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悪魔に抵抗せよ

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 先の日曜日、浪江小隊に飾ってあった聖書の一句に目が釘づけになり、しばし心を奪われた。そう遠くない過去に、父が書いて飾ったのだろう。しばらく行っていなかったのでいつからそれがあったのかは分からない。気に入った事を伝えると、私用に額に入れて作ってくれた。

 この聖書の箇所、山室軍平が愛したのだという。父は、百万人の福音というキリスト教系の読み物に掲載されていた彼についての記事からその事を知ったのだという。そのコピーも持ってきてくれた。その文面にはこうある。


~逆境をも糧として青春を開拓する山室に、天来の回心というくさびが打ち込まれるのは、福音教会の路傍伝道によってであった。

『慎みて目を覚しおれ、汝らの仇なる悪魔、ほゆる獅子のごとく、へめぐりて、呑むべきもの尋ぬ。なんじら信仰を堅うして彼をふせげ』(ペテロ前5:8、文語訳)

はじめて聞く聖書の言葉が、使命の道へ彼を導く手がかりとなった。



 分かるだろうか。彼を救いとその使命に導いた初めて聞いた聖書のこの一句。衝撃的な思いで直面したことだろう。私もその彼の思いと同じものを受け取ったような気がして、しばしたたずんでいたのだ。

 聖書は永遠のベストセラーと言われるように二千年もの間多くの人に読み尽くされてきた。それでもなお、捨て去られず新鮮に受け取られるのは、それが膨大な内容を含んでいてどの時代にも通用する普遍的真理を含んでいるからだ。私は、聖書が多くの人の目に触れ様々な読み方がされるべきだと思う。その事によって、結果より真理が際だってくるからだ。

 先日牧師の友人と話をした際、『あなたの聖書の読み方は、私とは少し違う』という意味の言葉が耳に残っていた。彼は私が突き詰めているといるという点で、プラスの意味で言ってくれたのだが、確かに違う部分もあるのだろう。しかし、私は特に突き詰めて、またひねくれて(少し性格はひねくれているが、、)読んでいるつもりはない。極めて自然に、まっとうに、素直にそのまま読んでいるだけなのだ。

 多くの人が聖書を、人生をより良く生きるための道徳の書かなにかだと思って読んでいる。もちろん、そういった読み方を否定するものではない。上にも書いたように、とにかく読んで目に触れることが深みに導かれるきっかけになるからだ。私の記事に違和感を覚えられる方が引っかかるのは、時折出てくる霊的世界、とか霊的真理とかいう文言だろう。このあたりで私の考えが呪術的なようで一気に引いてしまうのかもしれない。詳しくはしらないが、『霊』を扱う商売は巷でかなり繁盛しているようである。スピリチュアルだとかいうのもその類だろう。
 現代の多くのキリスト教会において、『霊』について扱う主張をほとんど感じないかもしれないが、実はキリスト教、すなわち聖書こそが『霊』の世界の教科書であり、その世界の法則、真理を語っている。霊的世界は本当はキリスト教の専門分野なのだ。

 例えば、福音書にはイエスが何度も悪霊を追い出した記事が出てくる。また病気を癒し、罪を許したとある。あるメッセンジャーはこの記事を時代背景が違うとかなんとか言って、問題をぼやかそうとするかもしれない。現代のキリスト教会で、霊についてのメッセージがあまり語られないのは、世の中から誤解されるとか、低い評価、不当な評価を受けるのではないかという恐れがあるからではないかと思う。また、単に神を知っているといいながら、霊的存在であるその方の実態をよく知らないため、その世界に対して目が開かれていないからなのだろう。そのままだとすると、聖書は倫理の教科書ぐらいにしか見えてこない。もし、聖書がそのようなものであるならば、私は、深い関心をもたず、既に飽きて捨て去っていただろう。

 山室は、この聖句に触れて一気に新しい世界が眼前に広がっていくのを見ると同時に、それを知った者の使命へとかき立てられたのだろう。どうしてこの世はこんなにも痛みと争いが多いのか。人はなぜ苦しみ死んでいくのか。その答えを見つけたのだろう。

 『悪魔』、かつての宣教師たちはこの語を訳すのに鬼、とか天狗とか苦労をしたようだ。そんなもの空想だと思うでしょうか。空想だと思えばその人の中ではそれが事実となるでしょう。人の認識というものはそのようなものです。クリスチャンであっても、多くの人がその存在に気がつかないのは、彼が自らの身を隠すこと一つの戦略としているからでしょう。存在を意識させないようにしている。だから、知らないうちに心を支配され誘惑されて、気がついたときには破壊的な状況に陥っている。目の前に驚くような災難が現れて初めて驚愕するのです。

 私の経験からですが、まずどんな人間的努力もこの『悪魔』との戦いにおいては意味を持ちません。私たちの力で勝負するには相手が悪すぎます。霊的能力に関しては、純粋な霊体である彼のほうが力ははるかに上です。並の人間には相手にならないでしょう。束になってもだめです。悪霊を追い出そうとして失敗した弟子達のようにいいようにあしらわれ、むしろ返っていいように利用されるでしょう。

 文語訳は『彼を防げ』とありますが、新共同訳では『悪魔に抵抗しなさい』また別訳では逆らえ、とか退けなさいとかある。英語ではresist、立ち向かえですね。私はこの積極的表現が好きです。私たちの努力が功を奏しないのだとすれば、どうしたらよいのか。何によって立ち向かったらよいのか。聖書は言う。手元にある訳を並べてみよう。


なんじの信仰を堅うして、信仰にしっかりと踏みとどまって、信仰を堅く守って、確固たる信仰にたって、steadfast in the faith.

信仰ということば、信じると仰ぎ見るとが合わさった言葉ですが、神を信頼するということです。では、神を信頼することが何かと問われれば、十字架で私たちの罪はすでに処理されているという事を信じることとなるでしょう。このことを私たちが知り、本当の事だと信じるなら悪魔は攻撃をあきらめ逃げていきます。なぜなら、私たちが未だ罪の中に縛れているというのは、彼の虚構、嘘だからです。誘惑によって繰り返し私たちに罪の実感を植え付け、そこから逃げられなくしているのです。私たちが十字架の前にひざまずくなら、彼の偽りは明らかになりその瞬間に束縛の効力は失なわれます。これが福音です。


だから、神に服従し、悪魔に抵抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げていきます。ヤコブの手紙3章7節


 さて、そろそろ反撃ののろしを上げましょうか。
by dynabooksx | 2009-11-14 06:35 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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