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自己イメージについて

  いつも実際に言葉にこそ出さないが、頭の中でいろいろ考えていることがある。昨日の夜は自己イメージ(自分が自分に対して抱いているイメージ)について布団に入りながらあれこれ考えていたのだが、ふとブログに書こうと閃いた。

 昨日、ある事柄で夕方の全体ミーティングの後、数名の社員と会社に残って1時間ほど会話をした。一人が仕事上のちょっとした問題を起こしたのだが、これを機会に少しディスカッションした方がよいと思ったからだ。私が田舎に帰ってきて7年ほどになるが、会社の運営方法は大きく変わった。社員も半分以上入れ替わり、今回のテーマに結びつく彼は40歳だが既に2番目の古株になっている。彼は、いつも伏し目がちで恥ずかしそうにし、人と目を見て話をしない。まじめな性格なのだが、行動がうまくかみ合わないように見えるときがある。みんなにいじられ愛されるキャラクターなのだが、先輩故に求められるものもあり自分より若い世代からの圧迫も感じているだろうと思う。
 今回問題にしたのは、当たり前の事なのだが『よく考えて仕事をする』ということだ。作業の効果を事前に評価し目的を常に視野に入れておくこと。普通のことなのだが、受け身で仕事はいわれることをその通りにやることだけだと解釈している人には理解することが難しい。私の場合、人をロボットみたいに使うのは嫌なので、基本的な方針だけ確認して後はお互いの意見や考え方で、進めていけば良いと思っている。結果や手法が必ずしも私の考えと違っていても、その人の行動原理が把握できていれば、次の行動もある程度予測できるので問題ない。私が自分の考え方ややり方を一方的に押しつけても、実際の作業は私一人で出来る物ではないから、各個人がそれを十分に理解して納得していないと、効率を上げることは難しく、変なところでミスしたりして逆効果だと思う。
 というわけで、そのやり方に慣れている社員は、命題をどうやって克服しようかと自ら考え模索し、他の社員と意見交換する。しかし、そうでない場合、常に受け身な姿勢でいるため進歩がなく共同作業でも遅れをとってしまう。

 私は基本的にどんなことでも楽しむ事にしている。面白くなさそうなことでも、どうやって楽しんでやろうかと探ることを楽しんでいる。人間は、同じ事を繰り返す時には喜びを感じない。それまで出来ないことが出来るようになったり、同じような事でも一工夫して違う手法を採ったりすると面白くなる。仕事もトレーニングもまさにその通りで、単調なであるほど工夫がないとモチベーションが下がる。だから、よく思考して楽しく仕事をする努力をするようにとよく話してきた。そうでないと、せっかく一日の大事な時間を会社で過ごしているのに本人も私も楽しくないからだ。

 こう書いてみると単純で簡単な事なのだが、特定の人にはこういう考えは馴染まないものであり、高いハードルに感じるかもしれない。今回は機を捉えてそのあたりのことを改めて話したいと思い残ってもらったが、どうしてうまく伝わらないのだろうと考えていたところ、自己イメージの事に行き着いたのだった。

 
 自己イメージが低いと、どんな物事もマイナスに受け取ってしまうのかもしれない。その事柄について話しているのに、人格の部分に響いてしまい、そのダメージから回復するまで時間がかかりすぎてこれから先の対策を考えるまで余裕がないのかもしれない、、、と。
 私も身近に自己イメージの低い人を知っている。人によってそれに対する対応は様々だが、その人は、低い自己イメージをなんとか好転しようと自分を大きく大きく見せようとする。自分の行ってきたことを誇大に広告する。自己イメージが低いため、他人の好意を素直に受け入れることが出来ない。何かを人からしてもらうと、深層心理で自分はそれを受けるにふさわしくないと感じるため、感謝ではなく反対の行動に出る。心のバランスをとるために、自分がそういう扱いを受けるのは、自分が偉大だからだと自分を持ち上げ、相手を見下げるような言動をする。
 実は、私の母と祖父のやりとりなのだが、母にとっては祖父の行動が理解できない。どうしてこれほど世話をするのに、正反対の反応が返ってくるのかが不思議でならない。これは、自己イメージで捉えるとよく説明が出来る。祖父は、深いところの自意識に傷を持っているのだ。本人にははっきりとした自覚がないのだが、これは一つの心の病気だと思う。

