしてまずいものであったとしても、今が苦しければいくらかそれが和らぐ方法を選択しようとするだろう。小さな妥協をしてしまうと、追ってそれを肯定する理屈をつけるだろう。その理屈がさらにその人を縛るだろう。その場の苦しさを逃れるための小さな間違いがさらに大きな間違いへと導いていく。
箴言 3:6常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
主はあなたの道をまっすぐにすると言うことは、逆に言えば自分の道は曲がっているものだということ、、、。自分なりにまっすぐだと思っても、主の目から見れば曲がっている。この視点を持ち続けることが大切だと言っているのだろう。それであれば、行き詰まった際、主の変わらないまっすぐな道へと自分を変化させる道が残っている。反対に、自分の神、自分の目的のための神であれば、それが自分を造りかえてくれることはないだろう。つまり偶像は、問題があるとき、問題をそのままより深刻な方向へ導くだけでそこから解放、改善していく力を持たないのである。
私たちは現在どんな偶像を持って頼りにしているのだろうか。人が多く集まると、力と権威が発生する。集団をまとめていくための論理や組織、尊敬の対象になる立場も発生するだろう。集団を維持するためにそれらは当然必要なものなので合理的、効率的なのだと主張するだろう。でも考えて見て欲しい。私たちの創り主はどういう方であるかを、、、。無から有を創り出し、全てを統率しておられる方である。その方の前に、私たちの集団はどのように映っているのだろうか。
組織を用いると伝道が出来るだろうか。権威をつくれば人々は崇拝し集団をまとめることが出来るだろうか。いったい何が私たちを導いてくださるのだろうか。神は、ご自身以外に私たちが信頼を寄せることを良しとしない。
ある人々にとって、私の行動が攻撃的で破壊的に写るようだ。いや、存在自体がと言っていいのかもしれない。確かに好戦的で好奇心に溢れる性格ではあると思う。妻にも『真也君は容赦がない』と言われることもある。この地に来て8年、私は戦いを続けてきた。絶対に妥協せず、一時敗北しそうになりながらも方向を転換しなかったこと。それは偶像を打ち壊して行くこと。私たちが受けている、本来良いものであるはずの様々なこと、ものを呪いへと替えてしまう偶像。神からの恵みをまるで自分の手柄のようにさせてしまい、喜びを失わせるもの。命のないものへと人々の心を向けさせ、支配し絶望させる。そこには偶像が存在する。正確にはそれを使って背後で操っている者がいる。
私は、人間の小さな目的のために、神との正しい関係を失ってしまうことになる事柄を激しく攻撃し、打ち壊してきた。途中、気が狂ったかのように思われ、厳しい非難にさらされたこともある。押しつぶされそうになりながらも、神は私をあわれみ、道を開いてくださった。振り返ってみると、神の恵みが多くのものを征服していったことが分かる。
アシェラ像を打ち壊せ。心の割礼を受けよ。それが、全てのことの回復につながっていく。これが頼りになるのだと今すがっているものは、決定的な窮地に追い込まれたとき、あなたを本当に助けてくれるのか、、。真に信頼できる方を知っているなら、偶像を捨て確かなものに乗り換えることをお勧めする。
堕落の歴史をさかのぼるのなら、その理由はどんどん見いだすことが出来る。どこまでも行けば、アダムとイブの所までいくのだろうが、王国が分裂したのは、ダビデの姦淫のためであり、偶像礼拝が一気に進んだのは、ソロモンが海外から多くの側室とその宗教を持ち込ませたからだろう。どれも、小さな妥協がどんどんふくらみ、最後は取り返しのつかないところまで行ってしまう。最初はこれぐらいは大丈夫だろうというほどの小さなことなのだが、それに囚われると人はそれを隠すために次の行動が歪ませられ判断を狂わされる。いったんそうなってしまうと、もう本人の努力ではどうしようもなくなる。本人の生き方自体が歪んでいくからである。
幸いなことに私たちは、自分以外に信じる対象を持っている。その方は正義の方で、万物を創りまた支配している方であるので、その方の語ることには偽りはなく、実行されないことはない。自分のあり方がもし曲がって来て行き詰まってきたとしても、もとのところに戻る自由がある。戻らない自由もあるのだが、それが破滅の道であることは体験として知っている。
アシェラ像を打ち壊せ!!
