2009年 10月 27日
罪を吐き出せば神様との対話ができます。
10月23日 罪を吐き出せば神様との対話ができます。
人間はなぜ恐れにとらわれるのでしょうか。それは、罪とどのような関係がありますか。
最初の人、アダムが罪を犯して隠れたとき、神様はアダムのところに来て「アダムよ、あなたはどこにいるのか」と言われました。アダムは神様が来られたのに恐れました。罪を告白しなかったからです。光の中に出ていく人々は暗やみから解放されますが、光の中に出ていっても身をすくめて背を向けている人は依然として暗やみをもっています。
教会に通っている人がみな、光の中にとどまっているわけではありません。罪を告白せずに覆い隠している人の場所は暗やみの場所です。その場所は私たちに恐れや苦痛や痛みを与えます。「もしも私の心にいだく不義があるのなら、主は聞き入れてくださらない」(詩編66:18)
心にある罪をすべて吐き出してください。告白してください。そうすれば、神様との対話が始まります。心に大胆さが生じ、光が臨みます。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)
数日前の箇所ですが、さかのぼって載せてみました。聖書のいう『罪』の性質と結果のところです。私たち心の中に他人にはそのままで見せることの出来ないようなものを抱くとき、後ろめたさや恐れを感じます。最初の人類もそのようにして、主の言いつけを破ったことに対して恐れ、身を隠しました。このことによって、私たちの本当のあるじである創り主と私達の間には深い溝が出来てしまいました。私たちは、自分で何か特別悪さをしたというわけでなくとも、その最初の人類の子孫である限りその性質を引き継いでいるというのが、三浦綾子さんの小説『氷点』のテーマにもなっている『原罪』です。
初期には高い志でもって建てられたどんな国家や共同体も、時間と共にいつの間にか腐敗していくのは、すべての人々の中に『罪の性質』があるからです。その性質によって私たちは命の源である方から切り離された状態にあるので、放っておくと徐々に活性を失い、死に近づいていきます。社会全体に恐れや不安が蔓延しているのはそのためです。
この罪というのはやっかいなもので、恐れが伴うので光が当たるのを嫌い、どこまでも水面下に潜ろうとします。だからこそいつまで経っても解決しないのです。そもそも本人には解決があり得るなんてことは想像しないでしょうから、ますます隠すようになるのですね。だから、それを自力で解決することはまず不能なのです。
ところがどっこい、この神様は最後の一手を用意していました。それが十字架です。自らのひとり子を地上に送り、その方を人々が憎み、見捨て、十字架にかけて殺すことによって私たちの罪が公に明らかになりました。これって、実は決定的なことでそれこそ最後の望みである救い主を殺してしまったので万事休すになるところなのですが、実はそこにこそ私たちを罪から解放し、自由にする神の隠された計画があったのです。
罪が明らかになるようになって、裏で私たちを誘惑し、神の前に立つことの出来なくしていたサタンの力は消滅し、創り主との関係を回復します。十字架には人の心の奥底にある罪をあぶり出しそれを明らかにすることによって、効力を失わせる力があるからです。それをよく知っている人は、その中心を逃しませんし、依然として罪の中に苦しんでいる人は十字架を必死に避けようとします。そこが苦しみの場所であるはずなのに、それでもなお暗やみにいるというのは、けっこう暗やみも居心地のいいところなんでしょうね。自分の真の姿を隠し続けようとする人にとっては、、、。
Ⅰヨハネ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
人間はなぜ恐れにとらわれるのでしょうか。それは、罪とどのような関係がありますか。
最初の人、アダムが罪を犯して隠れたとき、神様はアダムのところに来て「アダムよ、あなたはどこにいるのか」と言われました。アダムは神様が来られたのに恐れました。罪を告白しなかったからです。光の中に出ていく人々は暗やみから解放されますが、光の中に出ていっても身をすくめて背を向けている人は依然として暗やみをもっています。
教会に通っている人がみな、光の中にとどまっているわけではありません。罪を告白せずに覆い隠している人の場所は暗やみの場所です。その場所は私たちに恐れや苦痛や痛みを与えます。「もしも私の心にいだく不義があるのなら、主は聞き入れてくださらない」(詩編66:18)
心にある罪をすべて吐き出してください。告白してください。そうすれば、神様との対話が始まります。心に大胆さが生じ、光が臨みます。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)
数日前の箇所ですが、さかのぼって載せてみました。聖書のいう『罪』の性質と結果のところです。私たち心の中に他人にはそのままで見せることの出来ないようなものを抱くとき、後ろめたさや恐れを感じます。最初の人類もそのようにして、主の言いつけを破ったことに対して恐れ、身を隠しました。このことによって、私たちの本当のあるじである創り主と私達の間には深い溝が出来てしまいました。私たちは、自分で何か特別悪さをしたというわけでなくとも、その最初の人類の子孫である限りその性質を引き継いでいるというのが、三浦綾子さんの小説『氷点』のテーマにもなっている『原罪』です。
初期には高い志でもって建てられたどんな国家や共同体も、時間と共にいつの間にか腐敗していくのは、すべての人々の中に『罪の性質』があるからです。その性質によって私たちは命の源である方から切り離された状態にあるので、放っておくと徐々に活性を失い、死に近づいていきます。社会全体に恐れや不安が蔓延しているのはそのためです。
この罪というのはやっかいなもので、恐れが伴うので光が当たるのを嫌い、どこまでも水面下に潜ろうとします。だからこそいつまで経っても解決しないのです。そもそも本人には解決があり得るなんてことは想像しないでしょうから、ますます隠すようになるのですね。だから、それを自力で解決することはまず不能なのです。
ところがどっこい、この神様は最後の一手を用意していました。それが十字架です。自らのひとり子を地上に送り、その方を人々が憎み、見捨て、十字架にかけて殺すことによって私たちの罪が公に明らかになりました。これって、実は決定的なことでそれこそ最後の望みである救い主を殺してしまったので万事休すになるところなのですが、実はそこにこそ私たちを罪から解放し、自由にする神の隠された計画があったのです。
罪が明らかになるようになって、裏で私たちを誘惑し、神の前に立つことの出来なくしていたサタンの力は消滅し、創り主との関係を回復します。十字架には人の心の奥底にある罪をあぶり出しそれを明らかにすることによって、効力を失わせる力があるからです。それをよく知っている人は、その中心を逃しませんし、依然として罪の中に苦しんでいる人は十字架を必死に避けようとします。そこが苦しみの場所であるはずなのに、それでもなお暗やみにいるというのは、けっこう暗やみも居心地のいいところなんでしょうね。自分の真の姿を隠し続けようとする人にとっては、、、。
Ⅰヨハネ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
by dynabooksx
| 2009-10-27 16:27
| 聖書の言葉