2004年 08月 07日
『罪』とは
聖書には『罪』という言葉が何度も出てきます。英語では社会の決めた決まりを犯す事を意味するcrimeと神の前に罪があることを示すsinの2つがありますが、この場合、当然後者を意味します。もともとの意味は『的をはずす』という意味で神と良好な関係を築けなくなった事を意味しますが、使い方として2つに分けることが出来ると思います。この2つを混同すると何について説明しているのかが分かりにくくなります。
まず、罪というものをイメージするのに上の図を用意してみました。真ん中にある丸(球)が私達人間だと思ってください。斜面に置かれていれば重力によって常に下に落ちようとする力が働く、ほおって置けば自分からどんどん下に落ちてゆく、自然な事です。このgradient(勾配)の事を罪、または罪の性質と呼びます。
もう一つは位置についての定義です。坂のどの部分にいるか(どちらが上か)という事で罪がある、いやそうではないという事になります。これは、相対的な物なのであくまで比較の中でしか使う事が出来ません。聖書の中で通常言われる『罪』は神を基準としているのでそれより下にいる私達は、全て罪びとという事になります。
ですから、結局どちらを用いても意味は通じるのですが、聖書の中心である神から見れば程度の差こそあれ皆罪びとなのですから、問題とされているのは罪の性質の事だろうと思います。人と比べてどちらがどうのとやっていると、自分がその法則の中に置かれているという肝心な事を忘れてしまいがちです。常にサタンの誘惑に会いそこに惹かれてゆくという性質を持った私達がどのようにして生きてゆくのかということがテーマなのです。
聖書によれば私達人間は、被造物(土から作られた)+被造霊(神の息による)でありローマ8章によれば、それぞれの法則の中にあることを見ます。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ここでは、この霊と肉の対比がなされていて、被造霊の部分は霊である神に、被造物は滅び行く死に属しているといいます。その2つの性質があって苦しんでいると言うのです。このローマ書はパウロの晩年に書かれたものです。キリストに出会い、その恵みによってたくさんの事を見、また行ってきたでしょう。その彼がいまだに自分の肉は罪の律法に使えているのだといいます。これは明らかに自分がどこにいるかではなく、肉の体を持った私達の罪の性質自体を問題としています。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
神は霊なる方で、私達の霊は神から出たものですから神に使え、その恵みによって生きます。肉体は物質であり、私達の目に見える世界に属しています。霊が神から離れる事を望むサタンは専ら目に見える論理によって私達を支配しようとします。そのままにしておけば、霊は本来の神に属するという性質を忘れこの世に縛られるようになります。そうしてこの宇宙に閉じ込められている霊であるサタンの支配下に入って行くのです。聖書は霊である神を基準に書いていますから、これは『死』を意味します。実際この国には、生きる意味を失い自ら死を選ぶ人が、交通事故死亡者より遥かに上回ると聞きます。私達の本体である霊が神を見失い、その存在意義を失っていく場合、希望はまったくなくなります。そして、これに対する解決法は、キリスト・イエスによるしかないと断言します。私にとって十字架とは、十字架の力学参照
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
罪を持つ私達にとって律法は本来の効力を発揮しませんでしたが、キリストの十字架とその意味を悟らせる御霊の働きが、罪の持つ意味を根本から変え私達を解放してくださいました。この方を本当にお迎えするならば、誰でもこの命の御霊の原理を体験する事が出来ます。自力で生きることから開放され、心の底から生かされる喜びに溢れ、またその輝きが周りの人も活かして行く。あなたもそんな人生のお仲間になりませんか?
by dynabooksx
| 2004-08-07 11:52
| 真也の視点