とタイトルをつけた。カナン地方土着の礼拝対象なのだが、国の力が回復または堕落するとき、この像が登場する。国の運営が思わしくなく力が低下すると、人々は様々な方法でそれを取り戻そうとする。一つはバラバラになりかけた人々の心を集め、集約することだろう。そのためには、人々が喜ぶものを提供する必要があるだろう。アシェラ像は農業宗教的性格を持ち、繁盛、繁栄をもたらす官能的、性的傾向を強く持つ礼拝対象だった。きっと人々はこれによって自分たちの繁栄と幸福が約束されると思い、喜んで迎えたことだろう。
しかし、どうしたことがそういった頼りになる神が登場すると共に国は荒廃していく。ここで気づけば良いようなものだが、何度もこの像は建てられていく。それに頼る人にとってはそれほど魅力的なものなのだろう。
『偶像礼拝』先の記事にも書いたことだが、自分の目的のために神をこしらえ、用いることである。これを表面的に捉えてはならない。現代社会の中に、仏壇の仏に手をあわせて本気で自分の生活を導いてくれると思っている人がどれほどいるだろうか。習慣としてやっているだけで、ほとんどいないのではないか。
私たちは、道を見失い不安になるとき、なんらかの道しるべを必要とするものだ。状況を脱するために良いと思うものはいろいろ試してみることだろう。その選択が自らの良心に照らしてまずいものであったとしても、今が苦しければいくらかそれが和らぐ方法を選択しようとするだろう。小さな妥協をしてしまうと、追ってそれを肯定する理屈をつけるだろう。その理屈がさらにその人を縛るだろう。その場の苦しさを逃れるための小さな間違いがさらに大きな間違いへと導いていく。
箴言 3:6常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
主はあなたの道をまっすぐにすると言うことは、逆に言えば自分の道は曲がっているものだということ、、、。自分なりにまっすぐだと思っても、主の目から見れば曲がっている。この視点を持ち続けることが大切だと言っているのだろう。それであれば、行き詰まった際、主の変わらないまっすぐな道へと自分を変化させる道が残っている。反対に、自分の神、自分の目的のための神であれば、それが自分を造りかえてくれることはないだろう。つまり偶像は、問題があるとき、問題をそのままより深刻な方向へ導くだけでそこから解放、改善していく力を持たないのである。
私たちは現在どんな偶像を持って頼りにしているのだろうか。人が多く集まると、力と権威が発生する。集団をまとめていくための論理や組織、尊敬の対象になる立場も発生するだろう。集団を維持するためにそれらは当然必要なものなので合理的、効率的なのだと主張するだろう。でも考えて見て欲しい。私たちの創り主はどういう方であるかを、、、。無から有を創り出し、全てを統率しておられる方である。その方の前に、私たちの集団はどのように映っているのだろうか。
組織を用いると伝道が出来るだろうか。権威をつくれば人々は崇拝し集団をまとめることが出来るだろうか。いったい何が私たちを導いてくださるのだろうか。神は、ご自身以外に私たちが信頼を寄せることを良しとしない。
ある人々にとって、私の行動が攻撃的で破壊的に写るようだ。いや、存在自体がと言っていいのかもしれない。確かに好戦的で好奇心に溢れる性格ではあると思う。妻にも『真也君は容赦がない』と言われることもある。この地に来て8年、私は戦いを続けてきた。絶対に妥協せず、一時敗北しそうになりながらも方向を転換しなかったこと。それは偶像を打ち壊して行くこと。私たちが受けている、本来良いものであるはずの様々なこと、ものを呪いへと替えてしまう偶像。神からの恵みをまるで自分の手柄のようにさせてしまい、喜びを失わせるもの。命のないものへと人々の心を向けさせ、支配し絶望させる。そこには偶像が存在する。正確にはそれを使って背後で操っている者がいる。
私は、人間の小さな目的のために、神との正しい関係を失ってしまうことになる事柄を激しく攻撃し、打ち壊してきた。途中、気が狂ったかのように思われ、厳しい非難にさらされたこともある。押しつぶされそうになりながらも、神は私をあわれみ、道を開いてくださった。振り返ってみると、神の恵みが多くのものを征服していったことが分かる。
アシェラ像を打ち壊せ。心の割礼を受けよ。それが、全てのことの回復につながっていく。これが頼りになるのだと今すがっているものは、決定的な窮地に追い込まれたとき、あなたを本当に助けてくれるのか、、。真に信頼できる方を知っているなら、偶像を捨て確かなものに乗り換えることをお勧めする。
by dynabooksx
| 2009-11-20 19:51
| 真也の視点