2009年 07月 30日
『苦しみ』の意味
友人が書いた苦しみに関する記事が目に止まった。私は今、体調が大きく落ち込んでいる。病気だという診断を受けるレベルではないだろうが、フィットネスレベルは大きく落ち込み体に色々な変調をきたしている。口内炎ができ、間接が痛み、皮膚は至る所で炎症を起こしている。体がこんな状態だと気分が悪い。か、しかし同時に普段当たり前のようにある健康がありがたいと心から思う。
『苦しみ』とはいったい何なのだろう。彼はいつもながらの優しいタッチで分かりやすく書いてくれた。私は私らしくもう少しこめんどくさく書いてみよう。聖書を見る限り、最初に想像された人類の祖先が住んでいたエデンの園の生活には苦しみがなかったようだ。そこには、創造主との麗しい関係による幸福な時間が描かれている。『苦しみ』が登場するのはその後。約束を破り、創り主の前に出ることが恐ろしくなり、園を追い出されてから、、、。男は生活をしていくため汗を流して労苦をしなければならなくなり、女は産みの苦しみを味わわなければならなくなった。
この流れを見るに、私たちの『苦しみ』は創り主との関係と歴史にあると言える。エデンの園にいる間は、そんな事があることすら知らなかっただろう。そこを離れて初めて、そういうものがあることを彼らは知った。もしかしたら、彼らが食べた木の実には苦しみを知るという意味があったのかもしれない。
エデンの園から追い出された人類は、神から離れた事によってそれまで全て『恵み』によって生きてきたスタイルから、自らの努力で勝ち取っていくスタイルへの変更を迫られた。多くの挑戦を受け、戦い、競い合わなければならない。努力すれば確かに報酬がある。しかし、それはいつ何時のアクシデントで全て失ってしまうかもしれない形あるもので、いくら手に入れたからと行って満足することに終わりはない。さらに人を駆り立て苦しめていく。追い求めれば追い求めるほど一時の喜びを得られるようで結局、空しく、疲れてしまう。
創り主との関係が希薄になれば、精神的にも大きな変化がある。それまでは、万物の創造主であり全ての物質の支配者であり保持者と緊密な関係があっただから、それはいわゆる世界の王のような存在だっただろう。この世の生活に一切の不便や不安を感じなかっただろう。全てを支配している方の庇護の下にあるのだから、、、。食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったとき、最初に人類が感じた感情は『恐れ』だった。それゆえ彼らは、身を隠そうとした。ここに聖書が『罪』と呼んでいるものの大きな性質が表れているだろう。私たちは恐れのため、創り主から身を隠し、さらに関係を拒絶するようになっていった。この坂を転げ落ちていくような状態によって人類は果てしない下り坂を体験することになる。
ああ、もう一つ『罪』が入り込んだ事によって同時に『死』が生じた。最初に人類が創られたとき、死ぬようには創られていなかったのだ。創り主との関係が破壊されたとき、人類のいのちのバロメーターは少しずつ下がっていく、世代を重ねるにつれだんだんと寿命が縮んでいき、最初千年ぐらいあったものが最大120年ほどに落ち着いていく。
話は戻るが、『罪』によって『苦しみ』と『死』が発生した。よく考えてみると、『苦しみ』は『死』に対する人類の感じ方なのだろう。少しずつ滅びに向かっていく事の痛みなのだろう。つまりはこういう事か、私たちは創り主から離れることで死ぬ事が宿命づけられ、離れれば離れるほど『命』の活性を失う。その際に『苦しみ』を感じる。反対に、もし『苦しみ』を感じることがなかったら、私たちは神から遠ざかっている事に気づくことができない。『苦しみ』は私たちと神をつなぐ『いのち綱』のようなものなのかもしれない。
私たちは、自らが罪の状態に深く陥っていなくても、他の人の痛みを思い『共に苦しむ』という事がある。人はそれぞれ独立して歩むように創られているが、面白いことに同時に共感する機能が備えられているのだ。どういう訳か、苦しんでいる人を見て見ぬふりをすることができない。ほっておいたほうが、面倒な事を背負い込んで自分も苦しい思いをしなくて済むはずなのだが、それと逆行することをしばしばしでかす。
随分昔の事になるが、一人の人が同じ事をした。彼が唯一我々と違うのは『罪』がなかった事だ。罪がなかったので本来『苦しみ』を感じる必要もなかった。彼は万物の創造主の子であったゆえ、あらゆるものを収め自由にする権限を与えられていた。にもかかわらず、私たちと同じ肉体を持った人(赤子)の形で生まれてきた。傷つきやすく、疲れやすく、はかない、私たちと同じ姿をとって、、、。
彼は、私たちの苦しみ、痛みを共に背負う為にやってきた。それらの重荷があまりにも重く、私たち人類はまもなく滅んでしまうところだったからだ。私たちの罪の重荷を背負い、帳消しにし、その呪縛から解放するのには、莫大な代価、犠牲が必要だった。彼以外には、それを背負うことができない。そして彼は、はじめの計画通りに、この世に生まれ、たくさんの病気(死の前段階)を癒し、多くの魂を解放し、熱狂的な支持を受けながらも、拒絶され、捨てられ、十字架にかけて殺された。彼は、どの瞬間も自分の目的を失わなかった。どんな苦しみの中にあっても、どれほど多くの苦しみを代わりに背負おうとも、私たちの身代わりに死ぬためにまっすぐにその道を歩んでいった。
彼はこう言う。
『わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』 マタイ16:24
『十字架』は『苦しみ』の象徴であろう。引用文中にある、『自分』と対比される『自分の十字架』の指し示すものについてよく考えてみたい。