 祖父が特別だというのではない。劣等感をもつのも優越感を持つのも裏表で、根本の心理は同じだ。自己イメージの低さが両方を生じさせる。ある物事で劣等感をもつ人はそれ自体を克服するかべつな事柄で優越感を持つことでバランスを取ろうとする。私もかつては、自分の存在の意味に大きく悩んだ事があった。自己イメージを突き詰めていくと、最後には『自分とはいったい何なのか』ということに突き当たる。自分の存在の価値は何なのか。この世界に対する位置づけはどうなっているのかということが必要になる。大抵は、それを他人との比較の相対的なものでもって満たそうとするのだが、実際それは不安定なもので絶対的なものではなく、どんなに努力しても行き着くところに限りがなく、その過程で傷を負うことが多い。祖父の場合、若くして身体障害者になっているため労働力が全ての農村社会において、強い劣等感を抱いたのは想像に難くない。

 少し前の記事でも書いたが、日本人は形而上的な概念が弱いといわれている。科学で実証出来る類のものではないが、概念として生きていく上で必要になるもの。この世界はどのように、誰がどういう目的で造ったのか。またそこにいる『私』はどういう存在なのかということ。誰にも、それを科学的な方法で証明できないが、安定した自意識を持つのに大切なもの。欧米人の強力な自意識の裏にはキリスト教があり、聖書がある。そういった精神的な土台を持たないというのは、大変不安定な土台の上に立っているといえる。
 オウム真理教の事件を憶えているだろうか。外から見れば馬鹿らしいような事柄に、高学歴な若者が次々と陶酔していった。なぜ? と思うだろうが、上記の事を考慮すれば当然のことと思われる。そのそも人は、自分の存在の意味を探している。誰かにそれを教えて欲しいと思うが、高度な知性を持つ彼らを満足させるようなものを親も大人達も提供できなかった。そこに、オウム真理教があったというわけだ。彼らは自分たちの教団に協力するかしないかで明確に善と悪を分けて見せ、世間を離れ厳しい修行と教団への忠誠を尽くすことで、彼らの存在の意義を与えた。ばかばかしいといえばそれまでなのだが、彼らには彼らなりの明確な世界観があったのだと思う。その最たるものが、『ポア』の理論だろう。

 だから宗教は危険なのだというだけで止まっていたら、先に進まないどころか人とはこういうものだという基本理念が立ち上がらないのだから、人作りも国作りもままならない。ますます、共同体は崩壊し、虚無に陥った人たちは次々と自殺し続けるだろう。なんか随分大きなところまで展開してしまったが、自己イメージを高めるということは、単なる頑張りではどうしようもない事柄で、その線でいくとむしろ逆効果になることが多い。はっきり言ってしまうと、本人にはどうしようもないほど根深い問題にも思える。
 こういってしまうと、完全に突き放したような形になるが、結局価値観が根本から変わる体験がなければ解決はしないだろう。自分を確立するために、自分ばかりを注視することから解放される経験。そんなことは、私の知る限り聖書のいう『新生(生まれ変わりの経験)』しかない。まぁ、呼び名をなんと呼ぶかはどうでも良いのだが、聖書から立ち上がる新しい価値観は、人を根源から変化させる力がある。(正しく用いられればの話だが、、、)
 しかし、そのダイナミックさを体験できる共同体は残念ながらそう多くはない。もし、いわゆるキリスト教会になくても、身近にある小さな集まりにそれはあるかもしれない。表から見て、よく分からなくても、一人一人触れる中でこの人は分かっているなぁとピーンと来るものがある。大抵そういう人はいわゆるクリスチャンっぽくない。そこら辺にいるおっさんのような人だったり、気さくなおばちゃんだったりする。私の好きな土浦の牧師は、本当に子供みたいなおっさんである。聖書、聖句が人を解放し、自由にし、生き生きさせる事を知っているので、堅苦しさがない。先に書いた土浦のおっさんは、責任ある大教会の主任牧師であってそうなのだから、見事なものである。

 聖書という古典のテキストを自由に思索し学びあう事で、多くの人が心の中で求めている大きな宝を得る事が出来る。しかし、その環境を得るのは容易ではない。キリスト教会の中の方が難しいということもあるでしょう。私のような考え方は、教理主義的な傾向が強い教会では大抵危険視される。そんなことで、共同体が維持できるのか、、、と。でもこのことは人々の根源的な要求を満たすものなので、目立たず群れないだけで実際には賛同者も多い。そういう地下教会的なものが日本にもたくさんあるのだと信じている。随分飛躍しましたが、このあたりにしておきましょう。
by dynabooksx | 2009-01-15 17:18 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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