過去のエントリーも参考にしてみて下さい。
『罪』とは
私にとって十字架とは
十字架の力学
また、いつもの早寝早起き(8時就寝、3時起床)のスタイルに戻ってきた。パソコンを立ち上げると、『苦しみ』とはいったい何なのだろう。彼はいつもながらの優しいタッチで分かりやすく書いてくれた。私は私らしくもう少しこめんどくさく書いてみよう。聖書を見る限り、最初に想像された人類の祖先が住んでいたエデンの園の生活には苦しみがなかったようだ。そこには、創造主との麗しい関係による幸福な時間が描かれている。『苦しみ』が登場するのはその後。約束を破り、創り主の前に出ることが恐ろしくなり、園を追い出されてから、、、。男は生活をしていくため汗を流して労苦をしなければならなくなり、女は産みの苦しみを味わわなければならなくなった。
この流れを見るに、私たちの『苦しみ』は創り主との関係と歴史にあると言える。エデンの園にいる間は、そんな事があることすら知らなかっただろう。そこを離れて初めて、そういうものがあることを彼らは知った。もしかしたら、彼らが食べた木の実には苦しみを知るという意味があったのかもしれない。
エデンの園から追い出された人類は、神から離れた事によってそれまで全て『恵み』によって生きてきたスタイルから、自らの努力で勝ち取っていくスタイルへの変更を迫られた。多くの挑戦を受け、戦い、競い合わなければならない。努力すれば確かに報酬がある。しかし、それはいつ何時のアクシデントで全て失ってしまうかもしれない形あるもので、いくら手に入れたからと行って満足することに終わりはない。さらに人を駆り立て苦しめていく。追い求めれば追い求めるほど一時の喜びを得られるようで結局、空しく、疲れてしまう。
創り主との関係が希薄になれば、精神的にも大きな変化がある。それまでは、万物の創造主であり全ての物質の支配者であり保持者と緊密な関係があっただから、それはいわゆる世界の王のような存在だっただろう。この世の生活に一切の不便や不安を感じなかっただろう。全てを支配している方の庇護の下にあるのだから、、、。食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったとき、最初に人類が感じた感情は『恐れ』だった。それゆえ彼らは、身を隠そうとした。ここに聖書が『罪』と呼んでいるものの大きな性質が表れているだろう。私たちは恐れのため、創り主から身を隠し、さらに関係を拒絶するようになっていった。この坂を転げ落ちていくような状態によって人類は果てしない下り坂を体験することになる。
ああ、もう一つ『罪』が入り込んだ事によって同時に『死』が生じた。最初に人類が創られたとき、死ぬようには創られていなかったのだ。創り主との関係が破壊されたとき、人類のいのちのバロメーターは少しずつ下がっていく、世代を重ねるにつれだんだんと寿命が縮んでいき、最初千年ぐらいあったものが最大120年ほどに落ち着いていく。
話は戻るが、『罪』によって『苦しみ』と『死』が発生した。よく考えてみると、『苦しみ』は『死』に対する人類の感じ方なのだろう。少しずつ滅びに向かっていく事の痛みなのだろう。つまりはこういう事か、私たちは創り主から離れることで死ぬ事が宿命づけられ、離れれば離れるほど『命』の活性を失う。その際に『苦しみ』を感じる。反対に、もし『苦しみ』を感じることがなかったら、私たちは神から遠ざかっている事に気づくことができない。『苦しみ』は私たちと神をつなぐ『いのち綱』のようなものなのかもしれない。
私たちは、自らが罪の状態に深く陥っていなくても、他の人の痛みを思い『共に苦しむ』という事がある。人はそれぞれ独立して歩むように創られているが、面白いことに同時に共感する機能が備えられているのだ。どういう訳か、苦しんでいる人を見て見ぬふりをすることができない。ほっておいたほうが、面倒な事を背負い込んで自分も苦しい思いをしなくて済むはずなのだが、それと逆行することをしばしばしでかす。
随分昔の事になるが、一人の人が同じ事をした。彼が唯一我々と違うのは『罪』がなかった事だ。罪がなかったので本来『苦しみ』を感じる必要もなかった。彼は万物の創造主の子であったゆえ、あらゆるものを収め自由にする権限を与えられていた。にもかかわらず、私たちと同じ肉体を持った人(赤子)の形で生まれてきた。傷つきやすく、疲れやすく、はかない、私たちと同じ姿をとって、、、。
彼は、私たちの苦しみ、痛みを共に背負う為にやってきた。それらの重荷があまりにも重く、私たち人類はまもなく滅んでしまうところだったからだ。私たちの罪の重荷を背負い、帳消しにし、その呪縛から解放するのには、莫大な代価、犠牲が必要だった。彼以外には、それを背負うことができない。そして彼は、はじめの計画通りに、この世に生まれ、たくさんの病気(死の前段階)を癒し、多くの魂を解放し、熱狂的な支持を受けながらも、拒絶され、捨てられ、十字架にかけて殺された。彼は、どの瞬間も自分の目的を失わなかった。どんな苦しみの中にあっても、どれほど多くの苦しみを代わりに背負おうとも、私たちの身代わりに死ぬためにまっすぐにその道を歩んでいった。
彼はこう言う。
『わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』 マタイ16:24
『十字架』は『苦しみ』の象徴であろう。引用文中にある、『自分』と対比される『自分の十字架』の指し示すものについてよく考えてみたい。
過去のエントリーも参考にしてみて下さい。
『罪』とは
私にとって十字架とは
十字架の力学
by dynabooksx
| 2009-07-30 05:04
| 真也の視点